わがままな男としたたかな女

 

 

 

 

 

 着替え、下着、洗面道具、タオル、雨具、ガイドブック、それから…

 

 それぞれをメッシュの袋に小分けして、一つひとつ確認しながら旅行鞄に詰めていく。

 明日の準備をほぼ終えた頃、部屋の扉をノックする音が耳に届いた。

「はぁい」

 応えると、ややあってコナンが顔を覗かせた。

「蘭姉ちゃん、お風呂あいたよ」

「ありがとう」

 振り返り、風呂上りで少しのぼせた赤い顔にふと笑いかける。

「明日の準備してるの?」

「うん、今終わったとこ。コナン君はもう出来た?」

 明日から二泊三日で出かける小旅行にうきうきと声を弾ませ、蘭は鞄を閉じた。

「うん、ボク荷物少ないし」

 何かと荷物が多くなりがちな女子は大変だな…そんな事を思いながらコナンは頷いた。

「楽しみだね」

 言って、蘭は顔を輝かせた。

 つられてコナンも小さく笑う。

 旅行の真っ最中ももちろん楽しいが、こうして準備している時も、また楽しい。

 どこへ行こうか、何を食べようか、どんなものが見られるだろう、天気は大丈夫かな…思いを馳せるほどに期待は高まっていく。少し混じる不安もいいエッセンスだ。

「おじさんなんて、今からはりきっちゃってガイドブックとにらめっこしっぱなしだよ」

「どうせ見てるのは、お酒とか食べ物のとこばっかでしょ」

「さすが、蘭姉ちゃん」

「分かるわよ、伊豆の高原ビールで大はしゃぎでしょ」

「うん、当たり!」

「やっぱり!」

 顔を見合わせ、二人して声を上げて笑う。

「もう、お父さんてばしょうがないんだから…じゃあ、お風呂入ってきちゃうね」

「うん」

「今日は早く寝ようね」

「はあい」

 素直に応え、コナンは後ろ姿を見送った。

 

 

 

 特急列車とローカル線を乗り継ぎ、バスで十分ほど。

 降りたら二分の所に、目指すペンションはあった。

 少し山道を登った先のそこは、優しい静寂と清々しい空気に包まれ、木々の緑と咲き乱れる花に彩られていた。

 玄関へと続く石畳の両脇に生える草花は、あえて手を加えず咲くまま伸びるままに任せているのが見てとれた。

 蘭はそれら一つひとつに微笑み、感嘆の声を上げ、あれは何、これは何とコナンに尋ねた。

 視線が上へ行ったり下へ向いたり忙しない事この上ないが、コナンは一つひとつ横で律儀に応えた。

 少々うんざりもするが、彼女のはしゃいだ声で帳消しになる。心から楽しむ様が、こちらの気持ちまで軽やかにしてくれるからだ。

 きらきらと輝く眼差しを追いながら、自然に零れる笑みを一つ。

 そんな彼らへ。

「お前ら、早くしろ」

 さっさと玄関口にたどり着いた小五郎が、振り返って促す。

「あ、はあい」

 二人は揃って顔を上げた。

 あちらは、花より団子、だろう。

 いつもなら列車が動き出す前から飲み始めるのに、今日は高原ビールを口にするまではお預けと自らに課していたほど、楽しみにして来たのだ。

 もう一分だって待ちきれないに違いない。

 喉元まで不満が出掛かっているのが一目瞭然だ…蘭とコナンは互いに顔を見合わせ笑うと、早足で玄関に向かった。

「荷物置いたら、この辺散歩してみない?」

「うん、行ってみよう」

 蘭の提案にコナンはすぐさま頷いた。

 

 チェックインを済ませ、二階の客室に案内された三人は、荷物の整理もそこそこに花と団子と冒険を求め一階のダイニングへと向かった。

 窓からの眺めも素晴らしい広いダイニングには、若い二人組みの女性客と、三人の家族連れが思い思いにくつろぎ、お喋りに花を咲かせていた。

 互いに軽く挨拶を交わし、空いたテーブルにつくと、まず小五郎が一番の目的である高原ビールを声高らかに注文した。

「お父さん」

 飲みすぎないでよ、きりりと厳しい眼差しで釘を刺せば、ヒラヒラと手を振りながら調子のいい返事がかえってくる。

 まったく、口ばっかりなんだから

 ひとしきり呆れてから、蘭はコナンの手を取りカウンターへと向かった。

 

「往復で大体二時間くらいのコースがあるんですけど、それがちょうどいいと思いますよ。それほど道も険しくないですし」

「そうですか、じゃあ、行ってみます」

「じゃあ今説明しますね。まず、ここが、今いるペンションで……」

 オーナーの奥さんが、地図を手に説明するのを、蘭は熱心に聞いていた。

 いつもは美術館や博物館めぐりをするものだが…今日は珍しく山歩きを選択した蘭に、コナンは心の中で軽く首をひねった。

「ありがとうございます」

「気を付けて、行ってらっしゃい」

「行ってきます。さ、行こうコナン君」

「あ、うん」

 意気揚々と歩き出した蘭の後を、コナンが小走りで追う。

 ペンションからまずバス停へ向かい、そこで蘭は一旦足を止めた。

「えっと……」

 張り切って地図を見つめる蘭におそるおそる、コナンが声をかける。

「……ボクが見ようか」

 彼女は、自他共に認める方向音痴。任せたら、どんな山奥へ連れて行かれるか分からない。例えどんなに親切な地図があっても、だ。

 蘭は一つ咳払いをすると、薄笑いで見上げるコナンをじろりと睨み付け、渋々地図を渡した。

 思ったとおりの反応に苦笑し、コナンは地図を覗き込んだ。

「こっちだよ」

 指差し、先に立って歩き出す。

「でも、珍しいね。いつもは美術館とかまわるのに」

「うん、たまには山歩きもいいかなって思って」

「でも蘭姉ちゃん、カエル平気だったっけ。今ちょうどモリアオガエルの産卵期だから、いっぱいカエルがいると思うけど」

「う…ん。大きくなければ、平気よ。それにほら、写真で見る限りじゃ中々可愛らしいじゃない」

 コナンが広げる地図にあるモリアオガエルの写真を指差し、蘭は少々引き攣った笑顔をみせた。

「ホントは怖いんでしょ」

「こ、怖くないわよ!」

 からかうコナンに強気で言い返す。

 怖くはないが、苦手だ。

 けれど、木の幹にしっかとしがみついたその姿は中々愛嬌があり、機会があるなら見てみたいと思っているのも事実だ。

「まあ、動き回るのは夜の間が主で、昼間は大抵枝の影とかで『昼寝』している事が多いから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」

 安心させようと、コナンは簡単に説明した。

「大きさだって、ボクの手のひらくらいだし」

「へえ、そんなに大きくはないのね」

「うん、よく見ると結構可愛いよ」

 小さいのは結構だが、可愛いと思うのはやっぱり無理かもしれない…蘭は渋い顔で笑った。

 ペンションから歩いて数分、山道の入口にさしかかる。ここを道なりに歩き吊り橋を渡っていくと、件のモリアオガエルが棲息する大池に、その池からさらに十五分行くと、樹齢千年を越えるという大杉にたどり着く。

 ぐるりとまわって、約二時間。

「じゃあ、いこっか」

「うん」

 見合わせて頷き、二人は歩き出した。

 

 なだらかな下り坂が続く。

 道幅はそう狭くなく、木々の作る天然のアーチからふりそそぐ木漏れ日はあたたかい。

「……静かだねコナン君」

 時折聞こえる鳥の声が、かえって静寂を際立たせた。

「……ホントだね」

 じっとして耳を澄ませば、木の息吹が聞こえるかもしれない。

 そんな気にさせる不思議な静かさに、二人の声も自然と小さくなる。

 ほぼまっすぐな道を進んでいると、やがて川の流れと思しき音が聞こえてきた。

 吊り橋が近い。

 蘭は、コナンのリュックのポケットに差し込んだ地図を取り出すと、しゃがみ込んで一緒に位置を確認した。

「今…この辺りだね」

 コナンの指が、ペンションからたどって吊り橋の手前辺りを示す。

「よし、いこっか」

「うん」

 蘭の掛け声にコナンは頷いた。

 

 吊り橋の手前で、写真を一枚。

 コナンが構え、蘭がポーズを取った。

 交代で写そうという彼女の申し出をさりげなく断り、コナンは先を目指した。

 

 吊り橋を越えると、狭い道が続いた。

 陽射しは、幾重にも折り重なる枝葉に遮られ、少し薄暗い。

 さっきとは打って変わって空気は湿り気を帯び、うっすらと、青い匂いを漂わせていた。

 少し汗ばむが、時折吹き付ける風が拭ってくれた。

 やがて木々の向こうに、目指す大池の姿が見え始める。

 嬉しそうに見やる蘭を見上げ、コナンは軽く頷いた。

 ついにほとりにたどり着く。

「わぁ……」

 そう言ったきり、蘭は瞬きも忘れて、目の前の光景に見入った。

 静まり返った水面は空と周りの木々を映し、ひっそりと佇んでいた。

 木々は、幹こそ池の外側に置くが、枝葉をまるで池の中央まで届けとばかりに伸ばし水面を覗き込んでいる。そうして生い茂る木々がぐるりと池の周りを取り囲み、姿を映している様は、まさに言葉を失う光景だった。

 眺めていると、そのまま吸い込まれてしまいそうな、あるいはもう飲み込まれてしまった後のような、そんな錯覚を抱かせた。

「すごいね……」

 半ば無意識に蘭は呟いた。

 隣ではコナンも同じように、神秘的な光景に目を奪われていた。

 時折風が水面を揺らす以外、動くものはない。

 大分経って、ようやく二人はひと息ついた。

 長い下り坂を歩いてきて、少々足が疲れていたのをふと思い出す。

 少し休憩を取ろうと、池から程近い木の根に並んで腰を下ろした。

 と、今座ったばかりのコナンが立ち上がる。

「どうしたの?」

 何事かと、蘭は顔を見上げた。

「うん、ほら…あそこ、枝の先のほう」

 そっと囁き、コナンはまっすぐ手を伸ばし指差した。

 蘭はそろそろと立ち上がると、期待と少々の嫌悪、驚きの入り混じった複雑極まりない顔で指差す方に目を凝らした。

 案の定、そこにモリアオガエルはいた。

 背中の褐色の斑点に少しうなじがむず痒くなるが、実際目にした空豆色の小さな生き物は、中々可愛いものだった。

「ホントだ…小さい」

 コナンの言うとおり『昼寝』しているらしいそれを、じっくりと観察する。

「写真撮ったら、驚かせちゃうかな」

「うーん…遠くからズームで撮れば、大丈夫だと思うよ」

「そうね」

 ならばと、蘭はリュックからいそいそとカメラを取り出した。

「園子に見せたらビックリするかな」

 いたずらっ子の顔で呟き、蘭は写真に収めた。

「せっかくだから、蘭姉ちゃんも一緒に撮ってあげるよ」

「え…でもあの高さじゃ、一緒には入らないよ」

「なら、卵と一緒はどう?」

 言ってコナンは、蘭の斜め後方を指差した。

 振り返ると、先ほどは気付かなかった枝の先の白い塊…モリアオガエルの卵塊が目に入った。

 今にも池に届きそうにせり出した枝の先に、しっかりとぶら下がっている。

「うん、いいかも」

 コナンの提案に笑って頷き、蘭は早速水辺へと向かった。

「その辺でいいよ」

 笑って――コナンが合図を送る。妙な物体と一緒に映る自分を思い浮かべ、蘭はふふと笑った。

「はい、こんな感じでいい?」

 今撮れた画像を差し出し、コナンは見上げた。

 蘭は満足そうに頷き、カメラとコナンを交互に見やった。

「あ、もう一回撮る?」

「ううん、ありがとう。じゃあ、そろそろ行こうか」

 カメラをしまいながら蘭は言った。

「うん」

 蘭の逡巡に気付かぬ振りで、コナンは頷いた。

 

 池を離れると、ますます森は深まった。

 道はまた広くなり、進むにつれて、一本一本目を引く大木がちらほらと現れ始めた。

 それらがまばらに生えているお陰で、吊り橋から大池までの道のりよりは辺りは明るかった。

「ねえコナン君、今、どの辺か分かる?」

 歩いてきた道を振り返り、蘭が尋ねた。

 もしかしたら目指す大杉を通り過ぎてしまったのではないかと、不安にかられたからだ。

「ちょっと待って……」

 コナンは立ち止まって地図を広げた。肩越しに蘭が覗き込む。

「多分…この辺だと思う」

 時計と地図とを交互に見やり、コナンは答えた。

 大体の距離はつかめるが、自分も始めて訪れる地、少々自信がない。

「あのさ、コナン君……ひょっとして通り過ぎちゃった、って事はないよね」

 思い切って、蘭は不安を口にしてみた。

「ああ、それはないよ。ここに書いてある。大杉に近付くにつれ大木が増えていきますが、樹齢千年を越える杉の木は他を圧倒する大きさです…って」

 地図にある通りを読み上げ、コナンは大丈夫と笑いかけた。

「そっか。へえ…そんなに大きいんだ」

 蘭は顔を上げ、感嘆の声と共に辺りを見回した。

 自分たちを取り巻く木々も、圧倒するほど大きいのに、更に大きいなんて……

「後もうちょっとだと思うから、頑張って行こう」

「うん、大丈夫よ」

 掛け声に蘭は笑顔で頷いた。

 

 たどり着いた大木を前に、二人は長い事呆けて立ち尽くしていた。

 あっけにとられる――まさにその言葉どおりだ。

 先に動いたのはコナンだった。

 ゆっくり足を踏みしめ、大杉の周りをぐるりとたどる。

 たどりながら、荒々しい木肌に触れ、視界を覆うほど張り出した枝葉を見上げ、うねる根の太さに感心する…なんだかとても愉快な気分になった。

 スタート地点に戻ると、蘭も同じように幹に触れていた。

「……すごい。こんなに大きいんだ……」

 まだ驚きが抜け切らない顔で、蘭は呟いた。

 すぐにはっと我に返り、リュックを探る。

「ねえ、写真撮って」

 コナンにカメラを渡しながら、蘭は言った。

「うん、いいよ」

 受け取り、コナンは離れた。確かめなら後退するが、彼女の姿が随分小さくなってようやく、幹と一緒に収められるほどになる。

「撮るよ!」

「うん!」

 合図に、蘭は思い切り両手を広げた。

 その姿を映しながらコナンは、こんなに小さくては誰だか分からないだろうなとあらためて大きさを思い知った。

「撮れたよ」

 軽く手を振って合図する。

 小走りで戻ってきたコナンからカメラを受け取り、蘭は何事か伝いかけた。

「……ううん、なんでもない」

 すぐに首を振り、リュックにカメラをしまう。

「……ごめんね」

 零れた呟きに蘭は強い顔で一瞬手を止めた。けれどすぐに笑って、リュックを背負う。

「写真は…ただの私のわがままだし」

 そんな彼女の顔を見るのが申し訳なくなり、コナンは足元に目を落とした。

 直後、あっと思う間もなく蘭に眼鏡を取られ、驚いて顔を上げる。

 その目の前で、蘭は、左のフレームの付け根にあるボタンを迷うことなく押してみせた。

「!…」

 音もなくアンテナが伸び、同時に片方のレンズに追跡画面が浮かび上がる。

「すごいね、これ。博士の発明品?」

 目を凝らして覗き込みながら、蘭は尋ねた。

「う…うん」

 予想だにしない行動に頭がついていかず、コナンは半ば呆けた顔で頷いた。

「そうなんだ。へえー……」

 すごいねと感心した様子で蘭は見入った。レンズを近づけたり離したり一通り試してから、眼鏡をかけてみる。

「どう、似合う?」

 無邪気な問いに、コナンはぎこちなく頷いた。

 しかしその顔はどう見ても、似合っているとは思えない、そう言っていたが、気にせず、蘭は次の質問をした。

「ね、この中心で点滅してる光はなに?」

 チカチカと明滅する光点を指差し、興味津々といった表情で尋ねる。

「あ……」

 しばしためらい、コナンはぎくしゃくとポケットからバッジを取り出すと、一通りの説明を口にした。

 今までも何度か眼鏡やバッジの機能を彼女の前で発揮してきたが、詳しく説明するのは初めてだ…そのせいだろうか、言葉が詰まってしまうのは。

 それだけではない何かをおぼろげに感じ取りながら、コナンは一つひとつ追って説明した。

「ふうん……そうなってるんだ」

 蘭は眼鏡を返し、代わりにバッジを手に取った。

 そしてしばらくの間、丹念にバッジを観察し、眼鏡と見比べ、何度も頷いては「へえー…」と声をもらした。

 コナンはその様子をただ黙って見守っていた。

「……ねえ」

 と、それまで好奇心の色だけだった蘭の声音が、一変する。

 彼女の声には間違いないが同時に、まるで別人のようにも感じられ、コナンは目を見開いた。

 覚悟のようなものが背筋を走る。

 そんなコナンをまっすぐ見つめ、蘭は口を開いた。

「どれくらい……危険なの?」

 一瞬、頭の芯がかっと熱くなる。

 蘭はじっと答えを待った。どんなに隠しても動揺に震えてしまうコナンの瞳を見つめたまま、じっと待った。

 やがて、徐々にコナンの顔が伏せられる。

 彼が応えられない質問なのは始めから承知していた。分かっていた。蘭は声の調子を変え、言った。

「もう、新一も何も教えてくれないんだよ」

 はっと顔を上げるコナンが何か言うより早く、言葉を繋ぐ。

「戻ってきたら、全部説明してもらうつもりだけどね」

 重い空気にだけはしたくないと、蘭はどこまでも軽い口調を貫いた。

「それまでは私たちだけの秘密……だものね」

 自分で言っといて、ごめんね

 詫びて、蘭は微苦笑を浮かべた。

 沈黙が舞い降りる。

 風が吹いて木々をざわめかせても、二人の耳には何も届かなかった。

 それを打ち破ったのは、コナンだった。

「ねえ……蘭姉ちゃん」

 作られた子供のそれとは違う声が、耳に届く。

 今度は蘭が、覚悟を決する番だった。

「……前に、ボクに内緒でトロピカルランド行ったことあったよね。あれは…どうして?」

「あれは……」

 言いかけて蘭は、コナンの言わんとする事を察し小さく息を飲んだ。

 あらためて口を開く。

「……あれは、コナン君を危ない目にあわせたくなかったから」

 まっすぐ向かってくる眼差しをまっすぐ見つめ返し、コナンは同じだと訴えた。

 また風が吹き抜ける。

「もう…新一もコナン君も、わがままなんだから」

 肩から零れた髪をはらい、蘭は晴れやかな顔で言った。

「ねえ、コナン君。鬼ごっこしない?」

「え、え?」

 突然の提案にコナンは目を瞬かせた。

 構わず蘭は喋り続けた。

「コナン君が鬼ね。逃げるから、三十数えたら追いかけてきて。私にタッチできたら、終わり。いい?」

 そして返事も聞かず、背を向けるや駆け出した。

「ちゃんと三十数えてね!」

 声だけ残して、蘭はあっという間に森の向こうへ消えてしまった。

「あ……」

 大分経ってから、コナンは我に返った。途端に腹立ちが込み上げる。

 

 あれでよく、人の話聞かないで自分の話ばっかりなんて言えるよな!

 

 一人ごちる…が、ぼやいても仕方ない。

 言われた通り、三十数え始める。

「一、二、三、四、五……」

 数えながら、どうやって探せばいいのか疑問が起こる。

「十五、十六、十七、十八、十九……」

 そこではっと思い出す。

 そう、バッジを渡したままだった。

「二十二、二十三、二十四……」

 そうか、だからか。

 範囲も決めずに走り出したのは、これがあるからか。

「二十八、二十九、三十」

 コナンは追跡機能を作動させ、光点に目を凝らした。

「よし!」

 捕らえると同時に走り出す。

 

 

 

 彼女相手にやすやすと終わるものでない事は十分承知していたが、これほど苦戦を強いられるとは正直思っていなかった。

 はっきり言えば、なめてかかっていた。

 止まった光点に油断して、逃げられる。

 ならばと慎重に迫っても、逆に出し抜かれ逃げられる。

 裏をかいたと思っても、更に裏をかかれまたしても逃げられる。

 

 もうどれくらい、こうして走り回っただろう。

 

 コナンは近くの大木に寄りかかり、少しだけと足を止めた。

 途端にどっと汗が吹き出る。

 だるくなった腕で額を拭いながら、間近で点滅する光点に小さく舌打ちする。

 この辺りのどこかに、隠れているのだ。

 すぐ傍の、あの木か、あの茂みの陰に。

 けれどこんなに堂々と姿を見せたままいては、気付かれて、また逃げられるだろう。

 と、狙いをつけた木の陰から、蘭がひょっこり姿を見せた。

「降参する?」

「……しない」

 誰がするものか

 問いかけに新一の顔で返し、笑ってみせる。

 蘭も同じく強気の笑みを見せ、また走り出した。

 遠ざかる光点をしっかり追い、コナンは駆け出した。

 風が吹き抜け、ざわざわと木々を揺らした。

 まるで心中の不安を煽るように。

 正面からの強い風に逆らい、コナンは走り続けた。

 

 あと少しで手が届かない。

 寸前でするりとかわされる。

 走って走って迫っては、また遠ざかる。

 それはまるで、失った時間と自分のように思えた。

 どうしても取り戻せない。

 時間も

 自分も

 真実も

 その上蘭まで失うのか

 

 冗談じゃない!

 

 気付けば、元の杉の木に戻っていた。

 光点はもう動かない。

 大木を正面に、コナンは天を仰いだ。重なる枝葉を透かしてふりそそぐ陽射しの中、深く喘ぐ。

 息が苦しい。

 膝だってがくがくだ。

 もう、限界。

 けれど、つかまえるまでは諦めない。

 いくらだって走れる。

 蘭だけは失いたくない。

 

 いや、時間も自分も真実も、一つ残らず取り戻してみせる。

 

 ひゅうひゅうと肩で息をしながら辺りを見回す。

 光点に辿り着いているのは確かだが、見渡す限りには蘭の姿はない。

 と、正面から風が吹きつけた。身体を撫ですり抜けていく緑風の心地好さにひと息つこうとした瞬間、かすかに混じる蘭の匂いをコナンは感じ取った。

 はっと目を見開く。

 この大木の、向こう。

 息をひそめ、様子を伺っている。

 どう動くか迷い、しばし逡巡の後、コナンはまっすぐ歩き出した。

 大木をまわり込み、隠れている蘭の正面へ。

 白い陽射しと葉の緑、木肌、土の色。

 その中に咲く、鮮やかな春色…蘭。

 コナンは一旦足を止めた。まっすぐ見つめてくる眼差しに、ゆっくり口を開く。

「……降参する?」

「しない」

 蘭は笑って首を振った。

 ではまた、寸前で逃げるつもりだろうか。

 細かに観察するも、そんな素振りは感じられない。

 ならばと、一歩、踏み出す。

 それでも彼女は動かない。

 何か伝いかけ、口を噤んで、コナンはゆっくりと歩み寄った。

 右手を伸ばし、蘭の左手をしっかり掴む。

「……つかまえた」

「つかまっちゃった」

 私の負け、蘭はにこりと笑った。直後、思いがけず強い力で手を引かれ、驚きながらしゃがみ込む。

「!…」

 そのまま抱きしめられ、蘭ははっと息を飲んだ。

 瞬く間に顔が熱くなる。

 それはコナンも同じだった。

 本当は、息苦しさにただよろけただけなのだが、結果的に抱きしめる形になった…それは、互いの胸を激しく高鳴らせた。

 早く離れなければ、誤解される。

 何より恥ずかしい。

 分かっていても、中々息が整わない。

 

 ただでさえ走りどおしで苦しいというのに――嗚呼

 

 言う事を聞かない膝に怒りをぶつける。

 と、不意に抱き上げられ、軽い混乱にコナンは目を瞬いた。

 蘭の腕におさまる自分が信じられない。

「え、ちょ……」

 慌ててじたばたと身じろぐ。

「あら、コナン君勝ったんだから、ご褒美よ」

 さらりと蘭は言ってのけた。

「それに、逃げてる間寂しかったんだもの」

 言葉と同時にぎゅうっと抱きしめられる。

「………」

 逃げてたのは自分じゃねーか…

 横目でむくれてみせるが、寂しかったと甘えられては、それ以上逆らう事も出来ない。

 少々居心地の悪さを感じながらも、大人しく身を委ねる。

「いっぱい走ったから、汗かいちゃったね。戻ったら、ご飯の前にお風呂入ろっか」

「……うん、そだね」

「ね、じゃあ一緒に入って、背中流しっこしない?」

「え! そ、それは……」

「ダメー? コナン君のケチ!」

「い、いや、あの……」

「いいじゃない、入ろうよ! 広い露天風呂があるんだって!」

 したたかな女が笑う。

「で、でも…あの……」

 わがままな男はただ慌てふためくばかり。

 さあ、どうやって、説得しようか。

 うきうきと帰路をたどる蘭の腕の中、コナンはまとまらない考えに頭を抱えうなり続けた。

 

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