指差す闇の中に |
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「あれ、コナン君お風呂出たんだ」 居間の、いつもの場所に座りタオルで大雑把に髪を拭うコナンを見て、蘭は言った。少し驚いた声音で、少し責める風に。 探偵の耳はそれを敏感に聞き取ったはず…だがコナンは何も付け足さず短く頷いた。 「ああ、うん」 たった、短く。
依頼を受け外出し、昼間はそれなりにまじめに調査したものの、夕刻の訪れとともにいつもの面々と飲みに出かけてしまい不在の小五郎の…不在がくっきり際立つテレビの音も声も何もない静かな居間で、コナンが、風呂上がりの心地よさに一息ついていた。 あれ……? 心の中で蘭は小首を傾げた。 |
夕食後、いつともなく決まった順番で、時間はまちまちではあるけれども毎日必ず、先に入浴を済ませた彼が「蘭姉ちゃん、お風呂どうぞ」と知らせに来てくれるのに…今日はそれが何故かなかった。 ドア越しの物音で気付き、ドアを開けて初めて知る。 いつも言いに来てくれるのにと不思議に不審に思いながら「もう出たの」と言えば、彼の返事は「うん、そう」と何とも素っ気ないもので、蘭はまた少し首を傾げ部屋の中に取って返した。 「じゃあ、私入ってきちゃうね」 ほんの少し居心地の悪さを感じながらとりあえず飲み込んで、着替えを手に部屋を出る。 「あ、蘭姉ちゃん待って」 風呂場に行きかける蘭を呼び止め、コナンはこっちこっちと手招きした。 「ちょっと、ここ座って」 いつでも、彼の声は可愛らしい。推理を展開し披露する時はその限りではないが、いつも彼…コナンは、可愛らしい声で話す。 今はそれが、特に強調されている。 「なあに、どうしたのコナン君」 言われた通り、蘭は隣に腰を下ろした。 ちょっとばかりむずむずと、落ち着かない。 こういう声の時は何だったか。 「はいこれ」 差し出されたものを見て、蘭はぎくりと頬を強張らせた。 |
そうか、こういう時は―― |
「……なんで?」 差し出された体温計を凝視したまま、喉につかえる声で首をひねる。 笑ったつもりだが、きっとかなりぎこちなく映っているに違いない。 「蘭姉ちゃん」 一段低い声で、コナンはわざとゆっくりめに名を綴った。 「触って確かめなくても、見て分かるくらい出てるんだよ」 だから今日はお風呂はダメ もう一度体温計を差し出し、じっと目を覗き込む。 見透かす眼鏡越しの鋭い青に、おどおどと蘭の瞳が揺れた。ほどなくよそへ逸らされる。 「はぁい。……もう、コナン君は何でもお見通しなんだから……」 言うなり蘭は立ち上がり、着替えをしまいに部屋に向かった。 さっと立ち上がれる様子からみて、今はまだそれほど身体に響いていないのだろうと、コナンは判断した。 その一方で、まるで顔を隠すような早さだったとも訝る。 わざと出した拗ねた声が、妙に気にかかった。 いつもと同じく、微笑ましい声に違いはなかったが…響きがほんの少し不安に引っかかった。 思えば、今日は朝から、常と様子が違っていた。だから体調を崩した事に気付いたのだが、それの他に、彼女が隠そうとしている何かがある。 何か…三人でいても埋めきれない悲しさに陥ったものが。 苦しく思案していると、開け放った扉を越して蘭の呼ぶ声がした。 「コナン君……」 今にも消え入るかすれた声音にコナンはすぐさま駆け寄った。 「どうしたの?」 ベッドの脇に座り込みうなだれる蘭の背中に、恐る恐る呼びかける。ここに来るまでの数歩の間、彼女の中でどんな変化があったのだろう。 「コナン君…わたし、おかしくなっちゃった……」 途方に暮れた様子で、蘭はぽつりと呟いた。 顔を見なくても、ほろほろと涙を零しているのが分かった。 途端に心臓がぐっと締め付けられる。 「どこか痛むの?」 肩越しに顔を覗き込み、震える唇で問いかける。 「ううん……」 「さっき…ボクが強く言ったから?」 「違う……」 ならば学校で何かあったのか、行き帰りで嫌な思いをしたのか、商店街での買い物で困った目に遭ったのか…彼女の一日を追って尋ねる。 蘭はそれらに違う、違うと首を振った。 思い付くのは一つになる。 震える喉に息を飲み込み、コナンは出来れば口にしたくない問いを口にした。 「何か……悲しいの?」 それにも蘭は首を振った。その心配はしなくていいとゆっくり大きく。 「悲しいのでもない…でも……泣きたくなってしょうがないの」 そういう間にもほろりほろりと零れ出る涙を、蘭は困惑の表情で何度も拭った。 少し腹立たしく思っているようにも見て取れた。 何が原因で、こんなに後から涙が押し出されてくるのか…理由が分からないのが腹立たしい。仕草でそう訴えながら、蘭は眦を拭った。 「どうしちゃったんだろう……」 これ、なんだろう? 拭った指先の涙をじっと見つめ、蘭は小さく身震いを放った。 うずくまる女の肩におずおずと手を置き、コナンは一つの提案をした。 「……蘭姉ちゃん、止まらないなら、思い切って泣いてみるといいよ」 声に、蘭はほんのわずか顔を上げた。 「ボク向こう行ってるから、遠慮せずに思い切ってさ、ね?」 そう言って離れようとする少年を、吐息ほどの声で引き止める。 「ダメ……コナン君…傍にいてくれないとダメ……ダメ?」 「ダメじゃないよ」 コナンはハンカチを取り出すと、顔を見せたがらない彼女に触れぬよう出来るだけそっと涙を拭ってやった。 「ごめんねコナン君……」 ほんとうに 大人しく身を委ね、蘭は小さく鼻をすすった。 今にも消え入りそうな声にふと笑いかけて励まし、コナンは落ち込む心をすくい上げようと言った。 「きっと、熱が出て身体が弱って、いつもの疲れが全部出ちゃったんだよ。蘭姉ちゃん、いつもすっごく頑張ってるでしょ」 頬も眦もまつ毛も優しく丁寧に拭ってくれる手に眉根を寄せ、蘭は首を振った。 「コナン君が……手伝ってくれてるから、そんな事ないのに」 疲れるなんて、そんな事ないのに 「蘭姉ちゃん……頑張ってるよ」 言いながらさりげなく横顔を覗き込み、泣いているせいでやや判別のつきにくい顔から病の度合いをはかる。頬や口元に浮かぶ疲れは見るも痛々しく、鈍く胸を刺した。 「だから今日は、思いっ切り泣いちゃおうよ。たまにはいいじゃない。そんな日があっても」 力強く彼女を受け止めてやれる腕もない自分がよくも言うと無力さに苛立ちが募るが、今出来る精一杯をやるだけだと強引に振り払う。 ここで、自分が出来る精一杯をやるだけだ。 この二人で…三人の為に。 「ね……蘭姉ちゃん」 ハンカチを受け取り、やや置いて、蘭はほんの小さく頷いた。 「コナン君……ここに座ってくれる?」 俯いたまますぐ傍のベッドに手を乗せ、促す。 「わかった」 言われた通りコナンが座ると、蘭は膝にもたれるように身を寄せ預けた。 ぎこちなくも、精一杯甘える蘭に、胸の深い場所から愛しさが湧く。 彼女の重みを心地よく受け取り、ふとコナンは気付いた。 間近になっていつも感じる照れ臭さが、今は不思議となかった。 「……」 コナンの役目を果たすべき時だからだろう。 |
自分が以前に言った言葉―― 彼女が元気でいられるように いつも笑っていられるように 楽しく暮らせるように |
自分と、自分に代わって全力で彼女を守る為のコナンとが、力を果たすべき時。 ごく自然に手が動き、蘭の髪を撫でる。 もう大丈夫だよ そっと呼びかけ、親が子を慈しんで撫でるそれと同じに、彼女の拉がれた心を懸命にあたためる。 喉の奥で頷き、蘭は大きく喘いだ。 最初は嗚咽にこらえていた泣き声が、じきに、しゃくり上げるそれにかわる。 声をかける事はせず、コナンはただ静かに泣く声を聞いていた。まっすぐで艶やかな黒髪をゆっくりゆっくり撫で、静かに時を数える。 悲しいものとは違うと彼女は言うが、本当のところは分からない。彼女にも分からないのだろう。 何が涙を押し出すのか、分からない。 いくつもの理由が入り混じっているのか、ほんとうに何もないのか。 理由があるとすれば、自分もその一つだ。 あるいは自分だけかも、しれない。 ならばその張本人が、泣く人を慰めるとは…なんてひどい暗闇に彼女を連れ込んでしまったのだろう。 鼻先にある自分の手も見えない闇の中で、闇は危険の塊で、出口どころか進む道すら見えない。 何を指して大丈夫と言うのだろう。 指標もなく、足元さえ覚束ないのに、何を大丈夫と言うのだろう。 どうしてこんなところに彼女を、引きずり込んでしまったのだろう。 「ごめんな……」 何かのおそれに震え上がり、新一は半ば無意識に言葉を零した。 呼気に紛れて消えたそれを、消える前に蘭は拾っていた。微かに肩を竦ませ、喘ぎ喘ぎ訴える。 「ひとりに……しないで」 いつか船上で投げかけられた言葉が、再び互いの間に舞い戻る。 コナンは小さく息を飲んだ。 今になって、あの言葉の意味を正しく理解した…気がした。 自分を独りに置くなと、蘭は言ったのだろう。 何もかも一人で背負い、覆い隠して、誰に知らせる事無く死の危険に飛び込むような真似をするなと。 そうだったのか…開きかけた唇を引き結ぶ。 「コナン…君……」 零れた涙を拭いとって整え、泣いた顔を恥ずかしそうに伏せて振り返り蘭は告げた。 「さんにんで…行こうよ……」 おずおずと、泣き濡れた瞳が向けられる。 赤く染まった眦が痛々しく腫れていた。コナンは新しいハンカチを取り出すと出来るだけそっとあてがってやり、小さく、強く言った。 「……そうだね、蘭姉ちゃん。ごめんね、三人で行こう」 「連れてってくれるんだよね……?」 一緒に 大人しく身を委ね、蘭は恐々と聞いた。 過日の酔っ払いのたわごと…渡す時と場所を完全に見誤った一言が、コナンの息を跳ねさせた。ほんの少し気が遠のくが、時と場所は完全に失敗だったとしても渡したかった一言を渡したのだ、そして彼女は受け取った。満足している。 「うん、一緒だよ」 確かに頷いて髪を撫でる。 大丈夫、絶対に守れる…守る。 こんなにも自分を守ってくれる彼女を。 「どこへ行くのかも分からない…でもわたし……コナン…君となら……」 どこへでも行けるよ 遠慮がちに頭を膝にもたれさせ、蘭は安心しきった様子で目を閉じた。 見下ろす先の、すっかり腫れてしまった目元をいたわるように見やり、コナンはそっと尋ねた。 「どこか…痛いところはない?」 やや間を開けて、蘭は首を振った。 「ちょっと、頭痛いけど……コナン君が撫でてくれたから平気だよ」 だからもっと撫でてほしいと言いたいが言えない彼女の声に、コナンは小さく笑って髪をすいた。 「もう涙は出ない?」 「うん……もう引っ込んだ」 恥ずかしそうに答えて、蘭は大きく息をついた。 「ありがとねコナン君……ほんとうに」 すごく楽になったよ 囁いて、蘭は緩く笑みを浮かべた。 無理につくるそれではなく自然に零れた笑顔に心底安堵して、コナンは言った。 「良かったね。じゃあ…もう寝ようか」 「え……もう少しこうしてたい……」 彼女がすぐにうんと言わないのは予想していたが…そんな事を言われたなら、とことんまで甘やかしたい。胸中激しくぐらつくが、ここで引いては彼女を守れないと必死に奮い立たせ、強い唇で言い渡す。 「ダメだよ、具合が悪いの――」 コナンの言葉を途切れさせたのは、ただひたむきに見上げる女の眼差しだった。 それはねーよ…そんなの反則だ どんなに心を鬼にしようとも、彼はこれに勝てない。 残りの言葉をあっさり噛み砕いて、コナンは情けない顔で口を閉じた。 実のところコナンも、膝に感じるあたたかい重みを離しがたいと思っていた。こんな風に甘えてくるなんて滅多にないから、彼女の気の済むまで傍にいたいと思うのだが…それは同時に負担にもなる。守るようで守っていない矛盾は承知の上だが、この時間はどうにも手放しがたかった。 「でも…寝る。コナン君困らせたくないから……」 何とも切ない声が蘭の口から零れる。 「いや…蘭姉ちゃん疲れちゃうから、それでね……」 無理やりに目を逸らし、蘭は身体を起こした。 お互い、触れていた個所に通っていた熱を失い心が寂しがるのを感じていた。 もう寝ろと言って動かない。 もう寝ると言って動かない。 笑いたいような、泣きたくなるような、手探りで進むしかない時間が二人の間を通り過ぎていく。 指標が欲しかった。どんなに足元が覚束なくとも遠くとも、目指す何かが欲しかった。その何かがあれば、三人でならたどり着ける。 そしてそれは…自分だけでは見つけられないのだと、コナンは悟った。悟って、突かれたように蘭を見る。 「ねえ、蘭姉ちゃん」 気付いた時にはもう呼びかけていた。 そうだ、彼女だ。 彼女が持っている。 少し響きの変わった声音に、蘭はためらう事無くコナンを見やった。 「くじ引きする時、いつもどっちの手でやってる?」 あまりに唐突な質問に面食らい、微かに眼を眇める。 「ごめんね、教えて。どっちの手?」 「え、え……利き手…右手よ……」 おっかなびっくり右手を上げる。 「そっか。じゃあ、右手で、蘭姉ちゃんの閃いた方指してくれる?」 「……なあに?」 混ざる新一の眼差し、微笑に、しょうもなく胸が高鳴った。 「いいから指して、ぱっと閃いた方」 見つめる強い青の瞳に後押しされ、蘭は一つ頷くと迷わずまっすぐ前を指差した。 まっすぐ正面、少し上向き。 「そっちへ行こう。そこが出口だよ」 「出口……!」 蘭は何度も瞬きながら自分の指先が示す方を見つめていた。 コナンも同じ方を向き安堵する。 まったくのでたらめだが、彼女が指したものに間違いはない。今ここに必要なものだ。この先の為に是非とも必要なもの。 「わかった……」 吐息で熱く頷き、蘭は引き寄せた右手をまじまじと眺めた。 「でもなんで私の右手なの?」 それにくじ引き? 「だって、蘭姉ちゃん、その手でいつもすごいもの引き当ててるじゃない」 「そ、それでなの……?」 「そうだよ」 自信たっぷりに頷くコナンに、一拍遅れて笑い出す。 きっと笑われてしまうだろうと予感はあったので、少し気恥ずかしそうにしながらもコナンはそうなんだときっぱり言った。 強気の瞳に蘭は口を噤んだ。 「……コナン君でも、そんな、あやふやな事する時あるんだね」 「……前に…変な夢を見た時、この手に助けられたから」 少し照れ臭そうに、それでも目線は逸らさずにコナンはふと笑った。 「ああ……そうだね」 そこからしばし無言が続いた。 お互い真っ向からの視線を熱っぽく絡ませ、言葉以外で会話する。見下ろして、見上げて、それだけで満足する。しかし二人はまだまだ…単なる未熟者。 不意に訪れる瞬間を乗り越えられず、激しい動揺に真っ赤になって目を逸らす。 「あ、あ……わたしもう寝るね」 「そ…うん、あったかくして寝てね」 あたふたと言葉を交わしながら片方はベッドに潜り込み、もう一方はベッドから離れて、忙しなくお休みお休みと繰り返した。 早足で戸口までかけたコナンだが、部屋の明かりを落とすと少し気持ちも落ち着き、ため息で一旦区切って気を取り直し振り返る。 その視線は、探す事無くまっすぐに、ベッドの中からうかがっていた蘭をとらえた。 同じタイミングで二人が笑う。 暗がりの中、蘭はそっと声を上げた。 「ねえコナン君……」 「うん、なあに?」 コナンもそっと返す。 「泣いたから…明日顔がブサイクになってても笑わないでね……」 「笑わないよ」 「絶対よ…コナン君」 「絶対笑わない」 「約束ね……じゃあお休み」 「お休み、蘭姉ちゃん」 小さく手を振る彼女に振り返し、コナンは静かに扉を閉めた。 完全に扉のこちらと向こうになる寸前、ほんの微かに蘭が「ありがとう」と囁いた。 そっと「大丈夫」と返し、扉の向こうにいる愛しい人に微笑みかける。 |