アーチをくぐって歩いていこう

 

 

 

 

 

「やったー、歩美の勝ち!」

「ああ、くっそー!」

 並んで座る二人…元太と歩美、それぞれに声を張りあげ、かたや嬉しげに、かたや悔しげに拳を振り上げた。

「やりましたね歩美ちゃん!」

 二人の後ろで固唾をのんで勝敗の行方を見守っていた光彦が、勝者歩美に惜しみない称賛を贈る。

「次は光彦君と元太君で勝負ね!」

「おーし、次は負けねーぞ!」

「望むところです!」

 わいわいと楽しげに声を絡ませ、阿笠博士の新作ゲームに熱中する三人を、コナンは少し離れたキッチンカウンターから眺めていた。

 ちらりと正面の壁掛け時計を見れば、時刻は夜七時を過ぎたところ。

 いつもならもうそれぞれの家に帰る時間だが、週末の今日は、阿笠博士の家に探偵団の面々で集まり一晩一緒に過ごす事になっていた。

 博士の新作ゲームを目一杯楽しむというのが一番の目的だが、自分の家とは違うところで親しい友人と一晩過ごすというのは子供たちにとっては大いに心をくすぐるもので、ゲームの楽しさもさることながら三人はこの上なくはしゃぎ興奮していた。

 そんな彼らにジュースと菓子を振る舞い、博士はニコニコ顔でキッチンに戻ると、一人コーヒーをすするコナンに声をかけた。

「新一はやらんのか、ワシのゲーム」

「いや、さっきやって……すぐ負けた。今は勝ち抜き戦やってるから、当分声はかからねーよ」

 あいつら結構つえーし

 渋い顔でコナンは笑った。

「ワシのゲームで相当鍛えられてるからのう。クッキーかチョコレートしかないが、食べるかね? コーヒーのお供にどうじゃ」

「あー…じゃあクッキーで。チョコはいいや」

 ほんの小声でチョコレートを断り、子供たちに振る舞った残りのクッキーを一つ手に取る。

「それにしても今夜は、ずいぶんと風が出ておるのう。あんなに木が傾いで。昼間は穏やかでいい天気じゃったのに」

 博士は何気なく窓の外を見やると、向こうに見える工藤邸の庭に植えられた木の揺れるのに気付いて、誰にともなく呟いた。

 ほんのり紅茶の香るクッキーをサクサク噛みしめながら、コナンも同じように窓の外を眺め同じように風が強いなとぼんやり思った。

 その眼差しが直後はたと見開かれる。

「!…悪い博士、ちょっと用事が出来た。三十分くらいで戻るから」

「あ、おい……」

 どうしたのかと尋ねる博士の声も聞こえない様子で、コナンは阿笠邸を飛び出していった。

 玄関から一歩外に出ると同時に、上空でごおと風が唸りを上げた。やや遅れて、びょうびょうと横殴りの風が吹き付ける。ともするとよろけそうなほど強い。ことさら意識して足を踏みしめ、コナンは毛利探偵事務所へと走った。

 今夜、小五郎は麻雀仲間に誘われ遅くまで帰らない。

 蘭も、園子の家に呼ばれ明日まで帰らない。

 そして自分は、阿笠邸に一晩お泊まり。

 今、あの家には誰もいない。

 といって泥棒の類を心配したわけではない。

 気にかかるのは、数日前に蘭が買ったあるもの。

 日当たりのいい屋上に置かれ、たっぷりの水と陽射しですくすく育つバラの鉢。

 ねえほら見て、このピンク、可愛いでしょう!

 コロンとしたつぼみがたくさん並ぶ中、まず一つ咲いた花を見せて、零れんばかりの笑顔を浮かべた。

 こんなにたくさんのつぼみ…全部咲いたらすごい綺麗だろうね

 いつになるかと押さえきれない喜びに目を輝かせ、弾けんばかりの笑顔を浮かべた。

 毎日毎朝屋上に見に行っては、バラの花にも負けぬ笑顔を咲かせていた女。

 それほど気にかけ期待しているならば、自分もいつしか、花の咲くのを気にするようになった。

 だから気になった。

 今夜の強風で倒れてしまってやいないかと。

 枝が折れ、つぼみが落ち、彼女の悲しい顔を見るのではないかと。

 どのつぼみも大切で、一つひとつ違い、一つずつ喜びが満たされている。

 毎日、彼女の中から伸びゆく真新しい芽のように。

 一つとして落としたくない。

 程なく事務所に帰りついたコナンは、一気に屋上まで駆け上がった。風で押さえ付けられているのか、ただでさえ重い扉が開けられない。

 どうにか踏ん張って飛び出すと、また風が殴り付けてきた。よろけながら鉢を見やると、危ういほどに葉をなびかせ揺らいでいた。

 すぐさま駆けより鉢を抱える。

 何と風の強い夜。

 はるか上空でごおと唸った後、一拍間を置いて横殴りに吹き付けてくる。だが音さえ聞き逃さなければ、風に負ける事はない。

 一息に階段内部まで運べない非力な自分に腹を立てながら、風が吹き付ける時は踏ん張ってこらえ、強風の合間を縫って鉢を移動させる。

 扉の向こうまでもうあと少しと迫って油断が生じたか、距離を見誤ったか、鉢を持ち上げると同時にびょうと風に殴られ、生い茂った枝で顔を叩かれる。トゲは想像以上に痛みをもたらした。

 しかし痛いと声を出す余裕もなかった。

 枝葉の受けた風がそのままかかり、立って踏ん張っている時でさえ危うかった小さな身体は、後は転ぶしかなくなる。

「!…」

 せめてバラだけでも守ろうと下敷きを覚悟するが、それよりも早く、誰かが背中をしっかと抱きとめてくれた。

「大丈夫コナン君!」

 風の音に負けぬ通りの良い声が、信じられない事にコナンの耳に届いた。

「……蘭姉ちゃん!」

 振り向き見上げれば、間違いなく、蘭がいた。

「中に運ぶね」

 頷き慌てて脇に退き、何度も瞬いて蘭を確認しながらコナンも後に続いた。

 階段を上がったすぐ横、出入り口の脇に鉢を置き扉を閉めると、すっかり風の音が遠ざかる。

「ここなら大丈夫ね」

「蘭姉ちゃん…園子姉ちゃんちにお泊りじゃ……」

 白色の明かりの下でもう一度蘭を確認し、コナンは口を開いた。

「コナン君こそ、阿笠博士の家にお泊まり……」

 お互い似たような顔で見合う。

「うん、バラが気になったから戻ってきたんだ。蘭姉ちゃん、もうすぐ咲くねって毎日すごく楽しみにしてたでしょ。それなのに倒れて折れちゃったら悲しむだろうなって…それに、バラだって可哀想じゃない」

 せっかくここまで伸びたのに

「それで見に来てくれたの?」

「うん」

「私も同じ。ありがとう! すごく嬉しい…ごめんね」

「ううん」

 ゆるく首を振って、コナンはふと避難させたバラの鉢に目をやった。

「蘭姉ちゃん、このバラ、アンジェラって言うんだよね。これ、今はまだ背が低いけど、あっという間に伸びてアーチも作れるくらいになるんだよ」

 先刻博士の家で調べたバラの情報を一つ伝える。

「そうなの!」

 バラのアーチという素敵な響きに、蘭はぱっと顔を輝かせた。

「それにすごく丈夫で病気にも強いから、日当たりさえ良ければほとんど手がかからないんだって」

「へえ…バラのアーチ……」

 途端きらきらと目を潤ませた蘭が何を見ているのか正確には掴めないコナンだが、恐らく…いや間違いなく、甘くあたたかな夢に浸っているだろう事は容易に想像出来た。

 彼女はいつだって、想像力豊かに夢見る乙女だ。

 時に放心するほどの豪傑…いや、勇敢でめっぽう強い鉄の人なのに。

「あ、でもそうしたら、鉢植えのままじゃ可哀想だよね……」

 しかしここには地面がないと、蘭は眉を寄せた。

「じゃあさ、新一兄ちゃんちの庭に植えたらいいんじゃない? 場所なら結構空いてるし、日当たりだって良いし。あ、でもそうすると毎日見られないからダメか……」

 日当たりの良い地面という事ですぐ思い付いたのが自分の家の庭で、バラの生育環境に重きを置けばそこが一番と軽く口にしたが、毎日毎朝でも見たい蘭の気持ちには合わない。毎朝毎晩、細やかに世話をし楽しみに眺めていた彼女からバラを引き離すなんてとんでもない。ならば大きな鉢と支柱を揃えて、ここで育てればいい。しっかり固定すれば、日当たりも風の通りもいいここならきっと元気に成長するだろう。

「じゃあ大きな鉢と……」

 さっそく二番目の提案を口にしかけたところで、蘭が割って入った。

「それいいかも!」

 喜びにあふれたはつらつとした声が続く。

「あの門の脇に植えて、アーチにしたら、きっと素敵よね!」

 目を潤ませ遠くを見る彼女。思わず彼女の視線の先を追ってしまう。あるのはただの白い壁だ。しかし蘭には、門柱を超えて弧を描く立派なバラのアーチがくっきり見えている事だろう。

「で、でもそうしたら、気軽にすぐ見られなくなっちゃうよ」

「学校の行き帰りに見られるし、休みの日だって、新一の家ならすぐに行けるもの。それに地面なら、鉢植えほど水やりしなくても大丈夫だったよね」

「うん。ちゃんとした土を用意して植えれば、更に頑丈に育つよ」

 彼女がそれを希望するなら異論はない。夢見る勢いに合わせて賛同しようではないか。

「決めた!」

 乙女の勢いは止まらない。

「うあわ、バラのアーチ……」

 まだコナンの背丈より低い鉢植えをうっとり見やり、蘭は喜びに頬を染めた。

「アイツが帰ってくる頃には、アーチが出来上がってるかな。きっと驚くだろうな。でも……」

 早く帰ってきてほしい

 蘭はわずかに目を伏せ、複雑な笑みを浮かべ寄り添い立つ少年に目を向けた。

「ね、コナン君は、どっちが先だと思う……?」

 アーチへの憧れの中、少々の不安が入り混じった顔。

 バラの成長は早い。それよりも早く戻ってきてほしい愛しい人。でもそれは無理な願いかもしれない。時の訪れは必ずあるけれど、信じているけれど、それがいつかは分からない。

 出来上がったアーチを見せたい驚かせたい。けれど何よりあなたに会いたい。無事なあなたに。

 さまざまな願いを込めて眼差しを注ぐ蘭にしばし言葉を選び、迷い、ついにコナンは口を開いた。

「……今のつぼみが開いて、次の花が咲く頃には、戻ってくるよ、新一兄ちゃん」

 絶対戻る

 終いの言葉は囁いて誓い、小さく頷く。じっと耳を傾ける蘭がどう受け取ったかは分からない。

 やがて蘭はそっと口を開いた。

「このバラは……何度も繰り返し咲くから、いつ咲く時でもいいよ。それにバラは十年でも二十年でももつから、私も……私も」

 戻ってくるのを待つよ

 強く一度頷いて、蘭は笑顔をみせた。

「そ、そんなにかからないよ!」

「あら、コナン君分かるの?」

「わ、分かるよ。だてに新一兄ちゃんの留守番してないし」

「そうだったね……いつもありがとう、コナン君」

 限りなく優しい声が耳に沁み込む。心を包む。浮かんだ微笑みは陽射しに似て尚優しくて、信じきった人の顔というのはこんなにも晴れ晴れとしたものなのかとコナンの胸を打った。少し苦しくなる。安堵と愛しさが渦巻いて、身体じゅうを満たす。

「蘭姉ちゃんの背より伸びる前に、絶対帰ってくるよ。それで、きっと蘭姉ちゃんと一緒にアーチを作るんだ」

「一緒に作ってくれるかな」

 その光景は少々想像しがたいと、蘭はくすくす笑う。

 自分でも、勢いに任せて言いすぎたと内心苦笑いを零しコナンは見上げた。

「じゃあボク、博士んち行くね」

「うん、私も園子の家に戻るわ。途中まで一緒に行こう」

 差し出す手、待っていたとしっかり握る手、二人はともに階段を下りた。

「きっと新一兄ちゃんの事だから渋々だと思うけど、ちゃんと手伝ってくれるよ」

「あら、そう?」

「だって、蘭姉ちゃんにお願いされたら断れないもん」

「私、そんなにおっかないの?」

「そ、そうじゃなくて……」

「冗談よ、冗談」

 軽やかな蘭の笑い声が狭い階段に響き、慌てるコナンをくすぐった。

 嗚呼、いつまでも、この女には敵わない

「バラ、ありがとうねコナン君」

「蘭姉ちゃんの為ならなんだって」

 コツコツと数段足音を鳴らした後、蘭はそっと言った。

「アーチを作る時は、コナン君にもお願いするから……新一と三人で、やろうね」

 どんな想いを込めて彼女は伝うのだろう。

 ただまっすぐを向く彼女の視線の先を見据え、コナンは頷いた。

「……うん、三人でやればきっと、立派なのが作れるよ」

 彼女のことしか考えていない心で答える。

 次の花が咲く頃には、三人で、バラを見上げているに違いない。

 

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