乾杯しましょ

 

 

 

 

 

 誰もいない教室。

 誰もいない教室に一人。

 校庭の賑やかさがじわっと伝わってくる教室。

 伝わってくるものを聞きながら教室に一人。

 一人でプリント相手に格闘している。

 校庭では、教室のみんながボール相手に楽しんでいる。

 じわっと伝わってくる声を聞きながら教室に一人。

 校庭で体育の授業を受けるみんな。

 教室でプリントを解いている自分。

「……あー…くそっ!」

 発狂寸前の叫びを上げ、コナンは思い切り机を叩いた。机の端に置かれた水のボトルが、あまりの剣幕に驚きぼこんと飛び上がる。

 

 オレもサッカーやりてえ……

 

 机に伏して頭を抱える。

 

 恨むぜ…蘭

 

 教室の皆が元気に身体を動かしている声を聞くだけという、拷問にも等しい状況を作り出した元凶に長い長いため息を吐き、コナンはのろのろと身体を起こした。目の前には、すっかり埋まったプリントが一枚。いっそくしゃくしゃのびりびりにしてやろうかと衝動が湧く。寸でのところで持ち堪えた自分を弱々しく褒めながら、コナンは壁の時計を見やった。

 体育の授業が終わるまであと十五分。

 左手に目を落とす。

 まだギプスの取れない左手。

 退院してまだ何日も経っておらず、退院して初めての登校日なのだから、体育の授業は『絶対に』見学なのは充分理解している。

 理解しているがやはりつらく厳しいものがあった。

 家を出る際、蘭からその旨を伝えられた時は、何かの聞き間違いかと一瞬時が止まって感じられたほどだ。

 充分理解してはいたが、はっきり告げられるとまた違った衝撃がある。

 淡い期待など、してはいなかったつもりでも。

 やはりまだ出来ないのだとはっきり突きつけられるあの辛さは、筆舌に尽くしがたいものがある。

 いっそ雨でも降ってくれたなら、こんなに苦しまなくて済んだだろう。

 今日は憎たらしいほど清々しい青空が広がっている。

 まったく。

 まったく、自分はなんて間抜けなのだろう。

 全ての元凶である自分自身を、コナンは深く深く恨んだ。

 あの一瞬判断さえ間違わなければ…ここにいるのは全く違う自分だった。

 全く違う自分で、全く違う蘭だった。

 蘭。

 強くて優しくて脆くて、誰より勇気のある女。

 時々道に迷って立ち止まっても、必ずまた前を向いて歩き出す力を持った素晴らしい人。

 何度彼女に勇気づけられたか分からない。

 だから今度も、彼女をみならって前を向いて行こう。

 過ぎた事を糧にしないわけではないが。

 過ぎた事で愚図つくのは性に合わない。

 新しい道に踏み込んだのだ。

 道の先に思いを馳せよう。

 コナンは左手から目を上げた。

「もうしばらくの辛抱だしな……」

 静かに呟き窓の外を見やる。

 ボールを追って駆ける皆の顔が、よく見えた。

 少し目線を変えると、一人机に向かう自分がぼんやり見えた。

 彼女はなにも、意地悪で言ったわけではない。

 純粋にこの身を案じて…ちょっと目を離すとすぐ無茶をする馬鹿な高校生を心配して、蘭は言ったのだ。

 自分の事は二の次に、ひたすら誰かの事を想って。

「……すっげえ女」

 思わず言葉が口から零れる。

 それほど、言わずにいられなかった。

「江戸川君、調子はどう?」

 ついにやけそうになった時、がらりと教室のドアが開き担任の小林が入ってきた。

 まだ授業は終わっていないが、教室に一人と言う状況を心配して見に来たのだろう。

 もっともその心配は、他の児童に向けるほどのものではなく、人の目がないからとこっそり無茶をしていないかの心配、だったが。

 コナンは慌てて表情を取り繕うと、適当に答えた。

「もう十分ほどで授業も終わるから、それまで大人しくしててね」

「……はーい」

 心なしか『大人しく』が強調されて聞こえた気がした。

 まあ無理もないかと心の中で苦笑いを一つ。思い当たるものはいくらでも出てくる。

 教室から出ていく小林を見送ってしばし後、コナンは、ふと小首を傾げる瞬間に遭遇した。

 誰かに呼ばれた。

 しかし実際、誰かが声に出して自分の名を呼んだわけではない。

 耳で受け取ったのは間違いないが、聞いたのではなく感じたのだ。

 誰かが呼ぶのを。

 無視せず、逆らわず、コナンは素直に振り向いた。

 もちろん見えるのは、教室の後ろの壁。沢山の掲示物で賑わう壁と、各々の荷物を収めたロッカーがあるだけ。

 教室には自分以外誰もおらず、廊下に人影はなく校庭から呼んでいる人物も見当たらない。

 しかし間違いなく、誰かが呼んだ。

 誰かではない…蘭だ。

 今朝共に家を出た時は、圧倒されるほどの元気をみなぎらせ、登校出来る事を自分のことのように喜んでくれていた。

 その姿をむず痒く思い出しまた顔がにやけそうになった時、授業の終了をしらせるチャイムと共に児童たちがこぞって教室に戻ってきた。

 体育の授業が終われば給食の時間。

 教室の中が騒々しさに包まれる。

 

 

 

 下校の時間を迎え、少し苦労しながら帰りの支度をしていると、ポケットに入れた携帯電話にメールの着信があった。

「なあコナン、今日帰りみんなで博士んちに寄るんだけど、……」

「悪い、ちょっと用事が出来たから」

 博士の家に一緒に行かないかと誘う元太に申し訳なく右手を上げ、コナンは小走りに駆け出した。

 用事が出来たと振り返ったコナンの顔が心なしか強張っていたのを見て取った探偵団の面々は、左手の怪我が痛み出したのかと口々に心配を言い合った。

 校舎を飛び出し帝丹高校へと急ぎながら、コナンはもう一度携帯電話に目を落とした。

 

 学校が終わったら保健室まで来るように

 昇降口で待っているからくれぐれも気を付けて――園子

 

 背負ったランドセルががちゃがちゃと忙しない音を立て、一歩ごとに手の傷に響いたが、たった二行のメールにそれどころではなかった。

 しばらくぶりの全力疾走がきつく身体を圧迫する。時折もつれる足もかまわずに、コナンは走り続けた。たどりついた高校の正門から校庭をまっすぐ突っ切り、昇降口へと駆ける。

 石段の隅に腰かけ到着を待っていた園子は、血相を変えて駆け込んできたコナンを見るや慌てて自身も駆け寄り、ぶつかる勢いの小さな身体をしっかりと抱きとめてやった。

「ごめんごめん、慌てさせちゃったね」

 息も絶え絶えのコナンから重たいランドセルを下ろしてやり、園子は悪かったねと謝った。

「蘭姉ちゃん……どうかしたの?」

 あの書き方をすれば、開口一番蘭の事を聞いてくるのは当然かと園子は内心ほくそ笑んだ。無論その一方で、自分の怪我を二の次に全力で駆けてきたコナンに謝る。こっそりと。

「うん、まあとりあえず保健室に」

 今にも死にそうな顔で見上げるコナンに言葉を濁し、園子は校舎へと入って行った。

「蘭姉ちゃん、朝学校に行く時は何ともなかったけど、いつからおかしかった? お弁当はちゃんと食べてた?」

「うん、別に普通だったわよ。お昼も、ちゃんと食べてたし」

 スリッパの音を忙しなく響かせ、早足でついてくるコナンの矢継ぎ早の質問を上手くかわしつつ、園子は保健室へと向かった。とりあえず、嘘は言っていない。

「ちょっと待って」

 一秒でも早く蘭の顔を確認したいと急くコナンを入口の脇で立ち止まらせ、園子は顔だけで中の様子をうかがった。

「あ、園子!」

 中から、蘭の声がした。途端コナンは頬を強張らせ、自分も中にと進みたがる。しかしまだまだと、園子は肩を掴んでその場に押しとどめた。

「具合悪いのに、一人でトイレ行ったりして大丈夫だった?」

 その言葉を聞き、コナンはおやと首を傾げた。

 園子の手を振りほどこうと踏ん張る足を元に戻す。

 今の言い方、声の調子から察するに蘭は。

「ちょっと、いつまでもそんなとこから覗いてないで…って、何ニヤニヤしてるのよ」

 黙ったままの園子に少し焦れた様子で、声も低く蘭が言う。

 コナンは顔を上げ、園子の表情を確認した。

 もしかしてこの女…そう思った直後、案の定身体を引っ張られる。

「さーあ、帰ろっか、蘭!」

 よろけつつ、コナンは入口の真ん前に立った。

「え……コナン君!」

 魂消る声で蘭は目を見開いた。

 コナンは半眼で園子を見上げた。

 園子はいひひと得意満面で目を輝かせた。

「なんで…えぇ、なんでえ?」

「一緒に帰りたいんじゃないかと思って、呼んだのよ」

 目を丸くする親友にあっけらかんとそう説明し、園子は自分の荷物を手に取った。

「ほら、蘭も荷物持って」

 手渡された学生鞄をとりあえず握るが、蘭はまだ驚きのただ中にいた。

「え、待って…じゃあ園子、あの……」

「仮病だよ」

 中々言葉の出てこない蘭に代わって、コナンが口を開く。

「ま、そういう事」

 けろりとした顔で、園子が蘭の背中を叩く。

 さあ帰ろうと底抜けに明るい顔で言い放つ園子に、蘭とコナンは揃って深い深いため息を吐いた。

 どちらも、親友にしてやられたと、取り越し苦労にどっと襲う疲れに目を眩ませていた。

 

 

 

「ホントにもう、びっくりさせないでよ園子は……」

 校門を出てようやく気持ちが落ち着いたのか、蘭はため息交じりに言った。昼の時間までは特に変わりなく普通に過ごしていたのに、急に具合が悪いと体調不良を訴え、保健室に付き添ってほしいと言い出したもの全てが演技だったとは…思い出すにつけ、何という素晴らしい演技力かと蘭は呆れ返った。

「コナン君も、びっくりしたよねえ」

 まったくだと、蘭を見上げ何度もコナンは頷いた。蘭の身に何もなくて本当に良かった…がしかし、安堵するあまり大して怒った顔になれないのが不満と言えば不満だ。

「まあまあ、勘弁勘弁。こうして小さいダンナと一緒に帰れるんだから。嬉しいでしょ」

「そりゃ嬉しいけど……って、それはやめてよ」

「あんたも、蘭姉ちゃんと一緒に帰れて嬉しいでしょ」

 ああ、確かに嬉しいが…なんて良い事をしたのだろうと清々しい顔付きでいる悪友を見るにつけ、素直にはいと言うのが躊躇われる。はいと言うのは癪に障る。

「私だって、元気になったあんたたちと帰れるの嬉しいしさ」

 まったく、根は呆れるほどまっすぐなひねくれ者め。

「……蘭姉ちゃん、びっくりさせられたお詫びに、園子姉ちゃんに何かおごってもらおうか」

 コナンは隣の蘭を見上げると、刺々しさに満ちた声でそう提案した。

「まったくよね、コナン君」

 蘭も同じくトゲだらけにし、じっとり園子を見やった。

「あら、せっかく一緒に帰れる状況作ってあげたんだから、むしろ私の方が何かご馳走になりたいくらいだわ。あんたに」

 屈んでコナンに顔を寄せ、園子はいひひと笑った。

 

 へいへい…出しゃいいんだろ出しゃ

 

 コナンはむすっとした顔になると、半ばやけ気味に財布を取り出し用意した。

「ウソよウソ、いくらなんだって小学生にたかったりしないわよ!」

 悪かったと軽く肩を叩き、園子は首を振った。そしてちょうど通りがかった自動販売機の前で足を止め、財布を取り出した。

「缶ジュースおごってあげるから、二人ともそれで機嫌直して、ね!」

 園子の提案に、蘭とコナンはちらり顔を見合わせた。本気でおごらせようとしたわけではないし、正直なところもう怒りは残ってはいない。彼女のいつものどぎつい『純粋な好意』なのは充分わかっている。これが彼女流の励まし方。どうしようもなく疲れさせるもの…けれど、ここは、気持ちを頂いておくのも悪くないだろうと頷き合う。

「じゃあボク、コーラがいい」

「私はオレンジジュース」

「んじゃ私はミルクティで……」

 買い求めた三本の缶ジュースをそれぞれに手渡し、ふと園子は思い付く。

「そうだ、乾杯しようよ」

 ナマガキの退院を祝して

「あ、いいわね」

 コナンの缶ジュースを開けてやり手渡すと、蘭は賛同の声を上げた。

「え、いいよ……照れ臭いし」

 缶を手に準備する二人を交互に見やり、コナンはぼそぼそと呟いた。

「まあそう言わず、素直に受け取りなさいよ。そうそう蘭てばね、今日は朝からずっとあんたの事ばっかで、そりゃもううるさかったのよ」

 学校行けるようになったのがよっぽど嬉しかったのね

 内緒の話だからと園子は耳元に顔を寄せると、蘭をちらちらうかがいにやにやしながら言った。

「ちょ……園子」

「あとね、体育の授業見学にさせちゃったけど、怒ってないかな…怒ってないかな…って、何かっていうとそればっかでね、もう聞いてるこっちがヤんなるくらいだったんだから」

「……へえー」

 なるほど、だからあの時、呼ぶ声を感じ取ったのかとコナンは合点がいった。

「だってコナン君…すぐ無茶するから……怒ってる?」

 ひどく済まなそうにコナンを見やり、蘭は恐る恐る尋ねた。

 もちろんコナンはすぐさま首を振る。

「怒ってないよ――」

「そうよねえ、毎日看護師の水野さんに叱られてた、前科持ちだもんね。これ以上蘭に、心配かけられないよねえ」

 言おうと口元まで準備した言葉を先に園子に言われてしまい、コナンはわずかにつんのめりながら横目で軽く睨み付けた。

 いひひと笑い、園子は軽く受け流す。

「はーい、じゃ…」

 園子は缶を掲げると、あらたまってこほんと咳を一つ。

「ナマガキの退院を祝して、今日も一日お疲れさまでした、明日も頑張りましょー! かんぱーい!」

 園子の音頭に合わせ、三人は互いにこつんと缶をぶつけ合う。

 少し不機嫌な顔の者が若干一名いたが、晴れ渡る空の元飲む何の変哲もない缶ジュースが、あっというまに不機嫌を溶かしていく。

 園子が、新一に絡めてコナンに含み笑いをする。

 慌てて蘭が少し不機嫌そうな声で打ち消し、園子を横目でにらむ。

 こっそりコナンも半眼で見上げる。

 更に園子がからかう。

 負けじと蘭も京極に絡めて園子に含み笑いをする。

 今度は園子が大慌てで打ち消し赤くなる。

 遠慮なく言葉をぶつけあい、赤くなったり青くなったり忙しなく、屈託なく笑う二人を見上げ、コナンは穏やかに笑みを浮かべた。

 

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