I can't stop my love for you

 

 

 

 

 

 夕飯時、いつもは三人の食卓が今日は一人欠けていた。

 事務所から戻った小五郎が、夕刊に目を通しつつ所在を尋ねる。

 表面上「どうでもいい」を強調しながら、その実気にかけている…父親のそんな天邪鬼な性質に内心笑いながら、蘭は昼間の出来事を簡単に説明した。そして、風邪が移るとまずいから今日はリビングで寝てほしいと頼むと、案の定、ばさばさと新聞を乱暴に折りたたみながら、非常に面倒くさそうに顔をしかめた。

「……ったく、ガキはしょうがねえなあ」

 その割には、まだ食事も途中だというのに寝室へ様子を見に行く。

 そっと足音を忍ばせて。

 言ってる事とやってる事が合ってない、そう喉元まで出掛かったのを何とか飲み込み、蘭は肩越しに振り返った。

「……寝てるでしょ」

「ああ…薬は飲ませたんだろ?」

「うん。夜の分はまだだけど」

「……んじゃ後で起こして、適当になんか食わせて飲ませとけ」

 後はほったらかしときゃいい。

 そんな態度を前面に出しながら、目線はいつまでもコナンの様子を伺っている。

「うん、そうする」

 まったく、素直じゃないんだから。

 心の中で一つ零して、蘭は密かに笑った。

 

 

 

 夕食後、片付けは後回しにして、用意したお粥を手にそっと寝室に入る。

「……コナン君」

 呼びかけながら、蘭は部屋の明かりをつけた。眩しくては可哀想と、急いで一つ消す。

「コナン君……」

 傍に座り、もう一度呼びかけると、かすかに瞼が動いた。

「………」

 何事か小さく呟いて、コナンは目を覚ました。

「具合はどう?」

 少し待ってから、声をかける。

「うん……まあまあ」

 だるそうに答え、コナンは身体を起こした。

 蘭は手にした丸盆を脇に置くと、すぐさま手を貸してやった。

「大丈夫……」

 そう呟く声は、昼間よりもか細くかすれていた。

 いくらただの風邪とはいえ、疲れ弱りきった姿に胸が痛んだ。

 額で確かめる熱は、かなり高い。

「さ、これ着て」

 蘭は持ってきたカーディガンを羽織らせると、優しく背中をさすってやった。

「お粥作ったんだけど、食べられそう?」

「……少しなら」

 ごほごほと喉に絡んだ重い咳をしながら、コナンは小さく頷いた。

「そう…しっかり食べて、薬飲めば、すぐに良くなるからね」

 にっこり笑って励まし、蘭は脇に置いた丸盆に手を伸ばした。

「うん……」

 小鉢に盛られる白粥を、コナンは黙って見つめていた。微かに立ちのぼるゆらゆら揺れる湯気を、ぼんやりと目で追う。

「まだちょっと熱いかな……」

 呟きながら、蘭は軽く混ぜて確かめた。そろそろ冷めた頃合を見計らい、小鉢を差し出すと、同時にコナンが口を開いた。

「……おじさんは?」

 ベッドに毛布がないのに気付いたからだろう。こんな時でも小さな違和感を見逃さない探偵の目に感心しながら、蘭は説明した。

「うん、今日はリビングで寝てもらうようにしたの。いびきで眠れなかったら、ゆっくり休めないでしょ」

 それから小鉢を手渡す。

「はい、火傷しないように気を付けてね」

 小さく頷き、コナンは受け取った。

「じゃあ私、後片付け済ませてきちゃうね。無理しないで、食べられるだけでいいからね」

 そう言ってコナンの頭を優しく撫で、蘭は立ち上がった。

「後で、薬持ってくるから」

 戸口で振り返りコナンの返事を待つが、身体が辛いのか小鉢に目を落としたまま微かに頷くだけだった。

 何か伝いかけ、飲み込んで、蘭は静かに扉を閉めた。

 

 出来るなら代わってあげたい。

 

 胸の潰れる思いに、そっと目を瞑る。

 

 

 

 後片付けを済ませ、薬と水を用意して再び寝室に向かう。

 寝ているかと思ったが、さっきと同じ姿勢で布団の上に座っていた。

 辛そうに肩を上下させて呼吸する様が、なんとも痛々しい。

 けれど、それでこちらが余計に心配して不安にさせては、ますます悪くなってしまうかもしれない。早く良くなってもらいたいと、蘭は努めて明るい声で励ました。

 薬を受け取る時も、飲み終わった後も、苦しいのかわずかに口を開くだけのコナンを見るのは、辛かったが。

 

 

 

「じゃあ、ゆっくり休んでねコナン君」

 目を瞑り、黙って頷くのを悲痛な眼差しで見やり、蘭は部屋の明かりを消した。

「おやすみ……」

 そっと扉を閉める。

 間際、薄暗がりから微かに返事が聞こえた。

 途端にじわりと涙が滲んだ。

 

 早く良くなってね

 

 心の中で祈り、部屋を後にする。

 

 

 

 自室に戻った蘭は、いつものように明日の学校の準備を始めた。が、コナンの事が気になって、何度も手を止めてはぼんやりと物思いにふける。

 そうこうしている内に、いつの間にか時計は九時をさしていた。

「明日のご飯の支度……!」

 慌ててキッチンへと向かう。

 明日の朝食のメニューや弁当の中身を考えながら、冷蔵庫を開ける。と、ひとパックの苺が目に飛び込んだ。

「あ……」

 園子に感謝しながら、手を伸ばす。

 明日の朝、いただくね。

 ふと頬を緩めたその時、背後で物音がした。

「!…」

 驚き振り向くと、パジャマ姿のコナンが立っているのが目に入った。

 何も羽織らず裸足のままの彼に目を見開く。

「……ダメじゃない、何か着てこなきゃ!」

 慌てて、蘭は自分の着ていたカーディガンを羽織らせた。しっかりと襟元を合わせ、キッチンの椅子に座らせる。

「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

「あ……喉渇いちゃって」

 血相を変えて問いただす蘭の勢いにおっかなびっくり首を振り、コナンは言った。

 その言葉に大げさに肩を落とし、蘭はほっと息をついた。

「もう…私にはあれこれうるさく言うくせに、自分はてんで無頓着なんだから」

 パタパタと軽快にスリッパを響かせて右から左へ。

 笑いながらコップ一杯の水を差し出す。

「はい。ダメよ、無理しちゃ」

 しかしコナンは受け取ろうとしなかった。

 無表情のまま、ただじっとコップの中の水を見つめている。

「コナン君……?」

 しゃがみ込み、蘭は心配そうに手を伸べた。何度もためらいながら触れた額は、相変わらず熱い。

 

 こんな小さな身体で…苦しいでしょうに……

 代わってあげられたら――

 

 より強く願う。

 と、コナンが動いた。

 一点を見つめたまま、額の手をゆっくり払いのける。

 思いがけない行動に蘭はぎくりと頬を強張らせた。

 その蘭の手から、コップを。

「………」

 受け取る。俯く。そして自嘲気味に呟く。

「どうせ…ガキだって言いたいんだろ……」

「!…」

 吐き捨てられた言葉は蘭の胸を鋭く貫いた。

「そ、うじゃなくて……」

 驚くほど声が震えた。強張る首を何とか動かし、左右に振る。

 なんと言えばいいか、喉の奥で想いが絡まる。

「あ……」

 背中に伝う冷たい汗。

 今ここで彼と…新一と言葉を交わすとは思ってもなかったから、何を伝えばいいのか、頭の中が真っ白になる。

 水の中でもがくような息苦しさに蘭は唇をわななかせた。

 疲れ切った動作でコナンはコップをテーブルに置いた。喘ぎながら一言もらす。

「オレは子供じゃねーよ……」

 一瞬遠退いた蘭の意識を、その言葉が引き戻した。

 耳を疑う。

 始めて聞く声。

 今にも消えてしまいそうに頼りない音が、心を強く抉る。

 目の奥に熱いものが込み上げた。

 それと共に溢れてくる、どうしようもないほどの愛しさ。

 何も伝えない代わりに蘭はぎゅっと抱きしめた。

 耳を澄ますと、少し早い鼓動が肌に響いてくる。

 たまらなく愛しい。

 髪にかかる息づかいも、体温も…始めて触れた弱さも何もかも、腕の中にある全てが愛しくてたまらない。

「……ばーか」

 笑って呟くと、涙が一粒零れた。気付かれないよう拭って、言葉を続ける。

「知ってるわよそれくらい。高校生にもなって、何言ってるのよ」

 しっかり抱きしめると、小さな手が抱き返してきた。

必死でしがみ付くような、強い力に思わず驚く。

 

 コナン君

 ――新一

 

 いつも一人で先を歩いているから、それが当たり前だと思ってた。

 迷いも悩みもない人なんだと、よく考えもせず決め付けていた。

 

 ごめんね。

 あなただって、不安に怯える夜もあるんだよね。

 気付かなくてごめんなさい。

 

 でも

 でもね

 

 嬉しい。

 頼られた事が。

 不安を見せてくれた事が。

 

 どうか怒らないでね

 

 溢れんばかりの歓喜が身体中に満ちる。

「三人でいるんだから…大丈夫だよ」

 今はこれしか言葉が思いつかないのが歯痒い。

 それでも、どうか届いて欲しい。

 いつも私の事ばかり心配しているあなたと同じように、私もあなたの事を思っているよ。

「ごめん……」

 彼の唇から零れ、あっという間に消えていく言葉をしっかり耳に刻み込む。

 

 コナン君

 ――新一

 

「うん…大丈夫だよ」

 大丈夫だよ、コナン……君

 泣きながら笑って、二人…三人を確かめ合う。

 

 

 

 朝の明るさに促され、コナンはゆっくり目を開けた。

 普段より長く寝ていたせいか、身体が思うように動かない。どうにかこうにか首をめぐらせ、枕元の時計を見やる。

 まだ、日の出を過ぎたばかりの時間。

 自分にしては早起きな方だ。

 大きなあくびを一つつきながら、無意識に眼鏡を探す。

 が、いくら探しても手がたどり着かない。

 訝りながら、本格的に探そうとうつ伏せになる。しかし、まだ体調が完全に戻っていないのか途中で面倒になり、ついでに考えるのも放棄して目を閉じる。

 

 もう少し…寝るか

 

 仰向けになると、少し咳が出た。けれど昨日ほどひどくはなく、体温も、自己判断では大分下がって感じられた。

 しばしうとうとと浅い眠りを繰り返し、いつも起きる時間になる頃、目を覚ます。

 徐々に頭も起き出してくる。

 それにつれて、昨日の出来事が断片的に甦ってきた。

 学校の授業中に熱を出して倒れ、保健室に運ばれて、それから……

 と。

 そこで唐突に、明け方に見た夢の内容を思い出す。

 およそ自分には似つかわしくない、情けない夢。

 激しく動揺し一人うろたえていると、寝室の扉が遠慮がちに開いた。

「!…」

 大げさに反応し、まだ調子が戻っていないのも忘れて飛び起きる。

「ごめんね、起こしちゃった?」

 やってきたのは蘭だった。戸口から顔を覗かせ、済まなそうに言う。

「ううん…大丈夫だよ」

「眼鏡、探したでしょ。昨日帰る時預かったきりだったから」

「あ、うん……」

 受け取った眼鏡をかけると、少し落ち着きが戻った。

「具合はどう?」

「え、あ、あの…咳は止まったみたい……」

 ちらちらと上目遣いで、ぼそぼそと答える。

「そう。熱はどうかな……」

 そう言って、傍に膝をつき蘭が手を伸ばす。

 まだ収まっていなかった動揺が、急にぶり返した。跳ね上がった鼓動さながらに身体を弾ませ、大仰な動作でコナンは手を避けた。途中ではっと気付き、慌てて肩の力を抜く。

「うーん…まだちょっとあるね」

 そう言う蘭に、でも大丈夫と笑ってみせる。が、それはひどくぎこちないものだった。

「ご飯、少しは食べられそう?」

「う…うん」

「どうしたの? 身体、まだつらい?」

「ううん! あの…へ、変な夢見ちゃって……」

 大げさに首を振り、咄嗟の言葉でごまかす。

 が、逃げのはずの一言は、逆に自分の首を締める結果となった。

「あら…もし怖い夢の時は、朝の内に誰かに話すといいんだって。どんな夢だったの?」

「え、と…よく覚えてないや……」

 仕方なく、小さく笑ってむにゃむにゃと答える。

 

 本当は覚えている。

 明け方に見た夢…

 何か喋ったが、それは忘れた。

 けれど覚えている。

 蘭の前で、恥ずかしくなるほど弱い姿を見せた。

 

 熱のせいだろうか…あんなみっともない夢を見るなんて……

 

「でも良かった。コナン君、昨日よりずっと顔色良くなってる」

 ほっとした顔で蘭が笑う。

「昨日は、今にも死にそうな顔してて……」

 心配したんだから。

「……ごめんね、蘭姉ちゃん」

「ううん。元気になったコナン君見て安心したら消えちゃった」

 そう言って蘭は、持ってきたカーディガンを上に羽織らせた。

「ありがとう」

「身体冷やすのが一番良くないんだから。あったかくしてね」

「はぁい」

 渋々といった風の返事に蘭は小さく笑った。

 コナンも一緒になって笑う。

「ご飯、もうすぐ出来るけど、こっちで食べる?」

「ううん、大丈夫」

「そう、じゃあ、出来たら呼ぶね。それまでもう少し休んでて」

 言って、蘭は立ち上がった。戸口で一旦振り返り、起きてくる時は上を着てくるよう念を押す。

「わかってるよ」

「返事は『はい』でしょ」

「……はい」

「よろしい」

 くすくすと笑い声を残して、蘭は部屋を出て行った。

 静かに閉まる扉を見上げ、まだ残る咳を一つ二つ。

 落ち着いたところで深呼吸をして、不意に。

 自分の着ているカーディガンに気付く。

 これは蘭が、寒い時に愛用しているもの。

 最近では毎日見かける。

 

 これ……まさかな

 

 見覚えがあるのは、いつも彼女が着ているから…のはず。

 

 いや……それだけじゃなくて

 

 自分には少し大きいカーディガンをまじまじと見つめたまま、コナンは長い事考えていた。

 

 まさかな……

 

 空色のカーディガンは、まるで優しく抱きしめられているかのようにぬくぬくと暖かかった。

 やがて蘭の声が扉越しに聞こえてきた。

 返事はしたものの、どんな顔で出て行くべきか……再び蘭の声が聞こえるまでの数分、コナンは扉の前で悩み続けた。

 

 

 

「調子が悪かったら無理しなくていいからね」

 大丈夫だからと、うんうん頷いて答える。

「はい、コナン君のは特製おじや。熱いから、火傷しないように気を付けてね」

 またうんうんと頷く。

「それと、昨日園子にもらった苺。栄養たっぷりだから、食べてね」

 昨日の会話が嫌でも思い出され、途端に赤くなる顔を隠して俯きうんうんと頷く。

 気のせいでなく、耳まで熱い。

 嗚呼…また倒れそうだ。

 

 そんなコナンを横目に見つめ、蘭はふふと笑みを零した。

 今は…誰にも内緒。私だけの秘密。

 でも、もしまた昨日みたいな夜が来た時は、私が側にいる事を思い出してね。

 いつだって、二人…三人でいるよ。

 

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