酔っ払いのたわごと

 

 

 

 

 

 風は涼しく爽やかで、空には白い雲が二つ三つ浮かんでいるちょうどいい晴天。

 日向ぼっこするには少々陽射しが強いが、窓という窓を開け放ち、埃を追い払って掃除するにはおあつらえ向きの日和の土曜日の遅い朝、蘭とコナンは、揃って事務所の掃除に勤しんでいた。

 事務所の主である小五郎はほとんど動かずに、いつものごとくデスクにどっかと陣取り競馬新聞なぞを読んでいた。

 それでいて全く非協力的というわけでもなく、デスクを拭くので蘭が声をかければ、灰皿を持ち上げ電話機を持ち上げ、掃除機をかけるのでコナンが声をかければ、座ったまま椅子ごと右に左に移動した。

 終了後、掃除機を片付け雑巾を洗いごみの袋をまとめて…二人半の作業ですっきり片付いた頃合に、事務所の電話が鳴り出した。

「はい、毛利探偵事務所――」

 迷える依頼人に向けて出した声音が、途中で一転する。

「おお、長谷ちゃん!」

 親友に向けるそれにかわった声、名前を聞いて、蘭とコナンは同じタイミングで顔を見合わせた。

 ハセちゃんこと長谷川氏…小五郎の麻雀仲間としても馴染みの深い人物だ。

 そう長くない会話の後、小五郎は受話器を置いた。どうやら、これから事務所に寄りたいので都合がいいか確認の電話をしてきたようだ。用件は言わなかったようで、いつもは麻雀か飲みの誘いかで外へ連れ出すのに珍しい事もあるものだと、小五郎が小首をひねる。

「お父さんに、何か相談でもしたい事があるのかしら」

 事務所に来たいというのだから、その可能性はある。

「ああ、けど長谷ちゃん、そんな深刻そうな声はしてなかったなあ」

 何か、えらいはしゃいでニヤニヤした感じだったぞ

 聞きながら、コナンはふうんと顎に手をかけた。

 友人に、用件は言わないがニヤニヤはしゃいだ声で今からそっちに行く、か。

 単純に考えるならば、何か珍しいものが手に入ったのでそれを見せたい、あるいは贈りたい、であろう。

 長谷川氏は、特に天の邪鬼とかひねくれた人物ではない、たびたび徹夜で麻雀に誘うのは少々困りものだが、気さくでよく笑う優しい気性をしている。

 とすると、やはり。

 半時間後、コナンの推測は当たる。

 

「おい…これ、幻の焼酎じゃねえか! 中々買えねえ上にバカ高い……いいのか長谷ちゃん!」

 驚き一色の顔で、小五郎は一升瓶を持ち上げた。事務所にやってきて早々長谷川から手渡された、入手困難な『幻の焼酎』を信じられない面持ちで眺める。

「ああ、この前、あんな事件に巻き込んじゃったからなあ……そのお詫びって事で、受け取ってくれよ毛利ちゃん」

 長谷川の指すこの前…それは東京郊外のある邸宅で起きた事件。長谷川の友人が、自殺に見せかけて兄を殺害したのだ。

「でもありゃあ……お前だって大変だっただろう」

 応接テーブルをはさんで向かいのソファに座った長谷川に気遣わしげな視線を送り、小五郎は低く言った。

「まあな……けど、眠りの小五郎の友人としちゃ、あれくらいどってことないよ、毛利ちゃん」

「どうぞ」

 そこへ、蘭がよく冷えた麦茶を振る舞う。

「お、ありがとう。それで二人には、美味しいって評判の、チョコレートの詰め合わせを持ってきたんだ」

 脇に置いた紙袋から平たく細長い箱一つを取り出し、並んで立つ蘭とコナンに向けて差し出した。

「うわあ、ありがとうございます!」

 揃って声を張り上げ礼を言い、蘭はコナンに、コナンは蘭にさりげなく目配せした。お互い、相手の顔に少し引き攣った笑顔が浮かんでいるのを見る。

 誰かさんのせいで、少々チョコレートが苦手になっているようだ。こっそり苦笑いを零す。

「長谷ちゃん、これ、手に入れるの大変だったろ」

「ああ、そのせいでちょっと遅くなったけど、毛利ちゃんにはいつも世話になってるからな、ちゃんとお詫びはしとかないとな」

「まったく、見た目に反して義理堅くいい男だよ長谷ちゃん」

「おいおい、見た目に反しては余計だろ」

 二人ははははと声に出して笑った。

 その後十分ほどで話を切り上げ、長谷川は、この後用があるからと手を上げて事務所を後にした。

 何度も礼を言って見送った小五郎は、自分のデスクを振り返ると、確かにそこにある幻の焼酎に顔中緩ませ喜びを表した。

「さっそく今夜飲むぞ!」

 とろけた声を張り上げる小五郎の背中に呆れた視線を送りつつも、嬉しそうな人を見れば同じく嬉しくなるもの。やれやれと肩を竦めながらコナンは小さく笑った。

 

 

 

 陽もすっかり沈む頃になると、空気はがらりと変わり肌寒さが感じられた。

 夕飯の手伝いをするとコナンがキッチンに足を踏み入れた途端、流しで手を洗っていた蘭がくしゃみをひとつ、ふたつ。

 コナンはスリッパを響かせて脇に立つと、すんすん鼻を鳴らす蘭に言った。

「蘭姉ちゃん、上着た方がいいかもね」

 昼間の薄着のままでは、さすがに寒いだろう。長袖のものを一つ羽織った方がいいと提案する。

「うーん、これくらい平気よ」

 大した事ないとにっこり笑う彼女に、コナンは同じ言葉を少しゆっくり目に綴った。

「上、着た方が、いいかもね」

「……はいはいわかりました。何よ、コナン君だってにこにこしながら強引じゃない」

「蘭姉ちゃんのまねだよ」

「あーそう、そっくりねー」

 しれっと答えるコナンにわざと憎たらしく笑い、蘭は渋々自室に取りにいった。

 歩き去る後ろ姿に、ため息をひとつ。

 彼女を守るのはひと苦労だ。

 

 

 

「くうぅ……うまいっ!」

 息を詰めに詰めて一気に吐き出し、小五郎は涙を流さんばかりに絶賛した。手にはもちろん、幻の焼酎を注いだグラス。

 飲み方は様々、これと決まったものはなく、自分の好みに合う方法で楽しむのが一番との事で、小五郎はまずぬるめの湯で割ったものをいただいていた。

「ああ……本当に、しみじみ美味い!」

 またこのつまみがよく合うと、ひょいひょい口に運んでは焼酎をちびり…堪能していた。

 その横では、夕飯を済ませくつろぐ蘭とコナンが、夕刊の記事を順繰りに読み進めながら他愛ない会話を楽しんでいた。

「あ、ほらほら見てコナン君、探偵左文字シリーズの最新刊が来月出るって!」

「うん、さっき見たよ。今からもう楽しみなんだ!」

「なんだぁ、もうチェック済みか。さすが推理オタクね」

「えへへ……」

 二人に向けたささいな嫌味に小さく苦笑いして、コナンはテーブルにある湯飲みを手探りで掴んだ。口元に寄せ一口傾けた瞬間、その場にいた三人は視線を一点に集中させた。

「!…」

「おい……!」

「コナン君!」

 気付いた時には、小五郎がちびちびと楽しんでいた焼酎を一口分飲み込んでしまっていた。

 ごほ、とせき込み、コナンは慌てて口を押さえた。途端に喉元がかっと熱くなる。まだ口の中に含んでいる度のきついアルコールをどうすべきか途方に暮れていると、素早く小五郎がコップを取り上げ布巾を前に置いた。

「出せ出せ、ほら、早く! 蘭、水持ってこい!」

「うん!」

 背中を叩く小五郎の手に促され、コナンは布巾の上に焼酎を吐き出した。激しくむせる息の合間に、何度も小五郎に謝る。

「んなこたいいから、ほら、とっとと水飲め!」

 渡されたコップの水を喘ぎ喘ぎ飲み込み、どうにか息をつく。

「ごめんなさ……おじさん…せっかくの……」

「いいってんだよ、それより、どのくらい飲んだか分かるか?」

「ホントに、ひと口……」

 この身体で飲み込めるひと口はごく少量だが、そのひと口が命取りになる事もある。

 全身が熱を帯びだるく重くなっていくのを感じながら、コナンは水を飲みほした。

「お父さん……」

 明らかに変わったコナンの息遣いを心配げに見やり、蘭はどうしようと小五郎を振り返った。

「まあ、すぐ吐き出したからそう飲み込んじゃいねえだろ。とりあえずは様子見だな」

「ホントに……ごめんなさい…おじさん」

「いいっつってんだろ、ガキがしつけぇぞ」

 つっけんどんに言いながらも、小五郎はコナンの汚した布巾を気にもせず流しに持っていき、新しいのを手に取って返しテーブルを拭き始めた。

「オメーは邪魔だから、隅っこ行って座ってろ」

 言うなり壁際に乱暴に座布団を敷き乱暴にコナンを座らせ、前にしゃがみ込む。

「吐き気は?」

「ない……」

「寒気は?」

「ないよ……」

 少し息が苦しいだけとコナンが答えると、小五郎は額に手を当てた。

 大きな手…父親の手が、じわりと沁みる。

「まあ…一時間もすりゃ良くなるだろ。蘭、しばらく様子見ててやれ」

「うん……」

 傍でおろおろと様子をうかがっていた蘭は、自分の座布団をコナンの隣に置き並んで座った。

 直後、小五郎はああともわあともつかない素っ頓狂な声を上げ、あたふたとテレビのリモコンを引っ掴んだ。

「ヨーコちゃんのドラマ!」

 大急ぎでテレビの正面に座り、毎週欠かさず見ているひいきのアイドル主演の連続ドラマに釘づけになる。

「大丈夫コナン君……?」

「うん……口付けた時に気付いたから、ホントにちょっとしか飲み込んでないよ……まあ…ちょっと酔っぱらった状態になるけど、心配ないから、大丈夫だよ……」

 不安そうな眼差しに笑いかけ、コナンはいつものように調子付いてうんちく語りを始めた。しかし、いくらも喋らない内に蘭の手により強制的に終了となる。

「苦しいのに、喋らないの」

 上下に唇を摘まんでぎゅっと押さえる。

「ふぁーい」

 押さえられた指の下で、コナンが返事をする。

 ほろ酔いのせいで普段より饒舌になると今聞いたばかりだが、はあふうと息をしながら喋られては、こちらまで息苦しくなる。

 その癖、何とも楽しそうなのが癪に障るやらおかしいやら。

 今日は酔っ払いが二人か…まったくもうと蘭は心の中で肩を竦めた。

 

 

 

 酔っ払いの片方は、ドラマのエンディングテーマが流れ終わると同時に「ヨーコちゃん!」と満足げにばったり仰向けに倒れ、すぐにそのまま、心地良さそうにいびきを上げ始めた。

 もう一方の酔っ払いは、口を摘ままれお喋りを封じられてからは特に何も話さず、時折蘭が様子を尋ねるのに応える以外は口を噤み、壁に寄りかかったままとろんとした目でテレビの画面を見やっていた。

 ドラマを見ていたのかただ目を向けていただけか、妙ににこにこと…否にやにやと楽しげに顔を緩ませ黙って座っていたコナンだが、小五郎がばたんきゅうの勢いで寝入ってしまう少し前から、くうくうと静かな寝息を立て始めていた。

 蘭は横から顔を覗き込み、しばし様子をうかがった。苦しげだった呼吸も大分落ち着き、顔色もそう悪くは見えない。そもそも一番分かっているはずの本人が何も言わなかったのだ、そう深刻にとらえる事もないのだろう。

 ほっと肩を落とし、すぐにはっと肩を強張らせ、蘭は苦笑いで二人の酔っ払いを交互に見た。

 さあ、まずどちらを先に運ぼうか。

 もう一度二人を見やり、蘭は布団を敷きに小五郎の寝室に入った。コナンの寝床を整えパジャマを手に戻ると、射るように鋭く見据える彼と目が合った。

 寝ているとばかり思っていただけに、余りの険しさに一瞬ぎょっとなる。どうしたのかと見直した時にはもう、視線は緩んでいた。

 何かを心配し、それが杞憂だったと安心したような移り変わり。

「大丈夫? どこか具合でも悪いの?」

 パジャマを手渡しながら尋ねるが、受け取ったコナンは何でもないと曖昧に首を振るだけだった。

 着替えを済ますと、千鳥足とまではいかないがまっすぐとも言い難い足取りでふらふらと寝室に向かい、崩れるように横になった。

 傍でひやひやしながら見守っていた蘭は、傍に膝をつき毛布をかけてやった。

「大丈夫?」

 尋ねれば、にこにこと何とも楽しそうにコナンは答えた。

「うん、へーき。蘭姉ちゃんは? カーディガン着たから、もうさむくない? だいじょーぶ?」

「うん、コナン君に言われてちゃんと着たから、寒くないよ」

「よかった、かぜ、ひかないようにね、あったかくして寝てね」

「うん、ありがとコナン君」

 笑顔で答えながら、このしつこさは酔っ払い特有だとこっそり肩を竦める。

「じゃあね、お休み……」

 言って立ち上がろうとした瞬間、何か小さな抵抗をカーディガンの裾に感じ蘭は再び膝をついた。

「待って蘭ね……――行くな…蘭……行かないでくれ……」

 吐き出す息に紛れるほど微かな声が、耳をかすめる。途端、首筋の辺りにぐっと熱が上がり心臓が破裂しそうに跳ねた。

「!…」

 突き動かされて振り向けば、服の端を掴み必死に懇願するコナン……新一の姿が目に入った。

 ほんのわずか眉をひそめ、蘭は俯いた。

「なによ……」

 震える声で絞り出す。

「……なによ…自分は私の事置いて……勝手に走って行っちゃったくせに……」

 間近の自分の声を聞きながら、何故こんな事を言っているのだろうと不思議がる。

 いつも、唐突に、前触れなく現れる新一に驚き戸惑いながら、もう一方ですんなりと受け入れ横に立ち、言いたい事を言いたいまま口にする自分の中の二つ。

 せめぎあいながらも混じりあい、蘭は衝動を投げ渡した。

「私の事……置いてったくせに……」

 責めるものとは違う響きで囁く。

 新一に。

「悪かった……本当に…オレ……だからもう…絶対……連れて……」

 途切れ途切れ紡がれる言葉を、蘭は瞬きもせず耳に刻み込んだ。

 アルコールによって半ば意識が揺らいでいるせいか、ひどく聞きづらい断片ばかりだったが、残りは彼の眼差しが教えてくれた。

 もう絶対に置いていかない

 連れていく

 必死に訴えているそれを見て、蘭は泣きたくなるほどの喜びが込み上げてくるのを胸に熱く感じた。

 酔った勢いだろうが酒の力だろうが、ここにあるのは本音だけ。先刻彼がつらつらと語ったものからすれば、これは紛れもない本当の言葉。

 彼の中にずっと変わらずある想い。

「絶対だよ……」

 新一

 今は呼べない名前をのみ込み、代わりに両手で彼の手を包む。

 自分より小さくて、熱くて、なのに誰より頼りになる無敵の手を。

 わーっと叫びたい気分だった。

 欲しかった言葉をひとつもらったのが嬉しくて、飛び上がりたい気分だった。

 今まで数え切れないほど言葉以外で受け取り満たされていた。そこに積み重ねられた言葉ひとつが、更に喜びを大きくさせる。

 連れていく

 ついていく

 絶対に

 緩んで戻らない頬をおかしく思いながらそのままに新一を見れば、いつの間にか眠ってしまっていた。意識がないのに驚くほど強い力で、裾を掴んだまま。

 ほどこうとして思いとどまる。とても出来っこない。

 カーディガンの端を握り込み気持ちよさそうに眠る新一…コナンを困った顔で見やり、蘭はしばし思案した。

 居間で眠り込んでしまった父親をそのままにしておくわけにもいかない。

「……もう、酔っ払いどもめ」

 小さく零すその顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 喉の渇きにせっつかれ目を覚ますと、枕元の時計は夜中の二時を指していた。

 時計の横には、未開封の水のボトルが一本置かれていた。キッチンまで行くのは億劫と思っていたところにこれはありがたいと、コナンは深く考えずボトルに手を伸ばした。と、何かを握っているのに気付き、これまた深く考えず手を離して、改めてボトルを手に取る。そして半分ほどを一気に飲み干しふうと息をつく。

 しょぼつく目を瞬きながら、何故喉が渇いて、何故水のボトルがあって、何故身体がだるいのか…徐々にはっきりしてくる頭に舞い戻る経緯と寝際の会話に、コナンは夜中だというのも忘れてうろたえ素っ頓狂な声を上げた。はずみでボトルの中で水がちゃぷんと波打つ。

「どうしたコナン!」

 と、それまでふがふがと気持ちよさそうに寝息を立て眠り込んでいた小五郎が突如がばりと起き上がり、血相を変えて顔を覗き込んできた。

「うわ! え……な、何でもないよ……」

 そう言う間に、額に手が伸ばされる。

 何と優しい父親の手。

 耳の奥でうるさく走る鼓動を何とか落ち着かせ、間近の怖いほど真剣な小五郎に大丈夫だよと答える。

「……ったく、脅かしやがって…まだ二時じゃねえか。朝まで寝てろ」

「はい…ごめんなさい」

 小さく謝る。

 やれやれと零しながら、小五郎はベッドにもぐり込んだ。そしてわずかもしない内に、ふがふがと寝息を再開させる。

 相変わらず寝るのはえーな……

 寝入ったのを見届けて、コナンはふうと息をついた。

 舞い戻った静寂の中、酔っ払いのたわごとを思い出す。

 よくもあんなたわごとを……いやいや、でたらめでもないし馬鹿げてもいない。間違いなく本気で、本当に自分の中にあるものだ。ここに嘘偽りはない、誓ってもいい。

 しかし。

 あんな時にあんな風に出してしまうなんて、自分はなんて――。

 新一は頭を抱えうなった。

 と、次第に暗闇に目が慣れて、毛布の他にもう一枚何かがかけられているのに気付く。

 長袖のこれは…嗚呼、蘭のカーディガンだ。

 自分はこれを握って、引き止めて――。

 また声を上げそうになる。

 寸でのところで飲み込み、新一は天井を仰いだ。

 夜が明けるまであと数時間。それまでに、考えておかなければ。

 起きてきた彼女に何と声をかけるべきか。

 おはよう、蘭姉ちゃん…それから?

 夜が明けるまであと数時間。

 新一は力なく息を吐き出した。

 

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