胸がドキドキ

 

 

 

 

 

 リビングのテーブルを挟んで、大の字になった小五郎が高いびきを上げている様を、コナンは呆れ笑いの表情で見つめ溜め息をついた。

 九時になったらヨーコちゃんのドラマが始まるから、その前に起こしてくれ

 言うだけ言って返事も聞かず、ほんの五秒でこの有り様。

 コナンはもう一度溜め息をもらすと、寝室から毛布を運び適当ながらかけてやり、テーブルの上に散乱する様々な銘柄のビール缶を片付けにかかった。

「ありがとコナン君」

 キッチンで洗い物をしていた蘭が、ゴミ袋を取りにきたコナンに向かって少し済まなそうに声をかけた。

「大丈夫、今日はそんなに散らかってないから」

 当然の分担だと、コナンは声も明るくそう答えた。

「お風呂出たら、頂いた干し柿でお茶しようね」

 そう言って蘭は後ろのテーブルにある皿の上の干し柿を振り返り、コナンを見やって、にっこり笑った。

「うん、しようしよう」

 コナンも同じく笑い返した。

 テーブルの上にあるのは、ポアロのマスターからお裾分けで頂いた三つの干し柿。

 セロファンに包まれたそれは、しっとりぽっちゃり見るからに美味そうな橙色をしており、持てばずっしりと重く、味覚と心をこれでもかとくすぐった。

「じゃあ、片付け済んだら先入っちゃって。その後わたし入るから」

「うん、わかった」

 コナンは一つ頷くと、風呂の後のひと時に胸弾む自分を面白がりながら、きびきび片付けを進めた。

 

 

 

 変だな

 部屋の扉を振り返り、コナンは膝に乗せた漫画雑誌を脇に退けた。

 ちょっと待っててね

 そう言って蘭は部屋に引っ込んだ。すぐ出てくるだろうと、読み終えた雑誌で適当に時間を潰し待っていたが、いくら待っても出てこない。

 何かあったのか?

 それとも疲れて眠ってしまったのだろうか

 他校との練習試合の日が近いと、聞いている。

 それに今日は金曜日、一週間の疲れも出やすい。

 いくら彼女が元気の塊だといっても、毎日の家事に学業、普段より多くなった部活動で、疲れも溜まるだろう。

 少し残念ではあるが、寝てしまったのなら、それで構わないが――

 何かある方の不安を片隅に抱えながら、コナンはそっとドアをノックした。

 意外にもすぐに返事があり、少々驚きながら静かにドアを開く。

 直後。

「あ、コナン君、寒いよ」

 真っ暗な部屋にまず面食らう。そして立て続けに襲う冷気…エアコンを切ってあるのだから当然だ…リビングの暖気に馴染んだ身体には、かなり厳しく感じられた。

 コナンは身震いとともに目を瞬いた。

 探す蘭の姿は、ドアの正面、部屋の向かいにある窓の前…全開にした窓の前に膝を横に投げ出した格好で座っていた。

 ロングコートにマフラー、手袋と防寒対策は抜かりない。

「……何してるの、こんな寒い中」

 寒さに肩を竦ませ、コナンは側に歩み寄った。

「ごめんね、ちょっと星を見てたの。あんまり綺麗だったから」

 そう言って蘭は小さな動作で空を指差した。

 彼女の人差し指の先に広がる夜空は、なるほど確かに無数の星が煌めき美しい景色を見せていた。

 だからって……

「コナン君も一緒に見る?」

 一度は呆れかけたが、そんなに優しい笑みで誘われては、断るはずもない。

「……うん」

 コナンはこくりと頷いた。

「じゃあ、私のコート貸してあげる」

 蘭はさっと立ち上がり、クローゼットを覗き込んだ。

 そしてマフラー、手袋、ボア付きフードのダウンジャケットを用意すると、次々コナンに手渡した。

「マフラーはいいよ」

「駄目よ、湯冷めしちゃうでしょ」

 有無を言わさずマフラーを巻く。

「はい、袖通して」

 強引さにへの字口なのも気にせず、蘭はダウンジャケットを着せにかかった。

 丈が長めのそれは、コナンの足元まで届いた。

 まるで、展示用のボディから支柱を抜いて、そのまま床に置いたような状態。

 そこからコナンの顔が覗いているのだ。

 蘭は思わず吹き出した。

「………」

 コナンはまたも不満顔になった。

 笑っている理由は大体推測出来る。

 調子に乗って、更に蘭はフードをしっかり被せた。案の定、顔がすっぽり、隠れてしまった。

「やだぁ、コナン君可愛い!」

 身体全体がすっかりダウンに隠されてしまったコナンに向かって、蘭ははしゃいだ声を上げた。

 フードの上から何度もぽんぽんと頭を押さえ、余っている袖を袖口から順に辿って手を探り当て、ダボついた部分を見つけては楽しそうに笑う。

 くそ…人をおもしろ生物扱いしやがって……そりゃ小さくて可愛い物が好きな感覚は分かるけどよぉ……

 心の中で零しながら、コナンはフードをずらした。

「これで寒くないよね」

 と同時に抱き上げられ、慌てふためく。

 横座りの蘭の膝に収まった自分に思わずうろたえる。

 隣で見るつもりでいたのがこれでは、うろたえない訳がない。

 しかも、着せられたダウンやマフラーからは彼女の柔らかな匂いがして、さらに意識を混乱させる。

 その上実際に抱きしめる腕があるとなれば…

 だが、当の蘭はそんな機微など気付きもせず、嬉しそうに星空を指差し笑っている。

 嗚呼…なんだよ

「もしかしたら今頃、新一も見てるかもね」

 不思議な一言。

 すとんと、収まるべきところに収まるように意識が冷静に返る。

 コナンは思い切って振り返った。

 都会でも、月明かりは思ったより明るい。

 それとも、好きな人を見るからだろうか。

 ほんの少しの明るさの中、蘭の表情がはっきりと伺えた。

「!…蘭姉ちゃん…泣いて……」

 思わず声が零れる。言ってから、口にすべきではなかったとコナンは自分の無粋な一言に小さく息を飲んだ。

「うん……女の子は幸せでも泣く事があるの」

 少し恥ずかしそうにしながら、蘭は囁いた。

 無理に隠そうとする涙ではない事を知り、コナンは安堵した。

「今……幸せ?」

「もちろん。だってコナン君と星を見てるんだもの」

 照れくさそうに言って、蘭は涙を拭った。けれど、涙は後から後から溢れ頬を伝った。

「やだ、口にしたら余計涙出てきちゃった」

 しょうがないなあ

 抑え切れない感情の奔流が、笑顔の中の涙となって蘭の頬を零れる。

 コナンは軽く首を振ると、言った。

「おあいこ」

「……え?」

「もしボクが蘭姉ちゃんとおんなじ女の子だったら、さっき蘭姉ちゃんが言ってくれた言葉が嬉しくて泣いてたと思うから、おあいこ」

 その言葉に蘭は息をひそめた。気まずい時そうするように慌てて目を伏せ、瞬きの合間に左右を見回し、唇を噛む。

 少し歪んだ形良い唇は、震えながら緩み、やがて小さく、は、と息をもらした。

「ああ、もう…コナン君がそんなこと……言うから……」

 言いながら蘭はしゃくり上げた。堰を切ったように涙がとめどなく零れる。

 ひと粒ふた粒ですぐ泣き止むつもりだったのに……

 胸に溢れる歓喜は更に膨れ上がり、戸惑う蘭をその大きな手で包み込んだ。

 コナンは一旦膝からおり立ち上がると、泣きじゃくる蘭を強く抱きしめた。

「あ……」

 思いがけない行動に蘭は小さく息を飲んだ。

 耳元で、コナンが言う。

「じゃあ、ボクこうしてる。これなら顔見えないから、思いきり泣けるでしょ」

 髪を撫でる小さな手に申し訳なさそうに身を縮め、蘭は呟いた。

「……なんか…カッコ悪いね、ごめんね」

「そんな事ないよ。嬉しくて泣くんだもの。ぜんぜん、カッコ悪くなんてないよ」

「……ありがとね」

 ぐすんと鼻を鳴らし、蘭は言った。

「あの時も新一……こうして慰めてくれた」

 ひっそりと落とす言葉。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、二人…三人だけが知るあの日の風景。

 人気のないウサギ小屋の前で泣きじゃくる自分、必死に大丈夫、大丈夫と繰り返し頭を撫でてくれた新一。

 隠された上履きを取り返し、一生懸命慰めてくれたあの時の彼は、間違いなくヒーローだった。

 ――ずっと傍にいるから

 思い出すと、今でも胸がドキドキしてくるよ。

「ありがとう……」

 大事に綴って、蘭は抱き返した。

 安心しきったため息を耳にして、コナンは、自分の拙い言葉でも大丈夫だったと胸を撫で下ろした。

 それと同時に心が冷静さを取り戻す。途端に、無我夢中とはいえ自分の取った行動に心臓が跳ね上がる。

 自分が取った行動。

 今この状況――

 一瞬にして全身が緊張に包まれる。

 指の先まで硬直する。

 背中に冷や汗がひとすじ。

 必死に言い訳するが、するほどに息が上がっていく。

 落ち着けと言い聞かせても効果はない。

「……綺麗な星空だね」

 泣き止んだ蘭が、すっきりした顔で笑いかけてくる。

 晴れやかな表情がやけに眩しい。

「うん……」

 ぎこちなく向き直って星空を見上げるが、チカチカ瞬く星よりも、胸のドキドキの方が早かった。

 

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