早撃ち名人

 

 

 

 

 

 下校を迎えると同時に、園子が声をかけてきた。

「ねえ蘭、この前話した雑貨屋さん、今日行ってみない?」

 今日は、部活無い日でしょ

「ああ…ゴメン園子、明後日じゃダメかな」

 園子の後方、長らく主不在の机をちらと見やり、顔を向け、合わせた手とゴメンの二つで謝る。

「このところ外食とか出前ばかりで済ませてたから、今日は久々に美味しいもの作ろうと思って」

 コナン君に

「……ああ、そっか。うん…じゃあしょうがないね」

 ほんの少し引っかかる間を置いて、園子は納得したと頷いた。

 からかおうとして、やめたのだろうか…園子にはいつもしてやられている為か、蘭は気を引き締めた。

「早く帰って、美味いもん食べさせてあげな」

 いひひと笑いを交えて園子が肩をたたく。

 やっぱりと、何かを含んだいたずらっ子の笑いに少々顔が渋くいなるが、それもまた心地よかった。

「ありがと。ゴメンね園子」

「いいって。じゃあ明後日、行こう」

「うん、楽しみにしてる。じゃあね」

 手を上げて、鞄片手に教室を後にする。

 戸口でもう一度また明日と告げようと振り返ると、気付いた園子が顔を上げ嬉しく手を振ってくれた。

 けれどその一瞬の合間、何を想ってか園子の眼差しは苦しく落ち沈んでいた。

 何かを激しく悲しむように。

 単なる自分の見間違いか、蘭は首をひねりつつ廊下を急いだ。

 下校する生徒に混じって校門を出ると、気持ちは今日の晩ご飯へと移り変わる。

 通いなれた道をいつもと同じくたどって、蘭は商店街へと急いだ。

 今日は何にしようか。

 一番喜ぶといえば、もちろん。

 頬を緩ませ、蘭は馴染みの精肉店へと足を向けた。

 道々、つい視界の端を気にしてしまうのは、いつの時もさりげない風を装ってそこにいてくれた誰かが、そこにいないからだ。

 欠けている…でも平気と、蘭は息をひと飲みして目を上げた。

 距離は変わったが、実際距離は変わっていない。

 確かに今ここにはいないが、間違いなく傍にいる。

 いつでも、傍にいてくれる。

 二人…三人だけの秘密の距離で、間違いなく傍にいるのだ。

 気分は高揚し、自然足取りも軽やかになる。浮き立つ気持ちに押されるまま、蘭は小走りで事務所へと駆け込んだ。

 ただいまの声と共に扉を開けると、呆れるほど変わらぬ見慣れた光景が目の前に広がる。

 つけっぱなしのテレビ、散らかり放題のデスク、そこに埋もれるようにして惰眠を貪っている事務所の主。

 日本中に名の轟く名探偵の真実に笑って肩を竦め、蘭は片付けに取り掛かった。

 この時間は大抵、ソファで漫画雑誌などを読んでいるもう一人は、まだ帰ってきていないようだ。

 みんなと、公園でサッカーに熱中しているのだろう。

 どんなに変わっても決して変わらないそれにふと笑みを零し、ゴミの山に挑む。

 つけっぱなしのテレビからは、賑やかを通り越して少しやかましい笑い声がひっきりなしに溢れていた。そのやかましさにも負けないのが、父、小五郎の高いびき。

 すっかり慣れたそれらを聞き流しながら、毎日鍛えられたお陰か、蘭は五分とかからずゴミの山を取っ払ってやった。

 とりあえずと満足し、三階へと上がる。

 今日は大好物のハンバーグだ。心と気合を込めて、うんと美味しく作ってやる…勇ましく腕をまくり、蘭は夕飯の支度に取りかかった。

 脳天に突き刺さる刺激と格闘しながら玉ねぎをみじんに刻み、仕返しのごとくフライパンで色よく炒める。

「ちょっと多かったかな……」

 皿に山と積まれたハンバーグを見て、小五郎はまた作りすぎと言うだろうか。

 冷凍しておけばいいけど、いくらなんでも作りすぎ…二人しかいなんだから、と。

 ボウルの中で肉を捏ねながら、蘭は小さくしゃくり上げた。こらえてもこらえても涙は沸き起こり、ついに眦から零れ落ちた。

 二人しかいないのに、挽き肉一キロは多すぎる。

 冷凍しても、二人では食べ切るのに苦労する。

 この家には二人しかいないのに。

「っ……」

 わずかにうめいて、蘭はその場に崩れた。同時にボウルも床に落ち、重い音を立てた。

 その音を聞き付けてか、少しして小五郎がやってきた。

 流しの前で泣き崩れる蘭と、一目で多いと分かるボウルの中の挽き肉を見て、事情を理解する。

「お…おとうさ……また沢山…買っちゃった」

 背後からそっと肩を抱く父を振り返り、泣きながら笑う。

「……いいよいいよ。オレが全部食べてやるから」

 落ちたボウルを台に戻し、小五郎は静かに言った。

 見上げる位置に置かれたボウルに手を伸ばし、蘭は顔を歪めた。

「二人しか…いないのに……新一…いない…のに」

 もう半年も前に死んだ人。

 いつの時もさりげない風を装って傍にいてくれた人。

 分かっているのに分からなくて、姿を変えてここに隠れ住んでいる事にした。

 重大な秘密が漏れないよう、少し大きな眼鏡をかけた生意気な小学生になり済まして、江戸川コナンと名乗って、新一がそうだったように同じ距離で傍にいてくれる。

 そんな妄想に耽って、親も親友も巻き込んで苦しませて、それでもまだ分からない。

 死んだのが分からない。

 もういないのが分からない。

 工藤新一は死んだ。

 だから江戸川コナンなんていない。

 分からない。

「何でいないの……」

 胸が潰れそうで、身体中が潰れそうで、たまらなく苦しかった。

 もう息も出来ない。

 いやだ、いやだ。

 苦しくて息が出来ない。

 こんなに吸い込んでいるのに息が出来ない。

 ここではもう、息が出来ない。

 

 

 

 ぱっと目を見開く。

 見ていたのか見せられていたのか、悲しい以上に腹立たしい夢の内容に抗議する意味で、蘭はぎゅっと瞑った後しっかと目を見開いた。

 そこでようやく、かなり窮屈な姿勢で寝ていた事に気付く。頭が毛布の中にもぐり込むほど身体を丸めていたのでは、息が出来ないのも無理はない。

 だからあんな馬鹿げた夢を見てしまったのかと、思わず声に出して笑う。

「あつ……」

 しかも、今日も朝から蒸し暑い。そんな日に頭から毛布を被り、寝違えそうなほど身体を丸めてねじって寝ていたのでは、そりゃ変な夢も見るか…夢の中でしくしく泣いていたのが信じられない勢いで、蘭はベッドから下り大きく伸びをした。

「何がいないよ……バッカみたい」

 呟き、この時間まだ眠っているだろう隣室の誰かを見やる。

 腹立たしい以上に、申し訳なかった。

 決して諦める事無く毎日を命がけで生き延び真実へとひた走る彼を、夢の中とはいえ勝手に。

 園子もゴメン

 お父さんもゴメン

 ひとしきり謝って、夢の内容を睨み付ける。見ている間は確かに、たまらなく悲しかった。胸が潰れそうで、息が出来なくて、こんなのは嫌だと苦しくてたまらなかった。

 しかし目を覚まし、目を見開いて現実にある物を…たとえば部屋の中のもの、時計や机やそこにある写真を見れば、そんな気持ちはすっかり薄れて消え去り、苦しさや悲しさの代わりに腹立たしさや、申し訳なさが胸に浮かんで渦巻いた。

「なんなのよ、もう……!」

 両手で頬をぴしゃりと叩く。目の覚める痛み。これくらいでちょうどいい。

 それからゆっくり、手を見やる。

 いつもコナンと繋ぐ手。

 彼が何より頼りにしているもの。

 変な夢…弱さに脅かされた時、この手が救いになったと彼は言った。

 今一つ自信はないが、この手が閃いた先が出口だと、彼は言った。

 二人…三人ならばたどり着けると。

 今一つ自信がない。

 自分はただがむしゃらに、コナン…新一と共に毎日を生き延びている。彼らがくれる力を頼りに無我夢中で。

 そんな自分が目印を示せる、力になれる。

 なんて不思議な事。

 なんて力の湧いてくる事。

 それなのに、馬鹿げた夢にめそめそしている場合ではない。

 蘭は右手をしっかり握りしめ、一つ頷いた。

 

 

 

 段々と意識が目覚めてくる。

 夢うつつに浮遊しながら、そろそろ起きる時間が近いのだろうとコナンはぼんやり思った。横向きになっていた身体を仰向けにし、もうあと五分とまどろむ。

 と、夢か聞き間違いか、隣室の扉の開く音を耳にした気がした。

 いや、気のせいではなく確かに音がした。

 用足し…ならば聞き耳を立てるのは失礼と、慌てて聞こえない振りに徹する。

 しばし置いて、遠く水の流れる音が聞こえてきた。

 ああ、やはりトイレかとコナンは寝ぼけながら思った。寝ぼけながらごめんなさいと謝る。

 そしてまだ眠りに傾きたい頭に素直に従い、途切れることなく続く水音を子守歌代わりに、起きかけの意識で数分過ごす。

 唐突に気付いて、コナンはぱっと目を開いた。同時に身体も起こす。

 水音の正体が分かったのだ。分かって、寝ている場合ではないと居ても立ってもいられなくなったのだ。

 何が気がかりなのか自分でも説明がつかない。

 ただ何となく、蘭が呼んでいるような気がしたのだ。

 本人に聞いたとしても、まず間違いなく否定するだろうが…呼んでいるのは確かだ。

 こんなあやふやなものしかし、外れた試しはない。

 ドアノブに手をかけて思い直し、着替えのポケットに入れたハンカチをパジャマに移して部屋を出る。

 そろりそろりと浴室に向かうと、洗面台の前に立ち、濡れた髪を静かに拭う蘭の姿が目に入った。

 声をかけるのが先か、壁をノックするのが先か。考えると、どちらも彼女を驚かせてしまうだろうと迷う。

 ならいっそ両方だと、コナンは潜めた声で呼びながらコツコツ壁を叩いた。

 一瞬蘭の肩が跳ねたが、そうひどく驚かす事はなかったようだ。

「ごめんね、コナン君」

 起こしてしまった事を詫びながら、蘭が振り返る。

「ううん。どうしたの、暑かった?」

 昨日に増して蒸し暑い朝。寝汗を流したくなる気持ちも分かると、コナンは軽く問いかけた。

「うん、しかも毛布にもぐり込んでたものだからもう暑くて暑くて…でも水だとやっぱり冷たいね」

 少しおどけ、蘭は震え上がる仕草をしてみせた。

「え…! み、水なんか浴びてたの?」

 素っ頓狂な声の自分を途中で慌てて抑え、コナンは目をむいた。

「どうしてまたそんな……」

「うん、ちょっとね……気合い入れてたの」

 一瞬言い淀み、振り払って、蘭はさらりと答えた。

 途端にコナンの顔付きが変わる。

 予測していた事と、蘭は強い笑みで肩を竦めた。

「暑い夏に負けないようによ」

 夢の内容も夢を見た事も、決して口にはしない。出来るわけがない、あんな、彼を侮辱するものなんて、口が裂けても言うものか。

 しかしコナンは聞いていた。

 これがあやふやな声の正体だったのかと理解する。

「……大丈夫?」

 中身の伴わない笑顔を、コナンは恐る恐る見やった。

 声は聞こえないけれども、呼んでいるのがひしひしと伝わってくる。

「ええ、大丈夫よ」

「でも……」

「コナン君は心配性ね、大丈夫ったら大丈夫よ!」

 蘭は勝気な笑みで、コナンの鼻を軽く摘まんだ。

 一瞬面食らったコナンだが、それでもじっと見つめていた。

「もう…その目反則……」

 蘭はそっと手を離すと、ごめんなさいと鼻筋を撫でた。

「だって、蘭姉ちゃん……」

 鼻先を撫でる手に大丈夫と自分のそれを重ね、コナンは口を噤んだ。

「いいの。少しくらい張り切らないと、私すぐめそめそしちゃうんだもの……カラ元気も元気の内って言うじゃない」

 暗いのはお断りと、蘭は軽く胸を張ってみせた。

 少し考え、コナンは声の調子を合わせ笑った。

「大丈夫だよ、ボク、蘭姉ちゃんがいつめそめそしちゃってもいいように、たくさんハンカチ持ってるから」

 新一兄ちゃんもね

 途端に蘭はむっと唇を尖らせた。

「ハンカチなんか、なくたって平気よ」

 ふんとよそを向き、えいやとばかりに鼻先を天井に向ける。

「そうだね」

 自分なりの方法で励ます蘭に小さく笑う。

 彼女は意地でも言わない。昔から変わらぬ事。でも彼女は確実に変化している。取り残されないように、精一杯走らねば。

「でも、必要だったらすぐ言ってね。すぐ出すから」

 どれくらいすぐなのか例を見せるねと、コナンは早撃ちさながらに小さな動作でさっと取り出してみせた。

「!…すごい! ホント早いねコナン君」

 思い掛けない行動に、蘭はおかしくてたまらないと笑い転げた。眦に少し涙が滲むほど。

 あんな夢、恥ずかしくて彼には言えない。情けなくて言えるわけがない。でも気付いたら呼んでいた。そして彼は来た。こんなあやふやな声しかし、彼は決して聞き逃さない。

 ずっと昔からそうだった。

 ずっと昔からそう、悔しいのに嬉しい瞬間。

 なのに自分はいつまでも、意地っ張りから抜け出せない。

 傍にいてくれて本当に良かったと、心から感謝しているのに。

「ボク、蘭姉ちゃんの味方だもん」

 胸の詰まる、こんなあたたかい言葉を贈ってくれる人なのに。

 頼もしい笑顔に瞳を揺らし、蘭は大きく息を吸い込んだ。

「ねえコナン君、握手してくれる?」

 少し迷いながら、蘭は屈んで右手を差し出した。

「うん……?」

 少し戸惑いながら、コナンは握った。

 二人、同じ力で握りしめる。

 少し恥ずかしい数秒。

「えーと……」

 蘭は緊張の面持ちで目を泳がせ、覚悟を決めると、咳払いのあとに口を開いた。

「わたし…こんなんでこれからも迷惑かけちゃうと思うけど…一生懸命頑張るから、よろしくね」

 今にも消え入りそうな声を奮い立たせ、最後まで言い切る。

 コナンはそれを、少々の驚きと喜びとで受け取った。

 彼女は変わらない。

 そして彼女は変わる。

 全ては自分と生きる為に。

 これが驚かずにいられようか。

 喜びを抑えておけるものか。

 さらに驚きが訪れる。

「それで……新一見つけて、一緒にぶっ飛ばしてやろう」

「……うん、ボクも協力する」

 思わぬ言葉に苦笑いの一つももれるが、協力したい気持ちは本当だ。こんなにもがむしゃらに生きる彼女の為にも、願いは一つ残らず叶えてやりたい。

「それで……い、いらないとは思うけど、コナン君…ハンカチの用意、しといてね」

 三度目に訪れた驚きは、幸いに満ちていた。

「わかった。さらに早撃ち磨いとくよ」

 今から腕が鳴ると笑って、コナンは眼前の女を愛しく見つめた。

「どうせ無駄になると思うけど……お願いね」

 穏やかに見守られる幸せをじっくり噛みしめ、蘭も見つめ返した。

 ここに彼と二人…三人でいる。

 前に進めなくて、足踏みどころか後ろに下がってしまう事もあるにはあるが…きっと少しずつでも進んでいるはず。

 だからもう、夢なんて…安心だ。

 

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