雷雨の後

 

 

 

 

 

 からりと晴れ渡った初夏の休日。

 いつもより少し遅い朝食を、三人の食卓でのんびり味わう。

 といっても、相変わらずの蘭と小五郎の熾烈な攻防、どうにかして野菜を食べさせたい蘭と、どうにかしてそれをかわしたい小五郎の、壮絶な戦いはいつも通り繰り広げられていたが。

「はいはい、ちゃんと食べましたー」

 箸の先にも満たない細切れのレタスを大げさに噛みしめて小五郎が言えば、

「そんなの、食べた内に入らないわよ!」

 蘭はレタスと水菜とプチトマトを盛り付けた皿からごっそりレタスをつまみ上げ、小五郎の目玉焼きの皿に盛る。

「おいおい、食べたって言っただろ……」

 目を白黒させてしょぼくれる小五郎を目の端で見やり、いつもと変わりないってのはいいねえと半ば投げやりにコナンは笑った。

「そうだコナン君、出かけるのは十一時頃だったっけ」

 取り分を食べなかったら承知しないと小五郎にひと睨みくれ、すぐさま柔に切り替えて、蘭は振り返った。

「うん、博士の家に十一時だから、十五分前になったら出かけるね。夕飯までには帰ってくるから」

 月の終わりに博士の引率で探偵団の面々とキャンプの予定、その準備の目的で、今日集まる事になっていた。

「分かった。美味しい晩ご飯用意して待ってるね」

「うん、楽しみにしてる!」

「……あー、オレは晩飯いらねえから」

 さりげなく割り込んだ小五郎の一言で、蘭の目がぎらりと移り変わる。たった今まで優しく楽しげに話していたのが、嘘のように。

「あまり遅くならないようにね……!」

 放たれる静かな怒気がコナンの頬をひやりとさせた。自分に向けられたものではないとはいえ、恐ろしい事に変わりはない。

 彼女の雷雨は強烈だ。怒らせないよう、気を付けなくては。

 

 

 

 後片付け、掃除、洗濯の手伝いを済ますと丁度出かける時間となり、コナンは蘭に見送られ行ってきますと階段を駆け下りていった。

 それから数時間。夕飯前には帰るはずだったコナンが帰宅したのは、夜の八時を過ぎた頃だった。

 一人ではなく、高木刑事に付き添われて。

 呼び鈴の音に玄関に出た蘭は、事前に電話で説明を受けていたとはいえ、自分の目で見るコナンのあまりの惨状に言葉もなかった。

 一日晴天だったというのに髪も服もびしょ濡れで、腕といわず足といわず身体じゅう擦り傷だらけ、おまけに片手にはひび割れたメガネ。それだけでも絶句に値するが、何より目を引いたのが、赤黒く染まった右肩だった。

 ここ数日近隣で発生していた白昼堂々の強盗事件。その犯人を、見事彼が捕まえた……が、その際犯人ともみ合いになり、隠し持っていたナイフで右肩を切られ負傷。

 直後犯人は騒ぎを聞いて駆けつけた警官によって逮捕され、同行していた阿笠博士や探偵団のみんなに被害が及ぶ事はなかった。またコナンの怪我も比較的軽症で、念の為受けた検査の結果も心配するものは何一つなかった。

「今日は非番だったんですが、偶然近くまで買い物に来てまして……それで、コナン君を送ってきたというわけなんです」

「わざわざありがとうございます、高木刑事……」

 蘭は深く頭を下げた。

「これ、コナン君を診た医師から渡されたもので、痛み止めと解熱剤です。今は注射が効いてるので大丈夫ですが、夜中に切れるかもしれないので、その時に飲ませてあげて下さい。それじゃ僕はこれで……あ、蘭さん、コナン君の事、あんまり叱らないでやって下さい」

 帰りかけて向き直り、高木は未だ玄関先で俯き立ち尽くすコナンを見て、蘭を見て、言った。

「ちょっと無鉄砲なところがあるけど、彼のお陰で無事犯人を捕まえる事が出来ましたし、それに……帰りの車の中でずっと、彼、蘭さんに心配かけた事を気にしてしょげてました。だから、あまり叱らないであげて……」

 そう言って、心配そうに親友…コナンを見やる高木に曖昧に頷き、蘭はもう一度頭を下げ彼を見送った。

 静かに閉じた扉の向こう、階段を下りていく高木の足音が消えて数秒、更に数秒経ってから、コナンはおっかなびっくり蘭の顔を見上げえへへと愛想笑いを浮かべた。

「服汚しちゃってごめ――」

「……どうしてびしょ濡れなの」

 あからさまに遮って、蘭は、平坦な声で尋ねた。

「あの、犯人が目くらましで作動させたスプリンクラーで……」

 もごもごと答えるコナンにじっと目を向けたまま、蘭は同じ平坦な声で二つ目の疑問を投げかけた。

「どうして擦り傷だらけなの」

「えと……三階から中庭の木に飛び降りた時に……メガネもその時割れて……」

 いよいよ声が小さくなるコナンを凝視したまま、蘭は変わらぬ平坦な声で三つ目の疑問を口にした。

「どうして肩を怪我したの」

 腹の底がぞっと冷えるような彼女の笑顔を目にして、コナンは口ごもった。

「どうして肩を怪我したの」

「ら、蘭姉ちゃん…怒ってる……?」

「……なんでそう思うの?」

 いつもと明らかに違う、歯を食いしばった笑顔で蘭は聞き返した。

「だ、だって…すごいおっかない顔してるから…声も違うし……怒ってるのかな…って」

「あたりまえでしょ……当り前でしょ!」

 すざまじい落雷にコナンは思わず腕で顔をかばった。途端走る傷の痛みに、こらえきれず情けない声をもらす。

「いてて……」

 それを見て、蘭は更に奥歯を噛みしめた険しい顔になる。

 余りに恐ろしい形相にコナンはごくりと唾を呑んだ。なるべく傷に響かぬようゆっくり右腕をおろし、かすれた声で一言を渡す。

「ごめんなさ――」

「もういいから、早く着替えて、寝なさい」

 しかし彼女は受け取るのをはっきり拒み、見下ろしたまま強い声で言い放った。

「あ…うん。……あの、頭だけでも洗いたい……」

 様子を窺いながら、コナンはびくびくと言葉を紡いだ。

 案の定彼女の眼差しはきつさを増し、コナンは慌てて口を噤んだ。

「じゃあ手伝ってあげるから早くお風呂場へ行って」

 着替え持ってくるから

 言うなり蘭は踵を返し小五郎の部屋へと入って行った。自分でやるからと言い出せる雰囲気ではないのを読み取り、コナンは戸惑いながら浴室へ向かった。

 

 

 

「あの…き、着替えるから……蘭姉ちゃん、むこう向いてて……」

 渡された下着とパジャマを左手に抱え、コナンはおどおどと蘭を見上げた。

 しかし彼女は腕を組んだままずうんと立ち尽くし、黙ってコナンを見下ろしていた。

「……何隠してるの?」

「え…いやそれは、ほら……」

 コナンは力なく笑い、異性の前でみだりに晒すべきでないものだとごまかそうとするが、蘭の言う隠し事は別にあり、彼女はそれをすでに見抜いているようだった。

「……正直に言いなさい」

 いたずらを咎める時とは違う、やけに堪える冷たい声が頭上から降りかかる。観念してコナンは口を開いた。

「二カ所くらい…内出血してて……あ、でも、検査したけどなんでもないって――」

「黙って」

 ぴしゃりと言い放ち、蘭はシャツをまくり上げた。

 右の脇腹と左の肩口に、一目でそれと分かる打撲跡があった。

 変色した皮膚に眉を寄せ絶句する蘭を見ていられず、コナンは顔を伏せた。

 この原因について何を言われるだろうかと息も詰まる思いだったが、彼女は口を噤んだまま着替えを進めた。

 右肩の傷に障らぬよう、極力動かさないで済む順番で服を着せてくれる蘭に礼を言うが、彼女はただ「はい」と答えるだけだった。

 下着はさすがに一人で任せてくれたが、そこから髪を洗い終えるまで、何度礼を言っても蘭はただ「はい」と短く応え後は沈黙を通した。

 ほんの十分程度だったが、その十分は恐ろしく長いものだった。

 沈黙とはこんなに恐ろしいものだったのか。嫌というほど思い知る。

 髪を洗う最中は全くの無言で、他は短い一言のみ。ちくちくと刺さる無音にコナンは目も眩む思いを味わった。

 

 

 

「乾かすから、こっち来て」

 書棚横のコンセントにつないだドライヤー片手に、蘭はそっけなく言い放った。

 洗面所の前で所在なげに立っていたコナンは、頷くやすぐさま彼女の元へ向かった。

 どんなに考えても怒りを鎮める術が思い浮かばない。出てくるのは後悔ばかり。渦巻くのは、彼女への想いばかり。

「蘭……姉ちゃん」

「座って」

 せめて一言でも受け取ってもらえたらと名を呼ぶが、蘭は顔を見ようともせず自分の前を指さした。

 仕方なく、示された場所に座る。

 首にかけていたタオルが頭にかけられ、やや乱暴に濡れた髪を拭われる。

「お、おじさんは……?」

「今日は帰ってきません」

 聞くべきか迷いながら口を開くが、帰ってきた素っ気ない一言、説明する義務はないとばかりのよそよそしい物言いに、息を詰める。

 それはそのまま彼女の怒りを表しているようで、こらえきれずコナンは唇を噛んだ。

 と、不意に手が止まりしばし沈黙が続いた。

 蘭……

 受け取ってもらえない名前をひっそり呟き、背後の様子をうかがう。

 ややあって、頭に触れたままの彼女の手が微かに震え始めた。

 それが泣いているからだと気付いたのは、押し殺す蘭の息遣いがほんのわずか聞こえた、瞬間、だった。

「!…」

 泣かせてしまった

 またこの女を、泣かせてしまった……

「蘭姉ちゃん……ボク、約束したよね? 絶対蘭姉ちゃんのところに戻るって、約束したよね……?」

 彼女と指きりした夜をさしコナンは必死に呼びかけた。たかがあんなものでは彼女を安心させられなかった、ちっぽけで不甲斐ない自分にしょうもなく腹が立つ。

「したよ! 疑ってなんかいないよ! でも……怖いものは怖いんだからしょうがないでしょ」

 怖かったんだから

 血を吐く勢いで叫び、直後一転して声をひそめ蘭はコナンの小さな身体をきつく抱きしめた。

「コナン君いる……いる――!」

 抱きしめて身体をさする。ここに存在しているのを確かめようと蘭は何度もコナンの身体をさすった。

 腕も脚も柔らかく細く、すぐに触れられる骨は怖いほど華奢で、見た目はこんなにも頼りないのに彼は誰よりも頼りになり、いつの時も強く助けを差し伸べてくれる。

 でも、こんなに小さいのだ。

「……大丈夫だよ蘭姉ちゃん。ボクはここにいるよ」

 無我夢中で気付かないのか、彼女の腕が傷を圧したが、それもを甘んじて受けコナンははっきりと応えた。

「うん、いるね……約束したものね」

 それでも彼女は、心臓がつぶれる思いを味わった。どんなにしたたかでも、恐れをすべて振り払う事は出来ない。

 二人…三人で生きていく為に強くなると蘭は心に決めた。しかしその言葉一つでまるで別人のように変われるものではない。

 目の当たりにすれば強さは萎え、崩れ落ちてしまう。

 待つというのはそういう事だ。

 待たせるとは、そういう事だ。

 それでも彼女は信じて待つ。時に雷雨が訪れても。

「コナン君……いるよね」

 抱きしめたままほろほろと泣き濡れる蘭の手を、両手でしっかり握りしめる。

「いるよ……ちゃんと。蘭姉ちゃんがいるからだよ」

 だから自分もここにいるのだと、コナンは強い声で伝った。

「だったら、少しくらい自分を大事にしてよ……」

 本当にこわかったんだよ

 怒ったような拗ねたような…悪いと思いながらも顔がにやついてしまう甘い声が心をくすぐる。

「ボクだって…怖かったよ。蘭姉ちゃんに会えなくなるかもしれないって思って、すごく……怖かった」

「じゃあなんでこんな無茶な――」

「蘭姉ちゃんがいるから死なない」

 コナンはあえてはっきりと『死』を口にした。

「蘭姉ちゃんがいるから、大丈夫なんだよ。生きて帰れる」

 そして次に『生』をきっぱり言い切る。

「なによ…もう」

 女の声の後、長い長い沈黙が続いた。

 時折蘭の手が頭を撫でる。背中越しの息遣いが少しずつ落ち着いていくのを、コナンはじっと受け止めていた。

 この沈黙は痛くない。

 少しでも落ち着くようにと、コナンもまた握った彼女の手をそっとさすった。

「もう…嫌になる」

 唐突に蘭は短く叫んだ。

「ごめんなさ――」

「違う!……コナン君じゃない。自分が嫌になる」

 長いため息の後、蘭はもう一度自分が嫌になると自身に言い聞かせるように呟いた。

「……泣き虫だから?」

 微かに笑んで、コナンは背後にそっと言葉を向けた。

「!…うん」

 はっと息を飲み、蘭は小さく頷いた。お見通しなのは少し悔しかったが、反面気持ち良くもあった。彼はいつの時も、自分の心を芯まで見通す。いつの時も、自分を見てくれているから違わない。悔しいが、それでこそ……

「蘭姉ちゃんは、それでいいよ」

「なんでよ。やだよ、変えたいよ。ホントは怒るつもりなんてなかったのに……無事で良かったねって、おかえりって……でも無性に腹が立って我慢出来なくて……コナン君困らせて…でも止められなくて……」

 悔恨の響きで蘭は綴った。

「蘭姉ちゃんは、間違ってないよ。悪いのは……」

 オレだろ

 放たれるや宙にほろりと崩れた低い声。

 蘭は唇を引き結び、ほころばせ、微かに頷いた。

「そうだよ。でも私も……」

「だから、蘭姉ちゃんは――」

 慌てて否定するコナンの声に被せ、蘭は強く静かに続けた。

「指きりしたのにメソメソした私が悪い。指きりしたからって無茶をしたコナン君が悪い。そして一番悪いのはアイツ……」

 へいへい、全部オレのせいだよ……うまい具合に責任を被せられ苦笑いの一つももれるが、晴れた声で蘭に言われてはうんと頷くしかなかった。

 嗚呼、またこの女は

 渋々ながらの肯定がいつの間にか自然なものになる。彼女の声にはそんな力もあった。

「蘭姉ちゃんがそれで大丈夫なら」

「ホントに私……これでいいのかな」

 雷雨は去り、陽も差し始めたが、まだ雲の残る声で蘭はぽつりと言った。

「蘭姉ちゃんはそのままでいてほしい。そのままがいい」

 地上から息を吹きかけて雲を追い払うより頼りなくも、コナンは祈りを込めていった。

「蘭姉ちゃんに心配されなくなったら…ボク……」

「ないよ!」

 沈み消えかけた声を強い力で引き上げ、蘭はぎゅっと小さな身体を抱きしめた。

 直後コナンの身体が跳ね、蘭が「あっ!」と声を上げ、二人は一点の出来事に動けなくなった。

「コナン君、肩……どこ? ごめん!」

「だいじょうぶ」

 背後の女に心配をかけまいとコナンは出来るだけ何ともない風で伝うが、十分声は震えていた。

「ごめんね…ホントにごめんね」

 急に動いてまた痛みを与えてはいけないと、蘭は何度も謝りながらそろそろと腕をほどいた。

「蘭姉ちゃんのところに生きて帰ってこられた証だから、痛くても平気だよ」

 傷に障るのか、ほんのわずか振り返ってコナンは言う。言葉がしょうもなく嬉しくて小憎らしくて、蘭はわざと指先で肩口をつついた。出来るだけそっと。

「いや痛いのは痛いです……」

 慌てて付け足すのを聞いてくすくすと笑う。

「ねえコナン君」

「うん」

「コナン…君」

 二人分の名前を込めて蘭が呼ぶ。コナンは小さく応えた。

「また同じことの繰り返しになっても、お願いだから……嫌いにならないで」

「……蘭姉ちゃん、もう一回指きりしよう。何回でもしよう」

「……そうだね。何回したっていいよね」

 コナン君は心配かけてばっかりだから

「うん、そう……ごめんなさい」

「それで私は、心配して怒ってばっかり。本当に……いい?」

 壁を向いて座るコナンの横に並び、顔を覗き込んで、蘭はおずおずと尋ねた。

 間近の顔は悲しそうで心配そうで不安そうで期待も入り混じって…少し潤んだ瞳が、嗚呼、胸に強く迫ってくる。

「蘭姉ちゃんでしょ。いいよ」

 笑って、コナンは左手の小指を差し出した。

「じゃあ、もう一回指きりね」

 そこに蘭のほっそりとした小指が組まれるのを見て、ひとつ、思いつく。思いついて、実行を決意する。

 二人…三人だと彼女を励ましたい

 コナン、これはコナンだ、これはコナンからのだと何度も自分を奮い立たせながら、まるでぶつけるように蘭の額に唇を寄せる。身体のあちこちが軋んだがかまうもんか。

「!…」

 当然ながら、びっくりした顔で蘭が見つめてくる。

 双方優劣付けがたいほどに赤く染まる顔。

「あの……今のは、その、新一兄ちゃんの分……」

 俯きむにゃむにゃと言葉を濁して伝える。

「し、新一?……一番頼りにならないアイツの分?」

 言葉はちくちくとトゲだらけだったが、声も表情も優しく緩み、何より瞳が輝いていた。それだけでトゲなんて許せてしまえる。

「あそう!……アイツの……」

 大事そうに新一を綴り蘭はそっと額を押さえた。

 雲一つない晴れた笑顔はとても眩しくあたたかく、決意してよかったとコナンは安堵した。

「でも、コナン君。指切りしたからって、無茶していいわけじゃないからね」

「はい、反省してます」

 こんな時だけあどけない子供の声にもうと唇を尖らせ、一拍置いてから、蘭はふと笑った。

 雷雨の後の鮮やかな日差しが、コナンの心に深く沁み込む。

 

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