チョコレート・キッズ2

 

 

 

 

 

 翌朝、しょぼくれた顔でとぼとぼと家路につくコナンの姿があった。

 博士には騒がせた事を何度も詫び、呆れて笑う灰原には何も言えず。蘭には突然飛び出した事を何度も謝って…新一に絡めて嫌味の一つも言われたが、彼女が笑い飛ばしてくれたのはせめてもの幸いだ。

 

 そんなんじゃ、まだまだ『平成のシャーロック・ホームズ』にはなれないわね

 

 彼女の楽しげな笑い声が耳に響くそれだけで、拉がれた心が潤っていく。

 帰宅してすぐに彼女の顔を見られない――以前から園子と外出する約束をしており、三時まで会えないのは寂しいが、帰りを待つ時間を味わうのもたまにはいい。

 それまでには心も落ち着くだろう。

 好きな本の一つも買って、のんびり待とうではないか。

 顔を上げ、コナンはコンビニエンスストアに足を踏み入れた。

 

 

 

 真新しい本を小脇に毛利探偵事務所へ続く石段を登っていくと、ちょうど上階から、大きなあくび交じりで小五郎が降りてきた。

「朝帰りたあいい御身分だな、ボウズ」

 おなじみの嫌味にごまかし笑いで答えつつ、コナンは彼の後に続いて事務所に入った。

 ドアを閉めたところで、携帯電話が鳴り出す。探偵団からの誘いの連絡だったが、コナンは済まなそうに告げた。

「ホント悪い。ちょっと、用事が出来ちまって……ああ、次は必ず行くから」

 じゃあなと通話を切ったコナンに、どっかと椅子に座り広げた競馬新聞へ目を向けたまま小五郎が言う。

「なんだなんだ、せっかくの五月晴れだってのに、家にこもって読書かあ?」

「ああ、せっかく尋ねてきてくれたってのに、置き去りにしちゃ可哀想だろ」

 大小の文字が踊る新聞の向こうへ低い声をつきつけ、コナンは携帯電話をポケットに収めた。

 数枚の紙を挟んで立ち上る煙が、言葉と同時にわずかに揺らぐ。

「煙草は身体に毒だぜ、怪盗キッドさん」

 観念してか、間を置かず新聞が折りたたまれる。現れたのは小五郎ではなく案の定、黒いキャップを目深に被った青年だった。

「さすが探偵君、気付くの早いなあ」

 感心した声は小馬鹿にしているように聞こえコナンは苛立ちを露わにしたが、心底つらそうに煙草をくわえ耐えている…ほんの少しも味わうまいと唇ではなく歯で挟みこらえている姿は少々気の毒でもあった。

「どこで分かった?」

 小さく『おえ』と呟き素早く煙草を消すと、せいせいしたとばかりにキッドは息をついた。

「臭いだよ。手に染み付いた臭い」

 長い年月喫煙を続けている人間は、服はもちろんのこと肌、特に手指に独特の臭いが染み付いている。

「オレの鼻先でドアを開けたのは失敗だったな」

「ああ……」

 それはまずったと、キッドは手を見て小さく笑った。

 衣服を借り、どんなに完璧に演技をこなしてもそこは埋められない。

「もう毛利小五郎はやめとくかな……ちなみに本物さんは三階で寝てるから心配ないぜ」

 夜までぐっすり

 上を指さしおどけるキッドを、微動だにせず見据える。

「今日の探偵君いつもより迫力あるな…でも眠たそう」

 自分でも気付いている、明らかに腫れた瞼を指摘され、誰のせいか思い知らせてやろうかとコナンはぎりりと奥歯を噛んだ。

 今にも掴みかかる迫力に、キッドは慌てて謝罪を口にした。

「ごめんごめん……でもあれはほら、ほんの『子供』のいたずら。子供同士仲良くしようぜ。ところで、チョコ美味かった?」

「てめぇ、ふざけるのもいい加減にしろよ」

 待て……待て

 ここで冷静さを欠いては負けだ。そうでなくとも何度も煮え湯を飲まされている。ふつふつとたぎる怒りをどうにか抑え、コナンは吐き捨てた。

「あー……やっぱり一人一個じゃ物足りねーか。そうだと思って、今日はひと箱持ってきたんだぜ」

 言うなりキッドは、デスク一番下の引き出しを開けそこから小ぶりの箱をひとつ取り出した。

 ペンや煙草の灰、紙くずで散らかり放題のデスクの上に、不似合いなワインレッドの包みが乗せられる。

 包装紙には、昨日蘭と一緒に見たのと同じ、Cで始まるブランド名がしゃれた文字で記されていた。

「ちょっと……頼みがあって、な」

 椅子を軋ませて立ち上がったキッドに、コナンは過剰な警戒を見せた。

「そうだ、今日彼女出かけてるんだな」

 過日の疲れから体調を崩しての不在でなければいいと、純粋な気遣いさえもコナンは無碍に振り払った。知る由もない事、仕方ないが。 

「てめぇ…飛行船の中で蘭に何しやがった」

「……何もしてねーし何も出来ねーよ」

 何かをしたと決めてかかるコナンに内心腹を立て、口の中でぶつぶつ不満を零す。

「するバカいるかよ…オレか。彼女すげー強いしおっかないし。むしろされたのはオレの方だぞ……」

 オメー絡みでふざけた自分が悪いんだけどさ

 最後の方は、受けた罰を思い出したせいか少し涙に潤んだ。

 が、コナンの目が応接テーブルにある大ぶりのガラスの灰皿にちらりと向けられたのを見て、慌ててはきはきと『何もしていません』と答える。

 まさかあれがキックで飛んでくるなんて事はないよな…キッドの予想は半分当たり半分外れた。

「何をしたか答えろ!」

 怒号と共に投げ付けられる。

「な…!」

 渾身の力を込めて投げ放つコナンの姿に、キッドは大きく目を見開いた。

 避ける事も出来たが、すれば背後の窓ガラスを突き破りどんな惨事を招くか分からない。となれば――がむしゃらに投げられたガラスの灰皿を、キッドは左肩で辛うじて受け止めた。

「いって……いてぇ!」

 砕かんばかりの痛みを大声で紛らし、よりにもよってまた左肩かと目をしばたかせる。涙など滲んではいない。

 もうやだこの二人…三人は

 双方、互いの事となると冷静さを失う。彼女は仕方ないとしても、こいつの焦りようは何だ。いつもの余裕はどこへいった。子供の見た目を利用して、古典的ながら効果的な方法で騙し、何度も窮地に追い込んでくれた奴はどうした。

 もし灰皿が窓ガラスを破り階下へ落ちれば、破片と落下物とで道行く人にどんな被害が出た事か。

 こちらが受け止めるのは辛うじて頭にあったかもしれないが、考えなしだった可能性も否めない。非力な子供の身体で投げるより、シューズの力を利用した方がダメージがでかい。それも忘れるくらいだったという事か。

 しょーがねーよな……

 彼女に因るのでは、冷静沈着などどこかへ吹き飛んでしまうのは容易に想像出来た。

 左肩の完治が遠のいた事を少し恨みながら、やれやれと息をつく。

「彼女は、何て言ったんだよ」

 彼女中心の人間をそこからつつくのは実に恐ろしかったが、そこしか突破口がないのではやるしかない。

 案の定コナンは寒々しい声を即座に反した。

「蘭の言葉は疑わない。だが蘭の感じたものと事実が異なる事もある。オレはそれ――」

「彼女が感じたものがお前の真実じゃ、ダメなのか」

 コナンを取り巻いていた怒気が一気に膨れ上がり、はたと薄らぐ。薄らいだそれは思案に取って代わり、ほどなく消え去った。

 キッドは心底、蘭に感謝した。

 工藤新一に触れるおふざけをした上少なからず身体に触れたが、それらは一切ないものとしてくれた。彼女の中では取るに足らない事、彼に告げるほどのものではないと。

「――……」

 癪に触る奴だと、表情にありあり浮かべて見やるコナンを、キッドは軽く受け流した。彼女のおかげで命拾いしたと内心手を合わせると、薄れかけていた痛みがぶり返し骨の髄がきりりと疼いた。ポーカーフェイスの陰でこっそり泣く。今でも敵だが、本当の意味で敵に回してはいけない存在だと改めて肝に銘じる。

「……で、頼みって何だよ」

 口調は限りなくぶっきらぼうだったが、コナンの声音からは危機感を抱かせる刺々しさはなくなっていた。

「ああ……」

 キッドはデスクを回り込んでソファに座ると、テーブルの中央に灰皿を戻し、ポケットからある物を取り出した。

「これなんだけどな」

 灰皿の上に置かれたそれにコナンの目がぎくりと強張る。

 十センチ四方の小さなビニール袋に入った、一枚の絆創膏。パッドにはひと筋の赤黒い線が縦に走り、傷口の保護に使った後という事が見て取れた。そしてパッドの隅には、ほんの小さく小さく、よく目を凝らさなければ分からないほどの細かな文字で名前とマークが書き込まれている――

「!…」

 チョコレートに振り回され忘れかけていたが、これの疑惑も残っていたのだ。

「待て待て! いいか、これはな、飛行船に乗る前に彼女がくれたもんだ。好意で、ちょっとハプニングがあってオレが怪我したからどうぞって、ただそれだけだぞ」

 で、二枚もらった内の一枚をお前に使った

 再び灰皿が飛んでくる事のないよう、純粋な親切心からだと重ね重ね強調する。

「その時はまだ彼女、園子嬢のイタズラに気付いてなかったんだな、じゃなきゃさすがにこれは、なあ」

 一枚の絆創膏を前に、男子二人、やや赤面しつつ頷き合う。

「分かった…それは納得した」

 恥ずかしさやら怒りやらが目まぐるしく心に湧きあがってくるのを無理やりに飲み込み、コナンは続きを促した。

「で、これが何だ」

「オメーの名前が書かれたもんなんか、気色悪くて持ってらんねーからな。使用済みだからオメーにも気持ち悪いもんだろうが、返す。て事でこれ、この場で焼いてくれねーかな」

 彼女の心遣いには感謝してるからな

 キッドは神妙な顔で付け足し、提案が受け入れられるようじっと返事を待った。

「……お前に繋がる重要証拠を、探偵のオレに隠滅しろと?」

 そうそうと涼しく笑いながらキッドは頷いた。

「あと、あっちの煙草も」

 デスクの隅の灰皿、山盛りになった吸い殻の内一番新しい一本を指さし追加する。コンビニのレジで会計時に『あとマイルドセブン一つ』ほどの気軽さで。

「断ったら?」

「お前殴って、怯んだ隙に奪って逃げる」

 そしてオレは彼女に殺される…ダメじゃねーか!

 内心青くなる。

「その時は観念する。お前の手で警察に突き出されて、とりあえず大人しく捕まって、連行する警官殴って怯んだ隙に逃げる」

「せめてなんかトリック使えよな」

 余りに雑な言葉に思わず苦笑いを零す。

「じゃあそんな感じで」

 あくまでおざなりなキッドの物言いに、こいつはすでに確信しているのだとコナンは悟った。

 これがじきこの世から消滅すると。

 あるいはこれは偽物で、本物はすでに存在しない…しかし、だったら危険を冒してここに来るはずはないだろう。とはいえ、前回『江戸川文代』でのこのこやってきた過去がある。ほとんどをからかい引っかき回す為だけに。とすれば今回も同じではないか。

 からかい引っかき回す為だけにやってきて、こちらの反応を楽しんでいるのではないだろうか。

「……何が目的だ?」

「……ったくおっかねーな、考えすぎなんだよ探偵君は。さっきも言ったろ、これ燃やしてくれってだけだよ」

 吸いがらも忘れずにな

「使う前だったら彼女にこっそり返す事も出来たけど、オレだってたまにはうっかりするしな」

 そのせいで死にかけたし……

「それに、他の男の名前が書かれたもの身につけてたら、彼氏に怒られちゃうもん。あたし女の子だし」

「……なに?」

 にがみとえぐみを同時に味わわされたかのように顔を歪め、コナンは向かいの人物を見やった。

 キッドは変装の達人、女という可能性もあると以前口にした言葉を再び持ち出され、思考をかき乱され、コナンは何度も目をしばたかせた。引きずられるなと必死に抵抗するが、工藤新一の顔で女の子……迂闊にも想像してしまった姿は中々の衝撃を与えた。

「てめぇ…毎度毎度いい加減にしろよ!」

 どうしてくれるんだと泣きながら噛みついてくるコナンをまあまあと宥め、キッドはぽんとライターを投げて渡した。

「難しく考えるからそうなるんだよ」

お前が引っかき回しているからだろ…疲れ切った顔で睨む名探偵に軽く笑いかけ、絆創膏の乗った灰皿を押し出す。

「お前の名前が入ったものを、勝手に処分するのが嫌なだけ。なーんか後味悪いしな」

 腕を組み大げさに頷くキッドにひと睨みくれ、コナンは手の中のライターに目を落とした。偶然にも、注意書きの一つ『子供の手に触れないようにすること』が目に入り、忌々しさに半眼になる。

 思考をかき乱す言葉で次から次へ翻弄して、どこに本当があるのか。恐らく一つもないだろう。

 しかし。

 後味悪い……だと

 それは理解出来る気がした。

 何の変哲もない一言だ。

 心を決め、コナンはため息交じりに言った。

「吸い殻は――持って帰れ。フィルターが燃えるとすげー臭ぇの知らねえだろ」

「ああ……じゃあ、燃してくれんの?」

 ぱあっと顔を輝かせたキッドにふんと鼻を鳴らし、コナンは無言のままライターを点火した。

「すっげーいい人! サンキュー、ダメ元で来たかいがあったぜ……」

 胸を撫で下ろす仕草は非常にわざとらしく映ったが、当人は心底命拾いしたと思っている事を、コナンは知らない。

「そーかよ……」

 コナンはつけた火の先を絆創膏に近付け、しばし待った。程なく端に火がつき、白みを帯びた朱炎がふわっと上がる。後は全て燃え尽きるのを待つだけだ。

 視界をちらつかせる炎はやがて、文字とマークを飲み込んでいった。

「これこそまさに燃え上がる愛の炎!……なんてな」

 茶化してみるが、コナンの反応は無に等しかった。

 ただちらと一瞥され、虚しく宙に散って行った言葉にキッドは自ら苦笑した。

 園子によって散々鍛えられた成果か、取り乱す事も慌てふためく事もなく受け流せた。そう毎度踊らされてたまるかと内心毒づくが、ふと、無言は肯定しているも同然ではないかと考えが浮かび、いつも通り、まんまと否定の言葉を叫ぶ事となる。

「――そんなんじゃねーよ!」

「時間差か!?……まあいーや。ホント助かったぜ。チョコひと箱じゃ釣り合い取れねーだろうけど、彼女と仲良く食べてくれよ。あ、あと毛利探偵にもよろしく言っといて」

 吸い殻を回収し、せいせいした顔でキッドは言った。

「わーったわーった……」

「……お前なあ」

 低い声でそっけなく言い放つコナンにむっと唇を尖らせ、やや芝居がかった声で続ける。

「ホントだったらお前の方こそ、菓子折りの一つも持ってお礼言いに来るべきなんだぞ! 先日は助けていただいてありがとうございました、お陰で彼女と変わらぬ日常を送る事が出来ます――とかなんとか、あるだろ?」

「お前…もう喋んな……」

 振り向きもせず、ソファに座ったままコナンはがっくりと肩を落とした。どっと疲れが押し寄せる。眠気もだ。難しくない頼み事を聞いて、実行しただけだが、合間の会話は頼み事を百こなすより疲れ果てるものだった。

「へいへい黙って帰ります。ほんじゃーまー、探偵君。また今度」

 機嫌良くひらひらと手を振り出ていくキッドにお義理で手を上げ、乾いたため息をひとつ。

「いい夢見ろよ」

「うっせ……」

 半ば眠りに入り込んでいたのを見抜かれすぐさまトゲを返すが、身体は今にも倒れそうだった。

 背後で静かに扉が閉まる。音を聞いた途端、もう限界だとコナンはソファに身体を預けた。

 蘭が戻ってくるまであと数時間。それまでに起きればいいし、起きられなかったら、彼女に起こされるのもいい。

 奴が寄こしたチョコレートは、その後考えよう。

 

 中身は大した名探偵だが、身体はあくまで子供のもの。何日も緊張が続けば詰めが甘くなってしまうのも無理はない。

 程なくして寝息を立て始めたコナンを、ニヤニヤといたずらっ子の顔で見下ろす人物が一人。

 その手にはペンと絆創膏。

 本当は大人しく帰ろうと思っていたが、立ち去るのを見届けもせず眠ってしまったコナンを見て、ちょっとした子供のイタズラを思い付いたのだ。

『コナン君』なら、やっぱり『蘭姉ちゃん』だよなあ

 誰かの名前とマークを書き込んだそれをこっそり名探偵の頬に張り、満足げに笑ってから、今度こそ退散する。

 

 果たして気付くのは彼が先か、彼女が先か。

 

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