コーヒーとサブレと

 

 

 

 

 

 そろそろ翌日になろうかという時間、蘭は、眠る前にもう一度コナンの様子を見ようと隣の部屋に向かった。

 布団に入るまでは、傷が少々痛むくらいで他に異常は見られなかったが、医者から解熱剤と痛み止めが処方されているとなれば心配は尽きない。

 何かあってもうろたえないよう構え、蘭はそっとドアを開いた。

「!…」

 しかしどんなに気を強くといっても、無理なものは無理だ。

 出来ないものは出来ない。

 眠っているか、眠れなくても横になっているだろうと思っていたが、暗がりの中起き上がり、傷を押さえて痛みに喘いでいるコナンの姿に息が止まりそうになる。

「コナン君!」

 すぐさま傍に駆けより額に手を当てる。

 案の定焼けるように熱い。

「なんとも…ない……」

 へいきだよ

 喉に詰まる声でそんな事を言われて、誰が信じるだろう。

「すぐ薬持ってくるから。すぐだからね」

 一秒でも離れたくない気持ちを言葉に残して、蘭はキッチンに置いた薬を求めて駆けた。水を汲む手が震え、慌てて叱責する。念の為タオルも一緒に部屋に戻ると、済まなそうに見上げるコナンがいた。

 メガネがない今は、新一……にも見えた。

「ごめんなさ……」

 痛みと後悔とに歪んで掠れた声に、蘭はすぐさま首を振った。そしてはっと気付き、強張る顔に笑顔を浮かべる。

「なんて顔してるの、薬飲んだらすぐに楽になるから大丈夫よ」

 寒さと痛みに苛まれ細かな身震いを放つコナンの肩を抱え、精一杯の声で励ます。眦に滲んだ涙を瞬きで追いやり、蘭は薬を手渡した。ついで水を渡し、手を添えて支える。

 辛そうに飲み込んで、コナンは息をついた。

「もっと早く見にくればよかった……ごめんねコナン君」

「ううん…蘭姉ちゃんに…心配かけた罰が当たったのかなって……」

「バカな事言わないの。もう、コナン君らしくない」

 腕に収まる小さな身体は、布越しでも分かるほど熱を帯び蘭の心を脅かせた。苦しさに全身で息をする姿にともすれば泣き出してしまいそうになり、慌てて飲み込む。

「でも……いつも…蘭姉ちゃんに心配――」

「それはもういいの。さっき指きりしたからそれはもうおしまい」

 弱々しくもれる声を人差し指で押さえ、蘭は軽く頷いてみせた。

「どうせこれからも、何回でも無茶するんでしょ」

 軽く触れる蘭の人差し指に、熱とは違う赤で頬を薄く染め、コナンは素直に頷いた。すぐに首を振って打ち消す。

「ウソばっかり。今頷いたじゃない」

「い、今のは……」

「まだ寒い? 傷は痛む?」

 少し声をひそめて蘭は尋ねた。

 間近の真剣な眼差しにどきりと心臓が跳ね上がる。寒気も痛みもなくなるほどに。コナンはそれに任せて首を振ろうとしたが、身体の芯からわき起こる震えを止められないのでは、すぐにウソと見抜かれてしまうだろう。

 薬が効くまでまだ少しかかる。

「……ちょっとだけ」

 観念して答えれば、蘭は小さくそうと受け止めしばし迷う素振りを見せた。

「この姿勢で、つらくない?」

「……この方が楽」

 彼女に抱えられるほど小さい自分が無性に悔しく情けなかったが、同時に心地よくもあった。心の深い場所で安心出来るのもそうだし、支えられて身体が楽になっている部分もある。

 横になると傷の痛みが増しつらく仕方なく起きていたが、身体を休める事は出来ずどころか気力も体力も削られるばかりで疲れていく一方だった。

 そこに彼女は来てくれた。安らぐ腕を差し伸べてくれた。背中を任せられる身体の柔らかさが、ちょうどよかった。

 ヘンな意味じゃなくて……

 慌てて言い繕う。誰にともなく。

「ゴメンねコナン君、ちょっとだけ我慢してて」

 言うや蘭はさっと立ち上がり、部屋を出ていった。

 馬鹿な考えを見透かされたかと、上手く働かない頭で後悔する。

 今まで彼女の腕で身体で覆われ守られていた部分が急激に冷え、より一層寒さが沁み込んでくる。

 痛みも相まって、もう泣きそうだ。

 堪え切れず息を吐き出す。

 ずくんずくんと脈打つ疼きは相変わらずで、未だやってこない薬の効果を恨む。

 なに情けない事を…工藤新一……

 きりきりと奥歯を噛みしめて自分の名前を刻んでみるが、一度でもさみしいと…彼女が離れてしまったのを嫌だと感じてしまったせいで心は弱っていくばかりだった。

 と、空気を揺らして蘭が戻ってきた。ひどくほっとしている自分に薄く笑い、顔を上げたその時、額に熱く柔らかいものが触れた。

 それが蘭の唇だと分かった瞬間、目が眩み倒れそうになる。

「大丈夫だから。心配ないから。だからそんな顔しないで……」

 コナン君……新一

 優しく抱きしめ、蘭は囁きをもらした。

 さっきまでの、少し無理した明るい声ではなく、芯まで響く熱っぽい囁きにコナンは目を閉じた。

「何回無茶したっていいよ。ちゃんと戻ってくるって、アイツもコナン君も約束したんだから、ちゃんと待ってるよ」

 時々怒っちゃうけど

 ふと笑い、蘭は静かに頭を撫でた。

「本当は、もう…待たせたくねえよ……」

 身体の内と外を苛む熱と痛みに朦朧としながらも、コナンは新一の代役を果たそうと懸命に言葉を継いだ。

「て…し、新一兄ちゃんが……」

「うん…うん、分かってる。ちゃんと分かってるよ」

 そっと腕がほどかれ、後ろ抱きに抱えられる。見れば、ベッドによりかかった蘭にもたれる形で支えられていた。

「だからもう喋らないで」

 彼女のカーディガンがかけられ、毛布でくるまれる。

「これ…蘭姉ちゃんがつらい……」

「しー、大丈夫。私は平気……三人だもの」

 そうだよねと願いを込めて聞かれては、口をつぐみ頷くしかなかった。おずおずと頭を預ければ蘭の肩で、腕も足も一つとして無理のない姿勢に驚くほど身体が楽になる。

 布越しにじわりと伝わる体温が寒気を追い払い、柔らかく受け止める身体が痛みを鎮める。

 もちろん、照れや気恥ずかしさ申し訳なさはあったが、疲れ切った身体を何とかして癒そうと心を砕く蘭に素直に甘えたい気持ちの方が勝っていた。

 

 その時出来る方が出来る事をすればいい

 

 今だけはと甘え、安心出来る唯一無二の場所で眠りに就く。

 

 

 

 薬が効いたのか蘭の献身のお陰か、夜が明けて自然に目が覚めるまで、寒気も痛みもぶり返す事無く眠る事が出来た。

 目を開けた時、いつもと違う視界に小さく驚きすぐに納得し、またすぐにはっとなってコナンは身じろいだ。

 体重の移動で気付き、蘭もゆっくり目を覚ます。

「具合はどう?」

 何を置いても自分を心配してくれる声に心から安堵し、コナンは大丈夫と答えた。

「うん、昨日と全然声が違ってる。良かった」

 ほっと胸を撫で下ろす、柔らかな声。コナンは半ば無意識に額を押さえた。昨日、ここに、彼女の接吻を受けた。熱に浮かされた夢とも疑うが、あの感触は、間違いなく……。

「まだ熱っぽい?」

 額を押さえる仕草に勘違いして、蘭は顔を覗き込んだ。

「えと、あ…あ、うん、ちょっと」

 一つをごまかし一つをごまかしきれず、コナンはぎくしゃくと頷いた。

「そうだね……」

 おでこをくっつけ神妙な顔でコナンの目を覗き込み、蘭は仕方ないかと頷いた。

 純粋に心配していつも通りのやり方で熱を計っただけだが、この女わざとやっているのでは…昨日の事と相まって、コナンは目を眩ませた。

「身体の方はどう? いくら横になるより楽だからって、寝にくかったでしょう」

「ううん、本当に、ぐっすり眠れたよ」

 お陰でこんなに元気になったと、心配そうに見守る彼女の前で立ってみせる。多少ふらつくが、昨日の今日では仕方ない。これくらいは彼女も許容してくれるだろう。

「……よかった」

 優しい眼差しにどきりと胸が高鳴り、同時に申し訳なさが募る。

「本当にありがとう、蘭姉ちゃん」

 礼を言えば、陽射しに似たあたたかな微笑みが注がれる。

「蘭姉ちゃんこそ、こんな、まるで…野営みたいな寝方……」

「何よ野営って、もう、コナン君は変な言葉ばっかり覚えて」

 思いがけない一言に笑いながら、蘭は簡単に毛布を畳んだ。

「空手で鍛えてるもの、ちょっとやそっとじゃ響かないわよ」

 証明するようにぐっと拳を握ってみせる。

「じゃあ私朝ごはん作るね。消化のいい物作るから待ってて」

 少し固まった節々をほぐしながら立ち上がり、蘭は部屋を後にした。

「あ、起きてるなら、ちゃんと、私のカーディガン着てるのよ」

 戸口で念を押すのも忘れない。

 はあいと子供の声で答え、振り返ったコナンは、毛布と一緒に置かれた蘭が愛用する空色のカーディガンに目を落とした。

 少し、大いに顔を赤くして手に取り、ためらいつつも袖を通す。ろくに動かせない右腕に苦労しながら襟元を合わせると、過日と同じく、彼女のぬくもりが感じられた。

 これ、ホントあったけーよな……

 偉大で万能なカーディガンに心から感謝する。

 

 

 

 

 朝食を済ませ、少し慌ただしく出かける蘭を見送ってから数時間。

 布団に横になり、眠るともなくまどろんでいたコナンは、規則正しく訪れた空腹に身体を起こした。

 お昼は用意しておくから、食べられるだけ食べてね

 出がけに蘭が言っていた通り、リビングに行くと、確かにあった。小さくむすんだおにぎり、左手だけでも食べやすいようにと一口大に切り分けつまようじの刺してある卵焼きにソーセージ。そして一言。

『早く良くなりますように』

 まったく、あの女は……何回泣かせりゃ気が済むのか

 しょうもなくにやける顔で、コナンは食卓に着いた。

 食べてしまうのが惜しいという気持ちと、彼女の優しさを活力にしたいという気持ちの両方を味わいながら、最後の一つまでしっかり噛みしめる。

 何の変哲もない塩むすびとソーセージ、ほんのり甘い卵焼き。

 十分に腹は膨れ、それ以上に心が満たされる。

 時計を見やると、一時半を少し過ぎたところ。

 身体は少し気だるく、まだ眠気はあったが、一時間くらいなら起きていてもいいだろうとコナンは適当な本を探しに小五郎の寝室に入った。三段ラックに収めた小説本の中から一冊抜き取りリビングのテーブルに置いたところで、ふと、コーヒーが飲みたい欲求に駆られる。

 昨日のような、体力をこそぎ取る痛みに苦しめられるのはごめんだが、ごく薄いのをほんの一口ならそう傷に障らないだろう。

 しばしの葛藤の後楽天的に納得し、食器戸棚の上段にしまわれているコーヒーの瓶を取ろうと椅子に乗り上げる。ちょうど手にしたところで、玄関から、扉の閉まる音と聞き覚えのある朗らかな声とが聞こえてきた。

「ただいまコナン君、お昼食べられた?」

 しまったと、ぽっかり口を開け後悔する。

 階段を上る音、鍵を開ける音、扉を開ける音…どれも全く聞こえていなかった。帰宅はもっと遅いだろうと思い込み、全く注意を払っていなかった。

 何と迂闊な探偵だろう。

「あ、良かった。全部食べられたんだね。本読む元気も出たんだ」

 良かったねと繰り返しながらリビングに移動した声に全てを諦める。彼女の嬉しそうな声に、深く反省する。

 そして、ついに。

「コナン……くん?」

 彼女はキッチンに入ってきた。

 左手にあるコーヒーの瓶を見て、声ががらりと変わるのを、コナンはどこか遠くに聞いていた。

 じっとり半眼になった蘭に向き直り、えへへと笑いかける。

「は、早かったね……」

「コナン君が心配で早退したのよ……なにそれ」

 奥歯を噛みしめた強い声が耳に届く。

「コー……コーヒー豆の抽出液を乾燥させて粉末状に加工したインスタント食品…だよ……」

 そんな事を聞いているのでないのは百も承知、いっそ破れかぶれに説明すれば、ピクリとも表情を動かさず蘭は聞いた。

「飲みたいの?」

「えと……」

「飲みたいの?」

「……はい」

 覚悟を決めて頷くと、途端ちくちくと刺さる声が紡がれる。

「まったく……昨日一晩じゅう、痛い痛い、寒い寒いって散々人を心配させといて……」

「そ、そんなには言ってな……」

「言ってました」

 ぴしゃりと叩き付けられては、それ以上言葉が継げなくなる。瓶を置き、静かに棚の戸を閉める。

「しかもなに、カーディガンは着てない、靴下はいてない、ちょっと目を離すとすぐこれなんだから!」

「ご、ごめんなさ……」

「謝れば済むと思ってるでしょ、コナン君は! もう、いい加減見捨てちゃうわよ」

「ら、蘭ねえちゃ……」

 泣きそうな声で縋る。

「ウソです。ほら、下りて」

 本気で言っているのでないのは分かったが、彼女の顔は怖いままだ。

 手を借りて椅子から下りたコナンは、寝室へと急き立てられ、見張る前でしっかりカーディガンと靴下をはいた。

 よしと頷く彼女に、恐る恐る口を開く。

「薄いの一口なら大丈夫かなって思って……」

「今はどんな具合なの? 詳しく教えて」

「あ……うん。えと――」

「言っとくけど、嘘言ったりごまかしたりしたら承知しないわよ」

「し、しないよ……」

「しないわよね」

 言い淀むコナンに鋭いひと睨みをくれ、蘭は促した。

 痛みの多少、熱の有無、食欲をそれぞれ確認し、今のところは問題ないと判断すると、立ち上がりざま蘭は言った。

「しょうがないから、コーヒー入れてあげる」

「ホ、ホント……?」

「ええ、美味しいおやつもつけてあげるわ」

 すみません、ごめんなさい、ありがとう、思いつくありとあらゆる言葉を送りながら見上げると、どう受け取っていいか分からない複雑な笑みを浮かべた彼女と目があった。

 瞬間、言い知れぬ不安が胸を過ぎる。

 それは数分後、確かな現実となってコナンを直撃した。

 角トレイにのった、二人分のコーヒーカップと二つのレーズンサンドに気付いた時の衝撃は、言葉に尽くせぬものがあった。

「レ!……ズン……」

 零れ落ちんほどに目を見開き硬直するコナンを横目に、蘭はふふんと鼻を鳴らした。

「昨日、ポアロの梓さんからおすそわけで頂いたものなの。コナン君レーズンダメだけど、今日は特別良い子にしてたからご褒美よ」

 蘭の言葉は百万本のとげを束ねたものより強烈で、レーズンの襲撃も相まってコナンの心を凍り付かせた。そのせいで支離滅裂だとか矛盾しているとかには全く頭がいかない。

 嗚呼、またこの女に泣かされる――

「よかったら私の分も食べていいからね」

「蘭ねえちゃん……」

 布団の上、コナンはがっくりしょぼくれて、楽しげな彼女を見やる。

 そこでようやく蘭は声を交代させた。

「反省した?」

「はい……ごめんなさい」

「何がごめんなさいなの?」

「コーヒー……」

「他には?」

「……カーディガンと、靴下……あと、お昼ありがとう、すごく美味しかった」

 食べやすくて

「なのに言う事聞かなくてごめんなさい……」

 心底反省していると、コナンは上目づかいに様子をうかがいながらもごもごと謝った。

「……もう、コナン君にそういう顔されると弱いんだよなあ」

 いつもそれでごまかされちゃう

 口の中でぶつぶつ零し、蘭はポケットに手を入れた。

「もういいわ。これ食べて、十分反省してね」

 言葉と共に差し出された二枚のサブレに、コナンは目を瞬いた。

「レモンサブレよ。コーヒーに合うでしょ」

 意地悪を、するだけで終わらない彼女の優しさに顔がほころぶ。

「ありがとう蘭姉ちゃん!」

 命の次に大事なものを受け取るほどの感謝を込めて、コナンは声を張り上げた。

「それ食べたら、またちゃんと横になるのよ」

「はあい」

 言う通りにしますと誠意を込めて頷けば、目の底で感謝の涙がじわりと滲んだ。

 こんなに無敵の彼女が相手では、何度泣かされても仕方ない。

 

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-付け足し-
利き手が使えない時…彼女に食べさせてもらうというシチュエーションは不動の王道。
外せません。
その他に、一人の時片手でも食べられるようにとおにぎりにひと口おかずを用意する優しさとか、いいですよね。
そういったささやかだけど実にありがたい偉大な心配りが蘭姉ちゃんだと思うのです。
そんなにしなくてもいいのにと困ってしまうくらいの優しさ。
泣いて感謝してもし足りないくらいの優しさ。
本編ではこれ以上はくどくなるので省きましたが、治るまでの間、コナン君の食事は茶碗に箸ではなくおにぎりにフォークで食べやすく。
この二人はとにかく優しく優しくいてほしいので、とことんまで甘く優しくいくであります。
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