陽射しに…

 

 

 

 

 

 小五郎の寝室、ベッドの横に敷かれた布団に身体を起こし、パジャマ姿のコナンが神妙な顔付きで蘭を見ていた。

 一方の蘭も、これまた神妙な顔付きでコナンを見つめ口を噤んでいた。

 どちらの顔も、心なしか赤い。

 蘭の右手には白いレンゲ、左手には玉子粥を盛った小鉢がそれぞれ握られていた。

 お互い喋れないわけは、コナンの右手に巻かれた包帯と、蘭の持つ玉子粥の小鉢にあった。

 

 

 

 

 

 阿笠博士ご自慢の黄色いビートルに、キャンプ道具を一式積んで、少年探偵団が山菜取りに出かけたのは土曜日の朝。

 予定では日曜日の夕方に帰るはずだったが、ちょっとしたアクシデントのせいで、六人は日曜日の早朝米花町に戻る事になった。

 事前に博士から連絡を受けていた蘭が、事務所の前に出て黄色い車が到着するのを待った。

 今日は小五郎は、とある事件の調査で出かけており夜まで帰らない。

 ちょっとしたアクシデント…探偵団の一人が、山菜取りに夢中になるあまり急斜面に気付かず、足を滑らせ沢に転落しそうになった。それを、直前で気付いたコナンが入れ替わる形で沢に落ち、右手を捻挫してしまった。

 少々の怪我なら、知識のある彼のこと、応急処置で難無くやりすごせるが、少し気の早い水浴びのせいで体調を崩してしまったのだ。

 すぐに身体をあたためたが、テントで一晩過ごしたのがよくなかった。

 事の顛末に、蘭はやれやれと肩を落とした。

 実に彼らしいアクシデント――心配しながら、小さく笑う。

 やがて見えた黄色い車に、蘭は目を凝らした。

 近付くにつれ見えてくる、助手席の小さな彼。毛布を肩にかけ、少しばかり疲れた様子で座っている。

 それでも、こちらを見とめた途端合図のように微笑みを送る。

 二人…三人だけの秘密。

 チカチカと瞬きを繰り返しながら、ビートルは停車した。

 まず先に降りた博士が、ひたすら蘭に謝りながら、車を回りこむ。すると、後部座席に乗っていた光彦が弾かれたように飛び降りて、懸命に説明を始めた。

「ボクがいけないんです! ボクがあの時、もっとちゃんと周りを見ていれば、こんな事には……」

 今にも泣きそうに俯いて、光彦は口を噤んだ。

「光彦君……」

 そんな光彦を心配そうに見守る車中の子供たちに微笑み、口を開こうとした矢先、少し辛そうにしてコナンが車から降りた。

 首からつった右手の包帯が、なんとも痛々しい。

 けれど彼は笑みを顔にのぼらせ、

「別に、光彦のせいじゃねーよ」

 後悔する彼の気持ちを少しでも軽くしようと、「オレが、気付くのが遅かっただけなんだからよ」そんな事を口にした。

「コナン君……」

 気遣う一言に、光彦は目を潤ませた。

 そんな彼の肩に手を置き、蘭は言った。

「仲間だもの。困った時に助け合うのは、当然よ。もし立場が逆だったら、光彦君だって、きっと同じ事をしたと思うな」

「それは、そうです…けど……」

 蘭の言葉を継いで、コナンが言う。

「心配すんなって。ちょっと右手ひねって、ちょっと熱が出ただけ。どうってことねーよ」

 だから、もう気にするなよ

 肩を叩くコナンに少し顔付きを明るくして、光彦は頷いた。

「いつまでも外にいると、風邪をこじらせてしまうかもしれんからの」

 頃合を見計らって、博士が声をかけた。

「そうですね…」

 振り返りながら、光彦は車に乗り込んだ。

 博士はトランクからコナンの荷物と大きなビニール袋を一つ取り出すと、蘭に手渡した。

「こんなに取れたの? すごいじゃない」

 ずっしりと重い袋に、蘭は目を丸くした。

「頑張って一杯取ってきてねって、蘭姉ちゃん言ってたじゃない」

「ありがとう、コナン君」

 少し自慢げに笑う少年を見下ろし、蘭は満面の笑みで礼を言った。

「じゃあ、コナン君…どうかお大事に」

「ちゃんと、あったかくして寝ろよ」

「おいしいもの、一杯食べればすぐに治るよ」

「……お大事に」

「ああ、サンキューな」

 口々に励ます彼らに手をあげ、走り去るビートルを見送る。

 子供たちの前では少々無理をしていたのか、笑顔のまま、コナンは肩で息をついた。

 と、背後から伸びた手が、額を優しく覆った。

「あ……」

 熱を確かめる手に、少々気まずい顔になる。

「明日になったら、ちゃんとお医者さんに診てもらった方がよさそうね」

「ああ…うん」

 心配する肩越しの声に、小さく応える。

「右手は、どうなの?」

 先に階段をのぼらせ、蘭は訪ねた。

「別に大した事ないよ。すぐに包帯で固定したし。熱もすぐに…下がると思うよ」

 明るい声を出してはいるが、それが、心配させない為の嘘だという事はすぐにわかった。

 ふらつく足下をごまかす為に、寄りかかるようにして壁伝いに階段を上っているのがいい証拠だ。

 息遣いも、随分荒い。

「布団敷いてあるから、着替えたらちゃんと横になってね」

「うん…ありがと蘭姉ちゃ……」

 ようやく三階にのぼりきり、振り返ると同時に、蘭が目線を合わせてしゃがみ込んだ。そのまま、こつんと額を寄せる。

「ら、蘭……」

 突然の事に、言葉を失う。

「しょうがないなあ、もう…カッコつけで無鉄砲で意地っ張りで……ホント、新一にそっくり」

 語尾を強調して、少し困った顔で笑う蘭に、なんと返すべきか迷う。

「まあでも、所構わずホームズの話しない分だけ、コナン君の方がましだけどね」

 冷静に考えれば、どちらもあまり大差ないといっている蘭の言葉に、苦笑いで応える。

「ところで、朝は何か食べた?」

 部屋へと促す蘭に、何もと首を振る。

「そう…でも、少しでもいいから何か食べないと…」

 言いかけて、蘭はそうだと手を合わせた。

「お粥なら、どう? 食べられそう?」

「うん」

「じゃあ、今すぐ作るから、横になって待ってて」

 いそいそと部屋を後にする。

 出掛けに振り返り、手にした山菜の袋を掲げもう一度礼を言う。

「ありがとね、コナン君。夜には、一緒に食べられるといいね」

 綺麗な笑顔を向ける彼女に、幾分身体が楽になる。

 

 

 

 言われた通り着替え、右手に気を付けながら布団に入ると、すぐに睡魔がやってきた。

 それでも、熱のせいで中々寝付けず、うとうとと浅い眠りを繰り返していると、やがて蘭が部屋にやってきた。

「寝ちゃった……?」

「ううん…起きてる」

 恐る恐る声をかける彼女に、目を閉じたまま応える。

「玉子粥、作ったんだけど……食べられそう?」

「ありがと……」

 静かに歩み寄る彼女を、ゆっくり見上げる。

 一番熱が高い時なのか、視界がやけにぼんやりと霞んでいた。

 何度か瞬きを繰り返し、起き上がる。

 すぐ傍に、心配そうに見つめる顔があった。

「……そんな顔しなくても、大丈夫だよ」

「もう…無理して」

 少し怒ったような顔で蘭が言う。

「ホントだよ……」

「そうかしら」

 膨れっ面で、脇に置いた玉子粥を小鉢によそう。

 その様子を、コナンは小さく笑って見つめていた。

 

 嘘じゃないさ

 だって――二人…三人でいるんだから

 

 彼女ほど、素直に伝えない自分が歯痒い。

 心の中で小さく肩を竦める。

 その一方で、何でそんなに怒るんだと文句も言う。

 お互いの心が優しく絡み合う。

「……はい」

 と、口元にひとすくいの玉子粥が差し出された。

「……え」

 慌てて目を上げると、まっすぐ見つめる蘭の瞳とぶつかり、思わず頬が熱くなる。

「い……いいよ」

 どもりながら首を振る。

「だって、右手使えないんでしょ?」

 出来るだけ平静を装いながらも、どこかで意識してしまい、ぎこちなくなる自分に顔を赤らめながら、蘭は言った。

「そ、そうだけど…いいって。左手で食うから……」

 うっかり新一に戻って、真っ赤な顔で遠慮する。

「でも……」

 戸惑う顔で、蘭が一旦手を引っ込める。

 自分で食べると言いながら、器に手も伸ばさない。

 口で言うほどには、本気で拒んでいない。

 

 嗚呼、彼女ほど素直に伝えない自分が心底歯痒い

 

 二人、しばし神妙な顔付きで互いを見つめる。

 やがて片方が口を開いた。

「あ……やっぱり、左手だと無理そう、だから……その……」

 口ごもるコナンに微苦笑を浮かべ、蘭はもう一度手を伸ばした。

 近付くなめらかな指にためらいながら、口を開ける。

 双方、優劣つけがたいほど頬が赤く染まっていた。

「ま、前にもこうして、食べた事あったじゃない」

 確かカレーを

 沈黙を追い払おうと、蘭は殊更に明るい声で言った。

「そ、そーだったな……あん時は、オレじゃなかったけど……」

 また、沈黙。

 一度目を越してしまえば、少しは恥ずかしさもなくなるかと思ったが、繰り返すほどに胸がどんどん熱くなっていって、何か喋らなければという焦りばかりが募る。

「早く……良くなってね」

 二口、三口と味もよくわからない玉子粥を飲み込んで、早く時よ過ぎろと混乱のさなか、ぽつりと呟いた蘭の言葉がやけに鮮やかに鼓膜に響いた。

「お粥なんて…おいしくないでしょ」

 包み込む優しい声音に、胸が一杯になる。

「いや…あの…蘭の作るものはどれも……うまいよ」

 最後はもう聞き取れないほどの小声で呟く。

 顔が熱いのは、風邪のせいだけじゃないだろう。

「え…! あ…そう? ありがと……じゃ、じゃあ、明日からずーっと、コナン君は玉子粥ね!」

 まさか今、素直な言葉が返ってくるとは夢にも思っていなかった蘭は、あたふたと取り乱し、照れ隠しに意味の分からない事を早口でまくしたてた。

「いいけど……」

 そんな彼女にコナンは苦笑いで応えた。

 落ち着きを無くす蘭に、自分もどこかそわそわとした気持ちになる。

 いつもずっと、何気なく二人で過ごしてきたから、あらためてお互いを意識すると、どうしても照れが生じてしまう。

 二人きりだと、特に。

「ぜ、全部食べられてよかったね」

 空になった器を盆に乗せ、蘭はそそくさと立ち上がった。

「じゃあ、ゆっくり休んでね…」

 まだほんのり赤い顔で、部屋の戸口から言う。

「うん…」

 横になりながら、コナンは応えた。

 早く時よ過ぎろと言ったものの、本当にそうなって一人部屋に取り残される事を思うと、何故だか寂しくなってしまう。

「早く良くなってね!」

 そんな、少ししぼんだ心に、小憎らしいほど清々しい蘭の笑顔が、眩しい陽射しのように降りそそいだ。

 また、見とれてしまう。

 熱とは違う胸のドキドキが、耳の奥でこだまする。

 目を閉じると、眩しい陽射しによく似た彼女の笑顔が瞼に浮かんだ。

 早く良くなって、もっとたくさん、傍で見たい。

 ぼんやりと願いながら、静かに眠りに落ちる。

 

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