目眩のもと

 

 

 

 

 

 観覧車を待つ人の列の中に、硬い顔をした蘭が一人、並んでいた。

 さっきまであったはずの弾けんばかりの笑顔は嘘のように消え去り、今は、無表情を努めようとして不自然に強張ったものになっていた。

 無理に見開いた目は、まるで涙をこらえているようにも見てとれた。

 側にコナンの姿はない。

 それもそのはず。

 彼は今、休憩所を挟んだ反対側のチケット売り場で、蘭がトイレから戻るのを待っているのだから。

 強い顔のまま、蘭は自分の足元に目を落とした。

 そこへ、見慣れた赤い靴が割り込んできた。

 どきりとして目を上げると、そこには、息を切らし、やっと追いついたと眼差しで語り心配そうに見上げるコナンの姿があった。

 はたと目が合う。

 蘭はすぐさま顔を背けた。

 戸惑いに視線は宙をさまよい、しかし行く当てもなくて、やがておずおずとコナンに戻る。

「あ…ボク、向こう行ってた方がいい……?」

 恐る恐る、コナンは声をかけた。痛々しいほどに強く引き攣った彼女の顔に、胸が痛む。

 様子がおかしいのを放っておけず、ここまで探しに来たのだが、早まってしまったのではないか。もう少し時間を置くべきだったのではなかったか。今更取り返しの付かないこの過ちと先の浅はかさが、ひどい後悔となりぐるぐると胸の内を渦巻く。

 やがて無言のまま蘭は首を振った。

 返事を貰うまでの数秒間、コナンは生きた心地がしなかった。

 立ち去らなくていいと了承を得たコナンは、慎重に伺いながら付け加えた。

「ここにいても……大丈夫?」

 蘭はまたも無言で頷いた。

 その顔は、何もかもがつまらなくて見る価値などないと言っているかのように、色あせて見えた。

 すべて、自分のせいだ――

 コナンは奥歯を噛みしめた。

 程なく順番が巡ってきた。

 奇遇にも、ゴンドラの扉にかかれた数字は『1』

 蘭に先を促され、コナンはためらいがちにゴンドラに乗り込んだ。

 がしゃんと扉が閉まり、ごとごとと微かに揺れながらゴンドラはのぼり始めた。

 静まり返った空間は、嫌でも考える時間を与える。

 一人になって頭を冷やそうと思っていた蘭の脳裡に、先の出来事が鮮明に甦る。

 それは、ランチの後に起きた。

 

 

 

 食事の後、隣のグッズショップに足を運び、友人らにどんなお土産を贈ろうかと二人であれこれ思案していた時の事だ。

 少しためらいがちに声をかけてきた、二人の女の子。

 彼女らはまず初めに、コナンの名前を口にした。

――間違ってたら悪いんですけど……もしかして、江戸川コナン君ですか?

 そう問われ、蘭は戸惑いの視線をコナンに向けた。

 コナンもまた、緊張の面持ちを見せた。

 江戸川コナンの抱える秘密に触れるのではないかとの危惧から、どう答えてよいか考えあぐねていると、彼女らは更に言葉を重ねた。

――あ、ごめんなさい。キッドキラーって新聞に載ってた子と似てたから…眼鏡もそっくりだし

 一人が喋り、一人がうんうんと頷いた。

――お姉さん、毛利探偵の娘さん…ですよね?

 思いがけず遭遇した有名人に興奮した口ぶりで、彼女らは代わる代わる口を開いた。

 そこまで聞いてようやく合点がいった二人は、ほっと肩を落とした。

 安心してそうだと答えると、彼女らの興奮はますます高まり、女子特有の高い声で毛利探偵の数々の活躍や、キッドキラーとして密かに人気のあるコナンに惜しみない賞賛を浴びせた。

 こんな風にもてはやされる事に慣れていない蘭は、おっかなびっくり質問に答え声なき悲鳴を上げるが、彼が、その活躍を褒められるのを見るのは悪い気しない。むしろ、誇らしかった。

 嬉しく思えた。

 けれどそこにふと、小さな嫉妬心が紛れ込んだ。

 少しかすめたくらいの些細なものにも関わらず、それは見る間に膨れ上がっていった。

 信じられない気持ちで一杯だった。

 そんな自分は嫌だ。

 許せない。

 憎しみすら感じるのに、今すぐにも彼女たちを蹴散らしたいと思ってしまうのは止められず、蘭は、頭を冷やす意味でコナンを一人チケット売り場に残し、トイレへ行くと偽ってここへと足を向けた。

 もちろん、不自然に思われないよう演技もした。

 混んでるかもしれないから、ゆっくり待っててと念も押した。

 そこまでしながら、心の片隅では、気にかけて欲しいと思っていた矛盾。

 どうすればいいのかと混乱のさなかにいる蘭の元へ、果たしてコナンは姿を現した。

 無意識に救いを求めている、蘭の元へ。

 

 

 

 観覧車は静かにのぼっていく。

 窓の外も見ず、向かい合ってもお互いを見る事もせず、二人は無言で時の流れるままに任せていた。

 彼女が何に心を痛め、苦しんでいるか、コナンはよく分かっていた。

 三人でいる事を望んだ彼女が、一人になりたいとまで思いつめたのは、すべて自分のせい。

 自分の浅はかな行動が、彼女を追い詰めてしまった。

 けれど、彼女自身、激しい感情に振り回されるのを嫌っているのさえも分かっていたから、何も言えずにいた。

 長い長い沈黙の末、蘭は口を開いた。

「…好きな人がどこにいても、誰と笑っていても、いつも変わらないでいられる人間になるから、なるから…見捨てないでいてくれる……?」

 弱々しい声が、胸を抉る。

 もちろんと、口に伝いかけて、コナンは息を止めた。

 それだけじゃ足りない。

 もっとたくさんの言葉を贈りたい。

 彼女がもういいと言うくらい、たくさんの言葉の花束で満たしたい。

 でも、嗚呼――自分はまだこんなに未熟で、うまい言葉も見つからない。

 一度落ち着く為に口を噤み、コナンはあらためて言葉を紡いだ。

「……いつの時も、好きな人が恥ずかしい思いをしないようにまっすぐ立っているから、心配せずに見てろ…って、新一兄ちゃんならきっと、そう言うと思う」

「言ってくれるかな……」

 眦に涙を溜め、蘭は呟くように言った。

「言うよ。だって……いつも蘭姉ちゃんしか、見てないもの」

 どんな時だって

 自分の気持ちをまっすぐ伝える気恥ずかしさから、コナンは俯き加減でぼそぼそと付け加えた。

 蘭はふと笑うと、懐かしさに目を潤ませ言った。

「うんと小さい頃からね」

 真っ赤に染まった顔を夕陽のせいにして、少し不機嫌そうにボールを蹴りながら駆けていく新一の背中を思い出す。

「コナン君…わたし、ちゃんと待っていられるよ。約束したんだから。さっきだって、ちゃんとそういう気持ちだったんだよ……」

 うまく言葉を選べないもどかしさに何度も言い直しながら、蘭は綴った。

 みるみる瞳に涙が盛り上がる。

「なのにこんな……でも嘘じゃないよ」

 零れ落ちそうになるのを懸命にこらえ、蘭は言った。

「うん、知ってる。よく知ってるよ。いつも蘭姉ちゃん見てるもの。だから……」

 泣く必要なんてない

 言いかけてコナンは苦しそうに口を噤んだ。

 彼女が涙を落とす原因は、全て自分にあるというのに、泣く必要なんてないと言える資格など無い。

 毎日に、いつも思っていた。

 喋る時のタイミングが同じだったり、テレビを見ていてふと口にした言葉が重なったり、そんなちょっとした事が重なる度、妙に嬉しくなった。不本意な同居だけど、共に過ごすからこそ一日ずつ深まっていく小さな出来事のあれこれに、いつも楽しさを感じていた。

 その近さと甘えが、こんな過ちを招いてしまったのだろう。

 

 一番遠くへ追いやりたいのに、どうしても切り離せない嫉妬心に振り回され、深い場所へ陥る蘭。

 コナンは何も言えずにいた。

 安易な約束などしたくない。

 これ以上、今の本当を簡単に嘘にしたくない。

 けれど、今の自分が出来る約束などしょうもなくちっぽけなもので、心底嫌になる。

 でも自分にはそれしかないのだ。

 これだけは、本物だ。

 あの頃とは違う。

 あの頃は本当に馬鹿で幼稚だった。好きな女の気を引きたくて、わざとファンの子達から貰った手紙を水増しまでして見せ付けたりした。

 そんなあの頃とは違う…いや、今もあまり変わらない。

 目立つ事は極力避けるべき、そうは思っても、賞賛の声を浴びるのは悪い気しないなんて浮かれて、彼女を傷付けたではないか。

 

 蘭……

 

 コナンはおずおずと口を開いた。

「……絶対繰り返さないって言っても、もしかしたら、また……嫌な思いさせる事があると思う。でもその時は、怒ってくれていいから。ボクが悪いのに、蘭姉ちゃんが苦しむ事ないから、だから……うんと怒って。もしそれがその時出来なくても、ずっと後になっても、ボクはそれまで、ずっと蘭姉ちゃんと……いるからさ。もちろん、その後もずっと一緒にいるから」

 心にあるものを、包み隠さず言う気恥ずかしさに途切れそうになるのを何度も奮い立たせ、コナンは全て紡ぎ出した。

 蘭はずっと俯いたまま、ただじっとコナンの赤色の靴を見つめて聞いていた。

 涙が零れる事はなかったが、表情は相変わらず硬いままだった。

 けれど、地上で見たあの色あせたものと比べれば、いつ戻ったのか、目には光が見てとれた。

 やがてゴンドラは終点に近付く。

「はーい、お疲れ様でした!」

 係の明るい声に促され、蘭は腰を上げた。

 コナンも続く。

 と、目の前に手が差し出された。

 おずおずと重ねると、力強く握り返されコナンは小さく驚いた。すぐに応えて、しっかり握りしめる。

 休憩所で離れて以来のぬくもりは、ひどく懐かしい気がした。

 

 

 

 観覧車を後にした蘭は、迷うことなく、隣のコーヒーカップに向かった。

 順番が来るまでの十数分、お互いに言葉はなかった。

 時折、蘭の視線が何か言い含んでちらりちらりとコナンをかすめては逸らされる。

 気付く度顔を上げかけ、コナンもまた同じく目を逸らした。

 もし謝罪や後悔だったら、何と言って引っくり返せばいいだろう。

 どうすればいいだろう。

 迷いながら適当に選んだコーヒーカップに乗り、コナンは隣に座った蘭の様子をちらりと伺った。

 さっきよりもずっと、穏やかな表情をしていた。

 もう少ししたら戻るかな……戻るといいな

 密かに願う。

 ややあって、がくんと一度振動が起こり、静かに、コーヒーカップは動き出した。

 軽やかに滑り回転するカップの上で、コナンは瞬きも忘れじっと蘭を見つめていた。

 長い髪が風に揺れ、俯いた顔を隠すように右へ左へ踊る。

 と、蘭が動いた。

 無言のままの行動にどきりと胸がひとつ高鳴る。

 俯いたまま蘭は中央のハンドルに手を伸ばすと、しっかり、握りしめた。そして、息を飲み見守るコナンの前で、力一杯ハンドルを回し始める。

 直前、言い渡して。

「しっかり掴まってて」

「!…」

 まるで愛の告白のような、甘くかすれた声。

 また、胸が高鳴る。

 しかしそんな甘やかな目眩は、別の、容赦ない目眩に取って代わる。

 大きな回転と小さく急な回転が、休みなくふりかかる。

 真上から見たら、フィギュアスケートの選手も感心するほどの奇妙な軌跡を描いたに違いない。

 それは、女の長く艶やかな黒髪がほぼ真横に流れるほど激しく、今まで味わった事のない重圧となってコナンに襲い掛かった。

「ら、蘭ね……」

 予想だにしない展開にコナンは目を白黒させながら顔を覗き込んだ。

 見上げた先には、笑った泣き顔。

「……ありがと」

 眦から涙を一粒宙に飛ばしながら、蘭は唇に笑みを浮かべた。

「!…」

 激しい酔いも消える一瞬。

 コナンはしっかり目を見張ると、二度と落とす事のないよう手の中に握りしめた。

「すごいねー、コナン君!」

 自分で回しておきながら振り回され、蘭は楽しげに悲鳴を上げた。

 その時が、回転の最高潮だった。

 彼女の感情の激しさを表すかのような渦は、やがてゆっくりとスピードを落とし、終了の時間に合わせて静まっていった。

 

 

 

 コーヒーカップから降りた二人は、よろよろと危なっかしい足取りで側にあるベンチに崩れるように腰かけた。

 二人とも座るやひどくぐったりと背をもたせかけ、青ざめた顔で、ぼんやり空を見上げた。

 二人を悩ませているのは、さっきまで何を話していたか思い出せないほどにひどい、目眩のもと。

 世界が回るなんて生易しいものじゃない。

 景色が溶け合って渦巻いているのだ。

 シュールレアリスムを追求する画家が見ているのは、こんな世界かな…そんな事をぼんやり考え、蘭はふと息をついた。

「…コーヒーカップって、どんなジェットコースターより激しいよね」

 顔だけをコナンに向けて言う。

「うん…でも、蘭姉ちゃんがもう一回乗りたいっていうなら、喜んで付き合うけどね」

 コナンも同じように顔を向け、本当だよと笑う。

「じゃあ、もう一回乗ってくれる?」

「……う、ん、もう少し休んでからね」

 ぎくりと肝を冷やしながらも、コナンは力強く頷いた。

 その少々やけっぱちな返事に蘭は声を上げて笑った。

 屈託のない声を聞いてコナンは、今がそれかな…と口を開いた。

「ずっと言おうと思ってたんだけどね、今日の蘭姉ちゃんの服、綺麗だね。すごくよく似合ってるよ」

 その言葉に蘭は自分の身なりに目を落とし、コナンに戻して、恥ずかしそうに、とても嬉しそうに目を見開いた。

「……ありがと!」

 蘭の眦に光る感謝の涙を見て、コナンは安堵した。

「もう、コナン君てば褒め上手なんだから」

 照れ隠しに言って、蘭はいたずらっ子の顔で笑った。

「ホントだよ」

 まだしっかり視点の定まらない目で何とか蘭を見つめ、コナンは優しく添えた。

 彼女の向こうに見える澄み切った青空が、少しにじんで見えた。

 この目眩は、コーヒーカップのせいかそれとも……

「さあ、次は何に乗ろうか」

 パンフレットを取り出し、蘭があれこれと提案する。

「あ、でも、お化け屋敷は絶対ナシだからね!」

「わかってるよ」

 包み込む甘やかな目眩を感じながら、コナンは笑って応えた。

 

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