手を握れ!

 

 

 

 

 

 雨はいきなり降ってきた、ざばざばと。

 蒸し暑かった一日で、日が沈む頃ようやく少しは涼しくなってきたかとほっと一息ついたのもつかの間、いきなり雨が降ってきた。

 どろどろと空いっぱいに轟く不吉な音と共に。

「やだなあ…お父さん大丈夫かな」

 コナンに次いで入浴を済ませた蘭は、リビングの窓から雨の模様を確かめると、麻雀仲間に誘われ夕飯前から飲みに出かけて行った小五郎を心配してそうもらした。

「いつも行ってるお店だから、傘は貸してもらえると思うよ」

 二度目の読み返しになる推理小説から目を上げ、コナンは大丈夫だよと返した。

「……そうね。じゃあ私、明日の準備してるから…何かあったら呼んでね」

 そう言って自室に引っ込む蘭の背中に一つ頷いて、コナンは文字の海に目を戻した。

 それから半時間ばかり。ストーリーに集中する一方で、耳がとらえるそれの回数を半ば無意識に数えていた。

 そして五回目か六回目になってようやく、しまったと顔を上げる。真犯人の存在に今気付いたとばかりに。慌てて本を脇に置き立ち上がったところで、またしても窓の外が閃光に包まれほぼ同時に雷鳴が轟いた。

 六回目か七回目。

 まったくの頭上にあるようで、鳴り響く間中びりびりとした振動さえ感じられた。

 もしかしてもしかすると…苦笑いを交えつつ心配しながら、蘭の部屋をノックする。

 返事はない。

「蘭姉ちゃん、開けるよ?」

 一言断りドアを開ける。部屋の明かりは煌々と付いているが、蘭の姿はどこにもない…いや、もちろんベッドの中だ。暑いだろうに毛布を二枚しっかりかぶり、頭のてっぺんからつま先まできっちり隠している。

「蘭ねえちゃ――」

「手――!」

 近付こうとするより先に悲鳴交じりの一音が走り、枕のやや下辺りから蘭の手がにょきっと生えた。

 へいへい……

 よっぽど怖いのだろう、手をどうするのかも言えないくらい震え上がっている彼女の元へ、小さく笑いながら歩み寄る。

 と、その間にも一回どおんと音が鳴り響いた。

 生えた手がさっと消える。

 ベッドの脇に立ったコナンは、一度蘭姉ちゃんと呼びかけてみた。

 どろどろどろと尾を引く余韻さえ駄目なのだろう、中々蘭の手は生えてこなかった。

 この毛布の盛り上がり具合から考えて…カメの形か

 では、てっぺんが背中だろう。二枚の毛布越しでは少し遠いが、コナンは背中を撫でてやりながら再度呼びかけた。

「気付かなくてごめんね、蘭姉ちゃん。さっき、呼んでたのにね。ホントにごめんね」

 部屋に入る間際、ほんのわずか言い淀んでいたのは、怖いよというサインだったのだ。なのに小説の続きにばかり気を取られ雷鳴を聞き流し、彼女にこんなに怖い思いをさせてしまった。

 十分反省しなければ。

「だってコナン君、本読んでたし……」

 毛布で遮られくぐもっていても分かる、少し拗ねた声。ちょっとだけ唇を尖らせて、恨めしそうに見ているに違いない…顔がありありと浮かぶ。

 見ればきっと、つい頬が緩んでしまう。

「ごめんなさい」

 彼女の顔の辺りを覗き込んで謝る。

「お風呂に入る前から嫌な音してたけど…コナン君本読んでたし」

「ごめんなさい」

 素直に謝る。

「やだなあって言ったのに……」

「ごめんなさい」

 何度でも謝る。

 一つひとつ心を込めて。

 そこでまた地も揺れる雷鳴が降り注いだ。二枚の毛布の下で、ぎゅっと身体を縮めて無音の悲鳴を上げたのがまさに手に取るように分かった。

 まったく、なんという女だろう。

 ほんの数日前にも、新たに身につけた大技でナイフの悪漢を軽く退け、見た者全ての度肝を抜き心底震え上がらせたというのに…今は満足に喋る事も出来ない。

 これだから

「蘭姉ちゃんの傍にいなくてごめんなさい」

 だから機嫌直して

 再び手が生えるか顔が覗くかするまで辛抱強く待とうとした矢先、唐突に蘭は毛布を跳ね上げ顔を見せた。

 さすがにびっくりしたと一歩退けかけたコナンの手を疾風の如く掴むと、蘭は顔の近くに引き寄せうずくまった。

 驚き、照れて、戸惑いながらコナンが名を呼ぼうとした瞬間、ひときわ強い雷鳴…恐らくは落雷が天と地を揺るがせた。凄まじい地響きがしばし続く。蘭は声も出せず、握った手を頼りにぐっと息をつめていた。

 こんなちっぽけな手を、彼女がどれほど頼りとしているか。

 負けじとコナンも握り返した。

 この後雷鳴は遠ざかっていくのか、まだしぶとく居続けるのか、降り続く雨は勢いを変えない。

 窓ガラス向こうの雨音を遠く聞きながら、コナンは静かに蘭の様子を見守っていた。

 と、わずかに身じろぎ顔を向けると、か細い声で何事か言ってきた。

「新一には…内緒にしてて」

 喘ぎ喘ぎ綴られるせいか、内緒にして、という言葉だけ辛うじて聞き取る事が出来た。何を、誰に、考えるまでもない。

「アイツ…笑うし…からかっていじめるし……」

 少し唇を尖らせて、蘭はぼそぼそと零した。

 笑ってないしいじめてもねーよ

 内心そっと言い返すが、彼女の浮かべる表情を見ては、もう、何も言えない。

 思い出すいつかの自分たちに向ける笑みはしょうもなく綺麗で優しく、ため息がもれるほど幸いに満ちていた。

「見に来てくれてありがとね、コナン君…なのに怖いからって八つ当たりしちゃって…ごめんね……」

 そしてこの今を同じ思い出にしまおうとして、蘭は柔らかな…少し引き攣った笑みを浮かべた。

「ううん、ボク全然気にしてないよ」

 その微笑に誘われて、コナンは軽く首を振った。

「でもホントはちょっと気にしてる?」

 すると蘭の口からこんな言葉が返ってきた。申し訳なさそうにではなく、軽快な声音。

 嬉しくなる。

 少しはこのちっぽけな手が役に立ったようだ。

「ぜーんぜん」

「よかった」

 落雷よりは大人しいが、一瞬声をかき消すほどの雷鳴が飛び込んできても、蘭は飛び上がる事無くただ少し手を強く握って、会話を続けた。

 こんなちっぽけな手が、彼女を。

 心底嬉しくなる。

「雷がやむまで、蘭姉ちゃんに貸してあげるよ、手」

「ホント、じゃあ遠慮なく借りるね」

 ありがとう

 少し恥ずかしそうに両手ではさみ、蘭はむくりと身体を起こした。膝を胸に寄せて丸く座る。

「かみなりきらい……」

 だから怖がっても見逃してと、遠慮がちにコナンを見つめ笑う。

「大きい音が駄目なのかな。それとも、いきなりぴかっと光るのが嫌なのかな……」

 ぴったりと閉められたカーテン越しにコナンは外を伺い、分からないなりに彼女の怖いものに寄り添おうとあれこれ考える。

「うまく説明出来ないけど嫌い。怖いんだもの……あ、でも、遠くの方で光ってるのを見るのは、嫌いじゃないよ。音がしないし、とっても綺麗で」

 何度か小さく頷いて、コナンは目を戻した。

「無敵の蘭姉ちゃんの、二つきりの弱点だね」

「わたし、無敵じゃないよ……」

 少し俯いた声を聞き、コナンは慌てて謝った。

 蘭もまた慌てて首を振り打ち消して、そっと笑みを零した。

 そこから数分、静寂が続く。

 深く浅く思案に漂う蘭を、コナンは静かに見守っていた。

 包まれた手は心地よいほどあたたかく、伝わってくるほんのわずかずれた鼓動が何とも面白かった。

 気付けばいつの間にか、外は雨の音だけに変わっていた。どうやら雷は去ったようだ。

 と、蘭が動いた。少し身じろいで、両手にはさんでいた手を一旦離し繋ぐ形に握り直す。

 はさまれていた時とは違う近さに少し照れ、コナンはおっかなびっくり力を込めた。

 蘭の目が、繋いだ手にまっすぐ注がれる。

 コナンもそれに気付いて自分たちの手を見た時、名を呼ぶ声が優しく降り注いだ。

「なあに?」

 下を向いた蘭の顔を見上げ、コナンは応えた。

「次は、ずっと……新一の手、握ってられるかなあ……」

「!…きっと大丈夫だよ、蘭姉ちゃん。きっと……絶対」

 願望の言葉を確実に言いかえて、まっすぐ見つめる。

 しかし蘭の顔は晴れなかった。いや、一度雲が去り晴れたけれども、別の雲がきてまた隠したそれに似ていた。

「……ねえコナン君、コナン君なら、あの時新一が何言おうとしてたか分かるよね?」

 唐突に強い声音で、蘭はぐっとコナンを見つめた。声の調子に合わせて握る力が増す。

 挑むような眼差しに見据えられ、コナンはしどろもどろに聞き返した。

「あ、あ、あの時って?」

「とぼけるのナシ!」

 鋭く言い放ち、蘭は手をほどくやしっかとコナンの肩を、服を掴んだ。

「この前! 高速の料金所で! 服部君と事件解決した時よ!」

 言葉の区切りごとに掴んだ服ごと身体を揺さぶり、蘭は真っ赤な顔をぐいと近付け重ねて言った。

「新一が何を言おうとしてたか、分かるよね!」

 あまりの剣幕と近過ぎる顔に動揺し、コナンは内心ひいと悲鳴を上げた。

 掴まれているせいで逃げるに逃げられない。一歩引く事すら出来ない。

「そ、それは、新一兄ちゃんから聞いてよ……」

 蚊の鳴くような声で答える。もちろん、彼女がこれで納得するはずがない。百も承知だ。

「またそうやって逃げる……!」

 案の定、蘭は片頬をふくらませ、不満たっぷりにじっとり見つめた…自分は最初に聞いたくせにと、顔に浮かべ責め立てる。

「ボ――ボク、新一兄ちゃんには言ってないよ!」

 半ばやけっぱちでコナンは返した。

「……何をよ?」

 地を這う如く低い声で、蘭は先を促した。

「ら、蘭姉ちゃんが内緒だよって言った事! ほら…は、初めて蘭姉ちゃんに会った日の……蘭姉ちゃん、言ってたじゃない」

 必死に言葉を連ねながら、コナンは、目眩に倒れそうな自分をひしひしと感じていた。それは、その理由は紛れもなく、言いながら浮かんだ蘭の天真爛漫な笑顔…ほんのり赤く染まった可愛らしい頬、夜にきらきらと輝く瞳、まっすぐに大好きと放って嬉しがる綺麗な唇それらが、鮮やかに思い出されたからだ。

「内緒だよって言われたからボク言ってないし…し、新一兄ちゃんだって、蘭姉ちゃんに直接言ってもらいたいと思うんだ……」

 一旦言葉を切り、蘭の反応をうかがう。不満そうな戸惑うような、どちらにも見える表情で続く言葉を待っていた。

 必死に落ち着きをかき集め、コナンは口を開いた。

「いくら本当の事だって、人から言われるのって嫌でしょ。それに他の人から言われても、信じられないじゃない……?」

「……本当に、新一には言ってないの?」

「本当だよ、誓ってもいいよ」

「ほんとうに……」

 未だ両手に服を掴んだまま、蘭はじっとコナンを見つめた。

「だ、だから蘭姉ちゃんも、新一兄ちゃんに直接……言おうよ」

 じいとばかりに注がれる彼女の視線が何を云っているのか…上手く読み取れない。コナンはびくびくしながら蘭の反応を見守った。

「……じゃあ、良い事か悪い事かくらい教えてよ。じゃないと私だけ不公平でしょ」

 それくらいはくれるよねと、二人ではなく三人を強調し、蘭はぐいとコナンを引っ張った。

「わ、分かったからちょっと離して……」

「言ったら離してあげる」

「……はい」

 一気に血の気が引く。

 散々重ねた妄想の中では見事なほど想い合っているが、現実はさあ厳しいだろう。自分の空回りが露呈するかもしれない。いやしかし、彼女の言葉は聞いている。いくつも渡されたものが、しっかと心に残ってる。これだけのものがあるのだ、自分だけの妄想のはずがない。

 彼女はこんなにもくれたじゃないか。

 なのに何故、土壇場で挫けそうになるのか――嗚呼、所詮自分はこの程度……そんなはずがない

 いざ心を決め口元まで登らせたと同時に、蘭が悲鳴じみた声で待ったをかけた。

「やっぱり本人から聞く!」

 もうここまで出かかった言葉をあわあわと崩して、コナンは困惑気味に蘭を見やった。

「ごめんねコナン君……ごめんねコナン君!」

 言いながら蘭は服を離し、両の手のひらをひしと合わせ謝った。

「……」

 こんなに必死の様で謝罪されては、後悔されては…何が言えるだろう。呆れるなんてとんでもない。ため息なんて、出るはずない。瞬きさえ出来ないのに。

 嗚呼、またやられるのか

 一度くらいはこの女に勝ちたい、なんて心にもない事を鼻で笑いながら、コナンはよれたシャツをさりげなく直した。

「ごめんね……コナン君」

「いいよ、蘭姉ちゃん……大変だもん」

 待っている事、待たせている事を言葉の脇に添えてコナンは低く言った。

「ううん、コナン君がいてくれるから、私、平気だよ」

 蘭は切なさを含まない声で静かに囁き、そっと笑った。

「コナン君の方が…ずっと大変……でしょう」

 こんな時も、こんな幽霊のような存在にまで、彼女は優しい心を注ぐ。嘘偽りなく些細な言葉も大切にして、気持ちを表して、確かに歩いている愛しい人。

「ボクは……」

 少し考え、コナンは首を振った。

「……新一兄ちゃんに言われたんだ。オレが留守の間、蘭を守ってくれって。元気でいられるように。いつも笑っていられるように。楽しく暮らせるように……だからボク、蘭姉ちゃんが元気ならそれで十分だよ。それが一番なんだ」

 そこでコナンは一度言葉を切り、喘ぐように肩を上下させ続けた。

「うまく出来ない時もあるけど、でも…蘭姉ちゃんの為に一生懸命頑張るから、だから……」

 傍にいさせてほしいという一言が出せない代わりに一歩近付き、笑顔を浮かべてみる。

 濁ったそれは心なしか泣き顔にも見えた。

 そんな顔をするコナンを、蘭は少し腹立たしく見つめていた。彼の気持ちをいっぺんで塗り替えられる言葉が出せない自分が腹立たしい。

 ここまできたのにまだそんな顔をする彼が腹立たしい。

 せっかく二人…三人でいるのに冷えていく空気が腹立たしい。

「何よその顔…そんなんじゃ元気なんて出ないよ」

 迷いながら、精一杯の力を込めて蘭は告げた。目を閉じて気持ちの切り替えを求め、大きく息を吐く。

「……ごめんなさ――」

「そんなのいらない。それじゃない」

 遮り、違うと首を振る。

 コナンが戸惑うように、蘭もまた戸惑っていた。

 欲しいものはあるのに、それが一体何なのか…今にも見えそうでまだ掴めない。

 蘭が探すのと同じく、コナンもまた探していた。

 やっとのことでここまで来た自分たち…三人がどうすれば今この瞬間に楽しくを刻めるのか、掴めそうでまだ見えない。

 すっかり弱まった外の雨が、部屋の中微かに降る。

「……手」

 ややあって、雨の音か時計の音かに紛れるほどささやかな声が、蘭の口から零れた。

 まさか聞きもらさず、コナンははっと目を向けた。

「雷やんじゃったから、もう……手は、ダメ?」

 そろそろとうかがう彼女の眼差しに、返事より先にさっと手を差し出す。

「ううん……そんな事ないよ!」

 また役に立てるのかと、コナンは勢い付いて声を上げた。

 良かったと微笑んでまた手を繋げば、お互い、探していたのはこれかと目を覚ます。

「コナン君」

「蘭姉ちゃん」

 呼び合うと、どちらからともなくくすくすと声が零れた。声をあわせ笑えば、不思議なくらい元気が湧いてくる。

「……蘭姉ちゃん」

 もう一度呼びかけて、コナンはごくりと喉を鳴らした。

「し…新一兄ちゃんさ、次はきっと…絶対に、蘭姉ちゃんの手を離したりしないよ。絶対に」

 誓うように綴られるその言葉を、蘭は目を瞑り静かに聞いていた。

「うん……」

「それで、その時に絶対、この前言いそびれた答え言うんだよ」

「うん……」

 言いながら、聞きながら、恐らくそれは次にではないと分かっていた。あと何度手を離さねばならないか…半ば諦めが入り混じる。

 それでも言うのは、頷くのは、たとえ何度翻弄されようと、必ずたどり着くのが分かっているからだ。

 次にではなくとも、必ず自分たちはそこへ行き着く。

 そんな風に二人…三人で歩いている、たどり着けないはずがない。

「ねえ……コーヒーでも飲もっか?」

 なんだか少し肌寒いと肩を竦め、蘭は提案した。

「うん!」

 漂う空気が入れ替わったのを感じて、コナンは大きく頷き賛同した。

「たしかまだ頂き物のサブレが残ってたはずだから、一緒に食べよう」

 続く蘭の言葉に緩みかけた頬がはたと強張る。

「き、今日はさ、レ……サンドないよね」

 口にするのも恐ろしいと途中をむにゃむにゃと濁し、コナンはびくびくしながら尋ねた。

「ああ、ないない。やだぁ、出さないわよ。今日はコナン君にこんなに助けられたんだもの、そんな事しないわよ」

 ほら、行こう

 手を引き颯爽と歩き出す彼女にこけつまろびつ、コナンは部屋を出た。

「ま、待ってよ蘭ねえちゃ……」

 言葉もつまずきながらついていく。

 次か、その次か…いつか訪れるその時には、自分が彼女の手を引いて歩いていくと願う。誓う。

 

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