したたかな秘密

 

 

 

 

 

 夢だったような気もする。

 

 昨日、真夜中に公園まで出かけ、言葉を交わした事

 三人で、進む道を選んだ事

 三人だけの秘密――

 

 夢じゃないはずなのに、頭で思うより弱いこの身体は夜に弱く、半分、眠っていた。

 それでも、耳に届いた言葉は一つ残らず胸に残っている。

 強く残っている。

 

 いいや。

 夢だった。

 自分の儚い希望だった。

 昨日の出来事は、本当のものじゃない。

 

 あんなにも鮮やかに光景のひとつひとつを…昼間と違う空気の揺れ、引き込まれるような静寂、キラキラと瞬く星空、彼女の濡れた睫毛、微笑み、耳に届いた言葉のすべてを…覚えているのに、こんなにおぼろげになってしまうのは、確信が持てないのは、彼女の態度が全く変わらないからだろうか。

 強い決意だったはずなのに、彼女は何ひとつ変わらない。

 名を呼ぶ時も。

 視線を向ける時も。

 手を差し伸べる時も。

 

 強い決意と覚悟に胸が苦しくなって、まともに顔を見られない自分と、まるで対照的な彼女。

 他愛無いいつものお喋りに、うまく応えられず口ごもる自分を、不思議そうに見つめる。

 よそよそしい態度もなく、だからといって、秘密を共有する者が見せる馴れ合いもない。

 何ひとつ、変わらない。

 

 夢だったのだ

 

 ほっとしたような…複雑な感情に見舞われる。

 これ以上ない心強い味方を、得たと思ったのに。

 慌てて首を振る。

 出来る事の少ない自分が、ろくに力もない自分が、歯痒い。

 どうしようもなく。

 

 そして一日、また一日と時が過ぎる。

 

 

 

「ねえ、コナン君」

 リビングの柱に寄りかかり、膝に広げた雑誌をぼんやり見つめる少年に、キッチンから顔を覗かせた蘭が声をかける。

「……なあに?」

 慌てて顔を上げ、にこにこと見つめる眼差しと目を合わせる。

「ちょっと、お手伝いお願い出来る?」

「あ、はーい」

 夢を吹っ切り、ようやくのこと取り戻せた、この身体に合った声を出し、蘭の後に続く。

 蘭は流しの前に椅子を置くと、背もたれを掴んでそこに乗るよう促した。

「野菜炒めに使う、さやえんどうのすじを取ってほしいの」

 洗ってボウルにあげたぴかぴかのさやえんどうを手渡し、一つ見本を見せる。

「こことここを、こうやって……取るの。取ったら、ザルに入れてね」

「うん、わかった」

 作り物の声に、蘭はにっこり微笑んだ。

 何ひとつ、以前と変わらない。

 これでいいんだ……

 馬鹿な夢を見た自分から遠ざかるように、任された仕事に没頭する。

「あら、コナン君上手ね」

 ボウルからザルへ、次々と足されていくぴかぴかのさやえんどうに、蘭は感心したように声を上げた。

「えへへ」

 器用な子供を優しく褒める蘭。

 得意げに笑う自分。

 これでいい。

 これでいいはずなのに…夢の前よりも胸が痛むのは何故だろう。

 これでいいはずなのに。

「ねえコナン君、向こうのお皿、取ってくれる?」

 知らず空虚になった心に、春の雨のように蘭の声が降り注いだ。

「あ…うん」

 はっと我に返り、彼女の指す向こう、三つ並んだ白い皿を見やる。

 野菜炒めを乗せる分だけあけて、ポテトサラダとプチトマトが盛り付けられている。

「椅子、気を付けてね」

「はーい」

 と返事はしたものの、一旦おりて、動かし、また乗り上げるのを面倒くさがって、横着する。

 流しに沿うように身体を寄りかからせ、思い切り手を伸ばす。

 どうにか掴んだ大皿を、引き寄せようとした瞬間、ぐらりと椅子が傾いた。

「うわっ……!」

 慌てて身体を起こすが、倒れかけた椅子の上ではどんなバランスも取れるはずがなく、先に床に落ちた白い皿が音を立てて割れ砕けた。

 次いで、その上に倒れ込むだろう自分を、しまったと舌打ちしながら後悔する。

 蘭は息を飲んだ。

「しん――!」

 声と同時に、全身で抱きしめる。

「え……」

 落ちて受ける衝撃を予想する頭の片隅に、今耳に飛び込んだ一言が鋭く刺さる。

 ……衝撃は、やってこなかった。

 代わりにあるのは少し苦しいくらいに抱きしめる腕…蘭の腕。

 間一髪宙で抱きとめられ、割れた皿の上に落ちる惨状は免れた。

 触れ合った箇所から、わずかに早まった蘭の鼓動が伝わってくる。

 こんな状況なのに、なぜだか、胸がどきどきした。

 しばし、無音。

 唐突に、蘭が声を張り上げた。

「……ぞうが止まるかと思ったじゃない!」

 背中から抱きしめる蘭を、肩越しに小さく振り返る。

 今の一言は、本当はその言葉に繋がるものじゃないはず。

 

 三人だけの秘密

 

 ああ、やっぱり夢じゃなかった。

 三人だけの秘密なんだ。

 わかったら、どういうわけか、笑みが込み上げた。

「そんな横着して、怪我でもしたらどうするの!」

 お尻の一つも叩く勢いで叱る蘭の声に、急いで打ち消す。

「ごめんなさい……」

 本気で怒っている。

 それにも、嬉しくなる。

 決して呼べない名前を口にのぼらせてしまったこと、飲み込ませてしまったことに罪悪感を抱きながらも。

 けれど同時に、せっかく彼女が作ったものを駄目にしてしまった事に、胸を痛める。

「もう、お手伝いはいいわ」

 蘭はぷりぷりと尖った声を上げ、抱えたままリビングまで連れていった。

「こっちで、大人しくしてて」

 踏んだ皿の破片がリビングに入らないよう気を使い、入口でおろす。

「なんだコナン、なんかやらかしたのか?」

 割れた音と二人の様子で大体の想像はついているのに、わざと意地悪く問い詰める小五郎を蘭はひと睨みすると、しょんぼりとうなだれているコナンの肩に手を乗せ、励ますように言った。

「大きな声出して、ゴメンね。ちょっと驚いちゃったから」

「……ごめんなさい」

「もういいのよ。今度からは気を付けてね」

 怒られて萎縮してしまった子供の心を優しく宥める、穏やかな声。

 嗚呼、彼女はなんてしたたかなんだろう。

 自分はこの数日、まともに顔を見る事さえ出来なかったというのに。

 名を呼ぶことがためらわれる日々に苦しんでいたというのに。

 気を使わせないよう、鼻歌まじりに破片を片付ける蘭の姿に、ただただ感心する。

 呆気に取られる。

 その顔には、以前のような張り詰めた強さはない。

 不安の詰まった胸をひた隠しにして振る舞う明るさは、もうない。

 怖いものなどない。

 何も。

 そう言っている。

 少なくとも、自分にはそう見える。

 なんてしたたかな――

 

 いいさ、どんな危険も

 彼女の為に命をかけ、絶対に生き延びてやろう

 二人…三人で

 小さく息をつく。

「ごめんね、蘭姉ちゃん」

 息をついて、気持ちを切り替えて、この身体に合った声を出す。

「いいのよ、気にしなくて」

 床の破片を掃き集めながら、蘭が応える。

「もうすぐご飯出来るから、待っててね」

「はあい」

 戸口に立って、幼く応える。

 

 それぞれに、したたかな秘密を胸にしまって。

 

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