雨天決行

 

 

 

 

 

 雨のにおいがするな

 探偵団の面々といつも集まる公園で、いつものように彼らと一緒にサッカーに熱中していてふと気付き、コナンはその独特のにおいに空を見上げた。

 明るいが、一面雲に覆われどことなく空気も重い。

 恐らくもう一時間もしたら降り出してくるだろう。

「コナン君、行ったよー!」

 後方から投げられた歩美の声と共にボールが飛んでくる。自慢ではないが、これへの反射神経は中々のものと自負している。コナンは難なく胸で受け止めると、にっと歯を見せた。

「止めろ、光彦!」

 元太の指示もむなしく、ボールは一度もコナンから離れる事無くゴールへと飛び込んだ。

 

 

 

「ただいまー」

 三階の玄関を開けいつも通り言葉を投げかけると、いつも通り、優しい声が出迎えてくれた。

「お帰りコナン君、雨大丈夫だった?」

「うん、今パラパラっと降ってきたところだったから、平気だよ」

「うわあ、今日も汚したわねえ。ご飯の前にお風呂ね」

 まんべんなく泥の汚れがついた服をどこか嬉しそうに眺め、蘭は風呂場を指さした。

 ご飯にする、お風呂にする…そんな古臭くも断固として甘い言葉が頭をよぎり、コナンは、自分の事ながら何だこの頭の造りはと一人動揺しうろたえた。

「じゃ、じゃあボクお風呂入ってくるね」

「行ってらっしゃい」

 夕飯の支度をする蘭に見送られ、コナンはあたふたと向かった。間際目の端で、彼女が小さくため息を零したのをとらえる。

 窓から外を見て、雨に軽くため息を一つ。

 後で出かける予定でもあるのだろうか。雨の外出は少々面倒なもの。あるいは単に、雨に憂鬱になったのか。それとも雨は関係なく、何か気にかかる事があるのか。

 ほんの少し気にとめて、コナンは汚れた衣服を脱ぎ始めた。

 

 

 

 降り始めはぱらぱらと些細なものだったが、シャワーを浴びている間に土砂降りへと変わり、水音に混じって聞こえていたのは雨の音かと驚くほどの降りになる。

「出たよー」

「おかえり。もうすぐご飯出来るからゆっくりしてて」

「はあい」

 ではそれまで適当に本でも読んでいようとリビングに行きかけて、目の端に小首を傾げる蘭の姿をとらえる。

 何か、軽い思案の表れ。

 ほんの少し気にとめて、コナンはいつもの場所…ビール缶片手にくつろぐ小五郎の隣に腰を下ろした。

「あ、そうだコナンくーん、お父さんのビール何本目?」

 炒め物をしながら、蘭は少し声を上げてコナンにそう尋ねた。

 医者の言いつけに従い、日々の摂取量を減らそうと少し厳しくなった蘭は、自分が確認出来る時は自分で、手が離せない時はコナンを助手に小五郎のチェックを毎日行っていた。

「えっとねー……」

 テーブルに並ぶ缶を一つ二つと数え始めたコナンに、小五郎は小声で必死に「二本、二本!」と拝み倒すが、絶対的に蘭の味方であるコナンは今日も裏切ったりせず、

「今飲んでるので四本目!」

 と声を届けた。

「あとねー、帰ってきてから公園行くまでの間に、事務所で三本飲んでたよ!」

 付け足すのも忘れない。

「ありがとー! お父さん、明日の分はもうなしよ!」

 キッチンの奥では「まったくもう」と蘭が、リビングのこちらでは「そんなぁ…」と小五郎が、それぞれ深いため息に肩を落とした。

 いやだから控えろって、おっちゃん…恨めしそうに見やる小五郎を横目に見上げ、コナンは苦笑いを零した。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 一言添えて、コナンは洗い物を始めた蘭のところへ食器を運んだ。

「ありがと。そこ置いといて、すぐ洗っちゃうから」

 振り返り笑顔を見せた蘭だが、向き直ると、また軽い思案ほどに小首を傾げた。

「……蘭姉ちゃん」

 いよいよ見過ごせなくなり、コナンは控えめに声をかけた。

「んー?」

 鼻歌交じりに少し間延びした声で蘭が応える。注意深く耳を済ませたが、暗い響きはない。

 そう心配するほどの悪いものではないという事か。

 今度はコナンが、軽い思案に小首を傾げた。

「なあに?」

 呼びかけて、それ以上何も言ってこないコナンを振り返り、どうかしたのと蘭は聞いた。

「あ、いや。ううん何でもない」

「そう? コナン君…土砂降りだね」

 窓からの風景を指して、蘭は少し肩を落とした。

「そうだね。予報では晴れだったのにね」

 コナンも同じように窓の外を見やり、蘭に合わせた声で答えた。

「ねえ。私、花火買ったのに」

「え?」

「花火、買ったの。今日コナン君とやろうと思って」

 

 

 

 屋上に出る扉の前で、蘭とコナンは立ち尽くしていた。

 廂の内側にまで跳ね返りが届くほど激しい雨が、目の前で降り続けている。風はないので吹き付けてくる事はないが、とにかく降りが強い。コンクリを叩く音はかなりやかましく、扉を開けた途端聞こえてきた騒音に少し驚いたくらいだ。

「……これじゃちょっと、無理だね」

 そう言ってコナンは、隣に立ち恨めしそうに雨を眺める蘭に声をかけた。

 手には袋入りの手持ち花火二つとろうそく、足もとには水入りのバケツを置いた蘭は、押し黙ったまま頷くように俯いた。

「ダメかなあ……」

 悲しい響きが零れる。

 たかが花火くらいでと思いかけて、すぐに考え直す。雨の中花火をしたからって死にゃしない、彼女がやりたいならやろうじゃないかと奮い立つ思いに、コナンは声を張り上げた。

「ダメじゃないよ、やろうよ、花火!」

 ね、と促す声にやや置いてから、蘭は扉の向こうにバケツを置き、影にろうそくを立てマッチから火をつけた。

「今日買い物に行った時にね、見つけたの…花火」

 袋の口を開け、雨のかからない場所に置くと、蘭はその時を思い出すように少し遠くを見て笑った。

「行きは素通りしたんだけどね、帰り道、また見たら、無性にコナン君と花火がしたくなって」

 それで買っちゃったの

「そうだったんだ」

 そうだったのだ。目の端に幾度か気付いた小さなため息、軽い思案は、この雨と花火から来ていたのだ。ようやく合点がいく。

「でも、今日じゃなくても、明日とか晴れた日にやればいいのに」

「だって…前にコナン君が言ってた……時が、明日にも来るかもしれないでしょ」

 途切れ途切れ紡がれた言葉に、コナンははっと目を見開いた。衝撃が痺れとなって背筋を走る。

 嗚呼、自分はなんて……

「そうしたら明日、花火…出来ないじゃない」

 だから今日やりたいの

「……それに雨の日の方が、思い出す時、より面白いでしょ。あの時、雨なのに花火やったよね、そうそう、すごい土砂降りだったのにね――なんて」

 楽しげな微笑みが胸に強く迫り、雨音が綺麗に消え去る。蘭の話す声それだけが耳に届き、コナンの心をあたたかく包んだ。苦しいほどにあたたかく。

「時が来るのは分かってるけど、……分かってるから、コナン君との思い出一杯作りたくて。でもなんかちょっと無理矢理すぎちゃったね。ごめんね」

 笑いながら少し涙に滲んだ最後の一言に強く首を振りすぐに笑って、コナンは口を開いた。

「ホーント、蘭姉ちゃんはにこにこ笑いながら強引で、付き合うのにひと苦労だよ」

 言いながら、袋から細い持ち手の花火を一本引き出しろうそくに近付ける。しゅわっと点火したそれを少し遠くにかざし言葉を継ぐ。

「何もこんな日にやらなくてもいいのにさ」

 そして少し勇気を出し彼女の手を…握り、傍にいる事を確かにする。

「な、なによ。嫌なら部屋に戻ればいいでしょ」

 しっかり握ってくるコナンの小さな手を確かに握り返し、蘭はつんとそっぽを向いた。

 つま先を濡らす雨の跳ね返りも気にせずに、コナンは振り返って笑った。

「でもさ蘭姉ちゃん、思い出す時、面白いじゃない。こんな土砂降りの中で花火なんてさ」

「コナン…君」

 紅から緑に代わる火花に照らされ揺らめくコナンの顔、その優しい眼差しに蘭は瞬きも忘れ見入った。胸が高鳴り、息も出来ない。決して忘れぬよう心に焼き付ける。こんなに自分を見守り愛情を注いでくれる人のすべてを。

 小学生に向けるそれではない熱っぽい眼差しで一心に見つめてくる蘭からそれとなく花火に目を戻し、コナンはわずかに俯いた。

 蘭の言葉がくれる力に甘えて、彼女の中にもある消えない恐れを、忘れていた自分を、心中激しくなじる。

 自分が今こうして安穏の中に身を置けるのは、生きて立っていられるのは、彼女が完璧に秘密をしまい込んでくれたからだ、

 それがせいで恐れを抱くようにもなったけれども、彼女はその先の事までも考えて言葉と心をくれたというのに、なぜ忘れたのだろう。

 なぜ思い至らなかったのだろう。

 言葉と心をくれた彼女でさえも、恐れは消せないものだという事を、なぜ分からなかったのだろう。

 

 時が来るのは分かってる

 だから一緒に色んなところへ行って、一緒に色んなものを聞いて

 

「一緒に雨の中……花火やってる」

 今まさに思い浮かべていた言葉に繋がる新たな一言その紡がれた想いに、コナンははっと目を見開いた。

 雨と晴れの合間の曖昧でけれど少し笑うような、歌に似た緩やかな囁きが湿った空気に放たれる。

 蘭はふふと声を零した。

「何か夢見てるみたい。雨の中で花火なんて」

 肩越しに振り返ったコナンは、揺らぐ赤い光に照らされた頬の涙を目にしぐっと息をつめた。

「蘭ね……」

「でも夢じゃないよね。私、コナン…君と花火やってるよね。やってるよね……?」

「うん……」

 胸の潰れる思いに唇を噛んだ直後、彼女の顔に浮かんだ微笑みに小さく息を飲む。

「ごめんね…なんか、嬉しくて……嬉しくて」

 悲しいもの、怖いものから来る涙ではないと知りコナンは恐々息を吐いた。

 ポケットから取り出したハンカチを差し出すと、蘭はひどく恥かしそうにしながら受け取り慌てて涙を拭った。

「大丈夫、泣き虫蘭姉ちゃん」

「……なによ、もう。コナン君のせいなんだからね」

「え、ボ、ボク……?」

 照れ隠しに名前を出しただけかと戸惑う一方、まだ自分が気付いていない何かがあるのかともう一方で慌てふためく。

「そうよ。……コナン君が傍にいてくれるから」

 嬉しくて泣いちゃったじゃない

 やっぱり照れ隠しだったのかとむくれた顔の一つもしたくなるが、透き通る晴れやかな微笑みを見せる彼女を目にしては、何も云うものはない。

 コナンは開きかけた口を閉じ、少し笑った。

 ややあって、蘭はぽつりぽつりと言葉を継いだ。

「……時々、カッコつけた事言っちゃうけど、でもやっぱり怖くなる時があって……」

 二度三度頷いて、コナンは耳を傾けた。

「言った時は、本当にそう思ってるんだけど…後からやっぱり怖くなったりとかして……。大丈夫になったり怖くなったり。自分でも変だと分かってるけど……」

「変じゃないよ。ボクもよくやっちゃうんだ。その場の勢いで調子いい事言ったり、思ってる事と正反対の事言ったり。し…新一兄ちゃんも、それで、蘭姉ちゃん困らせて悪いことしたって……悔やんでたよ」

「新一も……」

 ほんの微かに、女の声が熱く新一を呼ぶ。

「えと、だから、みんなそんな風にちょっとした時にちょっとした嘘ついて、後からあーあなんて言っちゃったりしてるんだよ。でもさ……たまにはいいじゃない、それでも」

 その方が完璧じゃない?

「え……」

 矛盾した最後の一言にはっと目を上げる。同時にコナンの手にした花火が消え、ろうそくの頼りない明かりだけになった中…そこに新一の眼差しを見た気がして、蘭は目を瞬いた。大きな眼鏡越しの青は間違いなく…そう。

「そうだね……」

 強い雨の中ささやかに呟きを零して、蘭は袋から長い持ち手の花火を一本引き抜いた。

 ろうそくの火を受けて弾けたそれは、派手なオレンジの火花を散らして辺りを明るく照らした。

 まっすぐ前方に放たれるオレンジはやがて緑に変わり、蘭の目を楽しませた。

「うわあ、これ綺麗ねコナン君!」

「ホントだね。さっきのオレンジはナトリウムが燃えて白と……」

「ええー、そういうのまで覚えなきゃいけないのー?」

 いつもの調子で始まったうんちくに軽快に笑って、蘭は大袈裟に困った顔をしてみせた。

 一瞬しまったと苦笑いを浮かべたコナンだが、すぐに気を取り直して続けた。

「そうだよ。ボク、蘭姉ちゃんが言ってくれた言葉、全部覚えてるもん。だから蘭姉ちゃんも、ボクが言った言葉全部覚えてよね」

「もー、何かに書かなきゃ覚えきれないよ。コナン君と思い出作るって大変!」

 繋いだ手をしっかり握り軽やかに振って、蘭は肩をすくめてみせた。

「でもいいわ、頑張って覚えるからもう一回言って」

 挑む笑みでじっと見つめてくる蘭を眩しく見つめ返し、コナンは泣きそうに笑って口を開いた。

「じゃあゆっくり一つずつ言うから、ちゃんと覚えてね」

「いいわ」

 力強く頷いて、蘭は合図代わりにぎゅっと手を握った。

 二度とない今日という日を、いつか楽しく振り返る為に。

 追いやっても沈めてもまたやってくる恐れに負けないように。

 土砂降りの中、少し煙たい花火を楽しんだ一つの思い出を心に重ね、明日に笑おう。

 

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