UFOの中で |
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「それもいいわね。一緒に行きましょうか、中森警部のところへ」 ぐいっとばかりに腕をひねりあげ、蘭はふふんと口端を持ち上げた。 「ま、まあその前に、ちょっと確認したい事が……これなんだけどよ」 言葉と同時に変装をとき、素顔にほんの少し手を加えた工藤新一で笑ってみせる。 |
「――……」 しんいち |
途端蘭の唇から儚い呟きがもれた。 と、たった今まで不敵に笑んでいた彼女の顔からすっと色が抜け、冷たさだけが残った。 奇妙に崩れた笑みが不気味にはりついている。 「!…」 命の危機に身が竦むより早く、胴に鋭い回し蹴りがめり込んだ。 踏ん張って持ちこたえられるほど軽いものではなく、たまらずにキッドは床にくず折れた。 「立ちなさいよ。本気じゃなかったし、急所は外してあるわ」 それに、うまくよけたじゃない 冷淡な声が蘭の口から発せられる。 そこにわずか、ほんのわずかに震えを含んでいた。 どんな顔をしているのか、させてしまったか確認したかったが、骨の髄まで沁みた痛みに息をするのがやっとだった。 今ので本気じゃないのかよ… それだけ彼女の怒りが強いという表れ、覚悟の証を身をもって知り、キッドはほんの数分前の自分を激しく恨んだ。 他に誰の目もないから多少は容赦してもらえるだろうと、見逃してもらえるだろうと楽観的に考えていた。 なんて浅はか。 しかし。 「立ってよ」 苛々と焦れた声を上げ、蘭は腕を掴んで無理やり引き立たせた。 義賊だなんだと世間では言われているが、所詮ただの犯罪者に過ぎない。そんな人物と約束を交わした、大事な秘密を預けた自分が愚かだった。 よくも、彼の命を危険に晒すような真似を! けれどそれはすべて自分のせいだ。何とかしなくては―― 蘭は掴んだ腕を強く握りしめた。 |
きつい拘束にキッドは口を引き結んだ。 あの夜、高層ビルの屋上で、彼女が口にした言葉――どんな事をしてでも止めるといった言葉は嘘ではなかった。 嘘とは思っていなかったが、ここまで激しいものだったとは。 当然だ。彼も彼女も、命がけで互いを守っているのだ。脅かすものはなんであろうと許さないだろう。 いっそ死を予感する。 しかし。 「すみません……」 情けないほど力ない声に内心愚痴りながら、キッドは続けた。 直後、またしても左腕をひねりあげられる。 ねじ切らんばかりの力強さにひゅうと喉が鳴った。 蘭の行動は一切の容赦がなく、ぞっとするほど冷静で的確だった。 本気じゃない、急所は外した。 まるで口ばかりだ。 こちらを見据えた鋭い眼差しも、強い表情も。 そんな中ほんのわずかまじる震えは、工藤新一への謝罪だろうか。 彼女の動きに全くためらいはなかったが、繰り出そうとしていた拳を蹴りに変えたのはそうなのだろう。 同じ顔だろうと偽物は容赦しない。這いつくばらせる事だって厭わない。 それでも同じ顔だけは。 「すみません……ですが」 先ほどよりは力を込めて声が出せた。 キッドは意を決して顔を向け、間近の憤怒に目をやった。 「これからこの船の中で起こるだろう何かによっては、工藤新一を借りることになるかもしれません」 「何かってなに?」 予想通り、きつい言葉と同時に腕を後方に引っ張られる。 「!…」 骨が軋む音がした、気がした。 残らず吐き出させてやるとばかりに蘭は眼を眇め、人体の限界など無視してぎりぎりと締めあげた。 「バイオテロ、です」 必死に痛みを噛み殺し、キッドは答えた。 驚きとともに拘束が一瞬緩んだが、あくまで一瞬、守る為に命がけの女は再びぎりりと握りしめた。 「あくまで私の推測に過ぎません…ですがもし当たるならば、彼は動くでしょう?」 問いかけに蘭は、半ば無意識にコナンの名を綴った。 「借りる事になるかどうかは、あなたの名探偵によります。それを…確認しておきたかったんです」 包み隠さず告げた途端、彼女の両手からみるみる力が抜けていきついにはただ掴むだけの形となった。 ほどなく手が離れる。 表情もまた移り変わり、燃える憤怒から悲痛のそれへとなりかわる。 恐らく今彼女が目にしているのは、誰でもを守る為危険も顧みず窮地に飛び込み、死に瀕しているあの小さな名探偵だろう。 ぎゅっと引き結んだ口を見るまでもなく想像出来た。 |
「コナン君……」 |
こらえきれず蘭は名を零した。 「出来るならば、私は力を貸します」 「え?……」 全く信じていない眼差しがキッドに向けられるのと、エレベーターが開くのとはほぼ同時だった。 エレベーターから飛び出してきたのは中森警部とその部下たちで、犯行前には必ず下見をするキッドを警戒して戻ってきたのだった。 口やかましく部下に指示を出しながらこちらに近付いてくる彼らを肩越しにうかがいながら、キッドは決断を迫った。 「俺を信じろ、蘭」 その『新一』の言葉を耳にするが早いか、蘭はほんの十五センチからの拳をキッドにお見舞いした。 「ぐっ…」 ほんの拳二つ分の距離だが、十分威力はあった。 ただいたずらに『新一』を借りたわけではない。命をかけて守ると誓った彼女との約束を理由はどうあれ破るのだから、それ相応の罰は受けなければ そう思っての事だ。 にしてもきつい…しかも今の反応速度、探偵君も大変だなこりゃ…… 出来うる限り平静を装いまっすぐ立つが、漏れたうめきを中森警部は聞き逃さなかったようだった。 「あん?どうかしたのか?」 キッド逮捕に繋がるならばどんな些細な異変も見逃さぬ、わずかな情報すらありがたいとばかりに、中森は早足になった。 今度は余計な事は口にせず、キッドは目線で語りかけた。 わずかな沈黙、躊躇の後、蘭はぱっと顔を上げ大きく首を振った。 「いえ、何もないです、すみません、失礼します!」 言い終わるが早いか、キッドの腕を掴み小走りに駆け出す。 ごまかし笑いもほどほどにエレベーターに乗り込み、扉が閉まるのを待ってから、蘭は足もとに視線を落とした。 「コナン君……」 吐息と共にもれた呟きはほぼ無意識のものだった。 彼がトラブルに首を突っ込むならば、危険は免れないだろう。そうなれば確実に、彼は…しかしその出来事は、キッドの単なる推測に過ぎない。ただの曖昧な可能性だ。 しかし全くないとは言い切れない。 キッドがでたらめを言っているのでないならば。 そして先刻の言葉は、でたらめを言っているようには…聞こえなかった。 蘭は拳を握りしめ、何事も起こらない未来を祈った。 しかし一度芽生えた不安は容易に振り払えるものではなかった。 起こる。確実に。 目的も規模も分らないが、テログループは間違いなくここに来るだろう。 そして彼が。 彼の命が。 |
出来るならば、私は力を貸します |
俯いたままわずかに顔をキッドに向け、蘭は鋭く吐いた。 「私信じてないから」 少し気の弱そうなウエイターの扮装に戻ったキッドは、どの言葉を指して蘭が信じていないと言っているのかすぐに飲み込めず、戸惑いを表してわずかに顔を近付けた。 テログループの来襲か、手助けの事か、他の何か。 蘭は油断なく身構えると、険しい顔付きで続けた。 「あなた、ただの泥棒じゃない。力を貸すってなに?」 「ああ。ただの、あなたの補助ですよ」 嘘やごまかし、その場限りの言い逃れがまじっていないか見抜かんと、蘭は眼を眇めた。 「命がけで彼を守るあなたがいれば、私の出番はないに等しいでしょう。どんな爆弾も銃器も恐れないあなたは無敵ですが、細菌相手ではどうなるかわからない。そんな時の為の補助です。あくまでも」 「それで…そこで必要ならば、工藤新一をお借りする事になるでしょう」 「コナン君がそれを許すなら」 蘭はゆるく首を振った。最終的にはコナンの判断に委ねよう。自分はそれを命がけで守るだけだ。 「でも信じない」 頑なに蘭は、キッドの言う手助けを否定した。 「もちろん、信じるのは無理です」 あっさりとキッドは、蘭の否定に頷いた。 当り前じゃない 険しく睨みつける蘭の眼差しを軽く流し、キッドは腰に手を当て大げさに胸を張ってみせた。 「けど、ただの泥棒だって、やるときゃやるのよ」 飛行機を不時着させた時みたいに あ、と蘭は小さく息をもらした。 約束を反故にされた怒りのあまり彼がすでに『していた事実』を忘れていた。頭からすっかり消え去っていた。 しかしすぐにすんなりと、受け入れるのは今は難しかった。胸に刺さった不安が多すぎて上手く物が考えられない。 |
自分はどうすればいいんだろう―― |
程なくしてエレベーターが停止する。 先に降り、軽く手を振って歩き出したキッドの背中に向かって、蘭はもう一度同じ言葉をぶつけた。 「私、信じてないから」 しかしそれはすでに、中身のない音ばかりのものだった。 真新しいエレベーターホールに放たれて散った言葉にキッドは、わずかに苦笑いを浮かべた。 その状況になれば、彼は迷う事無く要求してくるだろう。 手助けだろうが工藤新一だろうが、消しゴム貸してくれ、ほどの気軽さで当り前とばかりに。 こちらの都合も考えず、彼女の気も知らず。 それを考えると、彼女が少し不憫に思えた。 少し不公平。 そしてまあ、羨ましい。 ことが無事済んだら、ちょっと困らせてやろうか。 あの名探偵を。 |
さてどうしてくれよう―― |
ほくそ笑むと骨の髄がきりりと痛んだ。 |
死なない程度にどうにかしよう…… |
身体のどこが痛むやら、どこもかしこも軋んでいる。 心の中で密かに泣き、キッドはウエイターの仕事に戻って行った。 |