出番なし

 

 

 

 

 

 それはまったくもって突然に蘭の中に閃いた。

 

 場所は屋上、時間は今朝、状況は…洗濯物を干している最中。

 

 毎日の天気予報は判で押したように『明日は曇り、所によって雨になるでしょう』の繰り返し、どんよりとした曇り空から雨への変化の繰り返し。しかしながら今日は気まぐれに晴れ渡り、たまっていくばかりの洗濯物に焦れていた蘭は、ここぞとばかりに腕をまくった。

 昨日の深酒と徹夜の読書で寝ぼけ眼の男二人…小五郎とコナンのパジャマから下着まではぎ取る勢いで着替えを急かし、全部まとめて洗濯機に放り込む。

 その間に朝食をとり、後片付けを二人に任せて洗濯物を干しに屋上へ…行ったところで、突然に蘭は思い付いた。

 そうまさに、コナンがいつも身に付けている白いハンカチを干そうと広げたところで、はたと考えが浮かんだ。

 

 たまにはこれを、自分にではなくコナンに使ってみたい――と。

 

 つまりだ、涙を拭われるのではなく涙を拭ってみたい。

 という事だ。

 誰の…もちろんコナンのだ。

 しかし、一筋縄ではいかないだろう。

 蘭はハンカチ片手に小さくうなった。

 相手は他でもないコナン…新一。

 実に手強い相手だ。

 彼が明確に『泣いている』場面を見た事など一度もない。涙自体は、あれやこれを数に入れるならばいくらでも思い浮かぶが、自分のようにめそめそと、しくしくと泣いた事など一度もない。

 ただの一度も見た事ない。

 幼い頃に数えきれないほど経験した…度が過ぎた冒険で帰りが遅くなり、結果叱られげんこつの一つ二つで涙が飛び出した姿なら見た事がある。それなら、今現在も小五郎からのげんこつがきっかけで何度も目にしている。

 しかし望むのはそれではない。

 朝や夜遅くのあくびで押し出される涙もお呼びではない。

 希望としては、ほろりと零れた涙をそっと拭ってやる状況。

 蘭はハンカチ片手に腕を組み、更にうなった。

 しばし置いて首を振る。ため息と共に弱々しく、そしてうなだれる。

 涙が零れるという事は、それ相応の心の動きが無ければならなくて、そんな場面に遭遇するにはどうすればいいかとうんうんうなって考えてはみたが、何も良い案が浮かばない。

 これはと思う道筋にたどり着かない。

 やはり、馬鹿げた思い付きだった。

 もう一度ふうと息をつき、気持ちも新たにハンカチを干す。

 唐突に背後から声がかかった。

 

「蘭姉ちゃん、手伝おうか?」

 

 ひゃあ!

 

 喉の奥で叫びをかき消し、いつもの自分の動作を思い出しながらゆっくり振り返る。肩が跳ねなくて本当に良かった。

「……」

 汚れが綺麗に落ちてたか気になったから…喉元まで込み上げた言葉を蘭は大慌てで飲み込んだ。

 それは完全に余計な一言だ。

 今必要な言葉ではない。

 ごくりと喉を鳴らす。

 彼は探偵、普段との些細な違いを鋭く見抜き、そこから鮮やかに謎を解いてみせる探偵なのだ。

 そうやって今まで数えきれぬほど難事件を解いてきたのを間近で見てきた自分が、普段と違う事をしようとするなんて…危ない危ない。もう少しで手掛かりを与えてしまうところだった。

 馬鹿げた、邪な思い付きが見透かされてしまうところだった。

 ここで自分が言うべき言葉は一つ。

「じゃあコナン君、細かいものお願い出来る?」

「うん。分かった!」

 はきはきとした子供の声が頷く。

 これが正解。

 身体の奥でどきどきと弾む鼓動を何とか押し隠し、蘭はタオルを手に取った。

 後は二つ三つ、他愛ない言葉を交わせばいい。

 たとえば今日の天気。

「絶好のお洗濯日和ね、コナン君」

「ホントだね、これならすぐ乾いちゃうよきっと」

 嬉しさに寄り添ってくれる優しい彼に心の中で何度も謝りながら、蘭は晴天を見上げた。

 こんなにも助けてくれる彼になんて事を思い付いたものだろう。夢を見るよりもひどい。

 干したバスタオルの陰に隠れて、こっそりと手を合わせる。

 

 

 

 こうして一度は追い払った実に馬鹿馬鹿しい考えだが、舞い戻るチャンスを虎視眈々と窺っていた。

 それは間もなく…昼食時にやってきた。

 珍しく小五郎が競馬で大穴を当て、方々へのツケや不足分を補ってもまだ余裕のある残高に少し気の大きくなった蘭が、たまにはこんな贅沢もいいと特上にぎりを注文した。

 久々に幸運を掴んだ当の本人、小五郎は、夕飯までには帰ると言い置いてご機嫌で出かけて行った。いつもなら厳しく制するところだが、今日くらいは少々気が大きくなっても許そうと蘭は快く送り出した。

 そんなわけで届いた二つの寿司桶が、蘭を妖しく誘惑する。

 片方は自分の一人前。

 もう一方はコナンのワサビ抜き。

 ワサビ抜き…本人には少なからず屈辱のようだが、見た目通り味覚にも変化が起きたようで、強すぎる刺激に身体が対応しきれないのだから仕方がない。一度サビ入りを試した事があるが、少々笑えない事態になったのを思い出す。

 そこで蘭ははっと息を飲んだ。

 思い付いた考えに弾かれ、冷蔵庫からチューブ入りのワサビを取り出す。

 そうだ…これがあった。

 ごくりと唾を飲み込み、手にした緑のチューブに視線を注ぐ。

 

 

 

 お茶を用意するとキッチンに行ったきり、中々戻ってこない蘭に軽く首をひねり、コナンは席を立った。

 右に左に身体を傾けて蘭の様子を遠目にうかがい、見える背中に軽く思案する。

 思えば今日は、あの辺り…洗濯物を干しに屋上へ行ったところから様子が少し変だった。

 いつもとどこか違って見えた。

 恐らくは自分の考えすぎだろうが…彼女の毎日に余計な負担を強いているのだ、どんな些細な見落としもあってはならない。

 自分でさえ日々の繰り返しにうんざりしている部分がある、彼女にも間違いなくあるだろう。それをさせている当の本人が何も出来ようはずはないがだからこそ、何かしたいと思うのだ。

 少しの異変も気に留めて、これ以上彼女がつらい涙を落とさないようにと

 心から願うのだ。

 しかしどうやら、この度目に映るものは違うようだった。

 はて、それでは一体蘭は何に思案しているのだろう。

 彼女を悩ますものは何だ。

 コナンはためらいつつ一歩二歩近付き、思い切って声をかけた。

「どうしたの蘭姉ちゃん、お寿司前にして首振ったり上向いたり……何か足りなかったの?」

 そこでようやく右手のワサビチューブに気付く、閃く。

 実に馬鹿げた一つの答え。

「お寿司…ワサビ……細工?」

 過日の少々笑えない事態を頭の隅に過ぎらせながら、まさかねと軽い気持ちで聞いてみる。

 途端に蘭は、ビル倒壊ほどの勢いでしゃがみ込み両手を合わせ、謝り出した。

「ごめんねごめんね、コナン君ごめんねごめんなさい!」

「な、なに? どうしたの蘭姉ちゃん!」

 余りの剣幕に一歩退き、一歩踏み出す。

「実は、あの……」

 蘭は今朝唐突に閃いた企みを正直に白状した。

「ああ…そうなの。へえー……」

 話を聞き、呆れるより先に面白い事を考えるものだとコナンは感心する。

 この発想力は、上手く生かせば強力な武器になるかもしれない。

「ホントにごめんなさい……」

 心底反省し、今にも消えてしまうのではないかと思うほど小さくなった蘭に、思わずふき出す。

「じゃあ、ちょっと頑張ってみるね」

 言うなりコナンは、流し台に置かれたチューブを掴み手のひらに三センチほど押し出した。少し出し過ぎただろうかと心が揺らぐが、蘭が望んでいるのだと強引に説き伏せ覚悟を決める。

「……え?」

 言葉にまさかと蘭が顔を上げるのと、コナンがその強烈な緑を口に放り込むのとは、ほぼ同時だった。

「こ、コナンく……!」

 げほ、と咳き込む声に続いて、苦しげなコナンのうめき声が上がった。

「ちょ…何バカな事やってるのよ!」

 げほげほげほっおえ

 息も出来ぬ程咳き込んだせいでえづき、なおも咳は出続け、ついには、蘭の望み通りぼろぼろと涙が溢れ出た。

 しかし、ハンカチで拭ってやるなどと生ぬるい事を言っている場合ではなかった。

「しっかりしてコナン君!」

 蘭は慌ててコナンを抱え流しの前に立つと、コップに汲んだ水を飲ませて吐き出させた。

 さすがに馬鹿をやり過ぎたと、苦しい息の下コナンは思った。

 どうにかこうにか水を飲み込み、その合間に咳き込んで、また水を飲み喉の刺激物を押し流し、咳込む。

 流し台の縁を掴んでひゅうひゅうと喘ぎ、次第に収まっていく刺激に何度も深呼吸を繰り返す。

「悪ぃ……」

 掠れた声を上げ、コナンは眼鏡を外した。今のは恐らく『コナン』ではなかっただろうが、ぐったり疲れたせいで頭がうまく働かない。

 流れ出る水で顔を洗い、口の中にたまった苦いものを残らずすすぎ出す。

「もう平気…ありがと…蘭姉ちゃん」

 青い顔で様子をうかがっていた蘭は、下りる素振りを見せるコナンに合わせ腰を屈めた。

 床に立った途端ふらつくコナンを慌てて支え、少し呆けた声で言う。

「アンタも結構……バカな事するのね」

 全ては自分が言い出した事だが、まさか実行して、ここまで派手にしっちゃかめっちゃかにするとは、思ってもいなかった。そのせいで『コナン』への態度が少し崩れてしまうが、彼の意外な一面に驚く方が強く、気付く余裕はなかった。

「まあ…時々は」

 力なく笑って返す。

 しかしこういった方面でバカをやらかすのは、初めてかもしれない。

 お互い、何故こんな事になったのか、すっかり頭から抜けていた。

 

「ボク……洗面所でもう一回顔洗ってくる」

「うん……それからお昼にしようか」

 

「そだね……」

「ゴメンね…コナン君」

 

「いや…調子に乗ったボクも悪かったし……」

 

 お互いややぐったりと言葉を交わし、それぞれに動き出す。

 コナンを見送り、お茶の用意をし始めてすぐに、蘭ははたと思い出した。

 

「あー…あ」

 

 ポケットからハンカチを取り出し溜息をひとつ。

 結局、ハンカチの出番はなかった。

 

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