酔っ払いのざれごと

 

 

 

 

 

 学校帰り、いつものように米花公園でサッカーをしようとの少年探偵団三人…元太、光彦、歩美の誘いに、コナンは本屋に寄りたいから遅れて合流すると応え、駆け出した。

「じゃあ後でね、コナン君!」

 背中にそう声をかける歩美に手を上げ、書店に急ぐ。

 人の行き交う大通りを、右に左によけながら小走りに駆けていると、道行く先に見慣れた制服の二人組を見つけた。

 楽しげにお喋りに花を咲かせ、しきりに顔を見合わせては笑い合っている二人の女子…蘭と園子だ。

 間近に声をかけようと、走る勢いはそのままに近付けば、それより先に気付いた蘭が花のような笑顔で手を上げた。

 街中で、見知った顔を見つけたよりも深い、笑み。

 それが自分だけに向けられるもの、二人…三人だけの秘密を確かにするものと気付き、コナンはほんのわずか顔をほてらせた。

「おや、メガネのガキンチョ」

「コナン君、今帰り?」

「うん、本屋さんへ行くところ。蘭姉ちゃんたちも?」

「そう。今日は部活がないから、園子とお茶して帰ろうと思って」

「それで、蘭、さっきの続きだけど今週の土曜日、どう?」

 蘭の横で足を止めたコナンは、蘭に尋ねているのにこちらを見てニヤニヤしている園子に何事か感じ取り、訝る目で彼女を見上げた。

「うん、特に予定ないけど…何だかかえって悪いみたい」

「……なになに蘭姉ちゃん、何の話?」

 園子の表情を横目にしっかり確認しながら、蘭の袖をついと引っ張りコナンは尋ねた。

 気になるだろう、ガキンチョめ…視界の端には、そう云ってふふとほくそ笑む園子。

「うん、あのね、この前映画行けなかったお詫びにって、園子の家のホームパーティに招かれたの。土曜日は特に予定ないから……」

「い、行くの蘭姉ちゃん?」

 今度は蘭の頷くのを視界の端に、コナンは園子に目をやった。

「……あんたも来たいの?」

 コナンの目が頷いているのをしっかり聞きながらも、園子は意地悪く尋ねた。顔にはいまだニヤニヤ笑いが張り付いている。

「だ、ダメ……?」

「はぁ…しょうがないわねえ、今度こそ蘭にイイ男紹介しようと思ってたのに……」

「えっ……!」

「もう、園子ったら」

 取り乱し絶句した直後、本人に少々乱暴に頭を撫でまわされコナンは目を瞬かせた。

「ジョーダンよジョーダン、あんたの分もちゃんと数に入ってるから」

 やや遅れて、いつものようにからかわれたのだと理解する。

「何たって、アンタは蘭のボディーガードだしね。新一君の代わりに、蘭に悪い虫が寄らないように頑張んなさいよ」

 いひひと笑って頭を小突く園子に、コナンはむくれた顔で肩を落とした。

 ったく園子のヤロー……

「はい、本屋さんはここ。時間とかは蘭に伝えとくから、後で聞いてね。じゃあねおチビちゃん」

 ひらひらと手を振る園子は無視して、少し苦笑いの蘭に手を上げ、コナンは書店へと入って行った。

 もちろん、不機嫌な顔付きで、だ。

 

 

 

 迎えた土曜日、夕刻。

 パーティーの始まりを告げる挨拶の口上が述べられてしばらく後、蘭とコナンは鈴木邸に到着した。

 少し時間をずらしてというのは園子の配慮によるもので、会場となる大広間ではみな思い思いに食事を楽しみ会話を楽しみ、和やかに時間が流れていた。

 まずは乾杯しようと、二人は色とりどりの料理とアルコールノンアルコールのグラスが並ぶ一角へと向かった。

 パーティー会場に来てから…いや家を出る時から…いや蘭がパーティー用の装いになった時から、常に彼女の横に陣取る眼鏡の少年の目つきは、少々険しくなっていた。

 選んだ衣装は、胸元の開きは控えめ、二の腕は隠れる、丈は絶妙の膝丈と素肌を晒す部分は少ないのだが、長い髪を珍しく結い上げているのと、唇にうっすらと色を乗せているせいで、気が気ではないのだ。

 露わになったうなじ、可愛らしさをより引き立たせる淡い口元…それら全て、彼女が用意した自分への贈り物なのは疑う余地もないのだが、気が気ではない。

 気付かれぬようこっそりとため息をひとつ。

 着飾った姿を見てほしいという彼女の思いと、他の誰にも見せたくないという自分。

 彼女の思いは理解出来るが、噛み合わないのだ、どうしても。

 どこかはしゃいだ足取りの彼女にため息をもう一つ。

 せめて肩を並べて歩けるならば、見せびらかすなどと自慢げに振る舞う事も出来るが、エスコートするのがこの…誰が見ても不釣り合いなただの小学生では。

「はいコナン君、オレンジジュース」

 ぐずぐずとぬかるんでいたところへ、蘭のはつらつとした声が届けられる、

「ありがとう」

 もうあっちへ行けと追い払い、コナンは礼を言ってグラスを受け取った。

「せっかく来たんだから、美味しいもの一杯食べようね!」

「うん!」

 いつでも元気な蘭に合わせ声を張り切れば、たちまち気持ちは高揚した。

 グラスを掲げて笑い合い、何から食べようかとコナンは蘭の手を引いて歩き出した。

 

 

 

 眼前に並ぶ料理に舌鼓を打っていると、園子がやってきた。

「待ってたよ、蘭……とメガネのガキンチョ」

 わざと高低を使い分け、園子はシックな装いに似合わぬいたずらっ子の顔で笑った。

「にしても、今日はまた随分可愛い恰好してるじゃない、蘭。すごく似合ってるよ!」

 素直に驚き、園子は絶賛した。

「ありがとう」

「いよいよ蘭も、新しい男探す気になったか。ついに新一君も……」

「ちょ、また園子はもう……」

 困った顔で笑う蘭にいひひと返し、園子はじっくりと蘭の姿を眺めた。

「蘭がピンク着るとホントに可愛いわ。……まったく、誰かさんにはもったいないくらいだわ」

 ほっとけと、コナンは半眼で見上げた。

「じゃあ私、挨拶とかあるからまた後で…どんどん食べて飲んでね」

 後でイイ男色々紹介するから…そんな言葉を残し、園子はひらひらと手を振り会場中央へと消えていった。

 

 

 

 それから小一時間ほど、二人は珍しい料理をあれこれと取り分けてはこれも美味しい、これも変わってるねと目と口とを楽しませていた。

 コナンが、二杯目のオレンジジュースを手に蘭の元に戻っていくらもしない内に、二十代半ばと思しき男性が一人近付いてきた。

 気さくに手を上げ、人当たりのいい笑顔で蘭に声をかける男。

 これは不味い『におい』がすると、小さくとも名探偵の鼻が嗅ぎ分ける。

 蘭が応える声を聞きながら、コナンは大急ぎでジュースを飲み干した。

 その少し前から、気付いて、これは面白くなりそうだとやや離れた場所から様子を見守っていた園子は、見知らぬ男が声をかけるや素早く行動を開始したコナンに膝を叩かんばかりに笑った。

 今持ってきたばかりのジュースをあっという間に飲み干した。恐らく次には、蘭の手を引いてこう言うのだろう…「新しい飲み物を取りに行こう」と

 見知らぬ男から遠ざける為に。

 果たして予測は当たった。

 思った通り蘭の手を引いて、コナンがやや早足で歩き出す。

 まったく、大したボディーガードだ。

 鮮やかな手練に感心する。

 

 

 

「……ごめんね、コナン君」

 ドリンクのコーナーにたどり着いてもまだ足を止めず、どこまで歩くのかという勢いで手を引くコナンに、蘭は小さく笑って謝った。

「え、いや、別にそういう…わけじゃ……」

 背後から投げかけられた声に、コナンは振り向きざましどろもどろに言い繕った。

 そんなコナンからやや斜め上へとわざとらしくも視線を移し、蘭は考える素振りを見せた。

「でもさっきの人……ちょっとカッコ良かったかな――なんて言ったらどうする?」

 言い終わりに、ちらりと横目に見やる。

「……別に」

 途端にむすっとした顔になりコナンは続けた。

「ボク、蘭姉ちゃんが新一兄ちゃんしか見てないの知ってるもん」

「な!……へえー、でもそれ、もしかしたら演技かもしれないじゃない!」

 いたずらっ子の顔で伏し目がちに、蘭は芝居がかった声を上げた。

「ボクも騙してるって事?」

「かもねー」

「ムリだね! 他の誰を騙せても、ボクは騙せないよ」

 むきになって言い返せば、それまでのからかう表情が一変して優しい微笑にかわる。

「うん、ムリ」

 いつも、見守ってくれてるものね

 不意打ちの花にぽかんと見惚れ、コナンは棒立ちになった。

「そ……そうだよ」

 辛うじてもごもごと返し恥ずかしそうに顔を伏せる。

 またやられた。また負けた。また白旗だ。

 そもそも余裕をなくし無様にもむきになった時点で、自分はまだまだ底辺の底…嗚呼、彼女の笑う顔はどうしてこうも、胸を打つのだろう。

「さっきはやるじゃない、ガキンチョ」

 そこへ舞い込んできた園子の声に、警戒心も舞い戻る。コナンはすぐさま振り返り、悩みの種を引き連れていないか辺りを伺った。

 意外な事に、彼女は一人だった。手には細身のグラスが一つ、色から推測して、オレンジジュースだろう。

「見てたの、園子……」

 少しばかり困った顔で蘭が笑う。

「ねえちょっとアンタ、さっきの、新一君に授けてもらった技とか?」

 顔を近付けいひひと笑う園子に言葉を濁し、コナンはよそに目を向けた。

「蘭、これ、良かったら。特製オレンジジュース」

「わあ、ありがとう園子」

 手渡された細く背の高いグラス、そこに注がれた色鮮やかなオレンジに惹かれるまま、蘭は早速口をつけた。

 手に隠れてちらとしか見えなかったが、底の方でオレンジと別の何かが二層になっているのが確認出来た。

「?…」

 おやと首を傾げ、コナンはまじまじと蘭のグラスを見つめた。

「これ…美味しい!」

 喉を通って行った清々しい甘酸っぱさに驚き、蘭は一旦グラスを見つめ、再び口をつけた。

「でしょう!」

 園子の弾む声に引っかかる何かを感じ取り、コナンは眼を眇めた。直後はたと思い至り、慌てて声を上げる。

「蘭姉ちゃん、ちょっとそれ貸して!」

 蘭の手からグラスをもぎ取り、園子に詰め寄る。

「園子姉ちゃん、これ、お酒でしょ!」

「え…!」

「あれ、バレた」

 悪びれずいひひと笑い、園子は続けた。

「冷たいものがぶ飲みしすぎてアンタがお腹でも壊したら大変だと思って、部屋で休む口実作ってあげたのよ、感謝なさい」

「ちょ…園子……」

「大丈夫よ、リキュールはほんのちょっとだけにしてもらったし、蘭が飲んだのはまだオレンジジュースの部分だけのはずだから」

 コナンの手からグラスを受け取り、園子は続けた。

「こうなるんじゃないかと思って、実はゲストルーム用意してあるのよ。前に、蘭がうちに泊まりに来た時『何かの時の為に』って置いてった着替え一式、その部屋に置いてあるし」

「ま、頼もしい付き添いもいる事だし、明日は休みだし……今夜は泊ってきなよ」

 慌てて蘭に水を飲ませながら、コナンは横目で園子を睨みつけた。しかしながら強くは出られない。

 やり方はどうあれ、助け船を出してくれたのは間違いないのだ。

 実に彼女らしいやり方。

「大丈夫、蘭姉ちゃん……?」

 コップ一杯分水を飲ませ、様子をうかがう。

「うん、ぜんぜん平気よ。ちょっと、ふわふわするかな」

 小首を傾げ楽しそうに笑う瞳が、少し潤んで見えた。頬にもほんのわずか赤みが差しているが、見る限り危険な状態ではなさそうだった。

「とりあえず部屋で休ませてもらおうよ」

「そうね、行こっかコナン君」

 促すと、蘭は淀みなく、素直に承諾した。その姿にコナンは少々の危険信号を感じ取った。いつもならもう二度三度否を挟むのだが…早く部屋に連れて行った方がいいだろう。

「二階の突き当たりがそうだから、自由に使って。これが鍵ね。後で何か届けさせようか」

「いいよ。また変なもの飲まされたら困るからね」

 鍵は受け取り申し出は断り、コナンはじろりと睨みつけた。

「そんな怖い顔しないの。じゃあこれ、持ってきなさいよ」

 園子は上げた両手を白旗に見立てて振ると、テーブルに並ぶミネラルウォーターのボトルを一本コナンに手渡した。

「……ありがと」

「そうそう、蘭が可愛いからって、襲っちゃダメよ。新一君に殺されちゃうからね」

 誰がするか…コナンは即座に心の中で言い返し、にこにこと楽しげな蘭の手を取って歩き出した。

 

 

 

 教えられたゲストルームはごく簡素な造りで、広いとも狭いともなくちょうどいい具合だった。

 大きな窓を足元にベッドが二つ並び、その横に丸テーブルとイスが二脚。

 クローゼットをのぞくと、小ぶりのボストンバッグが一つ置かれていた。先刻園子が言っていた、以前に蘭が置いていった着替え一式だろう。

「蘭姉ちゃん、座るのと横になるのとどっちがいい?」

 その問いに蘭は椅子を選び、コナンの手渡す水に口をつけた。

「美味しい。なんかちょっと甘くて」

「……大丈夫?」

 深く座りもたれる蘭を心配げに見上げ、コナンはそろそろと尋ねた。

「やだ、そんな顔しなくても平気よ、もう、コナン君は心配性なんだから」

 そう言って笑う声の調子はほぼいつもと変わらない。

 すぐ取り上げたので、飲み込んだアルコールは極わずかだろう。しかしパーティーでの緊張と高揚は少なからず影響しているだろうし、ちらほらと見て取れる部分も出てきている。

「蘭姉ちゃん、お水もっともらってこようか?」

「ううん、大丈夫。飲んだらもう寝るから」

「そう?」

「うん。ねえ…コナン君」

 呼びかけの声がほんの少し沈んだのを聞き、コナンはわけもなくどきりとした。

「あのね、園子の事あまり怒らないであげて」

「え……」

「ちょっといたずら好きだけど、園子は絶対やり過ぎたりしないし、からかうのだって…いっつも口ばっかりで本気じゃないの。だからあんまり怒らないであげて」

 それが心配で声を落としたのかと、不安そうに見やる蘭にふと笑って、コナンは返した。

「ちょっと困っただけで、怒ってないよ。大丈夫だよ蘭姉ちゃん」

 こんな『大した』いたずらをされたというに…まったく、何というお人よしだろう。

「ホント……?」

「うん」

「良かった」

 ぱっと顔を輝かせる蘭にやれやれと心中で肩を竦める。

 二人がどれほどの仲で、どれだけ固い絆を結んでいるか、長い事側で見てきたのだ、よく知っている。

 時にどぎついいたずらをする癖に、根っこの部分は呆れるほどまっすぐなひねくれもの。

 そんな彼女のいたずらを、時に蘭は楽しんでいたりもする。傍で見ている自分はひやひやさせられ通しだが、二人には二人なりのルールがある。口を挿むのはおせっかいだろうが…中々に難しい。

「コナン君も座ればいいのに」

 いつまでも立ったままのコナンを不思議そうに見やって、蘭は隣の椅子に手を伸べた。

「あ…あ、うん」

 少しぎこちなくしながら、コナンは勧められるまま椅子に腰かけた。

「今日は楽しかったね、珍しいお料理一杯で」

「うん、蘭姉ちゃんの好きそうなケーキ、沢山あったね」

 いつにもまして笑顔が絶えず蘭の顔に浮かんでいるのが気になって、酔っている証拠だと心配になって、コナンは内心はらはらしながら見守っていたのだ。

 しかし彼女は特に体調不良を訴える事もなく、無理に繕っている表情でもないようで、口から出た言葉も不安を誘うものはないと分かったコナンは、ひとまず安心し話題に合わせて会話を繋いだ。

「そう、特にあのラズベリーのケーキ、すっごく美味しかった!」

 もう一個食べたかったな

 食いしん坊と思われるのは恥ずかしいから我慢したけど…はにかみながらそんな事を口にする蘭に小さく笑って、コナンは相槌を打った。

 ふと目を向けたボトルに残った水は、あと半分。飲み干すまでの小一時間もあれば、今のほろ酔いもすっかり醒めるだろう。

 そう考えていると、ちょうど蘭がボトルに手を伸ばした。

 何気なく水の飲むのを眺めていたコナンだが、ふとした瞬間、彼女の口元に目がいった。

 引き寄せられた。

 まだほんのり残る艶やかなピンクに。

 途端にうっと息が詰まる。

 見てはいけないもの…いや悪くはないが、凝視するのは失礼だろうしかしどうしてか目が離せずコナンは一心に女の形良い唇に見惚れていた。

 ふと気付くと、彼女の視線がまっすぐ注がれていた。

「ど…うしたの、蘭姉ちゃん」

 内心の動揺を悟られまいと、自分が見ていたのを棚に上げて問いかける。

「うん、あのね、この前コナン君が間違えてお酒飲んだ時、何でそんなに楽しそうにしてるんだろって不思議だったんだけど、何か分かったかも」

「え、あ…あ、そう? そ、そんなにボク、楽しそうにしてた?」

「うん、赤い顔でずっとニヤニヤしちゃっててねえ、すごい楽しそうだったんだよ、すっごく可愛かったんだから!」

 はしゃぐ彼女の言葉ごとにぎくりと肝が冷える。

 出来れば早く忘れてほしいんだけど…

 そして更に背筋が凍る。

 自分がその時何と口走ったか…酔っ払いのたわごとを思い出したからだ。

 どうかそれには触れませんようにと懸命に祈るが、果たして願いは何にも通じなかった。

「それでね、コナン君…その時なんて言ったと思う?」

「え…え……」

 泣き顔で笑って、コナンは天を仰いだ。

 蘭はお構いなしに楽しく笑って、おいでおいでと手招きする。

 内緒の話だからと口元に手を添え、早く耳を貸してと待ち兼ねる蘭についに観念し、コナンは恥ずかしさをこらえて耳を寄せた。

「あのね……」

 間近の囁きが、全身を甘くしびれさせる。この後の、身悶えするほどの苦行を思うと血の気が下がるが、今この瞬間はとろけても許されるだろう。

 そんな緩んだ気持ちも束の間。

 直後、頬に何か冷たいものがぺたりと押し付けられた。

「!…」

 椅子を蹴倒す勢いで飛びのき慌てて横を見やると、けらけら笑う蘭がそこにいた。

 頬に受けたキスに動揺する暇もなく押し寄せる動揺と混乱。

 自分の頬に視線を向けコナンは絶句した。

 そんな彼に向かって、蘭は妙に楽しげな声を上げた。

「コナン君ひどーい、なにそのキスマーク! 誰と浮気したのよー」

「う、浮気なんかしねーよバーロ!」

 血が上り血の気が下がった頭では何をも考えられず、咄嗟にそんな事を言い返す。果たして『コナン』で言えたかどうかなど知った事か。

「知ってるよー」

 椅子から立ち上がりえへへと緩んだ声で笑うと、蘭は続けた。

「新一もコナン君も、わたしのものだもん」

 ベッドの片方に腰掛け、うろたえるコナンにまた笑いかける。

「そしてわたしは、新一とコナン君のもの!」

 ばったり仰向けになって部屋中に声を響かせ、満足げにふうと息つく蘭を、コナンはぽかんと口を開け見つめていた。耳から入った言葉をようやく理解した途端、頭から湯気が出そうなほど赤面する。

 コイツ…分かって言ってるのか?

 こめかみが痛むほどの血のめぐりに顔をしかめ、コナンは眼前の女を凝視した。

 この見事な酔っ払いのざれごとは紛れもなく彼女の本音。いつの時も心に大切にしまっている、本当の声。

 アルコールに惑わされてのおふざけなどではない。

 そもそもここに嘘偽りが混じるはずない事は、コナン本人がよく知っていた。

 ひどい目眩に見舞われる。倒れそうなコナンを引き止めたのは、怖いほど真剣な蘭の声だった。

「だから…コナン君……」

「へ……」

 まともにはいと返事も出来ないほど疲弊していても、蘭の呼びかけだけは聞こえる。霞む目を凝らしコナンは見やった。

 アルコールに少し潤んだ蘭の眼差しをどうにか受け取り、耳を澄ます。

「どこにも行かないでね……ずっと…傍に……三人で……お願い」

 途切れ途切れに綴り、蘭はうまく動かせない手をもどかしそうに持ち上げた。今にも落ちそうになりながら、ふらふらとコナンに差し伸べる。

「お願いだから……」

 告白ほどに熱い吐息で綴り、蘭は目を閉じた。同時に手から力が抜け、ぱたりと落ちる。

 程無くして、微かな寝息が聞こえてきた。

「……蘭姉ちゃん」

 気持ちよさそうに眠る蘭にそっと呼びかけ、コナンは歩み寄った。シーツの上、さみしそうに置かれた手をしっかり握り、静かに語りかける。

「いつか……近い内、さよならも言えないでお別れするかもしれないけど…ボクはどこにも行かないよ。ずっと、蘭姉ちゃんの傍にいるよ……」

 どんな夢の中までも届くよう願いを込めて、一つひとつ大切に綴る。

 そして何度もためらいながら、蘭の、強さと優しさを象徴する手の甲の骨の一つに誓いを込めて接吻する。

 唇に触れた彼女はこんなにも愛しいと、閉じた目の奥に涙が滲む。胸いっぱいに熱いものが込み上げ満たされる。

 気付けば笑っていた。なにがおかしいのか自分でも理解出来なかったが、無性に頬が緩んだ。

 ほどなく、嬉しいのだと掴む。

 彼女と二人…三人でいる何もかもが嬉しいのだと。

 分かってほっとして、コナンは唇を離した。何とも名残惜しく離れがたい気持ちをどうにか説き伏せ、握った手を彼女に戻す。

 ここからは、別の苦行が待っていた。

 ドレスのまま眠ってしまった蘭を着替えさせる作業がそれだ。

 気付いた途端、さっと血の気が引いた。

「ウソだろ……」

 クローゼットにバッグを確認しにゆき、ベッドの傍に戻り、途方に暮れてコナンは立ち尽くした。現実逃避の一つもしたいと意味なく笑ってみる。

 しかし状況は変わらない。

 蘭は一度眠ったら中々起きない。どんなに声をかけようと、絶対に目を覚まさないだろう。天井を仰ぎみて力なく笑ってみる。

 しかし状況は変わらない。

 覚悟して、ため息を一つ。

 結い上げた髪をほどき、ドレスを脱がせ、パジャマを着せて、毛布をかける…途中何度も襲う羞恥と罪悪感に意識朦朧となりながらも、どうにかコナンはやり遂げた。

 手助けしたのは意外にも、重労働。

 もしここで工藤新一であったならば、意識のない人間を着替えさせ寝かせるくらい少々の苦労で済んだだろうが、この身では腕の一本も重いもので、ようやく毛布をかけた頃にはすっかり息が上がっていた。

 女性に対して重いなどと、はなはだ失礼であるが。

 しかしそのお陰で、羞恥と罪悪感はすっかり薄れていた。

 だから『コナン』に感謝というのは中々面白いもの。

「面白くねーよ……ったく」

 げっそりとやつれた顔でため息をひとつ。

 寒くないだろうかとつま先まで確かめ、しばし見つめてから、コナンはお休みと声をかけた。

 自分のベッドにもぐり込み、恐る恐る頬に触れる。

 

 新一もコナン君も、わたしのものだもん

 そしてわたしは、新一とコナン君のもの!

 

 途端によみがえる彼女の声が鮮やかに耳の奥でこだまし、コナンは叫びと共に跳ね起きた。

「寝られっかよ……」

 途方に暮れうなだれる。上った血の気が頭の中でぐるぐる駆け巡り、ろくに息もつけない。おまけにひどい耳鳴りまでしてくる始末。

「欲張り女め……」

 隣のベッドで気持ちよさそうに眠る蘭を恨めしげに見やるが、その顔はすぐに、幸せに緩んだしまりのないものにかわった。

「そーだよ…俺はどっちも、オメーのもんだよ……」

 自分のもらした甘ったるい声に自分で震え上がり、眠れぬ夜の始まりに新一は天井を仰いだ。

 夜が明けるまであと数時間。

 明日、目を覚ました彼女に何と声をかけるべきか。

 おはよう、蘭姉ちゃん…それから?

 夜が明けるまであと数時間。

 考えるのはまた自分かと、新一は力なく息を吐き出した。

 

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