四時間目の授業の終わりを告げるチャイムの音が、スピーカーから聞こえてくる。

 うとうとしかけた意識に響くその音を、コナンはぼんやりと聞いていた。

 少しずつ頭がはっきりしてくる。

 と同時に甦る寒気。

 二枚重ねた少し重い毛布の中で、もぞもぞと寝返りを打つ。

 

 かっこわりぃ……

 

 給食の準備で慌しくなる廊下の喧騒に何とはなしに耳を傾けながら、今の自分の状況…授業中に熱を出して倒れ保健室のベッドで休む姿にこそりと悪態をつく。

 朝は何ともなかったのに。

 いつものように登校して、一人ずつ揃う探偵団の面々と他愛無いお喋りしている時も、二時間目の体育の授業を受けている時も、特に変わった事はなかった。

 異常を感じたのは、三時間目の半ば辺り。

 今日は暖かいから、花壇でお絵描きをしましょう、と小林先生に言われ、スケッチブックとクレヨンを手に校庭へと出た。

 履き替えいざ外に出ようとしたところで、急に、異変に襲われた。

 そこから先は記憶が曖昧で、よく覚えていない。

 周りで探偵団の面々が騒いでいたような、いなかったような。

 

 ガキは突然熱出たりするしな……

 

 自嘲気味に零し、もう一度寝返りを打つ。

 自分の足で保健室まで来られる状態ではなかったから、恐らくは、小林先生に運んでもらったのだろう。

 

 ああ、かっこわりぃ……

 

 肩から背筋の辺りにかけてじわじわと襲う寒気に身を竦めながら、溜め息を一つ。

 と、静かにカーテンが開いた。

 ふと顔を上げると、保険医の先生と目が合った。

「江戸川君、今おうちの人に連絡したらね、お姉さんが出てくれて、学校終わったらすぐ迎えにいくって。午後には来てくれると思うから、それまでゆっくり休んでなさい」

「え……」

 熱のせいで思考能力が低下しているのか、保険医の言う『お姉さん』が誰なのか思い出せず、言葉に詰まる。

 緊急時の連絡先は、確か毛利探偵事務所だったはず……いや、博士の家だったか――

 そこまで考え、ようやく蘭にたどり着く。が、間が繋がらない。

 

 つーか蘭にこんなみっともねーとこ……

 

 鈍い回転の頭を何とか奮い立たせ考えるが、再び襲ってきた眠気に全てはとけていく。

「はい……」

 半ば無意識に応え、コナンは疲れた瞼を閉じた。

 

 

 

「江戸川君、おうちの人迎えに来てくれたわよ」

 静かな呼びかけにコナンはゆっくりと目を開けた。

 保険医に続いて、蘭が姿を見せた。その横には、園子もいた。

「……コナン君、大丈夫?」

 声を潜め、蘭が心配そうに話し掛けてくる。

 コナンはぼんやり霞む目を何度か瞬き、声のする方に頷いた。耳に一番優しく響く声音が、弱った心にしみ込む。思わず泣きそうになる。

 落ち着けと言い聞かせ、コナンは大きく息を吐いた。

「ありゃりゃ、相当具合悪そうね」

 蘭の肩越しに覗き込んだ園子が、珍しく元気のないコナンに顔をしかめた。

「遅くなってゴメンね。さあ、おうち帰ろ」

 もう一度頷き、コナンはのろのろと起き上がった。頭がうまく働かない。身体が重い。確か蘭に、何か、まずい事があったように思うのだが、覚えていない。大した事じゃないのだろう。それより今は、早く帰って横になりたい。

 ただ…声が優しく響く。

 

 情けねーな……

 

「ほら、掴まって」

 だるそうに伏したコナンを見て、蘭はすぐさま抱き起こしてやった。起き上がったのを確認すると、ベッドの脇においてあったコートをてきぱきと着せにかかる。

「ランドセルは私が持ってくよ」

「うん、ありがとう」

 園子の申し出に済まなそうに礼を言いながら、蘭はしっかりマフラーを巻いてやった。

 その様子を、園子はじっと見守っていた。

「少し熱が高いから、帰りにお医者さん寄った方がいいかもねえ」

「はい、そうします」

 保険医の提案に頷き、蘭はベッドの前でしゃがんだ。髪を左に寄せコナンに背中を向ける。

「ほら、コナン君おぶさって」

「え……いいよ。歩けるから……」

「ダメよ、そんなふらふらしてるのに。いいからほら、早く」

 急かすが、中々コナンは動こうとしなかった。

「カッコわりーよ……」

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ」

 少し怒った顔で蘭が言う

 そこで園子が口を挟んだ。

「じゃあ、フード被んなさいよ。そうすりゃあったかいし――」

 言うが早いか、背中のフードをすっぽり被せる。

「――顔も見えないから、ちょうどいいでしょ。ったく、いっちょまえにカッコつけちゃって」

 渋々おぶさるコナンにふと笑みを零す。

 準備が整うと、二人は保険医に繰り返し礼を言い保健室を後にした。

「ごめんね園子、荷物持たせちゃって」

 自分の鞄とランドセルを引き受けてくれた園子に申し訳なさそうに言う。

「ああ、いいって。このくらい、部活の筋トレに比べたら軽い軽い。それに、久しぶりに背負って、なんだか懐かしいし」

 玄関で靴を履き替え、校門を出た二人はまっすぐ新出医院へと向かった。

「にしても、電話もらってびっくりしたあんたにびっくりしたわよ、こっちは」

 昼休み半ばの出来事を思い出し、園子は言った。病人を気遣い、ひそひそ声で。

「まるで誰か死んだみたいに驚いた顔してたよ」

「だって…急に倒れたとか言われたら、誰だって驚くわよ。朝は元気だったから余計に……」

「今風邪が流行ってるからね」

 言って園子は、コナンの顔をちらりと覗き込んだ。

 ぐったりと肩にもたれ、熱に潤んだ目を薄く開けて浅い呼吸を繰り返している。

 しょっちゅう生意気な事を言っては小五郎からげんこつをもらい、それでもめげずに走り回っているイメージが強い分、今はまるで別人に見えた。眼鏡を外しているせいも多分にある。

「大丈夫? もうすぐ病院につくからね」

 園子はそっと頭を撫でてやった。

「……うん」

 弱々しい声、力ない眼差し。普段との差が大きい分、保護本能が強く働く。

「そんな顔しない、すぐに良くなるよ」

 励ますように言って、園子は優しく背中を宥めてやった。

「サンキュ……」

 子供らしからぬ一言に目を見開く。

 それでこそ、彼らしいが。

 園子はふと笑みをもらした。

 

 

 

 金曜日の午後、新出医院は比較的空いていた。

 診察の結果は風邪、今夜辺り咳が出るかもしれないと診断を受け、水薬と、小児用の咳止めシロップを処方してもらった。

 薬局で受け取った薬を、横から園子が覗き込む。

 自分も子供の頃同じような薬を飲んだ事があると園子が言い、それに対して蘭は、自分は水薬が大嫌いだったと苦笑いで返した。

「ああ、私も。甘いのに、変に苦くてね」

 言いながら、園子は大げさに顔を歪ませた。

「でも、ちゃんと飲まないと良くならないから、我慢するのよ」

 蘭の背中で、眩しそうに目を瞬くコナンにそう言って、園子はそっと頭を撫でてやった。

「……わーってるよ」

 かすれ声で答えるコナンをそっと振り返り、蘭は微苦笑を浮かべた。

 と、動きで分かったのか、コナンは顔を上げると、ふと笑ってみせた。

 受け止めて、蘭が小さく頷く。

 

 

 

 帰路の途中、小さな商店街の中ほどで、不意に園子が足を止めた。

「蘭、すぐ追いつくから先行ってて」

「え、何か用事?」

「うん、すぐ済むから。あとでね」

 そう言って園子は軽く手を上げ、今来た道を小走りに駆けていった。

 しばし見送り、蘭は家路を急いだ。

 

 

 

 家に着き、荷物の整理もそこそこにコナンを着替えさせていると、玄関のチャイムが鳴った。

「あ、園子かも。コナン君は寝てていいよ」

「……うん」

 布団に入ったのを見届けてから、蘭は「はーい」と応え寝室を出た。と同時に、コンコンとノックに続いて園子の声がドア越しに聞こえた。

「今開けるね」

 ガチャリとドアを押し開ける。

「ごめんね蘭、遅くなって」

「ううん」

「はいこれ、コナン君の荷物」

「ありがとね、園子」

「いいって。それから……」

 園子は片手に下げた小さな白いビニールの買い物袋を差し出した。

「はいこれ、お見舞い」

 渡されたのは、ひとパックのイチゴ。真っ赤に熟し、粒の揃ったイチゴがバックの中綺麗に整列している。

「風邪の時はビタミンとるのが良いって言うし」

「え、園子、悪いよこんな……」

「いいっていいって。あのガキんちょ元気がないと、こっちまで調子狂うからね。それに、蘭も元気なくなるし。だから早く良くなるように、ね!」

 そう言って笑う園子に合わせ、蘭も小さく笑った。

 それからしばし他愛ないお喋りを交わした後、そろそろ退去の意味を込めて、園子はドアノブに手をかけ言葉を続けた。

「まったく、あんたのダンナもコナン君も、心配かけてばっかでしょうがないね」

「ちょ…別に新一はダンナなんかじゃ……」

「あれあれ、私一言も新一君なんて言ってないよ?」

「もお…園子!」

「こわいこわい。じゃあ私そろそろ帰るね」

「あ…うん。色々ありがとう。イチゴまでもらっちゃって」

「いいって、困った時はお互い様でしょ」

 軽く肩を叩く親友の心遣いに頬を緩め、蘭は頷いた。

 園子は向きを変えると、用意していた言葉をここぞとばかりに口にした。

「にしてもさ、コナン君の面倒見てる時のあんた、まるでお母さんみたいだったわよ」

「……ええ!」

 蘭は大げさに声を上げた。前にも何度か、園子にそうからかわれた事があるせいか、それほどショックは受けなかったものの、やはりうろたえてしまう。

 

 園子のヤロー……

 

 寝室で、コナンもまた、同じく動揺していた。

「なーんて、冗談よ冗談。ちゃんと――手のかかる年下の彼氏と世話焼き好きの彼女、に見えるわよ」

 人差し指をピーンと立て、自信たっぷりに園子は言った。

「!…」

 なっ…!

 今度こそ言葉も出ない。

 ぽかんと口をあけた蘭の間抜けな顔を見て、園子がくすくすと笑い声をこぼす。

「……もう、何言ってるのよ園子!」

 そこではたと我に返り、蘭は真っ赤な顔で叫んだ。

「あら、コナン君のこと、まんざらでもないでしょ?」

「え、あ…そ、別にそういうのは……それにコナン君はまだ……」

「あら、子供だからって、軽んじていいってわけじゃないでしょ。真剣に考えるべきよ」

 まったくもって正論だ。だが、相手は園子。どうせ、半分は面白がっての事だろう。

 

 オイオイ…いい加減にしろよ……

 

 コナンは布団の中で舌打ちを一つ響かせると、熱に負けて動かない身体を大いに呪った。

 

 元気なら、すぐにでもあいつらの間に割って入れるのに

 

「と、とにかく、私は……そんな風にコナン君の事――」

 しどろもどろで説明するが、当の園子はまるで聞いておらず、自分勝手に考えを進めていた。

 顎に指をかけ、眉間に深くしわを刻んで。

「うーん……確かに新一君相手じゃかなり分が悪いけど、諦めちゃダメよね。真実の愛はいつかきっと実を結ぶんだから」

「もう、園子!」

 妙に芝居がかった口調で調子付く親友を一喝し、蘭はじろりと睨み付けた。

「ゴメンゴメン、だって蘭ってば、冗談にも本気で驚いてくれるもんだから、つい」

 笑いながら園子は頭をかいた。

「……もう」

 内心の動揺を懸命に抑え、蘭は大げさな溜め息をついた。

 満面の笑みを向け、園子は玄関のドアを押し開けた。

 そして最後に一言。

「んじゃ、小さいダンナによろしくね」

「……っ!」

 今度こそ言葉も出ない。

 友人の一番ビックリした時の顔を引き出せたことにしてやったりと破顔し、園子はひらひらと手を振りながら階段を下りていった。

 扉がゆっくりと閉まる。

 重い音が響いてしばらくしてからも、蘭は動けずにいた。

 袋の中のイチゴと同じく、真っ赤な顔で。

 そしてまた、寝室にいるコナンも、扉越しに聞いていた会話のとどめに、高い熱を更に高くして、うなっていた。

 

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