様にならない一大決心

 

 

 

 

 

 さあっと細かな雨が静かに降りしきる週末の昼下がり。

 雨は夜遅くに降り出したようで、寝る前は空の向こうまで星が見えるほどだったのにと、蘭は窓からの風景に今日何度目かの軽いため息をついた。

 今日はどこにも出かける予定はない、夕飯のおかずは昨日の内に買ってある、とりあえず、予習をしておこう…机に向かい、遠い雨だれを聞きながら白線のノートを数ページ埋めところで、ノックの音が聞こえてきた。

 ドアノブのやや下辺りから聞こえてきた軽いコツコツという響きに、蘭は顔を上げ短く答えた。

「あの…蘭姉ちゃん……」

 この家で、その位置をノックする人間は彼しかない。

 おずおずといった様子で姿を見せた大きな眼鏡の少年…コナンにどうしたのと返し、蘭はペンを置いた。

「ほ、本屋さんに行きたいん……だけど」

 コナンが消え入るような声で希望を述べるのにはわけがあった。

「ええ?」

 それに蘭が咎める声を上げるのも、わけがあった。

 コナンが、白昼堂々の強盗犯相手に大立ち回りを展開して数日。手足に負った細かな傷は大分薄れ、二か所ほどの打撲跡も、まだ皮膚の変色は残るものの痛みはすっかり遠のいた。しかし、右肩に受けた刃物傷による残りは未だ尾を引き、腫れは治まったとはいえ満足に動かせるまでには至っていない。

 昨日一緒に受けた診察でも、もうしばらくは安静と言い渡され、当のコナンもそれをしっかり聞いていたはずだ。

 だというのに、晴天ならまだしも雨天に出かけようというのだから、蘭が非難の声を上げるのも当然の事だった。

 駄目だよねと含んでか細い声を上げるコナンにもちろん『ダメ!』と言いかけて、蘭ははっと息を飲んだ。写真たての向こうに置いた卓上カレンダーを見やりあっと声を上げる。理解する。

 今日は、彼が半月前から楽しみにしていたシリーズものの推理小説の最新刊が、発売される日だ。

「もう…この推理オタクは……」

 思わずもれる呟き。

 人に散々心配かけて、怖い思いさせて、自分も少なからず怖い思いをして…それほどの大騒ぎをしてまだ何日も経っていないというのに、この愛すべき推理オタクは。

「私が買ってきてあげるから、コナン君は大人しく留守番してなさい」

 言いながら外出の準備を始める。

「でも、蘭姉ちゃん勉強中……」

「ちょうどひと段落ついたし、大丈夫よ。それに、代わりに行ってきてほしくて声掛けてきたんでしょ」

「ち、違うよ!…勝手に行ったら心配すると思って……」

「あら。いっつも勝手にふらふらっといなくなって心配させるくせに」

「それは……だ、だからもう心配かけたくなくて……」

「どうかしら。いいから、すぐに買ってきてあげるから大人しく留守番してて。それとも……一緒に行く?」

「え…い、いいの?」

「……ダメです。コナン君はお留守番」

 嬉しさに一瞬きらりと光った瞳が憎らしくて愛しくて、少し声が震えた。

「……はぁい」

「ちゃんと買ってきてあげるから、タイトル教えて」

「うん。あの、ありがとう」

 ごめんなさい

「謝ったって、五分もしたら忘れちゃうくせに」

 そう言って蘭はコナンの鼻先を軽くつまんだ。

 急に間近に迫ったむず痒い微笑みと優しい手に、コナンの頬が朱に染まる。

「でもホントに、心配かけたくないから……」

「うん、大丈夫。ちゃんと分かってるから」

 小学一年生に向けるそれではない眼差しで二人…三人にはっきり頷き、蘭はタイトルを書き付けたメモ片手に玄関に向かった。

「けど、待ちきれないからって表に出てたりしたら承知しないわよ」

 優しくしかしはっきり釘をさす蘭に厳守しますと強い顔で頷き、コナンは後ろ姿を見送った。

 扉越しの足音が聞こえなくなったのを確認してから、そっと扉を押し開く。

 事務所の窓から、帰ってくるのを待つくらいは、許してもらえるよな

 本を待ちきれないのもそうだし、一秒でも多く彼女の姿を目に映したいのもそうだし。

 自分で自分が気恥ずかしいのをどうにかねじ伏せ、コナンは一段ずつ階段を下りていった。

 

 

 

 目指す新刊は、レジ正面の広い棚に平積みされていた。書店に入る前から分かるほどに大きな手書きのポップと、堂々たる積み具合が、人気のほどをうかがわせる。

 蘭はメモと照らし合わせ、一冊を何気なく手に取った。手にしてからふと、自分でこの真新しい一冊を手にする瞬間の喜びとか欲しかっただろうなと、思いを巡らす。

 早く届けてあげよう。きっと今頃、うずうずしているに違いない。

 受け取る瞬間の顔などを想像しながらレジで代金を払い、しっかりバッグにしまって店を出る。

 と、目の前を人影が横切った。

 傘の並ぶ少し混み合った歩道を行くには少々非常識なその走りように、何事かと蘭が目をやった直後、背後から「カバン、返して!」と中年女性の金切り声が聞こえてきた。

 即座に状況を把握した蘭は、振り返り声の主を確認すると、向き直りすぐさま黒いパーカーを着た人物めがけて走り出した。

「待ちなさい!」

 勇ましく吠え、決して逃さぬ追っ手となる。

「おい!」

「ちょっと!」

 道行く人たちが順繰りに叫びや悲鳴を上げるのもかまわず、ひったくり犯は全速力で走った。

 次の角を曲がれば相方がバイクで待機している、そこまで逃げ通せれば勝ちだと、肩越しに振り返り追っ手を確認する。

 かなり迫っていたが、あと少し行くまでの辛抱だと正面に向き直った直後、足元に小さな影が走り込んだ。

「なんだっ……!」

 確認する間もなく、ひったくり犯は足元の何かを蹴飛ばしもつれ、顔から派手に倒れ込んだ。

 どよめきが沸き起こる。

 奇しくもそこは、毛利探偵事務所の前だった。

「……コナン君!」

 そう呼ばれた影はさっと動きひったくり犯の手から転げ出たバッグをしっかり抱えると、すぐ後からやってきた追っ手…蘭に通りの角を指さし叫んだ。

「蘭姉ちゃんあいつも!」

 瞬時に悟った蘭は、彼が左手に示す先の共犯者に向かって走った。

「う、うわ……」

 情けない声をもらし、直後共犯者は、人間慌てると物事が上手くいかない事を身をもって知るのだった。戦利品と相方を乗せていつでも走り出せるよう待機していたのというのに、いざその時が来て土壇場でバイクが走り出さないのだ。

 こうなったら自分だけでも逃げるしかないとバイクを捨て、相方を見捨て、戦利品を諦めて駆け出した直後、身体がふわりと宙を舞い…気付いた時には背中から地面に叩き付けられていた。

「観念しろ、ひったくり犯ども!」

 電光石火の一本背負い、迫力のある一喝。毛利小五郎その人だ。

 名探偵として知らぬ者のない彼の思いがけない捕物、見事な活躍ぶりに、どこからともなく拍手が沸き起こる。

 輪に連なり称賛を贈る通行人に高らかに笑いどうもどうもと返す小五郎の後ろで、蘭は、道端に座り込んだままのコナンに駆けより安否を確認した。

「大丈夫コナン君、どこか怪我したの?」

 心配のあまり自然顔付きが険しくなる。

 そんな蘭に軽く首を振って見せ、コナンは言った。

「ううん、怪我はしてないよ。頭はちゃんとかばったし、あいつ左側から来たから、右肩も無事だよ。けど……ちょっと、だけ…痛い」

 つかえながらも、痛いと口にする。

 痛みをはっきりそうと彼女に告げるのはかなり抵抗があった。ひどく覚悟がいった。そう言えば彼女の顔が曇るのは目に見えていたし、心を痛める結果に繋がるのもよく分かっていた。そしてまた、痩せ我慢したい気持ちもあった。女に泣きごとを言うなんて情けない、とも。

 案の定彼女は眉根を寄せた悲痛な顔になった。

 しかし。

「まず持ち主にバッグ返してあげて。きっと心配してる」

 右腕に挟んでいたバッグを抜き取り、コナンは手渡した。

「うん…ちょっとだけ待ってて」

 蘭は小さな左手をしっかり握り励ますと、ようやくのこと追いついたバッグの持ち主に小走りに駆けていった。

 

 

 

 バッグは持ち主へ、ひったくり犯二人は警察へ、小五郎は自画自賛の中へ。それぞれ無事におさり、蘭とコナンは三階へと戻っていった。

「ちょっとだけだから大丈夫だってば! 抱っこはいいよ!」

「こら! 階段で暴れたら危ないでしょ!」

「でも……!」

 身を案じて三階まで抱いて運ぼうとする蘭に必死に抵抗するコナンだが、彼女にかなうはずもなく、顔から火を噴くような十数秒をただ耐えるしかなかった。

 玄関先でようやく下ろされたコナンは、たった十数秒の間に乱れた呼吸にもつれながら、ありがとうもそこそこにリビングへと逃げ行った。

「あ、ダメダメ、雨に濡れたんだから身体拭かないと」

 その後を、タオルを手に蘭が追いかける。

「こ、このくらい……」

 何ともないと言いかけコナンは慌てて口を噤んだ。まだろくに右腕が動かせない上、まったく、身体は万全ではない。怪我が理由で何日も学校を休み、昨日ようやく一日登校出来たばかり、自分でも、少しの無理が体調不良に繋がる事は十分理解していた。

 だから。

 大人しく彼女に従う。

「それにしてもコナン君、ずいぶんタイミング良く飛び出してひったくり犯転ばせられたね。一歩間違えたら大怪我するところだったけど……大手柄だったね」

 髪や身体を拭う蘭を見上げ、少し落ち着かない頭で答える。

「うん。事務所の窓から蘭姉ちゃんの帰り待ってたら、ものすごい勢いで走る男の後追いかけてるのが見えたから、もしかしたらって思って。それにあの男、見るからに不似合な女物のバッグ抱えてたしね」

「そうだったの。それで、コナン君…肩はどう? 今もまだつらい?」

 ひどいようなら診てもらった方がいいと提案しながら、蘭はしゃがみ込んで目線を合わせた。

 急に近くなった視線にさりげなく一歩引いて、コナンは答えた。

「そ、そんな大袈裟なものじゃないよ。ぶつかられて傷に響いたのが痛かっただけ。痛いって言うより、痺れた感じ。でも今はもう平気だよ」

「本当?」

「うん」

「ほんとうに?」

「大丈夫だよ」

 そこでようやく心配げな瞳から力を抜き、蘭は励ますようににっこり笑った。

「早く治るといいね。……ねえ。ねえコナン君」

 そしてすぐに、違う眼差しでコナンをとらえ問いかける。

「な、なあに蘭姉ちゃん」

 またさりげなく一歩下がる。

「事務所の窓から見てたのは、本が待ち遠しかったから? それとも、私が帰ってくるのが……待ち遠しかったから?」

 なんという剛速球だろう。

 受け止めきれず、コナンはうっと息を詰まらせた。

 物事には順番というものがある。

 この怪我をきっかけにここ数日考えて、彼女にどちらの心配をさせるかの決着が、ようやくついたばかりなのだ。

 本当を言って心配させるか、嘘を言って心配させるか。その覚悟をようやく決めたばかりなのだ。何せ自分は嘘と隠し事の塊だから、それ以外は少しでも出そうと、彼女と共有しようと、悩みに悩んで心を決めてようやく、一歩踏み出したばかりなのだ。

 なのにこの女は、この欲張りでしたたかな女は。

 全部引っ張り出そうとするこの……

「どうせ、本でしょ。はい、お待ちかねの新刊!」

 晴れやかな声と共に真新しい本が差し出される。

「あ、ありがとう……」

「間違ってないかな? まったく、コナン君も新一も、どーしようもない推理オタクなんだから」

 くすくす笑う蘭を見つめ、見惚れ、コナンは本を受け取ったままの姿勢でしばし立ち尽くしていた。

 愛くるしい笑顔に引き寄せられて、次の一歩が踏み出せそうな気がした。

 嗚呼、早くこの女に並びたい

「傷に障るから、あんまり遅くまで読んでちゃ駄目よ」

「う、うん……」

「返事は『はい』でしょ」

「はぁい」

 半ばやけになって奥歯を噛みしめ、とびきり良い返事をしてみせる。

「よろしい。……本当に、気を付けてね」

 早く良くなりますように

 言う事を聞かないやんちゃな弟に念を押す姉から想い人を案じる女へ…蘭の眼差しが瞬き一つで移り変わる。柔らかく沁みる鮮やかな煌きにコナンはただただ呆けるばかりだった。耳に触れる声がしょうもなく愛しい。

 と、不意に蘭は素っ頓狂な声を上げた。

「いっけなーい、傘忘れてきた!……もー、ばか。すぐ取りに行ってくるね」

 慌ただしく駈け出す蘭を見送り、数秒、コナンはそっと玄関を出た。

 二階の事務所に行き、窓から外を眺める。

 雨は相変わらず細く静かに降っていた。

 もう少しもすれば、あの角を曲がって蘭の傘のやってくるのが見える事だろう。

 果たして今日はどこまで覚悟を決められるだろうか。

 いっそ、この行動で免除してやもらえまいか……心中、慌てて首を振る。

 様にならない一大決心に肩を落とし、次こそはとため息をひとつ。

 

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