Yum-Yum!

 

 

 

 

 

「ねえコナン君、朝ご飯食べてる時になんだけど…今日の晩ご飯、春巻きにしようと思うんだけどどう?」

 三人で囲んだ四角い座卓の隣にちょこんと行儀よく座り、両手で味噌汁の椀を傾けているコナンへ、蘭は軽く目を向けた。

 汁椀を置く間も惜しいとばかりにまずうんうんと頷いて、コナンは目を輝かせた。

「やったあ、今日は蘭姉ちゃんの春巻き!」

 これは嬉しいと弾む声に蘭は頬を緩ませ、お手伝いお願いねと続けた。

 もちろんコナンは大きく頷く。

「お、春巻きか、いいな。じゃオレは揚げる役だな」

「うん、お父さんもお願いね」

「任せろ。山ほど食うからな、お前ら、たくさん作っとけよ」

「はいはい」

「わかった」

 それぞれに頷いて、三人は春巻きににんまり笑った。

 

 

 

 コナンが来てから、食事の支度が楽しくなった…夕飯の準備に取り掛かりながら、蘭はつい浮かんでしまう笑みに混ぜてふと思った。

 それまでは二人分、しかも片方は食べたり食べなかったりの不規則な大人だったから、出来合いの総菜や温めるだけの半完成品ばかりで済ませてきた。

 もちろん、偏りがないよう考えはするが、あまり内容に気を使う事はなかった。

 そこにたった一人加わっただけだが、大したものでなくてもかまわない大人と違って、しっかりバランスを考えなければならない。見た目にも気を使って、楽しく食べてもらいたいと思うようになった。

 大したものでなくてかまわない、昨日と同じでも気にしない…そんないい加減ではいけない。

 日ごと考えるのは大変だが、食事の支度が楽しくなった。

 理由はもう一つ、ある。

 コナンがこまごまと動いて、手伝ってくれる事。

 箸や茶わんの用意から始まって、野菜炒めを作ればそれを盛る皿をさりげなく用意したり、刺身を買ってくれば醤油皿を用意したり。

 とはいえ、始めからそう上手く動く事が出来たのではなかった。

 始めの頃はまごつく事も多かった。

 皿をしまってある場所が分からない、どの料理にどの皿を使うのか分からないという以前に、何をすればいいのか全く分からない、そんなまごつき。

 はっきり言ってしまうと、邪魔の一言だった。

 何度『邪魔』と言いそうになったか。

 何度、邪魔だから『向こう行ってて』と言いそうになったか。

 コナン自身そうと自覚しているのは容易に見て取れたが、それでも何か手伝いたい力になりたいと懸命に動く様は少なからず胸打つものがあった。

 

 

 

 あのイコールを手にする前は、その姿にただ心癒された。

 イコールを手に入れてからは、より想いが分かって、深く心を打たれた。

 そして少し可笑しかった。

 彼の事だ、やればそれなりのものを作れるだろうに何かと理由を付けて面倒がり、何かと理由を付けて朝に昼に夕に『お裾分け』を頼りにしていた。

 もちろん蘭にとってそれは至福だった。

 それ以外のなにものでもなかった。

 それは当り前の事で、時に文句の一つも添える事はあったが、彼が弾んだ声で『美味い!』と絶賛するだけで、許せてしまえた。

 それは蘭にとって、この上もない至福だった。

 そんな至福が、形を変えて傍に在る。

 今までの一つは消えたが、代わりに別の一つが生まれた。

 途切れる事無く。

 これまで何かと理由を付けて頼っていた彼が、とうとう自分から動き出した。

 だから、可笑しい。

 何かを埋めるように補うように慰めるように励ますように…懸命に動く姿が、少し可笑しい。

 少し泣きたくなるほど。

 だから、食事の支度が楽しくなった。

 彼は一度覚えるとその後は驚くほどスムーズで、一つ身につければ三つも五つも理解して、始めの頃あんなにまごついていたのが嘘のように無駄なく動いた。

 食事の支度をより楽しくしたくて、ただ食器の用意だけ、簡単な洗い物だけを任せるのではなく、二人で作業出来る献立を考えるようになった。

 片方が下準備をして、もう片方が仕上げる…たとえば今日の春巻きのように。

 それはピーマンの肉詰めだったり、アスパラの肉巻だったり、餃子の時もあった。

 言うまでもなく、どれもこれも始めは本当にひどいものだった。

 特に餃子に至っては、辛うじて縁がくっついている、辛うじて半円形になっているといったもどきが並んでいた…作り始めの数個は。

 いくつか包む内に掴んだようで、丸い皮にアンをのせる作業の合間にちらりと見やれば、小さい手が器用に手早く縁を折りたたんでいた。

 憎たらしくなるほどの美しさで。

 その優雅さにただただ目を奪われた。

 だからつい、言ってしまった。

「この前のケーキはあれは、やっぱりわざとだったのね」

 いつか園子に誘われ三人で訪れたお菓子の家での出来事を口にすると、彼はしどろもどろになって笑った。

 それがまた可笑しかった。

 ただならぬ小学生と、二人…三人で今日の献立に取り掛かる日々。

 あのイコールを手に入れる前は想像もつかない楽しさと幸いが、そこにはあった。

 

 

 

「もうすっかり冷めたよ、蘭姉ちゃん」

 大きなボウルに入れて荒熱を取っていたアンを外から触って確かめ、コナンは振り返った。

「ホント、じゃあ始めよっか」

「うん!」

 居間のテーブルで準備をしている蘭の元へボウルを運び、コナンは隣に腰を下ろした。

「じゃあいつも通り、私が皮にアンのせるから、コナン君包んでね」

「わかった」

 ボウルの中のアンをヘラで手早く等分する蘭に間に合うよう、コナンは袋から取り出した皮を一枚ずつにはがしていった。

「もう、コナン君は何やらせても素早いよね」

「え、いや……そう?」

「うん。最初の頃は、すごいぶきっちょだったのにね」

「あ…えへへ」

 くすくすと笑う蘭に顔を赤らめ、コナンは頬をかいた。今でこそこうしてなめらかに動き少しは役に立てるようになったが、始めた頃の邪魔をするだけだった自分を思い出すと、途端に顔から火が出そうになる。

「ら、蘭姉ちゃんが色々教えてくれたからだよ」

「コナン君、いつも一生懸命だもんね。すごく助かってるよ、ありがとう」

 注がれる愛くるしい声に眼差しに、別の気恥ずかしさで頬が熱くなる。

「でもねえ……」

 少し気がかりがあると含む声に、コナンはぎくりと眼を眇めた。

「どうしたの?」

「コナン君が手伝ってくれるお陰で…わたし……」

 蘭の声が一層深刻な響きを帯びる。

 肝が冷える一方で、まさかと過る予感に半ばの笑いが込み上げ、コナンは複雑な面持ちで続く言葉を待った。

「……ちょっと太っちゃったのよ」

 いっそおどろおどろしい声。

 コナンはぐっと奥歯を噛みしめた。笑うべきでないのは重々承知だが、飲み込もうにも喉に入っていかないのだから仕方ない。それでもどうにか蓋をして、息の詰まる沈黙に深刻な顔で応える。

「……何よその、確かにちょっと太ったな、このデブ…みたいな目は」

 低く這う蘭の声にひやりと頬を撫でられ、コナンは慌てて首を振った。

「そ、そんな目してないよ……!」

 してないからと重ねて強調し、コナンは何度も頷いた。

 間違ってもふき出さなくて良かったと、命拾いした自分に感謝する。

 その一方で、彼女の言う『太った』をあらためて否定する。

 それは、元に戻ったと言うべきなのだ。

 

 

 

 イコールを手にする前…一時期、彼女の身体からごっそり肉が落ちてしまったのを知っている。

 気まぐれに声を聞かせるだけで、決して目の前に現れる事のない誰かのせいで、物がほとんど食べられなくなったからだ。

 いつの時もただ何となく傍にいた誰かが、いなくなったそのせいで。

 表に見せる態度は何ら変わりなかった。

 変わりなく笑い、朗らかに振る舞って、その陰でただ一人で泣いて、案じて、怯えて、食べられない。

 薄々気付いてはいたが、決定的な証拠…胸元の骨がくっきり浮き上がり数えられるほどになったのを目にして、ぎょっとしたのを覚えている。

 無駄な分が落ちた…そんな生易しいものではないやつれた身体に、どうしようもなく胸が痛んだ。

 それでも蘭は変わらず明るい声を響かせ、今にも崩れそうな足で懸命に立っていた。

 そんな彼女が、三人で進む道を見つけた。

 そんな彼女を、否定する事など出来ない。

 そう、だからあの夜から二人…三人で歩き出した。

 イコールを手に入れた彼女は、見せかけの貌を捨て、したたかな秘密を胸に何ら変わる事無く日々を送り始めた。

 

 

 

「しっかり食べてしっかり運動するのがいいって、TVでやってたよ」

 言ってから、コナンはしまったと息を詰めた。さすがに毎度毎度…からの引用は芸がないだろうか。

 おっかなびっくり様子を伺えば、してやったりとほくそ笑む眼差しと目が合った。

「もう……蘭姉ちゃん!」

 またやられたとコナンは情けない声で肩を落とした。

「はいはい、お喋りしてないで手を動かして。お父さん沢山食べるって言ってたから」

 知らんぷりを決め込み、蘭はせっせと皮にアンをのせていった。

 舌打ちと共に横目で恨めしげに見やり、コナンは分担に集中した。

 二人はしばらく静かに、それぞれの作業を進めた。

 夕暮れ時、窓越しに遠く聞こえる帰宅を急ぐ人の波の音を何とはなしにとらえていたコナンの耳に、蘭のもらしたささやかな笑い声が届いた。

 どうしたのかと、くすくす笑う蘭に顔を上げる。

「アイツがやるかなって想像したら……おかしくなっちゃって」

 一瞬分からずに目を瞬いたコナンだが、すぐに察し、ああと自分の手元に目を落とした。脇には、形良く綺麗に巻かれた春巻きが積まれている。我ながら良い出来だと自画自賛をひとつ、苦笑いをひとつ。

「し、新一兄ちゃん…食べる専門だったしね……」

 過日の自分に赤面し、コナンは頬を引き攣らせた。

「ホント、あの甘ったれ」

 ふふと蘭が笑った。

 申し訳なさと、照れ臭さからくる腹立ちがぐるぐると渦巻く。

 しかしそんなものは、次に見せた蘭の表情一つで消えてなくなる。

「でも……」

 遠く思い出を見つめる横顔に、ただ愛しさが感謝が込み上げる。

「……美味しかったよ」

 想いを込めて紡がれた蘭の一言がしようもなく沁みて、コナンは身震いを放った。目を閉じてこの幸いを噛みしめる。

「あーあ、だから太っちゃうんだよね」

 コナン君とご飯作ると

 とどめの一撃は、泣きたくなるほど慈愛に満ちた表情から繰り出された。

「ごめんなさーい」

 胸がつまって、それだけ言うのが精一杯だった。

「いいわ、コナン君いつも美味しいって食べてくれるから、許してあげる」

 少し上気した頬に笑みを乗せ、蘭はくすぐるように言った。

 独占欲を強く掻き立てる、愛くるしい微笑。

 ただただ見惚れる。

「よし、出来上がり! あとは、お父さんが帰ってくるのを待つだけね」

 空になったボウルを手に蘭が立ち上がると、見計らったように玄関先で音がした。

「あ、おじさん帰って来たよ」

「ばっちりね」

 コナンは見上げ、蘭は見下ろし、同時にふふと笑った。

「今日も沢山食べてね」

「うん、蘭姉ちゃんもね」

「あら、太らせようったってそうはいかないわよ」

 楽しげに笑う二人に迎えられ、小五郎が姿を現す。

「お、今日も美味そうに出来てるな」

 山と積まれた春巻きに腹の虫が鳴ると、小五郎は相好をくずした。

「コナン君が手伝ってくれたから、ばっちりよ」

「蘭姉ちゃんの味付けもばっちりだよ。あとは、おじさんが美味しく揚げるだけ」

「ようし、任せとけ!」

 頼もしく腕をまくり、小五郎はキッチンへと向かった。

 張り切る三人目に蘭とコナンは目を見合わせ楽しげに笑った。

 今日の夕餉も、いつもと同じく賑やかで美味しい。

 

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