チョコレート・キッズ2

 

 

 

 

 

 目まぐるしく忙しなく命の危機に満ちた、六時間と少々の空の旅を終えてから、二十四時間が過ぎた。

 少し遅い夕食を済ませて、毛利探偵事務所の三階リビングでぼんやりテレビを見ながら過ごしているのが、半ば夢のようにも感じられるとコナンはゆるくあくびをしながら思った。

 新幹線の窓から服部平次と遠山和葉に別れを告げ、そのすぐ後空腹に泣きながらも眠気に襲われ気絶し、気付いた時は東京駅で、足を引きずるようにタクシーに乗り込んで…場面場面ははっきり思い出せるのだが、いつのまにか家に帰っていたという感覚もまた強かった。

 渦中にあれば疲れなど全く感じる事無く動けるのだが、危機が去れば、見た目にふさわしく猛烈な疲労感に見舞われる。

 すぐ隣には、缶ビールの一本も空けぬ内に酔いつぶれ高いびきで眠りこける小五郎の姿があった。

 これをベッドまで運ぶのはことだ

「もう、だから早くベッドに行くよう言ったのに」

 後片付けを済ませてキッチンから戻った蘭は、この家で一人元気な彼女は、腰に手を当てやれやれと肩を落とした。

 振り返って見上げ、同調を表し小さく笑う。

「しょうがないなあ……いいや、ねえコナン君、ちょっと来てくれる」

 言いながら蘭は自室のドアを開いた。

「なーに?」

 少しだるい身体を動かして立ち上がり、蘭に続いて部屋に足を踏み入れる。

「ちょっと散らかっててごめんね」

 常に気持ちよく整頓された彼女の部屋。日々こまめに丁寧に目を配っている様子が手に取るように分かった。散らかっているとは、昨日飛行船で身に着けていた服やバッグがきちんとしまいきれていないからだろう。しかし脱ぎ捨てられているでなく放り投げられているでなく、昨日今日ではまだ片付けもままならないだろう。彼女が言うほどのものではない。

「ねえコナン君……」

 蘭は机に置いたバッグを手に取ると振り返った。

「チョコレート、好き?」

 呼びかけた後しばし迷いの間を置いてから、蘭はそう尋ねた。

「うん、好きだよ」

 ぎくっと強張る頬を無理やり緩めて、コナンは無邪気に頷いた。

 以前誰かと世界一不愉快なドライブをした際、何種類ものチョコレートで翻弄された過去があるせいか、

どうもチョコレート菓子には一拍間を開けてしまう。チョコレート自体は嫌いではないしその沁みる甘さはむしろ好きな方だが、ついつい、身を引いてしまうのだ。日常の場面場面でチョコレートを目にする度に、その度に、誰かの不愉快な顔が過る。いつまでも逃げ切れると思うな。今に見ていろ。

 そんな秘めたる決意のせいか、いつもならば蘭の些細な違和感など逃さぬコナンの目が、あろうことか気付かずするりと見過ごしてしまったのだ。

 しかし探偵の迂闊さは一度まで。

 笑顔のまま苦味を帯びた複雑な蘭の表情が、二度目でようやくコナンの気を引く。

「?…」

 何が気にかかり彼女は言葉を継がないのか、注意深く表情をうかがい見る。

「チョコレート……」

 言葉を噛みしめながら綴り、蘭は片手のバッグを両手に握った。

「チョコレート――!」

 その様子にコナンはまさかと目を見開き、蘭の顔、そして両手のバッグを見やる。

「チョコ、レート……」

 蘭は困り果てた声音で呟きながら、バッグを開き中身が見えるようコナンに向けた。

 本人…蘭からの依頼で持ち物を改めるのだが、やはり少しの抵抗があった。いくばくかの気恥ずかしさにぎこちなく動きつつ中を覗き込む。

 二、三の蘭の匂いの中、異質の小粒が二つ。

 コナンは眼を眇めた。

 鋭く見据える目に恐々と、蘭は、キッドが言ってよこした言葉を口にした。

 

 赤い果肉と緑のヘタ…苺が描かれた包みにくるまれたころんと丸いそれは、ほのかに甘い香りをまとっていた。

 丸みの中央にはCから始まるブランド名が記されており、疎いコナンはともかくも蘭には覚えのあるチョコレートメーカーだった。

「べいかデパートの地下でも、売ってる……」

 少なくとも得体の知れない怪しい物品でない事は、掴めた。

「出してもいい?」

 険しい顔付きのコナンに小刻みに頷き、蘭はまるで爆発物を見るかの如く身を強張らせた。

 固唾をのんで見守る蘭を傍らに、コナンは摘み上げた二粒を手のひらに乗せじっと視線を注いだ。

 過日を思い出す。

 奴がこれを寄こす時は決まって、何かを煙に巻きたい時だ。気を逸らす、ごまかす、茶化す…宥める。終始ふざけた態度を取り煙に巻いていたが、寄こされた全てのチョコレートは何の変哲もない市販の物だった。最後の一つは少々手が加えられていたが、食べるのに何ら問題はなかった。

 毒はもちろんのこと、刺激物を仕込んで困らせようという意図などなく、何の変哲もないチョコレートをただ寄こしてきた。

 何かを煙に巻く為に。

 本題から気を逸らし茶化す為に。

 ……昂った神経を落ち着かせるために

 つまり何か、ごまかしたい事柄があるということだ。

 もしくは誰かを…蘭を落ち着かせたい、宥めたい。

 手のひらの二粒に注いでいた視線を蘭に向け、コナンは口を開いた。しかし済んでのところで言葉が出ない。出せない。もしこの予想が当たるならば、冷静さを保つ自信が持てない。

 一旦引き結んで意を決し、コナンは尋ねた。

「――蘭姉ちゃん、あいつに何かされた?」

「ううん……むしろしたのは私の方」

 首振る蘭に馬鹿な予想をしたものだと安堵したのもつかの間、その後口の中で溶け掴み損ねた言葉に思わず声を荒げる。

「されたの?」

 悔恨から囁きになってしまった蘭の言葉を悪いものとして受け取ってしまったコナンは、ぎょっとした顔で詰め寄った。

 その目の前できっぱりと、蘭は首を振った。

「されてない。コナン…君が危険になるような事は何もされてない」

 蘭が一番に考えるのは自分の身の安全だと告げる言葉に、コナンははっと息をのんだ。

 彼女はいつの時も、コナン…新一を守る為に深くにしまい込んだ秘密と共に生きている。文字通り命をかけて、愚かな自分を守ってくれている。

 なのに自分は、事件を解決する為と大義名分を振りかざして、うやむやに出来るだろうと気楽に踏んで、工藤新一を利用した……

 命がけで守ってくれる人の気も知らずに。

 奴がこれを寄こしたくなるほど、気持ちを宥めたくなるほど、蘭の精神は張り詰めていたのだ。

 当然だ。キッドもまた工藤新一がどこにいるか知っている一人。

 蘭には相当な重圧になったに違いない。

「ごめん……なさい」

 足もとに目線を落とし零す。

 どれほどの危険が潜んでいようと二人…三人でいるから何でもないと笑ってくれる彼女に、こんな言葉しか出せないなんておかしいではないか。

 チョコレートを寄こした意図は当の本人、キッドしかあずかり知らぬところ、いくら推測したところで掴めるものではない。そしてコナンの組み立てたものは幾分逸れていた。

 しかしこと蘭が絡む事柄はいつの時も冷静さを欠いてしまう名探偵は、自覚しながらも、彼女に向ける謝意だけに心を砕いた。

 とにかく、つまり、このチョコレートは何らかの、蘭への気遣いだ。自分はそう、受け止める。奴からというのが不愉快、気に食わない、不甲斐ないがとにかくも…コナンはひとしきり納得した。

 今は何より後悔が押し寄せる。

「そんなのいいよ。ごめんなんて、そんなの違うよ」

 コナンが何を思って謝ったのか理解した蘭は、何度も首を振りながら跪いた。

 二人の目線が同じ高さになる。

 片方は俯き、片方は覗き込み、中々目が合う事はなかった。

「コナン君もあいつに負けず劣らず大バカ推理之介だから、走り出したらどこまでも――なのは分かってるもの」

 大バカのところで、蘭の視線が机の上の湯飲みにちらと向く。 

「だから私は守る方」

「でもそんなの…蘭姉ちゃんばっかりで……」

 息苦しさに喘ぎ喘ぎコナンは言った。

 彼女ばかりに負わせてずるいのだと言うなら、自分はでは何をする。今こうして彼女の前で悔いても、ひとたび事件が起これば面倒な方を押し付けて置き去りにするではないか。

「それを言うなら私の方こそ、コナン君に守られてばっかりじゃない」

 励まそうとする蘭の朗らかな声が優しく肩を包むが、とても顔を上げられそうになかった。

「コナン君がいてくれなかったら、励ましがなかったら、私……とっくにおかしくなってたと思う」

 すぐ思いつめちゃうから

 自分の悪いところだと分かっているけど、中々変えられないと、苦笑いに混ぜて蘭は言った。

「それは、自分も同じ……」

 間近の蘭を見られないまま、コナン…新一は絞り出すように言った。この女にどれだけ支えられ励まされているか、だから甘えも出てしまうものか――言葉で言い尽くせない。

「だったら、その時出来る方が出来る事をすればいいじゃない」

 私は秘密を守る方

 命がけでと誓う蘭の強い眼差しを、コナンはおずおずと顔を上げ見やった。ああ、自分はまたこの瞳に助けられる。

 ゆっくり頷けば、ようやく蘭の目がほっと緩んだ。

 本当にありがたく、申し訳なく…軽くなる。

「それで、ねえ、チョコレート。分かった?」

「ああ、うん……」

 話題を戻した蘭に自分も心を切り替え、コナンは再び手のひらの二粒に目を向けた。

「ねえコナン君……新一だったら、これ、どうするだろう」

 どうするだろうか。

 正体のわからぬ人物からの大した贈り物、推測しか出来ないのが歯痒いが、悪意がないのは確かだ。かなり悩まされたが、その狙いもあるのだろう。

 そして中身はただのチョコ。

 もしかしたらまた、癪に障るメッセージが記されているかもしれないが、直接的な害はないだろう。危険性は限りなく低い。少なくとも、そういった意図はないはずだ。する必要性もない。

 ならば。

「……蘭の思う通りにしろって、言うと思う」

 蘭に任せよう。最終的な判断は、受け取った当人に委ねよう。

 まっすぐ向けられる視線をまっすぐ受け止め、蘭の動きを待つ。

 つかの間の逡巡の後、蘭は手のひらから一粒摘み上げた。思わず目で追う。

「じゃあ食べよう。いただこうよ、せっかく……なんて変かも知れないけど、それに新一がそういうなら心配ないしね」

 信じきった蘭の言葉、途端にどっと不安が押し寄せる。寄せる信頼はとてもありがたくむず痒くあたたかみを感じさせてくれるが、一方で冷や汗がひとすじ。

「で、でも待って! 何か変な紙とか挟んでないか確認してからにしよう!」

 コナンの言葉に二人、神妙な顔で頷く。

 まったく、チョコレート一つで……ますます苦手になるぜ

 丁寧にはがした銀紙の包みに何ら細工がないのを隅まで確かめたコナンは、チョコレートを一瞥した後口に放り込んだ。

 しかし詰めが甘かった。

 チョコレート自体はやはりただの甘いチョコ…いや、さすが老舗メーカーと感心するほどなめらかで濃厚な味わいのチョコレートだったが、包みに果たして細工は施されていた。

 口の中で溶かしながら何気なくメーカーロゴのシールを見た瞬間、手遅れながら気付く。隅がほんの少しめくれ、そこから、文字らしきものが覗いているのを発見した途端、コナンは身が凍り付くのを感じた。なぜ肝心のそこを確認しなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

 まさか、まさか…祈るような気持ちでシールをはがし、小さな紙片に記された文字に激しく頭を殴られる。

 

 ―話は全て聞かせてもらった。二人の甘い夜に乾杯! 怪盗キッド―

 

 途端にコナンは時間も忘れ、包み紙、蘭のバッグ、飛行船で身に着けていたものいっさいがっさいを抱えて阿笠邸に走り、徹底調査を依頼した。

 深夜までかかった調査の結果、盗聴器の類は一切発見されず、キッドのはったりである事が判明した。

 

 あのヤロウ――覚えてろよ!

 

 子供のいたずらに一杯食わされた事を知ったコナンは、どこか遠くで笑っているだろうキッドに歯噛みしながらも、睡魔には勝てず眠りに落ちて行った。

 

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