死なせたくない女と守りたい男 |
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近所に新しく出来たベーグル専門店の店長が、若くてイケメンだから今日の帰りに寄ってみようと興奮しきりの園子に誘われた、水曜日。 実際訪れてみると想像していたより小さい店構えだったが、置いているベーグルの種類は中々豊富で、それを求めてか園子と同じ目的か、店内は窮屈なほど混み合っていた。 園子が言っていた店長はなるほど端正な顔立ちで、客商売に向く物腰の柔らかさを備えていた。 これは大変だと、蘭はこっそり苦笑いをもらした。 そこは客が自由に商品を取るのではなく、店員が注文を聞き商品を詰める形式をとっていた。 昼間に言っていた『イケメン店長』に大興奮の園子を、蘭はやっぱり…と苦笑いで何度も宥めた。 試しに買ったプレーンと黒ゴマがたっぷり練り込まれたベーグルを、帰宅後小さく切り分けて出してみたところ、最初はふうんと興味なさそうだった小五郎がまず大絶賛、続くコナンも、噛みしめながら目を輝かせた。 「そんなに美味しい? どれどれ……」 少し大袈裟すぎやしないかと半信半疑で摘まんだ蘭も、その味わいに驚いた。 気軽に買いに行ける範囲にベーグルの専門店はなく、たまにスーパーなどで『ベーグル』を買っていたが、それらとは味も食感もまるで違っていた。 「これすごいよ蘭姉ちゃん、何も入ってないのに、噛めば噛むほど甘く感じるよ」 しかもすごい歯ごたえだよ ようやくひと口分を飲み込んだコナンが、弾む声を上げた。 「……ホントだ、もちもちっとしてておいしい!」 「おい蘭、今度の日曜は、パンじゃなくてこのべーぐるにしてみねぇか?」 「そうだね、土曜日にでも、買いに行ってくる。コナン君も一緒に行く?」 小五郎の提案に喜んで頷き、蘭は反対側に目を向けた。 「うん!」 もちろんだと、コナンは大きく頷いた。 |
土曜日の昼下がり、蘭とコナンは他愛ないお喋りを交わしながら、堤無津川に沿って続く緑道を歩いていた。 陽射しはやや強かったが、日よけの帽子は二人ともしっかり被ってきた。また、緑道の両脇に植えられた豊かに生い茂る木々の作る日陰も意外に快適で、昨日に比べ湿度が低い事も相まって、それほど暑さを感じる事はなかった。 話の合間に、蘭の被る帽子をコナンが褒めた。 左横についたコサージュが可愛らしい、うっすらクリーム色のクロッシェを指して、今日の服に良く似合うねと、ごく自然に言葉を繰り出す。 それを受けて蘭も、コナンの被る帽子を似合う似合うとごく自然に絶賛する。 直後、どういうわけかお互い同じタイミングでやや顔を赤くして、それぞれそっぽを向いた。 どうしてこう『コナン君』『蘭姉ちゃん』だと気負わず言えるのだろうかと、それに引き換え自分たちはどうしていちいち気負ってしまうのかと、全く同じ事を考えあの頃の自分に肩を竦めていた。 お互い、同じ事を考えているとは全く知らずに。 蘭は堤無津川を、コナンは川沿いの住宅街を、しばし眺め歩いた。 「あっ……」 と、コナンが短く声を上げた。 「……高木刑事だ」 コナンの声を追って蘭が振り返ると、ある邸宅の前に停められた車の脇に見覚えのある若い刑事が立っているのが見えた。 するとコナンの足は、当然とばかりにそちらに向かって進み出した。 高木の姿を目にした時から進路変更が分かっていた蘭は、手を引くコナンに聞こえるか聞こえないかの声で『推理オタク』と低く零した。 やや先を歩いているので実際には見えないが、見なくとも、小さな名探偵の目がこれ以上ないほど輝いているのは手に取るように分かった。 「どうしたの、高木刑事」 「やあ、コナン君――」 この短いやりとり、どこかで聞いたよう…蘭が心の中で零す。 「と…蘭さん」 コナンを呼ぶより少々元気のない声で呼ばれ、力ない笑いの含むところを察し、蘭は強い笑顔で高木に応えた。 「何か事件でもあったの?」 「いやあ、実はね……」 このやりとりも、聞き覚えがある。 ああ、なんて推理オタクなんだろう…… 利用出来るものは何でも利用してパズルのピースを手に入れて、三度の飯より心奪う推理に没頭するその横顔を、蘭は微笑とも呆気ともつかない顔で見つめていた。 そして、いつの間にかほどかれていた手にその鮮やかさに感心のため息をひとつ。 高木の説明によると、どうやらとある殺人事件の聞き込みらしかった。 殺害時の被害者と周りの状況、三人浮上した容疑者の詳細を、へえー、ふうんと頷きながら、コナンは一つひとつ聞き出す。 その様子をやや離れた場所から眺めていた蘭は、突如腹の底に悪寒が走るのを感じ取った。 はっと目を見開きコナンを凝視する。 目に映る全てが一段暗くなったような錯覚、そして凍るような悪寒…予感は、あの日走り去る背中を追えなかった時に感じたものと全く同じだった。 新一と名前は呼べても、どういうわけかまったく足が動かせず、ただ走っていく姿を見ている事しか出来なかったあの日。 凍える予感に心を脅かされたまま、小さくなる背中を見送った――。 そこで唐突に分かる。 この家に、犯人がいるのだと、分からないが分かる。 息を潜め、逃走の隙を窺っているのが、見えないが見えた。 「っ……」 忘れかけていた息をひと飲みし、蘭は一歩踏み出た。そのまま歩いてコナンに近付き、高木から離れた場所で顎に指をかけ推理に没頭する、小さな身体を後ろから抱きかかえる。 「……えっ」 少し間抜けた声がコナンの口からもれる。 突然視界の位置が変わった事に小さく驚き、肩越しに振り返った。 「ら、蘭ねえちゃ……え?」 驚きと恥ずかしさにやや赤い顔で蘭を見やれば、怒っているような困っているような、今にも泣きそうにすら見える強い眼差しがそこにあった。 「か……買い物、行こう」 少し引き攣る喉から声を絞り出し、蘭は言った。 「あ、でも……もう犯人が……」 「ダメ……買い物行こう」 強張る顔に無理やり笑みを浮かべ、一際強く抱きしめてくる蘭にコナンは口を噤んだ。 「……もう、何回危ない目にあったら懲りるのよ」 吐息と変わらぬささやかな声が、調子付くコナンの胸を鋭く刺す。 言いながら蘭は、分かってもいた。 何度危ない目にあおうと、ひとたび事件に遭遇すれば彼は走り出す。傍でずっと見てきた。何度危ない目にあったって、彼は懲りない。 すべて人を救う事に、彼は懲りない。 だから彼はここにいるのだ、江戸川コナンが。 「行こうってば……」 「蘭姉ちゃん……」 その態度から、彼女だけが分かる方法で何らかの危険を察知したのだと悟ったコナンは、己の身も忘れて安易に『大丈夫だよ』と言いそうになるのを飲み込み、別の言葉を口元にのぼらせた。しかしいざ言うとなると迷いに阻まれ、一大決心は萎れ、情けなくも愚図ついてしまう。区切りに一旦、は、と小さく息を吐き出すと、思った以上に心は軽くなった。その勢いのままコナンは、振り向きざま繰り出した。 「じゃあ蘭姉ちゃん、守ってくれる?」 さらりと紡がれた一言。 「え……?」 すぐには理解出来ず、蘭はわずかに眼を眇めた。 「もしボクが危ない目にあいそうになったら、守ってくれる?」 途端に怒りが沸き起こり、蘭は頭に血をのぼらせた。 気軽に言い出すコナンに腹を立てる。その一方で、今まで一度も言った事のない言葉を口にするコナンに衝撃を受け、入り混じる混乱にわけが分からなくなる。 「まかせるから…守ってくれる?」 二人…三人だけの秘め事のように声を潜め、コナンはじっと目を覗き込んだ。 その視線を受け取った蘭の瞳が、動揺を表して小刻みに揺れる。 彼は今まで懸命に、巻き込むまいとその小さな身で奔走してきた。決して手助けを求める事はなかった。 彼はむしろ守る方だった。 二人ではなく三人で歩き出しても、その根本が変わる事はなかった。 それが、今急に今変わった。 コナン君…… ――新一 何か言いたげに、蘭の口が小さく開く。 |
少しつらい沈黙の中、コナンはじっと返事を待った。 自然、両の拳に力が入る。 ――蘭 これほどまでに死なせまいと寄り添う女から、どうして離れていられるだろう。 彼女の想いを潰す真似がどうして出来るだろう。 彼女の手が、力が必要だと、はっきり伝えたいではないか。 自分たちが三人が進むには、そちらを選ぶべきなのだろう。 彼女は自ら危険に飛び込んできたが、その手を取ったのは自分。彼女を巻き込んだのは他ならぬ自分だ。 だから、ともに立ち向かっていくべきなのだろう。 どちらかだけがもう片方を危うい安穏に追いやって守るのではなく、一緒に。 その道を行くべきなのだろう。 それが現実の前では何の役にも立たない甘い口先だけなのは百も承知で、彼女を守れると心に刻む。 信じられるものを信じる。 二人…三人で真実にたどり着く為に。 |
とうとう蘭が口を開いた。 「……なによ、また勝手な事言い出しちゃってさ」 ぼそりと呟き、あっさり腕をほどく。 前触れなく放り出され、慌ててコナンはよろける足を踏ん張った。 「待ってるから、行ってくれば」 ぶっきらぼうな物言いに恐る恐る見上げれば、頼れる強い笑みがそこにあった。 気迫十分、迫力満点だ。 思わず苦笑いがもれる。 がそれはすぐに、赤い顔の中の間抜けに取って代わる。 「……守るわ」 まっすぐ見つめてそんな事を言われて、未熟な自分がどうして平静でいられようか。 見惚れてしまっても仕方ないと、誰か言ってくれ。 「な…何で赤くなってんのよ、早く行きなさいよ」 照れ隠しに身体を押され、コナンはこけつまろびつ 進み出た。少しぎこちない足取りで、容疑者の一人…犯人と、一見穏やかに言葉を交わす高木の元へ向かう。 高木の横には、途中から合流した千葉がいた。
さりげなく振り向くと、死なせたくない女が凄まじい形相でこちらを見ている。 そんなに怒らないでくれよ すぐに解決させて戻るから…
さりげなく見やると、守りたい男が顔面蒼白でこちらをうかがっている。 推理に詰まってるのかしら でも私じゃヒントは出せないし…
誰より深く繋がっている癖に、後一歩噛み合わない二人の思惑が強く優しく絡み合う。 |
犯人を乗せたパトカーが走り去る音を聞きながら、蘭とコナンの二人は向かい合って座っていた。 正しくは、コナンが座り、蘭がしゃがんでいる、だ。 高木の車の後部座席、そこに横向きに座ったコナンと、開け放たれたドアの横にしゃがむ蘭。 「えー…蘭さん、包帯巻くの上手いですね……」 こう声をかけていいのかおっかなびっくりの態で、高木は力なくはははと続けた。 「ええまあ。昔よくケガしてたコナン君みたいな悪ガキがいたので」 いつの間にか慣れちゃって 悪ガキの部分を強調し、蘭は眼前の少年をじろりと見やった。 捻挫した右足首に包帯を巻かれている途中、身動き取れないコナンは、針のむしろより尚ひどい場所に身の置場もないと泣き笑いした。 コナンの捻挫は、当然ながら蘭をかばってのものだった。 高木と千葉による矛盾点の追求、コナンのとどめの一言で、ついに言い逃れ出来なくなった容疑者は素直に罪を認めた。 そのまま大人しく連行されると思いきや、最後の悪足掻きか、男は両脇の警官を振り払い駆け出した。 どこに隠し持っていたのか、取り出したナイフを振り回し逃走を試みる。 あの予感はこの事だったのだと蘭は身震いを放ち、コナンを死なせまいと走った。 ナイフの悪漢だろうと恐怖はない。恐怖は、死なせてしまう事。 果敢にも犯人に迫る蘭より先に、小さな影が男に体当たりする。 予期せぬ横からの突進に男は倒れ伏し、慌てて起き上がるも、怒り心頭に発した女子高生によって再び倒れ伏す事になった。 コナンの捻挫は、蘭を守る為に男に体当たりした時負ったものだった。 |
蘭の背に負われ照れ臭いのか、じゃあねと手を上げる高木にろくに返事もせず、コナンは小さく頷いた。 「じ、じゃあ蘭さん……あの、お気を付けて。こ、コナン君の事……」 運転席の窓から顔をのぞかせ、高木はしどろもどろに言い足した。 「……怒ってませんから」 あからさまな怒りの形相より恐ろしく感じられる、やや半眼の笑みで答え、蘭は一礼して歩き出した。 堤無津川に沿って伸びる緑道を、蘭は少し早足で進んでいく。 その背に負われて何も言えないまま、コナンは途方に暮れていた。 しばらく続いた寒々しい沈黙を破り、蘭が口を開く。 「足は痛む?」 言葉は気遣うそれだが、声の響きは非常に刺々しかった。 「ちょっとだけ……」 「え?」 「……ちょっとだけ」 「なに?」 その聞こえない振りは、嘘は受け付けないという意思表示なのだろう。蘭の性質に観念したコナンは、今はそれほどでもないが、後々本格的に痛み出すだろうと正直に告げた。 「あっそう。……まったく、肩もまだ治ってないのに、なんで割り込んで邪魔したのよ」 守るって…言ったのに 言い出しはつっけんどんに、続く言葉は驚くほど気弱に吐き出して、蘭は俯いた。 「だ、だって…あの……蘭姉ちゃんが危ないって思ったら…勝手に身体が動く…から……」 どうしようもないのだと、始めも終いもぼそぼそと、コナンは途切れがちに言った。 「……なによ、勝手に割り込んで邪魔して、それで捻挫してたら世話ないじゃない」 あれくらい、蹴り一発で倒せたのに 「まかせるって言ったんだから、まかせなさいよね」 言いながら、どうしても顔が緩んでしまうのを蘭は止められないでいた。少なからず怒りはあった。自分は結局信用に足らないのかと疑う部分も、あるにはあった。しかしどれも、全て、彼が自分と同じように自分が彼と同じように生きているのだという一つの真実で、取るに足らないものになる。 「うん…ホントにゴメン」 「三人でいるのに…少しは信用してよ」 思った以上に甘い声になってしまった事に、まずいと口を噤む。顔は見えないのだから、まだ怒っていると貫きたかったのに、こんな声を探偵の耳が聞き取ったら、ばれてしまうではないか。 「悪かった……本当に」 しかし肩口に降る声は気付いていないようで、深い後悔を帯びたままだった。 「こ、今度から…頼るところは頼る…から……」 そしてひどく照れ臭そうにして、嬉しくなる事を言ってくる。 蘭は調子付いて、念を押した。 「お願いします、は?」 笑い出してしまわないよう必死に歯を食いしばる。それが上手い事、怒りに震える声と似る。 「お…お願いします……」 彼女の心を取り戻すのに精一杯のコナンは、気付く由もない。一大決心を頼りに、懸命に頭を下げる。 「よろしい。約束したからね」 蘭は肩越しに振り返った。嬉しくて浮かぶ笑みのまま、背中で小さくなるコナンを見やる。 「……うん」 申し訳なさに顔を上げられないコナンは、そこにある赦す笑顔にすぐには気付かなかった。 一拍遅れて、まんまと乗せられた自分に行き着き、憮然とした表情になる。けれどそれはそう長くは続かなかった。 彼女が生きて、笑っているのだ、それ以上に求めるものはない。守りたいものが守れて、もう充分だ。 「そ、それでね、蘭姉ちゃん、あの……」 「なに?」 「ベーグル屋さん…逆方向なんだけど……」 もしかしたら、この怪我のせいで行く予定が取り消しになったのかもしれないが、もしかしたら…彼女の強烈な方向音痴が発揮された可能性も否めないと、コナンは恐々聞いてみた。 途端に彼女の肩がびくんと跳ねた。 「あー…な、何言ってるのよコナン君、そんな…怪我したんだから、帰らなくちゃ!」 あたふたと言い繕う蘭にコナンは必死になって笑いを噛み殺した。時に恐ろしいほどしたたかに振る舞う癖に、時にこうして愛くるしさを見せる女。 これだから…… 「とりあえず蘭姉ちゃん…まわれ右で」 「えーと…うん、コナン君が行きたいなら、行こうかな!」 「……うん、行きたいなベーグル屋さん!」 零れた二人分の少しやけっぱちな笑い声が、土手を転げ落ちて川面に降り注いだ。 純粋な照れ笑いは、どちらからともなく唐突に途切れた。 「ね、コナン君」 いつもの、明るい蘭の声が、背に負われたコナンを呼ぶ。 なあにと、コナンもいつものあどけない声で答えるが、蘭は何を言うでもなかった。 しばし無言で、時と場所が進む。 蘭の歩みが、早足から徐々に勢いをなくしていく。 出来るだけ平静を装いながら、蘭は震える唇を必死に抑えて言葉を繰り出した。 「頼るところは……ってさ」 ひそめた声に含まれる恐怖と悲痛を聞き取り、コナンはぎくりと頬を強張らせた。 「私は、どこまで…していいの?」 蘭は歩きながら、ちらと肩越しに振り返り正面に目を戻して、自分にともコナンにともなく問いかける。 「どこまで出来ると思う?」 あやふやに濁しながら、彼女はもう、何もかもするつもりなのだという事を知って、コナンは遠くの空に眼を眇めた。 |
真実にたどり着きながら、まだ何も知らない女。 それでもがむしゃらに、自分の信じるものを信じて突き進む。 誰にも止める事は出来ない。 たとえ自分…新一にもそれは不可能な事。 出来るのは彼女だけ。 彼女は揺るぎなく立っている。ずいぶん前から…最初からとっくにそうだった。対する自分はまだ揺らいでいる事に気付き、コナンはきりりと奥歯を噛み締めた。 この身に真実を取り戻すには、今想像する物をはるかに超える危険が、たやすく、迫るだろう。 もちろん彼女にも。 どんなに守ろうとしても否応なく中心に引き込まれ、命は見えなくなる。 それが分かるのに、まだ現実に迫っていない今は、甘く構えて彼女を安心させるちゃちな一言を渡し浸っている。 自分の全ては彼女に在るというのに、まだ答えを出していない。 今この瞬間にも道を選ばされるかもしれないのに…見ようとしていない。 蘭の手を引いておきながらどこへも行かず立ち止まっている。 辺りは沁みるような闇。 嗚呼、ここでどうやってこの女を守れるだろうか。 |
不意に声が上がった。 「あれ…コナン君ひょっとして……迷ってる?」 まあ珍しいと、おどける蘭の声。 真っ黒な闇の方へ倒れかけていたコナンを、その声が急速に引き戻す。 「え……」 いきなり日差しの中に立ち、眩しさに戸惑う声でコナンは目を瞬いた。 「それともなーに? 私にはどうせ出来ないとか思ってるの?」 「え、いや、違う、違うよ!」 そんなつもりではないと、そんな事を考えた事は一瞬たりともないと、コナンは何度も違うからと繰り返した。 「そりゃあね、その内干からびちゃいそうなほどしょっちゅうめそめそしてるから、そう思うのもムリはないでしょうけど!」 過日の他愛ないからかいを蒸し返し、蘭は唇を尖らせた。 「ら、蘭ねえちゃ……」 「でもね!」 よいしょと身体を揺すって背負い直し顔を見合わせると、真剣に見据え、強く言葉を続ける。 「死なせないんだから……!」 怒りさえ届かない光を双眸に宿らせ、蘭はぎゅっと唇を引き結んだ。自分の口で彼の『死』を綴るのは覚悟が要ったが、それ以上に心が滾り、言わずにいられなかった。 打ち勝つ為にも。 「!…」 触れ合ったところから、彼女の激しい決意をはっきり教える小さな震えが伝わってきて、コナンを目覚めさせた。 放たれる勢いにしばし何も言えず、コナンはただその眼差しを見ていた。 |
時がきたなら、自分はどんな手段を使ってでも真っ黒な闇を追い詰め真実を取り戻すだろう。 そして彼女もまた、そんな自分をどんな方法を取ってでも守ろうとするだろう。 今はまだ現実味のない甘い決意でも、時が来れば迷わず足を踏み入れるだろう。 自分と同じく。 たとえばそれが、身の腐れるような闇だろうと一歩も恐れずに。 その時に、彼女を引き戻すのは自分で、自分を引き戻すのは彼女。 だからどこへ行こうと、手が離れてはいけないのだ。 手を離してはいけないのだ。 なにせ、彼女だけが、真っ黒な闇から抜ける出口を知っているのだから。 それが分かったここまで来て、まったく、まだ迷う自分。 |
「えっとねー……」 困ったなとわざとらしく声を上げ、コナンは続けた。 「蘭姉ちゃんの出来る事、全部やればいいと思うよ」 やりたいと思う事、全部 「なにそれ……イヤミ?」 途端に蘭は半眼になってじろりと睨み付けた。どうせ大した事は出来ないというつもりでしょう…荒い鼻息を一つ。 「違うよ。……新一兄ちゃんが言いそうな事を言っただけ」 「アイツの? アイツ……カッコつけで厭味ったらしくて自信家で……」 意地悪ばっかで推理オタクでホームスの話させたら止まらなくて ここぞとばかりに悪い部分を並べ立てる蘭の一言一言に、コナンは腹を立てたり謝ったり忙しなく表情をまわした。 「あのカッコつけしいがさ……」 不意に蘭の声が途切れる。恐る恐る肩越しに顔を見やると、何とも言い難い不思議な色を浮かべていた。 「……そうなんだ」 「うん…そうだよ。連れてくって言ったじゃない」 三人で行こうって 「だから、そうじゃないとダメなんだって」 「そうね……アイツ、結構寂しがり屋だし」 いたずらっ子の声で蘭がふと笑う。 見えない背中で小さくむくれ、それでいいよとコナンが唇を尖らす。 「……だから」 少々不機嫌を残す声音でコナンは続けた。 「蘭姉ちゃんの思うように…やればいいよ。でも、でもね…ボクも、蘭姉ちゃん守りたいよ」 「……うん、じゃあ、コナン君の思うようにやればいいよ」 渡された言葉にまた嬉しくなって、蘭は緩む唇で返した。 「コナン君…私の事、守ってね。絶対絶対守ってね!」 底抜けに明るい、軽やかな声。 事の重大さがまるで分かっていない、無邪気な子供のそれと似た…そうではない。 これが彼女の強さなのだ。 「私だって、コナン君を絶対…死なせないから」 どんな言葉も、彼女の心から湧いてくる嘘偽りのないもの。笑い、泣き、怒り、悲しみ、また笑うその全ては彼女の本当の言葉。 蘭の心が育んだ強さから生まれたもの。 「……絶対だから」 言いながら蘭はしみじみと、自分と彼はここに並んで立っている事を噛み締める。分からないから恐ろしいものがやってくると予感はあっても、ここに二人…三人で並んで立っているそれだけで力になった。 「うん……絶対に」 コナンは強く強く頷いた。
「でもコナン君…次に私の番邪魔したら、罰金だからね」 「え、え?」
「もちろん私も、コナン君の番邪魔したら罰金。それで決まり!」 「そんな勝手に……」
「もう決めたから!」 「……ちなみにいくら?」
「私は十円」 「……ボクは?」
「コナン君は千円!」 「ええー! それおかしくない? ちょ……蘭姉ちゃん!」
「おかしくないわよ! ウチが常に赤字状態なのコナン君もよく知ってるでしょ!」 「だ、だからって……ボクまだ小学生……」
「小学生……?」 「そ、その目はやめようよ……ごめんなさい」
「わかればよろしい。じゃあ決まりね!」 「わーったよ……ったく守るのやんなってきたな……」
「人の背中で…何か言ったコナン君?」 「う、ううん、何でも! ベーグル屋さんまだかなあ!」
また二人分のやけっぱちな笑い声が零れ、晴れ渡る空へとのぼっていく。 一度目と違って、それは唐突に途切れる事無く楽しげな会話へと移り変わり、二人…三人の顔にいつまでも浮かんでいた。 |