星空の中で |
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生来の自分の適当さを、今まで生きてきた中で一番悔やむ時だと、キッド…快斗は思った。 拳二つ分もないほどの距離に彼女の顔が迫っているのを見て、傍目からは熱い抱擁を交わす恋人同士に見えるだろう自分たちを思い浮かべて、血の気の下がる感覚を味わう。 |
なにやってんだよ、早くしろよ! |
彼女に顔を向けたままこっそりエレベーターの表示パネルを窺い、苛々と焦りと命の危機を同時に食らう。 ようやくランプが灯ったばかりだ。今すぐの到着を望むのは無茶というもの。 それは十分理解出来た。 肝が竦み上がる。 |
そりゃ、ちょっとどころじゃなく大いに困らせてやろうとは思ったけどよお…完璧失敗だ |
右手にわずかな抵抗を表しながらも、素直に腕におさまり顔を寄せてくる蘭に、この世の終わりが見えた気がした。 |
物騒な出来事も人々も全て片付いて、ようやくジュエルを手に入れて、もう何度繰り返したか分からない返却作業の最中に、彼女は来た。 来るだろう事は推測していた。到着を待っていたくらいだ。 出来ればねぎらいの言葉の一つもほしかったし、それに似た些細な何かでも構わない。 刺々しくても殺意まみれでも、一粒感謝がこめられていれば十分だ。 が。 「新一……」 よこされたのは、刺々しさも殺意のかけらもない、熱っぽい呼びかけ。 耳の奥がぶわりと膨れ上がる感覚に見舞われる。 「え……」 全身が鈍く陥るがそれは一瞬で、彼女の口の中で溶けた残りの言葉をキッドはようやく拾い上げた。 |
新一を助けてくれてありがとう、だ。 |
彼女が『コナン君』を口にしなかったのは、昼のあの時の工藤新一を容赦する意味がこめられているのだろう。 せめて一粒だけでもと儚く願っていただけに、ほっと胸を撫で下ろす。 直後。 「あの…本当にすみませんでした!」 言葉と同時に駆け寄られ、背中に彼女の熱が寄りそう。 「!…」 驚きと疑惑と昼の残りの痛みと様々なものが一気に襲いくる。 |
これは…何かの罠か? |
可愛らしい声、感情の赴くまま謝罪を表す優しさと激しさ、深い心の器。しかしそのどれも、疑えば怪しい。 凄まじい勢いで思考が回る。 いや、彼女はそんな風には装わない。 いやいや、彼の秘密を完璧にしまいこめる彼女の事だ、彼の為ならば出来ない事は何もない。 「どこか折れてませんか……私あの時、手加減出来ませんでした」 声を震わせながら、彼女はあばらの辺りを探った。 |
ああ、そうだよな…… |
背後から女性に手を回され身体を探られる状態ながら、焦りも驚きもなくすっかりと落ち着いていた。 演技や欺きではなくこれが彼女の本心からの行動だと、しっかり飲み込めたからだ。 彼女の活力の源は彼からくる。 愛くるしさもはつらつさも憤怒も全ては彼の為に。 彼と生きる為に。 瞬間瞬間をがむしゃらに生きている。 |
すごい人だね全く |
心から称賛を贈る。 そんなすごい彼女を心配させやがってと、思い浮かべた彼の頭を一つ二つこづく。 そこでふと、あの憎たらしい名探偵めを困らせる場面が閃いた。 今丁度、皆揃って無事を喜びながら晩餐にくつろいでいる頃だろう。 そこに彼女の姿だけがない。 当然、彼は驚きふためいて探し始めるここに来る。 その時に―― |
よおし、完璧だ |
内心頷いてほくそ笑み、ゆっくり向きを変える。 「あなたが謝る事ではありませんよ。全ては私のせいです」 自分の過ち、醜い猜疑心に顔を歪めこちらを気遣う蘭の顔は、くらくらするほど可憐だった。 |
ちくしょう、彼女にこんな顔させやがってあんにゃろめ |
「でも、私……」 尚も自らを責めようとする彼女をそっと指先で制し、目線は動かさずに向こう正面のエレベーターホールを確認する。 まだ、動きはない。 「なら、あなたからお詫びの何かを一ついただくとしましょうか」 「あの…上げられるならなんでも出します……けど私――」 何も持ってないんです 一心に謝罪を尽くそうとするが何も出来ない申し訳なさに瞳を震わせ、熱心に見つめてくる間近の彼女。 「ではご褒美の口付けを一つ、くださいますか」 言ってから、脳天が凍りつくのを味わう。 頭の中で思い描いていた時は完璧だったはずの展開は、完璧に…失敗だった。 こんな要求を出せば、驚きつつも彼女は 「……はい」 と言うのは当たり前ではないか。 |
しまった――誰だこんなの思い付いたのは! |
もし彼女が今現在悔恨を抱いてないならば、キザな怪盗の単なるおふざけと受け止めて蹴りの一つでも見舞ってくるだろうが、今は状況が違う。 怒りに任せて行動し一切言葉を信じなかった自分を悔いて、せめてもの謝罪にと、どんな無理難題も聞く覚悟を、彼女はしていたはずだ。 たとえ素性の知れないただの泥棒だろうと、その身をささげるくらいの覚悟を。 |
オレの頭…適当すぎ |
右手にわずかな抵抗を表しながらも、素直に身を寄せてくる蘭に土下座の一つもしたくなる。 彼女の献身を逆手に取るつもりなどこれっぽっちもない。かき回すつもりも、かき乱すつもりも、茶化すつもりも一切全くない。ただほんの少し、大いに、あの探偵坊主めを困らせてやりたく、愚かな閃きを実行してしまっただけだ。 |
いくらなんでもそんなこと出来ません!――よいではないかよいではないか――そこに探偵坊主到着――思わせぶりな言葉で退場――残るは悶々とする名探偵……バカだ |
生きて帰れたら……いいな |
顔を寄せてくる蘭にこの世の終わりが見えた気がした。 まだエレベーターのドアは開かない。 このままでは、彼女と彼とに殺される運命が待つばかり。しかしうまくすれば、骨の一本か二本折るだけで済むかもしれない。 彼女の吐息が唇にかかる…もう考えている時間はない。助かりたければ実行するしかない。骨の一本や二本で生きて帰れるなら! 意を決して、キッドは右手をおろした。 「!…」 閉じられていた彼女の瞼が、開くやしっかとキッドを見据えた。 「どういうつもり……?」 「ご褒美は、これで」 左手に力を込めて問いかける彼女に笑って答えた直後。 「キッド!」 鋭く射ぬく強い声が割って入った。 「コナン君!」 柔らかな声が彼女の口から零れ落ち、間近の熱がさっと遠のく。 |
おせーよ…でも助かった |
脇目も振らず駆けてくる彼に心底安堵する。そんな自分に苦笑いを一つ。彼を大いに困らせるつもりが、自分が一番窮地に陥ってしまうとは。 |
今回は散々だった |
とっとと退散しよう。 身体はどことも言えず痛む、便利な助手扱いされた上、幾度となく肝を冷やした。 本当に、今回は散々だった。 せめて最後だけは困らせてやりたいじゃないか。 キッドはすっと跪くと、蘭の手をとり口づけ、ゆっくり見上げた。 「今の事は、二人だけの秘密という事で」 「え……」 「なんてのは冗談。何もありませんでした。あなたが気に病む事も、彼が気を揉む事も」 途端に彼女の目にちらりと火炎が過ぎった。 さて何を含んでいるのか。 |
これくらいは、許されるよな |
さりげなさを装って彼女の間合いから離れつつ、キッドはワイヤー銃を放った。 「どうぞこれからも彼を守ってあげて下さい」 飛び立つ前にもう一つ。 「そうそう、バッグの中のものは、彼と二人でどうぞ」 「え?」 何の事かと訝り呆ける顔も可愛い、なんて事を思いながら、星空の中に紛れゆく。 |
さ、帰ろ…… |
あと一歩及ばず歯噛みする名探偵の悔しげな顔に、少し気が晴れた。ほんの少し。 ほくそ笑むと思い出したように骨の髄がきりりと痛んだ。 願わくは二度と再び彼らと関わり合いになりませんように…叶わぬ望みを一心に祈りながら家路を急ぐ。 |
こっそり蘭のバッグに忍ばせたふた粒のチョコレート…彼女はどうするだろう、彼は何を思うだろう。 |
二人…三人で頭を悩ませればいいさ。 |