大きな杉の木の下で

 

 

 

 

 

 長い長い外階段を必死に駆け上がり、最上階の一つ手前で、コナンは扉から建物の中へ飛び込んだ。

 まだここまでは火の手は回っておらず、見渡せば、しんと静まり返った廊下、規則正しく並ぶ無数の扉、ひときわ明るいエレベーターホールが目に入った。

 目指すは廊下の突き当たり、イベントホール。

 走り通しで満足に息も出来ず身体中が痛んだが、かまっている余裕はなかった。

 一秒でも早く彼女の元へ。

 いつの時も朗らかに笑い、愛くるしい声で名前を呼んでくれる彼女の元へ。

 今にも崩れそうになる足を懸命に動かし急ぐ。

 体当たりする勢いでホールの扉を開き、真っ先に目に飛び込んだ光景に息を飲む。

 わずかによろめき、コナンはホールの中央へ歩み出した。

 落ち着いたオレンジのじゅうたんの上に横たわる、彼女の元へ。

 もはや息もせず、鼓動も刻まない…愛くるしい声で呼んでくれる事も穏やかな眼差しを向けてくれる事もいたずらを叱ってくれる事もなくなった彼女の元へ。

 分かり切った事を確認する為に、コナンは傍へと歩み寄った。

「よかった……」

 魂の欠けた声がもれる。

 よかった……せめて彼女を見つけられて

 階下で三度起きた爆発に巻き込まれ、失ってしまったと思っていた。

 彼女はそこにいなかった。

 ここにいたのだ。

 手も足も顔もきれいなままで、ただ心臓を撃ち抜かれて、見た目はきれいなままで、ここに。

 死に顔が見える近くまで歩み寄り、コナンはがっくりと崩れた。

「よかった……」

 せめて傍で死ねると、呟きをもらす。

 名前を呼びたかったが、どうしてか声が出せなかった。心から叫んでいるのにどんなに力を込めても声にならない。

 震えながら、無音で叫びながら、コナンは恐る恐る守れなかった愛しい人に手を伸ばした。

 硬直しきった頬に指先が触れる――寸前、見えない手がコナンの手をしっかと掴んだ。

「!…」

 それは幻だと、己の恐怖心が生み出した偽物だと、目に見えない手は確かなぬくもりでもってコナンに教えた。

 誰が教えてくれているのか、理解する。

「――蘭!」

 ついに声は放たれた。

 

 

 

 はっと目を覚ます。

 自分がどこにいるのか何をしていたのか、何も分からないままコナンは、ぼんやり見える天井をただ凝視し唇を震わせた。全身が凍るように寒く震えが走ったが、右手だけが、痛いほど熱かった。

 即座にそちらに顔を向ける。

「蘭……姉ちゃん」

 声は出せるだろうかと恐々と、乾いた唇で名を綴る。

 祈るように両手でしっかと右手を包み、蘭はかたく目を閉じ俯いていた。

 声が耳に届いた途端はっと目を開く。

「オレ……ボク――」

「今はね…まだ朝の四時」

 ちらと部屋の時計を確認し、蘭はそっと言った。

 やや離れた場所から、小五郎の寝息が聞こえてくる。

 そこでようやくコナンは、小旅行で来た先のペンションにいるのだと理解した。

「あの、ボク……」

 自分のベッドの脇に座り、右手を包み込んでくれていた蘭におずおずと口を開く。

「……変な夢?」

 笑っているような今にも泣きそうな、強い顔で蘭はそっと尋ねた。

 コナンははっと息を飲み、唇を引き結び、わずか置いて首を振った。なんて情けないものを見たのかと、気だるい目眩が訪れる。

 

 どれくらい……危険なの?

 

 昨日森の中で蘭に問われた言葉がぼんやりよみがえり、目眩をさらに濃くさせた。

 しかし不思議な事に、蘭に包まれた右手の熱さが、重苦しく圧し掛かるものを残らず追い払う。

「嘘……何回も呼んでたくせに」

「え……」

 声が出せないとあがいた分だけ名を呼んでいたのだと知り、コナンは顔を強張らせた。

 少し異なる強張った顔で、蘭はじっと、気まずい顔をする少年を見つめていた。

 コナンは身体を起こすと、右手を見やり、蘭を見やり、小さく首を振った。

「蘭姉ちゃんが手を握ってくれたから…変じゃなくなった」

 嘘と本当を交え伝える。

 混じる嘘を見咎める上目づかいで、蘭は黙ったまま視線をぶつけた。

 と、不意に視線が落ちる。

 二人の繋がった手に。

「わたしの…手?」

「うん。蘭姉ちゃんの手が……それは偽物だって教えてくれた」

 コナンはしっかり握り返し、いつものそれとは違う低い声で続けた。

「蘭姉ちゃんが手を握ってくれたから、そんな事にはならないって……オレに」

 夜とも朝ともつかない時間にかこつけて、新一が言う。

 暗い中ぼんやり浮かぶ顔を熱っぽく見つめたまま、蘭はじっと聞いていた。彼がどんな夢を見たのかは分からないけれど、彼が夢に苦しめられたのは分かる。

 全てを追求したい気持ちと、自分が誓った言葉とがせめぎ合う。どうしても振りきれない。喉元まで出かかる。

 懊悩する蘭を苦しく見つめ新一は絞り出すように言った。

「言えなくてごめん…苦しませてごめん…でも、本当に……蘭が手を握ってくれたから、恐いものは何も――なくなった」

「なによ……」

 戸惑う顔で笑い、蘭は言った。

「蘭姉ちゃん、でしょ。そんなだから…コナン君は……」

「ごめんなさい……ごめんなさい、いつも困らせて……」

「それはナシ」

 そんな言葉はいらないと、すぐさま首を振る。

「蘭姉ちゃん……」

 不意にふふと笑い、蘭は握った手を持ち上げた。

「苦しそうで、つらそうで、かすれた声出して、何度も私の名前呼んで、怖い思いしてたくせに」

 からかう声で言われコナンは慌てふためく。このしたたかな女はまたしてもやらかすのだ。

 こんな風に小憎らしい笑顔で、強い瞳で。

「ごまかしたって通用しないんだから」

 しっかりと二人を見据えて。

「残念だったわね、コナン君」

 むくれた顔のひとつもしようとした直後、包み込んだ手を額に押し当て、蘭はきつく目を閉じた。

 程なく眦から涙が零れる。

「あんな声で呼ばれて……私も怖かった」

 だから私の手も握って

「怖くなくなるんでしょ」

「うん。蘭姉ちゃんほど力はないけど……」

「なによ、怪力女って言いたいの?」

 少し濡れた声で笑って、積もる重圧を振り払う。

「……だって、蘭姉ちゃんだし」

 泣くより笑いたいならと、コナンはしたたかな女に寄り添う。

「コナン君ひどーい」

 軽やかな笑い声が蘭の唇から零れる。

 つられてコナンも少し笑った。しかしすぐに険しい顔付きになる。

 蘭が、ぴたりと笑うのをやめたからだ。

「ね……コナン君」

「……うん」

「私が昨日あんな事…聞いたから……コナン君、怖い夢を……」

 見たの?

 震える声を絞り出し、訴えるように見つめてくる蘭を黙って見つめ返す。ひどく苦しそうに歪み、後悔さえも見て取れた。

 

 どれくらい……危険なの?

 

 誰が彼女にこんな顔を…他ならぬ自分へと怒りが沸き起こる。

 ちっぽけな自分は、近い将来、夢をなぞる事になるだろう。何一つ出来ないまま、せめて愛しい人の傍で死ねる事に愚かにも感謝しながら命を落とすのだろう。

 だが…彼女はそれを止めた。

 防いだ。

 気付かせて、強い力で引き上げてくれた。

 真実に。

 コナンは、未だ包まれたままの自分の手を見た。

 彼女の手を見た。

 いつだってこの手が救いをくれる。

 揺らいでも、脅かされても、夢の中でも。

「大丈夫……」

 言葉を噛みしめる。

「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん。三人だから怖くない」

 彼の口から『三人』を聞き、蘭は胸が高鳴るのを感じた。

 コナンではない眼差しがまっすぐ注がれる。

 受け止めるとさらに鼓動は早くなり、身体中に貼り付いていた凍えるような恐怖がみるみるはがれ落ちていく。

「三人だから……」

「そうだよ」

 小さな手がしっかりと真実を渡してくるのを、蘭は同じくしっかりと受け止めた。

 大丈夫だねと胸に刻む蘭に、コナンは恐る恐る口を開いた。

「あの、蘭姉ちゃん。一つわがまま言ってもいい?」

「何よあらたまって。コナン君はいつでもわがままでしょ」

 くすぐったい笑みで見やる蘭にえへへと笑い、部屋の隅に置かれた彼女の荷物を指し示す。

「昨日の大杉のところで一緒に……写真を撮ってほしいんだ」

 一枚だけでいいから

 小さく驚き、蘭ははっと瞳を見開いた。やや置いて頷き、小さく肩をすくめる。

「ほーんと、コナン君てばわがままなんだから。いいわよ。鬼ごっこで私にタッチ出来たら、撮ってあげる」

 あ、昨日してくれなかった背中の流しっこにしようかな

「え、いや…それは……」

 したたかな女の提案に、わがままな男が慌てふためく。と、向かいのベッドで気持ちよさそうに高いびきをかいていた小五郎が、ひときわ大きな声を上げ二人の間に割って入った。

 同時に振り向き、同時に顔を見合わせ、同時に小さく笑う。

「今から行こう」

 言うなり蘭は、包み込んでいた手をそっと…まるで壊れ物を置くようにそっと離し立ち上がった。

「まっすぐ行って写真を撮って帰ってくれば、朝食には間に合うよ」

 ぬくもりが去って少し寂しく感じる手に目を落とし、蘭を見上げて、コナンは頷いた。

 二人は出来るだけ音を控えて背中合わせに着替えると、荷物を手にそろりそろりとドアから廊下へ出た。

 片方が手を差し出し、もう片方はそれを待っていたと手を握る。

 少し照れながらコナンは繋がる手を見つめ、嬉しさに泣きそうになる自分は見ないふりで、そっと笑顔を浮かべる。

 きっと、おそろしくしまりのない顔をしている事だろう。

 そんな顔で写真に収まるのはごめんこうむりたいが……そう悪い気もしない。

 

 彼女と二人…三人でいる証をせめて一枚、残したい。

 そう遠くない未来に、一枚の写真を眺めながら、こんな時もあったねと笑ってやる為に。

 

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