一粒の贈り物

 

 

 

 

 

 園子から電話がかかってきたのは、夕食の後片付けがひと段落した頃だった。

 浴室へと向かうコナンを見送りながら、蘭は、机の端で軽やかなメロディを奏でる携帯電話に手を伸ばした。

 出てみると、園子はすでに半分泣いていた。

 思えば今日は朝から、体調が優れないような事を言っていた。やはり本格的に風邪を引いてしまったかと、蘭は宥めながら思った。

 そして繰り出される、明日のキャンセル。

 明日は一日買い物しまくろう…そう約束をしていた。昨日もおとといも、朝から昼にも何かと言えば、日曜日が待ち遠しいと声を上げてはしゃぎ、何を買おうどこへ行こうとあれこれ出しあってはつきないお喋りに花を咲かせた。

 それが風邪一つで台無しにされた…悔しさと、体調不良からくる気弱さとに震える声で、何度も園子は謝った。

 その都度蘭は打ち消した。

 あれほど楽しみにしていた予定が一つ消えてしまったのは確かに悲しいが、いつでも行ける。元気になったら行こう。

 こういう事はお互いさま、気にやまず早く元気になってほしい。

 すると園子はまた声を上げて泣き、蘭と友達で本当に良かったと、その深い優しさに心から感謝した。

 少し大げさすぎやしないかと笑いながら励まして、蘭は電話を切った。

 笑顔の残りを顔に浮かべたまま、蘭は椅子にもたれた。そのまま天井を見上げ、うーんとうなる。行けなくなるかもしれないと予感はあったが、その一方で気持ちはすっかり明日の買い物に楽しく膨れ上がり、時間が経つのをもどかしく感じてもいた。

 来週にはきっと行けるだろうが、明日出かける高揚感はまだおさまらない。

 と、ドアノブのやや下辺りからコツコツとノックの音が聞こえてきた。

 入浴を済ませたコナンが、知らせに来たのだ。

 応えながらドアを開け、蘭は目線を落とした。

「蘭姉ちゃん、お風呂次どうぞ」

 湯上りの、ほんのり赤い顔で微笑むコナンを見た途端、言葉が飛び出す。

「ねえコナン君、明日どこか出かける予定とか、ある?」

「ううん、何もないよ。あ、何かお使いがあるなら、行ってくるよ」

「ううん、違うの。じゃあさ、私とデートしない?」

「えっ……!」

 聞き間違いなど起きないほどはっきりとした誘いに、コナンは素っ頓狂な声を上げた。思わず、背後の小五郎をちらりとうかがう。向こうも、ちらりとこちらを見た…気がした。

 一瞬遠のいた意識をはたと取り戻し、コナンは推測を口にのぼらせた。

「……ああ、園子姉ちゃん、具合でも悪くなったの?」

「うん、風邪引いたって、今さっき連絡来て。来週には行けるだろうけど、明日一日家にいるのはつまらないし」

 ね、いいでしょう

 まだ返事を聞かない内からもう決まりだと、にっこり笑う蘭に少し引き攣った笑顔を向け、コナンは頷いた。

 彼女の強引さは今に始まった事ではないし、それを嫌だなんてこれっぽっちも思っていないし、二人で出かけられるなんてこんなに嬉しい事はない。本音を言えば、明日の外出も何か理由をこじつけてついていきたいと思ってさえいたのだ。しかし、同い年の女子同士の買い物にそうしょっちゅうくっついていくのは憚られ、彼女からの誘いがないのを少し寂しく思いながらもそれもまた当然と納得していた。

 そこに降って湧いたお誘い。

 悪い部分など全くないのだが、出かけようではなく『デートしよう』との言葉に過剰に反応してしまう…まったく、自分はまだまだなってない。

「よかった! じゃあ、明日十時半出発ね」

「うん!」

「というわけでお父さん、明日はお留守番よろしくね」

「あいよ……」

「夜のご飯は、冷凍しておいたカレーとハンバーグで、ハンバーグカレーにするから」

「ホントか、よっしゃ!」

 今無愛想な声を出したのは誰かと笑いそうになるほど大はしゃぎで、小五郎は拳を振り上げた。

「やった!」

 コナンも同じく目を輝かせた。

 この家の人間は、カレーが大好物でハンバーグに目がない。

 おんなじ笑顔で、明日の夕飯に舌鼓を打つ男二人を交互に見やり、蘭はふふと笑みをもらした。

 

 

 

 翌日も、朝からじっとりと蒸し暑かった。

 さすがの蘭もエアコンなしでは動けないと、起きてすぐ居間を涼しく冷やした。

 少しはましになった頃にコナンが起き出し、朝食の支度を手伝いにキッチンへとやってきた。

 居間もすっかり冷え、朝食が出来上がる頃を見計らったように、小五郎がのそのそと起き出してきた。

「このクソ暑いのに出かけるとは……ったく、ガキは元気だねえ」

 窓からの景色、今日も一日猛烈な暑さになると予告する空と太陽にうんざりといった様子で顔をしかめ、小五郎はコーヒーを一口すすった。

 しかしいざ二人が出かける段になると、熱中症には気を付けろ、こまめに水分を取れ、置き引きやひったくりには注意しろと、面倒そうな声でからかいまじりながらもあれこれ心配ごとを口にした。

 素直でない小五郎の言葉に素直に頷き、二人は揃って手を上げ出発した。

 階段を下りて通りに出た途端、身体の芯まで染み込むほどの強い日差しが降り注ぐ。

 青い空の中心で白く輝く太陽を眩しく見上げ、蘭とコナンは同じタイミングで暑いねと零した。

 通りを行きかう人たちの装いは皆すっかり夏の色に染まり、帽子や日傘で暑さを跳ねのけ、暑さを楽しんでいた。

「今日は一日付き合ってもらうから、覚悟してねコナン君」

 陽射しに負けぬ笑顔で蘭は挑戦状を叩き付けた。

「蘭姉ちゃんこそ、途中でへばらないようにね」

 望むところだと、コナンも笑って応えた。

 

 

 

 米花駅から電車を一つ乗り継ぎ目的地へ向かう。降りたら戦闘開始と気合を入れていたコナンだが、連れてこられたのは、駅ビルの地下にあるジューススタンドだった。

「まずは水分と栄養を補給しておかないとね。コナン君は何にする?」

 なるほどと頷く。これから無制限で歩き回る、過酷な戦いに備えようという蘭に強い顔で笑い、コナンは、一番に目を引いた『トロピカルミックス』に挑戦した。

「あー…じゃあ私は――」

 ちらりと見やって何か言いたげな間をはさみ、蘭は『ブルーベリーヨーグルト』を注文した。

「トロピカルミックス、お待たせしました」

「ありがとう」

 受け取ったコナンは、隣でブルーベリーヨーグルトを受け取る蘭ににっこり笑いかけた。目は口ほどに物を言う…先程読み取った眼差しに応えるべく、まずはひと口どうぞとカップを差し出す。

「え…い、いいわよ」

 そんなに物欲しそうな目をしていたのかと真っ赤な顔で慌てふためき、蘭は首を振った。

 恥ずかしそうに縮こまる姿がおかしくて、コナンはつい調子付いた。

「いいじゃない、今日はデートなんだし」

 しかし言ってから、自分は何を口にしているのかと激しい後悔に見舞われる。瞬く間に頬が熱くなった。

 入れ替わりに蘭が納得し、まだ少し朱に染まった顔でコナンとカップを交換する。

「じゃあ…いただきます」

「あ……どうぞ」

 ぎこちなく言葉を交わし、お互いのジュースを一口ずつ味わう。

 ちらちらと視線を絡め、二人は照れ臭そうに嬉しそうに笑った。

「コナン君のトロピカル、色んな味が楽しめるね」

「蘭姉ちゃんのブルーベリーも、あっさりしてて美味しいね」

 きりりと冷えたフルーツジュースが、ほてったカップルを程よく癒す。一口ごとに、瑞々しさが身体中に広がった。

「ああ、美味しかった」

「うん、そんなに甘くなくて美味しかったね」

 飲み終わる頃には、すっかり落ち着きを取り戻していた。またにっこりと笑い合う。

「さあ、行くわよコナン君。準備は出来てる?」

「出来てるよ」

 そして熾烈な戦いの幕が上がる。

 

 

 

 昼時、前哨戦を終えた蘭はコナンを連れて、園子とよく行くパスタ専門店へと足を踏み入れた。

 案内されたのは、通りの様子がよく見える窓際の四人席。

 向かい合って座り、蘭は空いた席に戦利品の紙袋を連ねて置いた。大きな紙袋が一つ、二つ、三つ。

「結構買ったね、蘭姉ちゃん。大丈夫、重くない?」

 己が『コナン』でなければ、十でも二十でもまとめて持ってやれるのにと、悔やむ心を隠してコナンは言った。

「うん、平気。袋ばっかり大きいだけで、中身はそんなに重くないから大丈夫よ。午後の為に、まとめちゃうわ。その間にコナン君、何食べるか選んでて。私はもう決めてあるから」

 言いながら蘭は手早く袋の中身を整理し始めた。一つの袋にまとめられるものは小さく畳んで入れ直し、空いた紙袋は縦長に丸めて隙間に差し込む。

 音も静かに手際よくパズルを組み立てる様に、コナンは感心した様子で見とれていた。

「よし、出来た。何にするか決まった?」

 綺麗な仕上がりに満足して、蘭は顔を上げた。

「ああ、えっと……」

 その視線を受けてようやくコナンははっと我に返り、慌ててメニューに目を落した。

 忙しなく左右を見比べ何にしようか考えあぐねるコナンに、蘭はふと笑みを浮かべた。

「午後からが本番よ、しっかり食べてスタミナつけといてね」

 了解と、コナンは張り切って手を上げた。

 

 

 

 腹ごしらえも済み、意気揚々と店を出た蘭は、今度は駅の東側に足を向けた。

 休日だけあって人通りの多い中を、はぐれないようコナンは少し足を速めてついていった。

「あ、コナン君、ここちょっと見ていこう」

「うん」

 踏み入れた店内の涼しさにほっとしながら、上と下と順繰りに棚を見て回る。

「あ……わあ!」

 と、少し先を歩いていた蘭がいいものを見つけたと声を上げた。

「ねえねえ、コナン君」

 早く早くと手招きする蘭の元へ小走りに駆け寄り、コナンは見上げた。

「わあ……」

 少し気の抜けた声をもらす。

 蘭が手にしているのは、ハンガーにかかった子供用の甚平だった。色は落ち着いた藍色で涼しげ、大きさも申し分なさそうだが、胸にプリントされた『仮面ヤイバー』は少々いただけない。派手なカラーリングをあえて渋い紺の濃淡に抑え、地の色に溶け込む作りになっているのは悪くないが、好んで着るかと問われれば…答えるのは難しい。

 何か言うべきか迷っていると、さっそく身体に当てられた。

「大きさはちょうどいい、けど……この色で無地のものがあったら、いいのにね」

 少し残念そうに呟く蘭の眼差しは、小学一年生に向けるそれとは異なって見えた。

「嫌いじゃないよ」

 コナンは胸を張って答えた。

 その一言が沈みかけた蘭の心をすくい上げる。

「……じゃあ決まりね!」

 ぱっと顔を輝かせると、蘭は足取りも軽やかにレジへと向かった。

 全身で喜ぶ様にほっとして頬を緩め、コナンはゆっくり後をついていった。

 レジの少し手前でその足が止まる。

 呼ばれたかのように、目が引き寄せられた。

 展示用のボディに着せられた一着のワンピース。

 緩やかなラインとふわふわっと重なるレースが心をとらえて離さない。

 思わず真剣に考え込む。子供らしからぬ顔で。

「お待たせ」

 そこへ、会計を済ませた蘭がやってきた。

 振り返り、コナンは正面のワンピースを指差した。

「蘭姉ちゃん、こういうの……好き?」

「わ、かわいい……可愛い!」

 途端に上がる溌剌とした声は聞く方までうきうきとした気分にさせた。

 気に入ってもらえた事に喜び、自分の目も捨てたものではないなとこっそり自賛する。

「コナン君、見つけるの上手ね」

 そこに重なる手放しの称賛はいささかむず痒かった。

 気のせいでなく熱い頬を隠すようにさりげなく横を向いて、コナンは言った。

「じゃあこれ、蘭姉ちゃんにプレゼントするね」

「え、それは……」

 当然ながら蘭は驚き、反射的に値札を見た。

 その鼻先からハンガーにかかった方のワンピースを一着抜き取り、コナンは確認するように蘭を見上げた。

「え、でも……」

 引き止めながら、蘭も自分自身何が戸惑うもとなのか分かりかねていた。

 ワンピースは、べらぼうに高いわけではない。自分たちに相応の物で、そこに引っかかりはない。

 気に入らない箇所があるわけでもない。この点で言えば、彼の選んだ一着は驚くほど完璧に自分の好みに合い、さすが長く傍で見てきただけの事はあるとあらためて思うもので、不満などありはしない。

 ただ照れ臭いのだ。

 好きな男からの、何でもない日の思い掛けない贈り物が。

 そう…嬉しくてありがたくて不慣れだから、戸惑っているのだ。

「気に入らないなら、頑張って他の探すよ」

 迷っていると、そんな声が聞こえてきた。

 心配そうに見上げる強張った眼差しと目が合う。

 あなたが一番欲しいと思うものを、贈りたい…心が伝わる。

 途端に潤む目を瞬きでごまかし、蘭はすぐさま首を振った。

「これがいい……プレゼント、してくれる?」

 嫌々言っている声にならぬよう、ゆっくり言葉を綴る。

 それを聞いて浮かんだ柔らかい微笑に蘭は目を見張った。眼鏡越しに見えた新一の貌にみるみる頬が熱くなる。

 今度は蘭が、赤い顔を隠して横を向く番だった。

「じゃ、じゃあ私、入口のところで待ってるね」

「うん、すぐ行く」

 そう言ってレジに向かったコナンの顔も、心なしか赤かった。

 

 

 

 その後もいくつか見て歩く予定でいた蘭だが、贈られたワンピースで胸がいっぱいに満足し、すっかり欲求は晴れていた。

「コナン君は、どこか寄りたいところとかある?」

「うーん……特にないや」

「そう。じゃあ、何か飲んでから帰ろうか」

「うん!」

 会話の後、二人は駅ビルの三階にあるコーヒーショップに向かった。

 辛うじて空いていたカウンター席の端に並んで座り、足元に荷物を置いて、コーヒーとオレンジジュースで今日一日をねぎらい合う。

 心地良く沁み込むオレンジジュースにほっと息をつき、蘭はそっと隣を盗み見た。

 白い器に注がれた一杯の琥珀を落ち着いた仕草ですすり、持ち上げた時と同じく優雅に置く小学生。

 思わず息を飲むほど様になる姿が少しおかしい。ついつい見惚れる。

 なんて憎たらしいんだろう。

 うっかり、呼んでやろうか…そんな危ういいたずら心まで湧いてくる。

 と、コナンがちらと目を向けた。

「大丈夫、蘭姉ちゃん……疲れちゃった?」

 可愛らしい子供の声で、心配そうに聞いてくる。

 ますます、憎たらしい。

 泣きそうになるほど。

「ううん。コナン君こそ、今日はたくさん歩いたから疲れたでしょう」

「ボクだって平気だよ。今日はすっごく楽しかったね」

「ホントね」

 蘭は笑顔で応えた。そう云うのが精一杯だった。気を抜くとすぐそこまで込み上げた涙が溢れそうになる。何とか飲み込んで飲み込んで、蘭はオレンジジュースのグラスを手に取った。ワンピースのお礼をもう一度言いたかったが、胸が詰まって言葉にならなかった。

「今日は、ありがとね」

 少しつかえながら、代わりのひと言を手渡す。

 

 

 

 コーヒーショップを出たらまっすぐ地下の改札に向かうつもりだったが、エスカレーターに乗る寸前にあるものを目に留めた蘭は、慌てて踵を返しそのフロアにとどまった。

「あ……」

 二人ほどはさんで先を行っていたコナンが振り返ると同時に、蘭はごめんねと声を張り上げた。

「あ、じゃあボクすぐそっち行くから」

「ごめんねコナン君、ここにいるから」

 両手をひしと合わせ、蘭は降りていく姿を見送った。

 程なくして戻ってきたコナンにもう一度謝り、済まなそうに肩を竦める。

「ううん、いいよ。何かいいものでも見つかったの?」

 必死に駆けてきたのだろう、肩で息つく姿に申し訳なさが募る。

「うん、あのね……」

 言いにくそうに蘭は口ごもり、肩越しに背後を見やった。

「あ…アイツに似合いそうなのがちらっと…見えたから」

 恥ずかしそうに微笑む蘭を見やり、その向こうを見やり、コナンは目を見開いた。

 蘭の背後には、メンズ物のカジュアルなシャツがずらりと並んでいた。

 ようやく合点がいく。

「……ああ、うん」

 自分でも情けなくなるほど間の抜けた声が口から零れた。訂正しようと再び口を開くが、蘭の視線が真剣に熱心に探しているのを目にして、何も云わず噤む。

 出来るだけ邪魔をせぬよう脇に控えて、コナンはついていった。

 少し前まで、これは辛くて苦しいものだった。

 自分だけの身に降るならばいくらでも耐えられる、けれどどうして彼女までも苛まれなければならないのかと、ただただ辛く苦しいものだった。

 今も変わりはないだろうが、三人で歩き始めたあの夜から、全ては大きく変わった。

 これは甘い喜びに変わった。

 どんなに口うるさく自戒しても込み上げてくる。

 矛盾も偽りも全部豪快に飲み込んで立っているしたたかな女に感謝は尽きない。

 嗚呼、涙の一粒も零れそうだ。

 

 

 

 歓喜の渦に飲み込まれ、抜け出せぬままコナンは帰宅した。

 そのせいか、少し記憶が途切れていた。

 電車に乗るまでは覚えているが、気付いたら三階の玄関にいた…そんな具合だった。

 そこまで舞い上がっていたのかと自分自身に驚き呆れる。

「私、荷物とか整理しちゃうから、コナン君先にシャワー浴びてきて」

「うん」

 蘭に続いて居間に入り、コナンは低く頷いた。着替えを手に風呂場に行きかけて、小五郎の不在に気付く。

「やだ、さっき私の携帯にかかってきて、コナン君にも言ったじゃない」

 尋ねて、返ってきた言葉に、コナンは何度も目を瞬いた。

「ちょっと出かけるけど、夕飯までには絶対帰るから、いつも通りの時間に支度よろしく……って」

 米花駅のホームで受けた小五郎からの電話を言って聞かせるが、全く覚えがないと、コナンの目が語っていた。

「今日は暑かったし、一日歩きまわったし、きっと疲れちゃったのよ。シャワー浴びればさっぱりするわよ」

 珍しい事もあるものだと蘭は小さく笑った。

 釈然としないながらも二つ三つ頷き、コナンは首を傾げつつ風呂場へと向かった。

 壁越しの水音を聞きながら、蘭は今日一日の成果を居間の畳にずらりと並べてみた。

 次の機会に園子と買い物に行く分を考えて、自分のものは控えめにした…つもりだった。

 けれど今日は楽しい『デート』だったから、こうして振り返ってみるとかなりはしゃいだ跡があちこちに見られた。

 一番はやはり、このワンピースだ。

 丁寧に畳まれ、袋に収められた淡いピンクのワンピース。ふわふわと柔らかなレースが重なり、その分だけ色の濃淡が生まれ、いつまで見ていても飽きない。そっと膝に乗せ、蘭はにっこり笑んだ。際限なく頬が緩む。

 静かに脇に置いて、別の一番を手に取る。

 すぐ傍にいて、今はいない誰かの為に買ったもの。数えきれないほど並ぶ中から選びに選んだ三枚のシャツ。

 黙ってついてきてくれたコナンに、一度だけ、似合うかな…訊いた。その時浮かんだ綺麗な微笑は、きっと一生忘れないだろう。声に出さずありがとうと伝える慈しむ眼差しも。

 またしても緩む頬をぎゅっと押さえ付け、蘭は片付けに取りかかった。

 けれどすぐに手が止まる。コナンに買った甚平を広げて置き、大人と比べれば当然ながら小さいそのサイズに小さく唇を噛む。

「でも……」

 彼は強い。

 自分も負けてはいられない。

 やっぱり頬が緩んだ。

 これではいつまでたっても片付かないと気合を入れるが、悪ノリして買った三人お揃いのパジャマや、コナンに選んでもらったスリッパ、激しい議論の末に両方買ったクッションカバーを見るたび手が止まってしまう。にやけてしまう。

 今日一日の記憶と記録全てが、洪水のように押し寄せる。

「あーもう、ダメダメ!」

 後でゆっくり片付けようと残りは大雑把にまとめて、とりあえず自分の部屋に放り込んだ。

 そのすぐ後、コナンが風呂を済ませ戻ってきた。

「蘭姉ちゃん、お待たせ」

 汗を流してさっぱりしたのか、いつもの声に戻っていた。

「じゃあ、私行ってきちゃうね。ゆっくり涼んでて」

「うん!」

 溌剌とした声を背に、蘭は風呂場へと向かった。

 

 

 

 疲れも汗もまとめてすっきりと洗い流した蘭は、髪を拭き拭き居間に戻った。

「!…」

 ドアを開けた途端目にした光景に小さく息を飲む。

 両手を上に投げ出した姿勢で、コナンが仰向けに寝ていた。

 呼びかけようとして思いとどまる。蘭はそっと傍まで歩み寄ると、静かに膝をついた。

 顔を覗き込み、声に出さず笑う。

 寝転がって伸びをして、そのまま眠ってしまったのが手に取るように分かった。

 自分も、さすがに今日はずっと歩き通しで少々疲れた。子供の身のコナンには、相当堪えた事だろう。だのに疲れた素振りなどちっとも見せず、ずっと調子を合わせて楽しく付き合ってくれた。

「ありがとう」

 ひっそりと囁く。

 

 ありがとう…新一

 

 と、微かにいびきが聞こえてきた。

 くうくうと子供らしい、小さな小さな可愛いいびき。

 目を細める。

 

 まったく、寝る時くらい眼鏡外せばいいのに……

 

 微笑ましく見守っていると、不意に涙が込み上げてきた。

 

 やだ……

 

 慌てて瞬きするが、抵抗虚しくひと粒頬に零れ落ちる。

 

 もう。……だって

 

 いつもこうして、全力で見守ってくれている事に感謝が溢れる。

 想いが弾ける。

 どんな姿になろうとも、約束を守る為傍にいてくれる愛しい人。

「……ありがとう――」

 吐息に混ぜてそっと囁く。今は呼べない、呼ばないと誓った名前は心の中で刻み、蘭は胸を押さえ一度だけしゃくり上げた。けれどもう、我慢出来なかった。

 涙と声とが溢れる。

 それを聞いたか、心配したのか、コナンの目がぱっと開いた。

「!…」

 全身がひやりと跳ねる。

 隠すか、ごまかすか、それとも開き直るか。

 蘭は三つ目を選択した。

「ど……どうしたの、蘭姉ちゃん!」

 慌てて飛び起きるコナンを真っ向から見つめ、蘭はぎゅっと結んだ口を開いた。震える声で堂々と答える。

「見て分かんない? 泣いてるのよ」

「え、ど…どうして?」

「なによ、いびきなんかかいちゃってさ」

「え、あ!……え?」

 いびきと聞いた途端恥ずかしさが飛び出すが、同時に飛び出した動揺に抜かされ、コナンはどうしてよいやら分からずおろおろしながら泣く蘭を見上げていた。

 泣くほどいびきがうるさかったわけではあるまい。それくらいは、混乱した頭でも行き着く事が出来た。では何か。まったく分からない。

 冷静であっても、これを解き明かすのは難しいだろう。

 とても単純でとても複雑なもの。

「あの……あー、はいどうぞ」

 今辛うじて出来る事として、コナンはハンカチを差し出そうとした。しかしパジャマにまでは常備していない。急いで辺りを見回し、代わりのティッシュの箱を手渡す。

「どうもありがと」

 いささかぶっきらぼうに言って、蘭は四つ折りにしたティッシュを頬に押し当てた。

「えっと……何かやな事あった? 電話とか、メールとか」

 気付かなくてゴメンねと、寝てしまった事を悔やむ声でコナンは言った。しつこい勧誘の電話か、不快にさせるメールが、自分の寝ている間に届いたのだろう。なのにその横でのんきにいびきなどかいて寝ていられたら、誰だって腹立たしく思うものだ。

 迂闊な自分をどうか許してほしいと、コナンは心底済まなそうに見上げた。

「違うの、そうじゃないよ……」

 蘭は何度も首を振った。どんな時でも一番に身を案じてくれる優しさにまた胸が詰まる。

 膨れ上がる想いのまま、蘭は眼の前の小さな身体を抱きしめた。

「え、ちょ…ら、蘭姉ちゃん?」

 素っ頓狂な声を上げ、コナンは落ち着けとばかりに蘭の肩を掴んだ

「な、何よ……たまにはぎゅってしてくれたっていいじゃないケチ!」

 押しやろうとする手に腹を立て、蘭はひと息に叫んだ。

 

 あ、はい済みません

 

 勢いに圧され。コナンは大慌てで腕をまわした…しがみついたと言った方がより的確か。母親にしがみついてぶら下がる幼児とさして変わらない格好にしょぼくれる。情けなさにため息が出る。コナンではこれが限界だ。

「……ありがとう」

 それでも、蘭にとっては何にも代えがたいぬくもりだった。

「………」

 コナンは静かに唾を飲み込んだ。肌を通して聞こえてくる蘭の鼓動が、いささかむず痒い。自分より少しゆったりとしたリズム。落ち着かない。そのせいで、ただでさえ忙しない脈拍がさらに速まる。

 自分が相手の鼓動を聞くように、向こうも、これを聞いてるんだよな。

 と、抱きしめてくる蘭の腕にさらに力がこもった。

 彼女は、この抱擁で何かしらの心の平穏を得ようとしている…それは充分過ぎるほど分かっているのだが、どうにも、不純な自分は抑えきれない。

 洗ったばかりの髪の甘い匂いや、ほのかに立ちのぼる石鹸の香りが実に切ない――ガキのくせに。

「も…もういいかな、蘭姉ちゃん……」

 恐る恐る腕の力を抜く。

 

「ま、まだダメ! 私がいいっていうまでこうしてて」

「いや、でもあの……、新一兄ちゃんに悪い…し……」

 

「何よ、あんな、どこほっつき歩いてんだか分からないようなヤツ、どーでもいいわよ」

「……へー。そんな事言って、新一兄ちゃんの夏物三枚も買ったのどこの誰だったっけ」

 

「……何よ、悪い?」

「悪いなんて言ってないよ。新一兄ちゃん、きっとびっくりするだろうね。……まったく、蘭姉ちゃんは相変わらず意地っ張りだなあ」

 

「意地っ張りなのはコナン君の方でしょ。その上頑固でわがままで」

「蘭姉ちゃんは更に泣き虫ぃ」

「あら、言ったわねー……晩ご飯のハンバーグカレー、コナン君だけハンバーグ抜きカレー抜きにするわよ!」

「ご、ご飯だけ?」

 

「そうご飯だけ!」

「それはちょっとないんじゃない……」

 

「何だったら大盛りにしてあげるわよ」

「いや、あの……降参ですごめんなさい」

 

「じゃあ……もう少しだけ、こうしてて」

「……うん」

 

 コナンは渋々頷いた。

 大盛りご飯に屈したわけでも、まだくっついていたいからでもない。いや…彼女が希望するからと理由を付けて自分の不純を隠している部分もあるにはあるが、優先したいのは自分ではない。それだけは間違いない。

 抱え切れないほどの感謝を込めているんだ。

 ここで、生きて隣に立てる事、許されている事に。

「今日は一日付き合ってくれてありがとう、コナン君!」

 もう一度だけぎゅっと抱きしめ、蘭は腕をほどいた。

「どういたしまして」

 嬉しくも落ち着かない抱擁から解放された事にこっそり安堵のため息をつき、コナンは微笑んだ。見るとすっかり泣きやんで、晴れ晴れとした顔をしていた。またほっとする。

「ねえ、明日は甚平着てみせてね。きっと似合うわよ」

「う…うん、ありがとね」

 引き攣る頬を上手くごまかしながらコナンは礼を言った。

「私こそ……素敵なワンピース、本当にありがとう」

 女の顔に浮かんだ柔らかな微笑にどきりと胸が高鳴る。

「あのワンピース、いつ着ようかな……でも着るのもったいないなあ…でも着たいし……」

 目を輝かせたり渋みを混ぜたり、忙しなく表情を移ろわせ蘭はうんうんうなった。

 今度はコナンが微笑ましく見守る番だった。

 つい笑ってしまいそうになる瞬間に、ふっと慈愛が舞い降りる。

「あっちの袋……」

 蘭が呟いた。

 指差す方に目を向け、コナンは静かに頷いた。壁際に置かれた手提げの紙袋に何が入っているか、聞くまでもない。

 次に蘭が口を開くのを、じっと待つ。

 ただかちこちと時計の音がした。

 しばらくして、静寂に声が紛れる。

「渡せるの、いつになるだろ……」

 すぐにぶっきらぼうな口調にかえて、蘭は続けた。

「まあ、いつになろうが構わないけど! アイツ…絶対帰ってくるって言ってたしね!」

 コナンは静かに目を閉じて、言葉を受け取った。

 嗚呼、何故この女はこうも天の邪鬼で、呆れるほどひたむきなんだろう。

「帰ってきたら、きつーい一発お見舞いしてやるんだから!」

 腕磨いとかなくちゃ

 拳の握り具合を確かめる蘭に頬を引き攣らせ、コナンはおっかなびっくりそうだねと答えた。

「さあて、そろそろお父さんが帰ってくる頃ね。カレーあっためなくちゃ。コナン君、ハンバーグお願いね」

「はーい」

 テキパキと動き出した蘭の後について、コナンもキッチンに向かう。

「今日一日付き合ってくれたお礼に、コナン君大盛りにしてあげるね」

「どーせご飯だけでしょ」

「そう、ご飯だけよ!」

 ひどいや、ウソウソ…二人は顔を見合わせ、同時に声を上げて笑った。

 隣にいるのがこんなに嬉しいと、言葉にせずに贈り合う。

 

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