水面の虹

 

 

 

 

 

 わあわあ、きゃあきゃあとはしゃぐ声がそこここで溢れていた。

 ぎらぎらと照り付ける容赦ない陽射しもものともせず、親に付き添われたよちよち歩きの幼児から十を超えた男児女児まで、皆いっときも立ち止まる事無く大喜びで、頭上から降り注ぐ水しぶき…噴水の心地良い噴き上げに歓声を上げていた。

 そんな中、複雑な表情で佇む一人の男児…もちろん、コナン。

 居心地悪いと言いたいのを必死に飲み込んで、足首までつかる水の中裸足で突っ立っていた。

 その横を、悲鳴交じりの叫びを上げ二人の子供が駆けていく。

 追いかけっこだろうか。

 後ろの一人は片手を思い切り前に伸ばし、前の一人は追っ手に捕まるまいと少しそっくり返って、ばしゃばしゃと水を蹴って元気に叫び走っていた。

 彼らの邪魔にならぬよう一歩二歩脇に退いて、コナンは小さくため息をもらした。

 しかしすぐに気を取り直し、正面に顔を上げてにっこり笑う。

 間近で見ればあからさまにつくり笑い苦笑いと分かるだろうが、少し離れた場所にいる蘭には、満面の笑みに見えるだろう。

 手を振る蘭にやけくその笑顔で大きく振り返し、コナンはその表情のままため息をついた。

 

 オレ…なんでここにいるんだっけ

 

 たくさんの子供たちに混じって、暑い夏の昼間、噴水遊びに興じる事になった経緯をぼんやりと思い出す。

 

 

 

 小五郎、蘭、コナンの三人でやってきた二泊三日の小旅行は、事故も事件もなく、楽しいまま今日の最終日を迎えられた。

 午前中一つ二つ観光地を巡り、最後に、駅近くの土産物館に立ち寄った。

 それがここだ。

 店をはさんで片方に大きな駐車場、もう一方に噴水広場があるここで、列車の発車時刻まで小一時間ほど、三人それぞれ思い思いに時間を過ごす事になったのだが…気付けばコナンは、休憩所のベンチに座る蘭に見守られる形で、噴水遊びに『半強制的』に参加させられていた。

 

 

 

 きっと気持ちいいわよ、いってらっしゃいよ…まったく、なんであの女はニコニコと笑いながら強引なんだろうか。

 あの笑顔で見つめられると嫌と言えない自分が情けなくも憐れで、コナンは思わずしゃがみ込んだ。

 そのままばしゃばしゃと水と戯れ、乾いた笑いを一つ。

 水は思ったより冷たく、心地良かった。

 簡単に体温の上がりやすいこの身体には非常にありがたいのだが、ちらりちらりと過る屈辱を見逃すのは難しかった。

 と、呼ぶ声が耳に届いた。

 振り返れば、カメラ片手に手を振る蘭の姿。

「いや、ちょ……あっ!」

 大慌てで手も首も振るが、こんな生ぬるい拒絶では伝わらないだろう。

 案の定、満面の笑みでシャッターが押される。

「ああ……」

 いったいどんな顔で収まっているやら。

 想像するのも恐ろしいと、コナンは天を仰いだ。

 昨日、一枚許したのが悪かった…いや、あの時は撮ってほしいと強く願った。

 それは嘘じゃない。

 嫌でもない。

 残したいと思ったのは本当だ。

 しかしこの状況は、勘弁願いたい。

 確かにここにいる二人…三人の思い出はどれ一つとっても大切で嬉しいものだが、これは、これでは。

 

 これじゃまるっきりガキじゃねーか……

 

 涙交じりにしょんぼりと、小さく肩を落とす。

 そんな懊悩を知る由もない蘭が、笑顔で『もう一枚撮るよ!』と合図を送ってきた。

 仕方ない、覚悟を決めよう、せめて楽しい一枚を残そう。

 決意に強く頷き、コナンは堂々たるピースの恰好で胸を張った。

 一秒後、撮れたよと合図に蘭が手を振る。

 ありがとうと振り返した時、彼女の唇が何か綴ったのを、コナンは見逃さなかった。

 

 いいなあ、楽しそう

 

 間違いなかった。

 気楽なもんだ…一度は拗ねるが、すぐに分かる、理解する。

「蘭……」

 直後、一定時間ごとに起こる噴水が空高く舞い上がり、寸分違わずコナンの頭上に降り注いだ。

「つめてっ……!」

 いつの間にか真下に来ていた事に驚くが、少しほてっていた身体にかかる水しぶきはことのほか気持ちよかった。

 とっくに髪も服も濡れていた。今更気にする事はないし、着替えもまだある。この陽射しなら、帰るまでに乾いてしまうかもしれない。

 そこではたと閃く。

 一拍置いて、コナンはにやりと笑った。

 果たして上手くいくだろうか。

 駄目で元々と、コナンは両手を口の脇に添え、辛うじて届く声で蘭を呼んだ。

 

 何か困った事でも起きたのだろうかと、蘭は即座に立ちあがった。

 旅行鞄は駅のロッカーの中、必要最低限の身の回り品だけ収めたショルダーバッグを左肩に、小走りでコナンの元へと急ぐ。

 少し強い風に麦わら帽子が飛んでしまわないよう押さえ、蘭はまっすぐ向かった。

「どうしたの、コナン君!」

 何か言いにくい事なのか、片手を口元に当て待っている。その場から一歩も動かないのも、心配だった。

 コナンがいるのは、足首までの高さの水たまりの中。

 けれどかまわず蘭はサンダルのまま水の中に踏み込み、少し困った顔で待つコナンの傍へと歩み寄った。

「どうしたの? 何かあった?」

 ワンピースの裾を膝裏に挟み、蘭はしゃがみ込んだ。

 どこか怪我でもしてしまったのだろうか。

「あのね……」

 ようやく、コナンが口を開く。

 耳を澄ませた直後。

「……引っかかった」

 してやったりとほくそ笑む声が届いた。

「え……あっ!」

 何がと思った時にはもう、噴水は高く舞い上がっていた。しまったと息を飲むと同時に水しぶきが降り注ぎ、蘭は短い悲鳴を上げた。咄嗟に帽子を押さえ、噴水がやむのをひたすら待つ。

「……もう、こら!」

 そしてようやく止んだと顔を上げた時には、服も髪もびしょ濡れにしてくれた張本人は噴水の向こう側に逃げ去っていた。

「こらあ、コナン君!」

 蘭はばしゃばしゃと水を蹴って駆け出した。

 

「うわ、ごめんなさぁい!」

 あっという間に追い付いた蘭から必死に逃げつつ、コナンは大慌てで謝った。

 

「もう、これどうしてくれるのよ!」

 絞れそうなほどびしょ濡れになったワンピースを指し、蘭は手を伸ばした。

 

「でも水浴び気持ち良かったでしょ!」

 もう一周逃げ切れるだろうかと、コナンは人のいない外周に沿ってぐるりと走った。

 

「そういう問題じゃなーい!」

 周りにいる子供たちより飛びぬけて背の高い、場違いな自分が、大声を張り上げ追いかけっこをしているのは恥ずかしかったが、照れ臭さよりも楽しさの方がずっとずっと勝っていた。

 

「だからごめんなさいってばー!」

「だめー、許さないからー!」

 

 再び噴水の時間がやってきた。

 ぐるぐる回るはしゃぐ声の中、空高く舞い上がった噴水の向こうに淡く虹がかかる。

 ついに捕まってしまった少年が、ごまかし半分虹だよと空を指差す。

 首根っこをしっかり掴んだまま彼女は仰ぎ見た。

 途端に笑顔になって、わあと歓声を上げる。

 

「……ここにもあったよ」

 ふと目を落とし、コナンは指差した。

 ちょうど人のいない静かな水面に、空が映り雲が映り、虹が映っていた。

「わあ、ホント……見えるね!」

 驚き、喜びに染まる蘭の横顔をこっそり見やって、見惚れて、コナンはじっと立ち尽くしていた。

「……まったくもう…新一みたいないたずらしちゃって」

 顔はそのままに、蘭が静かに囁く。

 途端にほてる頬をよそに向けて隠し、コナンは気まずそうに笑った。

「……楽しかったから、許してあげる」

 それからゆっくり、蘭の視線が向けられる。逃げるようにコナンは慌てて顔を伏せた。

「あれー、何で赤くなってんの?」

 分からないと含む響きと、分かっていてからかう響きとが混じり合った声に、コナンはどうしてよいやら困り果てもごもごと呟いた。

「あ…あー! そろそろ集合時間じゃない? おじさんもう待ってるかもよ!」

 破れかぶれに叫び、コナンは早く行こうと土産物館を指差した。

 そうねと頷く蘭を従え、店へと歩き出す。

 しかし数歩もいかない内に背後から、くすくすと楽しげな笑い交じりに『へたくそ』との声が聞こえてきた。

「!…」

 歩む足取りが一瞬乱れる。

 強張った手足を何とか動かして、コナンは前に進んだ。

 確かに…彼女相手にごまかしは通用しない。だからいつも、不自然でへたくそなごまかし方になってしまう。分かっている。十分自覚している。コナンは頬を引き攣らせた。

 反応すべきか聞き流すべきか。

 迷っていると、今しがた聞こえたものとは正反対のあたたかい声が聞こえてきた。

 綺麗な響きでひと言。

「ありがとう」

 沢山の想いが込められたひと言に完全に歩みが止まる。今度こそ動けない。

「べ…べつに……」

 遠くの空を睨み付けるようにして、返事を絞り出す。

 それは申し訳なさだったり、感謝だったり…色んな気持から出たもの。

 

 にしたって……

 

 もっと気の利いた事が言えないものかと、自分に呆れる。

 

「ほら、早く涼しいとこ入ろう」

 中々動き出さないコナンの手を取ると、蘭は軽やかに笑って土産物館へと歩き出した。

「う…うん」

 手を引かれ、コナンは靴下を突っ込んだ赤いシューズを手にこけつまろびつついていった。

 

 きっと楽しい時間はまだまだ続く。

 

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