つなぎとめる君 |
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明るく清潔な店内には、焼きたてのパンの匂いがふっくらと立ち込めていた。 ここは、米花駅の程近くにオープンした手作りパンを扱う店で、一階で買った出来立てのパンを、二階ですぐに食べられるようになっていた。 オープンしてすぐに評判が立ち、店内は連日若い女性や親子連れ、学校帰りの学生たちで混み合っていた。 その中に、蘭とコナンの姿もあった。 「見て見てコナン君、亀さんのパン! 可愛いね」 トングではさみ、はしゃいだ声で見せてくる蘭に、コナンもつられて小さく笑う。 |
――この前、園子と学校帰りに寄ったの。すっごく美味しかったから、今度コナン君も一緒に行かない? |
先日、そう言って蘭に誘われ、日曜日の今日、噂の店にやってきた。 |
あの夜から始まった三人だけの秘密に、お互い何も変わらない…表面上は 一度は夢だったのではと疑ってしまうほど、彼女は完璧に秘密をしまい込んだ。 他に誰も聞く者のない場所でも、決して本当の名を口にしたりはしない。 もちろん素振りだって、変わらない。 そのせいで、自分だけの馬鹿な夢だったと思い込んでしまった。 そうではなかった。彼女は彼女なりの方法で、秘密を守っているのだ。 工藤新一を守る為に、命をかけて。 彼女の選んだ道に、ただただ感謝する。 けれどここ数日、疑問が心を過ぎる事がある。 彼女が屈託のない笑顔を向ける度に、それは繰り返される。 |
どうして、笑っていられるのか―― |
装う事は、辛くないのか。 誰にも言えない秘密は、苦しくないのか。 嘘の名を呼ぶのは、ためらわれないのか。 こんな、勝手な自分の為に。 どうして笑っていられるんだろう |
「コナン君、何飲む?」 一通りパンを選び、後はカウンターで飲み物を注文するだけ。列に並び、天井近くのメニューを見上げながら蘭はそう声をかけた。 「ここね、コーヒーの種類もたくさんあるんだよ。コナン君の好きそうな珍しいのとか。ほら」 指差す方に、目を向ける。 今彼女が言った中には、コナンではなく新一に向けたものが織り交ぜられていた。 一時期、振り返って自分でもおかしくなるほどコーヒーに凝った事があった。前夜仕入れた薀蓄を、彼女の前で得意げに披露したり、実際に振る舞ったり。 それを、蘭は覚えていた。 今でも、コーヒーには少しのこだわりを持っている。 ごく自然に口にする彼女のしたたかさに、胸が少し疼いた。 「ボク……オレンジジュースでいいよ」 それをうまくごまかし、今の身体に似合うものを口にする。 「そう?」 ごく自然に聞き返す蘭の言葉が、一瞬、ほんの一瞬だけ間を置いて耳に届いた。 瞬きするより短い間は、後に驚きと変わる。 蘭はトレイをカウンターに預けると、追加で飲み物を注文した。 「あと、オレンジジュースと……」 続く二つ目の注文に、耳の奥がきんと張り詰めた。 思わず蘭を見上げる。 何か伝いたげなコナンの視線に微笑みで返し、蘭は会計を済ませてカウンターから離れた。 「行こう、コナン君」 しまいきれない強張った表情のまま、やや遅れてコナンは歩き出した。 日曜日だけあって、二階は大勢の客でごったがえしていた。 運良く、入れ替わりに空いた二人がけのテーブルを見つけ、席につく。 「さ、食べよ」 たくさんのパンを前にニコニコしながら、蘭は白いカップとオレンジジュースを横に並べて置いた。 それぞれの前に置かず、横に並べて。そうすれば、誰に不審に思われる事もない。 そんな余計な気苦労をさせている自分が、あの夜約束を交わしてしまった事が、悔やまれてならない。 屈託なく笑う彼女を見るたび、深まる。 |
夕食後、蘭は自室に戻って翌日の準備に取り掛かった。粗方済んだ頃、ドアをたたく音が部屋に響いた。 応えると、コナンが顔を覗かせた。 「蘭姉ちゃん、お風呂あいたよ……」 戸口でそう告げる彼に、蘭は礼を言って椅子から立ち上がった。 着替えを取ろうと背を向けた直後、少し低い、戸惑うようなコナンの声が耳に届いた。 「あのさ……」 振り返ると、閉めた扉を背に、心なしか苦しそうに眼を眇めて立ち尽くす彼の姿があった。 「今日は…コーヒー……ありがとう」 しぼり出すような声に、感じ取るものがあるのか、蘭は困った顔で首を振った。 「ひとつ…聞きてーんだ……」 コナンではない口調に、わずかに目を見開く。 「なんで……なんで、そんなに……いつも…笑ってられるんだよ……」 はっと小さく息を飲む。 「散々好き勝手言って、散々嘘吐いて…待たせて…挙句、お前にまでこんな厄介な嘘吐かせてる憎い男が目の前にいるってのに……なんで笑ってられるんだよ」 蘭はゆっくりあとずさると、窓辺に膝を抱えてしゃがみ込んだ。部屋の端と端、同じ高さで見つめあう。 「三人で……」 少し泣きそうな笑顔で、ぽつりと言う。 「三人でいるからだよ……」 力なく視線を落とし、続ける。 「だから、安心して…笑ってられるの……でも――」 笑顔がよく似合う彼女の双眸に、じわりと大粒の涙が浮かんだ。 「コナン……君を困らせちゃっただけみたい……ごめんね」 俯いた彼女の瞳から、ぽつりと涙が零れ落ちた。 「三人だけの秘密なんて言って…困らせて……」 みっともなく泣きじゃくる真似だけはすまいと、蘭は息を詰めた。 あの夜以来なかった涙に、コナンは唇を噛んだ。 「違う、違うんだ蘭……違う」 ためらいがちに近付き、目の前で立ち止まる。 「オレは…困ってなんかいない。むしろ――感謝してる。笑顔で…いつもオレを繋ぎとめてくれる……から」 目を合わせるのは恥ずかしいから、俯いたままで本当の気持ちを伝える。 「だから……泣くなよ」 ポケットに入れたハンカチを手渡し、ぶっきらぼうに言い放つ。 「泣いてなんか…いないわよ……」 涙に震える声で、それでも明るく、蘭は言った。 恐る恐る目を上げると、まだ頬は濡れていて、けれど胸に迫ってくる鮮やかな笑顔が、そこにあった。 コナンを見ている。 その奥にいる、新一も。 その笑顔で、うっかり揺らいでしまう二人をちゃんと繋ぎとめてくれる。 差し出されたハンカチをそっと受け取り目元を押さえると、蘭はくすくす笑いながら言った。 「コナン君て、いつもちゃんとハンカチ持ってて、偉いね。ありがとう」 嗚呼、本当に、なんてしたたかな女。 「ねえ……」 不意に小さな声で、かすかに、問い掛けてくる。 顔を上げて応えると、蘭はおずおずと尋ねた。 「これからも……傍で待ってていい? 何も出来ないけど……傍で…待っててもいい?」 良いとも駄目とも言わず、無言のまま考え込むコナンに、蘭の瞳が不安げに揺れる。 沈黙に耐え切れず、打ち消そうとしたその瞬間、彼は言った。 「何も出来ないなんて……そんな事ねーよ……」 真っ赤な顔で、そっぽを向き、ぼそぼそと告げる。 「オ、オメーのマヌケ面も……たまには役に立つしよ」 「なによ、もう……」 少し困ったような笑顔で、蘭はポロポロと涙を零した。照れ隠しについ口走った言葉で泣かせてしまった事に、うろたえ、慌てて付け足す。 「いや、あの…マヌケ面っていっても、その……」 取り乱すコナンに、蘭は泣きながら笑った。 「ありがと、コナン君……――」 その先は声を消し、唇だけで『しんいち』と綴る。 彼女の強い心に、繋ぎとめてくれる強い気持ちに、そっと感謝する。 |
もう疑わない 迷いもない 繋ぎとめる君がいるから |