痛いの痛いの飛んでけー

 

 

 

 

 

 蘭は静かに携帯電話を折りたたんだ。

 脇に置いたバッグにしまい、テーブルのカップコーヒーに手を伸ばす。

 口を付ける寸前、つい笑みが零れそうになった。

 慌ててコーヒーと一緒に飲み込み、腕時計をちらりと見やる。

 二時半になるところ。

 

 博士の家からだと…十五分くらいかな

 

 もう一口コーヒーを味わい、階段へと目を向ける。

 十五分もすれば、少し息を切らせた誰かが、駅前にあるこのコーヒーショップの二階客席に姿を現して、笑顔で呼びかけてくれる。

 お待たせ、蘭姉ちゃん…そんな声が耳の奥鮮やかによみがえる。

 途端すぐにも会いたくなる自分に心の中で笑い、蘭は居住まいを正した。今返信が来たばかりなのに。いくら彼でも、そんなに早くは来られない。

 まったく、おかしい自分。

 一緒に夕飯の買い物に行こうと誘って、彼が快諾して、たったそれだけでむずむずと嬉しい。

 

 今日は何にしよう…何が食べたいっていうかな

 

 やはり一番に浮かぶのは、彼の好物ハンバーグ。玉ねぎの強烈な攻撃に苦労しながらも、必死にみじん切りを担当する姿は少し可笑しく、愛しいものだった。

 見ている方まで泣きたくなるほど悶絶しながら、丁寧に包丁を入れていく姿は小憎らしくもあった。

 始めは危なっかしい手つきで、ハラハラさせてくれたのに。もちろんすぐに慣れて感心させられたが、それがまた何とも憎たらしい。

 

 もしハンバーグって言ったら、笑ってやろう

 

 コーヒーのカップで隠し、蘭はそっと笑みを浮かべた。

 半分ほどになった、砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーのカップを置いたと同時に、二人組の男が声をかけてきた。

「ねえねえ、一人? 一人なの?」

 短い黒髪をわざとあちこち跳ねさせた、ルーズな服装の一人。

「よかったら一緒に食べない?」

 中折れハットを目深に被った、同じくルーズな服装の一人。

 振り返ると同時に、思いがけず強い力で手の甲を掴まれる。

「人と待ち合わせしてるんで、いいです」

 すぐさま振りほどき、見ているようで目の合わない方へ視線を向け蘭は答えた。こういった誘いは、今までにも何度か体験した事がある。始めの頃は怖さ気持ち悪さを味わったが、今は大分落ち着いて対処出来るようなった。あしらい方も少しは心得ている。大丈夫。

 あまりにしつこいようなら、ちょっとびっくりさせて…逃げる。

 ふうと腹に力を込め、蘭は眦を決した。

「じゃあちょっとだけ、ちょっとだけでいいからさ」

「五分だけ、ね、いいじゃん」

 そう言いながら、帽子の男が向かいの席に手をかけた。

「座らないで!」

 瞬間的な怒りに衝かれ蘭は怒号を上げた。

 余りの鋭さに、蘭の周りだけでなく店内の客ほぼ全員が顔を向けた。

 正面でそれをまともに食らった帽子の男は心底震え上がり、中腰のままぴたりと動きを止めた。

「人と、待ち合わせ、してるんです」

 頬を引き攣らせる帽子男にぴったり視線を合わせ、蘭はひと言ずつ区切って言った。

「……あ…あ、ゴメンね」

 わなわなと震えながら帽子男は謝り、もう一人を押しやるようにして去っていった。

 先刻の叫び声で顔を上げた人間の内、より正義感の強い何人かが、もしも困った事態になるならと携帯電話を構えて成り行きを見守っていた。が、どうやら危機は去ったようだ。ようやく緊張を解き、一人の者は食事に、複数人は元のようにお喋りに戻っていった。

「あの、丈夫ですか?」

「怪我とかしてませんか?」

 隣の席に座っていた二人組の女性が、強張った顔で俯く蘭を心配して遠慮がちに声をかけた。

「あ…すみません、お騒がせして。大丈夫です」

 まだ少し引き攣る頬に笑顔を浮かべ、蘭は頭を下げた。

 そのまま、緩めた表情を保とうと努めるが、瞬間的に湧いた怒りを抑えきれなかった事への後悔と嫌悪感とが渦巻いて、中々元の自分に戻れないでいた。

 

 向かいの席に許可なく他の誰かが座るのが許せなかった。

 激しい起伏なしにあしらう事が出来なかった。

 どうしても、我慢ならなかった。

 

 きっとひどい顔してる……

 

 知らず内に蘭は、左手の甲を隠すように押さえていた。

 見知らぬ男に掴まれたところ。

 無遠慮に、強引に、ずかずかと踏み込んできた。

 蘭は小さく首を振ると、深く息を吐いた。それに交えて、未だ心に残るどろどろと粘ついた怒りも吐き出す。

 それらが薄れると今度は、申し訳なさが込み上げてきた。

 こんな事でこんな風に苛立って、上手に受け流す事も出来ず、癇癪を起こしてしまうちっぽけな自分がどうにも嫌だった。申し訳なかった。今に現れる誰かに…彼に、どんな顔をして会えばいいのだろう。

 その一方で、顔を見て安心したいとも思ってしまうのを止められない。

 顔が見たい。

 優しい声が聞きたい。

 今日あった出来事をお喋りして、笑い合って、その一つひとつから『大丈夫』をもらいたい。直接その一言でなくていい。彼の優しい声が聞きたい。
 他愛のないお喋りとか、可愛らしいいじわるとか、そんなほんの些細なものでいい。

 彼はそれら全部を『大丈夫』にかえられるのだから。

 彼にしか出来ない事。

 だからどうか、このみっともない私を…蘭はかたく目を閉じた。

 次に目を開けた時、一番に彼の顔が見られますように。

 優しく笑いかける事が出来ますように。

 強く強く祈る。

 果たして祈りは通じるのだ。

「お待たせ、蘭姉ちゃん」

 横に立った誰かのあどけない声が、蘭の耳にはっきり届いた。

 メールの返信が届いてから七分後。

 

 

 

「ごめんね、待ちくたびれて寝ちゃった?」

 少し背を丸め俯いていた姿勢がそう見え、コナンは申し訳なさそうに顔を覗き込んだ。

「ああ、違うの。ちょっと考え事してただけ。随分早かったのね」

 心配げに見上げる眼差しをまっすぐ見つめ返し、蘭は軽く首を振った。思うよりも楽に自然にコナンの目を見られた事が、その力をくれたのが他でもない彼だという事が、たまらなく嬉しかった。

「うん……まあね」

 むにゃむにゃと濁し、コナンは向かいの席に座った。一秒でも早く到着出来るよう、少々法律違反をしてきた証のスケートボードをこそこそと椅子の陰に隠す。

 その様子に蘭はふと頬を緩めた。ようやく向かいの席が正しく埋まり、半ば無意識に安堵する。

「蘭姉ちゃんも、そのポテトにしたんだ」

 蘭のトレイにある袋入りのフライドポテトを指差し、コナンは無邪気にお揃いだねと声を上げた。

 それを受けて蘭も口を開く。

「コナン君はバーベキュー味にしたのね。そっちにしようかチーズにしようかすっごく迷って、チーズ味にしたの」

「そうなんだ。じゃあ半分こしようか」

「いいの?」

「だって蘭姉ちゃん、すっごく食べたそうな目で見てるんだもん」

「やだ、そんな目してないわよ」

 笑いながら怒って、蘭は抗議の代わりにもうと声をぶつけた。

「えへへ…ごめんなさい」

 コナンは瞬きの後、少し声音を変えて口を開いた。

「ところで蘭姉ちゃん…手、怪我でもしたの?」

「え……」

 蘭はぎくりと頬を強張らせた。彼が指差す左手にぎこちなく目を落とし、口ごもる。

「どこかでぶつけちゃった?」

 気遣う声が少し遠く聞こえた。
 どうしてそう思ったのだろう。どうしてそう見えたのだろう。ただ重ねて置いていただけではないか。ただそれだけなのに、どうして彼は見抜くのだろう。

 鼻の奥に微かな痛みが走るのを、蘭は感じた。

 どうして彼は見抜いてくれるのだろう。

 怖い、悔しい…いいえ嬉しい。

 たまらなく嬉しい。

「何ともないわよ、ほら」

 言って、蘭はさっと右手を退けた。

 そこで不意にいたずら心が湧く。

「触って確かめてみて、何ともないから」

「ホントだね……」

 たくらみに気付かないコナンが、無防備に手を乗せた瞬間、さっと右手を下ろす。

「わっ……!」

 咄嗟にコナンは手を引いた。

 蘭の右手が、ぴしゃりと左手の甲を打つ。上手くいけばコナンの手をはさんでいたが、残念な事に空振りに終わった。

「いた! もー、コナン君のせいで痛くしちゃったじゃなーい」

「いや、それ…ボクのせいじゃ……大丈夫?」

 渋々といった顔で、コナンは声をかけた。

「全然大丈夫じゃない。えーん、いたいよーコナン君が意地悪したよー」

「ちょ…もう、蘭姉ちゃん」

 笑顔で泣き真似を始めた蘭に呆れつつも、頬が緩んでしまうのをコナンは止められずにいた。

 二人…三人でいる時だけ見せる彼女の顔はとても多彩で、二人の時には見つけられなかったものに満ちていた。

 驚きの連続は楽しくて嬉しくて、溢れるほどの幸いがあった。

 この時に知ること学ぶことはどれも貴重であたたかい。

 コナンはその一つひとつを決して忘れまいと心に刻んだ。

「ねえコナン君、おまじないして」

「……へ?」

 ずいと差し出された左手にコナンはぱちぱちと目を瞬いた。

「痛いの痛いの飛んでけーって、あれよ。お願いコナン君」

 やってほしいと、瞳をキラキラ輝かせる蘭にため息をひとつ。

「……ダメ?」

 と、ほんの少し瞳を曇らせ、蘭はおずおずと顔をうかがった。

「え、あ……いや」

 ダメと聞かれて、ダメと答えられるわけがない。もちろん彼女の命にかかわるなどというならば断固ダメと言えるが、それ以外で彼女の『ダメ?』にダメと答えられた事は一回も…ない。

「じゃあお願い」

 途端に咲き零れる蘭の笑みを、少しのぼせた顔でコナンは見つめていた。

「い……」

 恥ずかしさを必死に説得し、右手で蘭の手の甲をさする。

「痛いの痛いの、とんでけー!」

 少しやけっぱちな言葉と同時にコナンはさっと手を振り上げ、そこに、彼女の心にわだかまっていた何かを、窓の外へと追い払う。

「はい、これでもう大丈夫だよ」

 顔を上げると、蘭の両目が少し潤んでいるのが見て取れた。半ば予感があったからか、衝撃はそう大きくはなかった。気付かれぬよう、表情の変化を注意深くうかがう。

「ありがとコナン君、お陰で痛いの飛んでったわ」

 屈託のない笑顔を浮かべ、蘭は嬉しそうに左手を胸に押し当てた。

 何かを云うべきか迷ったが、今のおまじないで吹っ切れたなら口を出すものではないだろうとコナンは飲み込んだ。

 分からないものが残るのは嫌だ。けれど、全てを追究解き明かさなくても共有は出来る。曖昧な言葉でもちゃんと聞き取れる。

 言葉以外で会話して、隠しながら共有して、そうやって二人…三人でここまで来た。

 だから、ここまで来る事が出来た。

 きっとこれからも…そうだ。

 ここで三人で、隠して、共有して、助け合って、補って、真実に向かって進んでいくんだ。

 にっこり笑う蘭に合わせて、コナンも頬を緩めた。

「良かったね蘭姉ちゃん」

「ありがとう」

 蘭は頷いた。何か伝いたげに見上げて、でも何も言わず、同じように笑ってくれるコナンに心から感謝する。ありがたさに気持ちが膨れ上がり、涙がすぐそこまで来ていたが、どうにか零さずに済んだ。

 こんなに楽しいのに、嬉しいのに、いつまでも引きずる涙で時間を無駄にしたくない。

「じゃあコナン君、半分もらうね」

「どうぞ、蘭姉ちゃん」

 ありがとう、どういたしまして。

 美味しいね。

 美味しいね。

 ささいな言葉を重ねて、二人は同じタイミングで笑った。

「それで、コナン君。今日の夕飯、何がいいか考えてくれた?」

 切り出された本題にコナンは軽く首をひねり、そうだなあと天井を見やった。

「今日は……」

 コナンの答えに、蘭は声を上げて笑った。

 蘭が笑う理由をそれとなく察したコナンは、恥ずかしそうにしながらコーヒーのカップに手を伸ばした。

 

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