目眩のもと

 

 

 

 

 

 手にはパンフレット、目の前には案内図の大きな看板、そして行き交う人、人、人。

 忙しなく何度も、正面と手元に目をいったりきたりさせてどこへ行くべきか考えあぐねている蘭の側で、コナンは辛抱強く待ち続けた。

 周りには、同じように案内板の前に立ちどこへ行こうかと思案する人たちが二組、三組。

 カップルに、学生風の仲良しグループに、少しお姉さんに見える二人連れの女性。

 誰も彼も、これから一日遊び尽くす楽しみに目を輝かせ、どこへ行こうか、何に乗ろうか、わいわいと意見を交わしている。

 一方蘭は、まだ意見を口に出す段階ではないのか、気難しそうな顔で穴のあくほど案内板を見つめていた。

 そんな横顔を見上げて、コナンはふと心の中で笑った。

 時折ひょうと風が吹くたび、そこここの花壇に植えられた可愛らしい色のポピーがゆらゆらとダンスを踊った。

 風も空気もまだ冷たく厳しいが、二月にしては珍しく日差しは柔らかい。

 もうすぐやってくる春を一足早く装いに移した蘭の格好、その華やかで優しい組み合わせを、今日何度目になるか分からないほどに上から下まで眺め、つい周りと比べてしまう自分を軽くたしなめながら、コナンは密かに自慢し称讃した。

 明るいグレーのショートコートは、暖かい陽射しに守られてか前のボタンはあけられている。そこから覗く白地に青系の小花をプリントしたブラウスは、下に着たベージュのタートルネックセーターとよく合い、派手さを抑えた明るい色の膝丈のスカートとの相性も最高。

 いつ買ったのだろうと考えながら、コナンは、あらためて彼女のセンスの良さに感心する。

 ブーツ以外どれも、初めて見るものばかりだ。

 さすがに履物は、たくさん歩く事を考慮して慣れた物を選んだのだろう。低いかかとの片方が、彼女の歩く癖か、外側が少し減っているのが見てとれた。

 朝からタイミングを計ってきたが、さて、どうやって彼女の今日の格好を褒めようか…そんな事を考えていると、ついに蘭が口を開いた。

「最初はやっぱり、これに乗りたいな」

 案内板を指差し、ニコニコ顔で見やる蘭にコナンはすぐさま目を向けた。

 彼女の希望は観覧車だった。

 ちょうど中央辺りにあるそれは、てっぺんにくれば園内をぐるりと見渡せる事だろう。

「あれだね」

 コナンは後方に指を向け、ゆっくりゆっくり回る観覧車を見上げた。

 様々な花の色に彩られた四十八個の丸いゴンドラは、綺麗な青空によく似合っていた。

「うん、いいね。じゃあ行こう」

 我ながら、よくこんなはしゃいだ声が出るものだと少し照れながら、コナンは手を引いて歩き出した。

 気恥ずかしくはあったが、心が浮き立っているのは本当だ。

 年が明けてすぐの、町内会主催による福引大会でこの景品を蘭が当てた時から、それは始まっていた。

 いつもながら、蘭の運の良さには感心する、驚かされる。

 福引の景品、まず一等は二泊三日の温泉旅行招待券、二等がこの遊園地一日フリーパス券、三等は最新型テレビ、四等は…と続く。

 一等も非常に魅力的だったが、実は年末にちょっと奮発して、温泉地へ旅行に行っていたので熱望はしない。三等のテレビも、今あるもので特別不自由はしてないので必要なし。四等以下の、鍋やらホットプレートやらの電化製品も特に必要はない。

 という事で、できれば二等を当てたいと密かに願い、その希望通り、蘭は見事二番のボールを引き当てた。

 やったね、コナン君!

 ガランガランと鳴るベルの音を聞きながら、満面の笑みを浮かべた蘭の晴れやかな顔が瞼の裏に甦る。

 どうせお父さんは行かないって言うだろうから、そうしたら二人で行こうね。デート楽しみだね!

 直後、自然に出たあの一言…キラキラと輝く瞳を思い出し、コナンはうっと息を詰めた。

 慌てて、隣を歩く蘭に目を向ける。

 気付いてはいない。

 ほっと息を吐く。

 熱い頬、きっと赤くなっているに違いないと顔をこっそりこすりながら、落ち着け落ち着けと言い聞かす。

 観覧車を待つ人たちの列はさほどではなく、十分も待てば乗れるだろうと思われた。

「どの色に乗れるかな」

 楽しみだね

 零れ落ちんばかりの笑みに笑って返し、コナンは、そのささいな事さえわくわくと胸ときめかす蘭に深い愛しさを覚えた。

 そしてあらためて思うのだ。

 この女の笑顔は、自分をなんと元気にしてくれるのだろう、と。

 顔が、笑ったまま戻らない。

 こんな時は、コナンでよかったと思ってしまう。

 どんなにニコニコしていても、しまりのない顔でいても、不自然に見られないからだ。

 以前の自分だったら、きっと、もっと取り繕って取り澄まして、ともすればうっかり彼女を怒らせてしまう事態を図らずも招いてしまった事だろう。

 いや、そんなあやふやなものではない。

 れっきとした前科持ちだ。

 嗚呼…

 一つの記憶から連鎖して次々と甦る過去の所業に、コナンは顔をしかめた。

 そこではっとなる。

 思わず蘭の顔を見上げる。

 彼女にとって、こういう場所はどこであれ近付きたくない地になっていたのではないだろうか。

 それなのに、楽しみだねと自然に口から出たのは……

 これは単なる推測に過ぎない。

 特に彼女の心を測るのは難儀だ。

 それでも何となく、彼女が心に望むものは、分かる気がする。

 コナンは、繋いだ手をぎゅっと握りしめた。

 興奮して少し汗ばんだ蘭の手のひらは、あの日、ジェットコースターの頂上で感じたそれと少し似ていた。

 楽しみにしてたのは、ホントだよ

 直前に手向けられた言葉が、胸に鮮やかに甦る。

 ゆっくり回転する観覧車を見上げ待ち遠しさに目を潤ます蘭に、コナンはたどたどしく言った。

「あ、あのね、ボク、今日…すごく楽しみだったんだ」

 緊張のあまりのぼせたのか、喋っている間自分の声もろくに聞こえない状態になる。

「わたしもよ! 笑わないで聞いてよ、実はね、昨日よく眠れなかったの。ね、観覧車の次は何に乗ろうか。コナン君決めて」

 その直後の眩しい笑顔は、まさに決定打…激しい目眩のもととなってコナンを襲った。

 渡されたパンフレットをどうにか開き、余韻瞬く目を見開いて覗き込む。が、何も見えない。何も考えられない。

 彼女を喜ばせようと思って言ったのに、なんてだらしない

 自分に悪態をつく。

 やはり彼女には勝てないのだ。

 けれどこんな嬉しい負けなら、悪い気はしない。

 こうなったら『コナン』にまかせて、とことんはしゃいでしまおう。

 そうだ。

 せっかく、二人…三人でいるのだから。

 ようやく落ち着いた心で息を吐き、コナンはあらためてパンフレットを眺めた。

「次乗れるよ」

 言って、蘭が軽く手を引く。

「あ、うん」

 コナンは目を上げた。

 巡ってきたのは、明るい赤色のゴンドラだった。横にスライドする丸い扉には、可愛い文字で書かれた『1』の数字。

 思ったとおり、彼女はそれさえもなんだか嬉しいねと笑顔を見せた。

 逸る気持ちのままいそいそと乗り込む蘭に続いて、コナンもゴンドラに乗った。

 二人ずつ座れるシートに向かい合わせで腰かけ、同時に窓の外を見やる。

 がしゃんと扉が閉まると同時に、内部はそれまでの喧騒から切り離され静まり返り、少し開いた上部の窓から入り込む風の微かな音しかしなくなる。

 遠目には止まって見えた観覧車も、こうして一つの点になって沿えばスピードは速く、時折思い出したようにことことと揺れながらぐんぐん空へとのぼっていく。

 みるみる小さくなっていく人や建物を無言でじっと見つめたまま、蘭ははあっとため息をついた。

 そんな蘭を見つめるコナンの穏やかな眼差しは、ともすれば保護者のそれに似ていた。

 今だけで言うなら、お互いの外見を取り替えた方がよりしっくりくるかもしれない。

「すごいな……」

 半分の高さにたどり着いた時、蘭はそっと呟いた。

 遠くまで景色を望ませる澄んだ空気の更に向こうを見渡し、瞬きを繰り返す様を、コナンはただ見守っていた。

 それだけでこの上もない至福だった。

 ゴンドラは更に空を目指し、ゆっくりとのぼっていく。二人の間に流れる時間もそれに合わせて、ゆったり、静かに過ぎていった。

 

 

 

 観覧車を降りた後は、二人乗りの回転飛行船に乗った。その前にコナンはお化け屋敷に入ろうと提案したが、あっさり却下されてしまった。

 回転しながら上下する飛行船の中で楽しく叫んだ後は、少し離れた場所にあるもう一つの飛行船、こちらは大人数でいっぺんに乗る乗り物へと向かった。

 その時もコナンは、お化け屋敷に入ろうと提案したが、またしても一蹴された。

 しかし三度目の正直、駄目で元々とお化け屋敷を口にすると、渋々ながらもなんとか了承を得る事が出来た。

 案の定、列に並んでいる間中、蘭はぶつぶつと零し続けた。

 けれどその顔はどこか楽しげで、こっそり持った下心をそれで容赦しながら、コナンは目を見合わせにっこり笑った。

 

 

 

「もう、二度と絶対お化け屋敷は入らないから!」

 おどろおどろしい絵の描かれた建物を早足で立ち去りながら、蘭は隣の少年に強く言った。

「あれ、ひょっとして蘭姉ちゃん、ちょっと泣いちゃった?」

「意地悪言わないでよ、ホントに怖かったんだから」

 慌てて目尻の涙を拭いながら、蘭は困った顔で笑った。そして、からかって笑うコナンにもうと繋いだ手を振って恥ずかしさをぶつける。

「あーあ、コナン君が苛めるからお腹空いちゃったな。意地悪なコナン君はほっといて、何か食べに行こうっと」

 繋いだ手を更に握る事で冗談にして、蘭はふんとばかりにそっぽを向いた。

「あ、あ、ごめんなさぁい!」

 調子を合わせ、コナンは慌てて前に回り込み謝った。

「コナン君なんかしーらない」

 しかし蘭は更にそっぽを向き、けれど手はしっかり繋いだまま歩き出した。

 声も、足取りも軽やかに。

 確かめる横顔は、なんとも楽しそうだ。

「もーう、ついてこないでよね」

「いや、だって蘭姉ちゃんが……」

「手も離してよ」

「握ってるのはそっちだよ」

「もうコナン君!」

「だって蘭姉ちゃんが!」

 軽快なやり取りにお互い笑いながら、レストランのある休憩所の方へ歩いていく。

 何件も連なる店からは、それぞれに、食欲をそそる良い匂いが漂ってくる。

 ぐうと鳴る腹を人ごみの賑やかさでごまかして、二人はどこへ入ろうかと顔を見合わせた。

 どこも皆混んでいたが、二人分なら席は楽に確保出来そうだった。

「午後も一杯遊ぶから、しっかり食べておこうね」

 大いに賛同し、コナンはうんうんと頷いた。

「蘭姉ちゃん何食べたい?」

 少しずつ店に近付きながら、コナンは付け加えた。

「あ、食べやすいものの方がいいよ。せっかくの洋服が汚れたらもったいないからね」

「うん、ありがと。気を付けるね」

 こういうところが好き

 さりげない気遣いにぱあっと顔をほころばせ、蘭はメニューを見比べた。

 二人が落ち着いたのは、ボリューム満点が自慢のイタリアンレストランだった。

 案内されたのは、入口から程近い窓際の席。天井まで届く大きな窓からは、先ほど乗った観覧車がよく見えた。その周りを取り囲むようにジェットコースターのレールが敷かれ、通り過ぎる度、轟音と共に人々の楽しそうな悲鳴が聞こえてくる。

 その騒がしさが、遊園地に来ている実感を更に沸き立たせ、蘭の心をうずうずと刺激した。

 今にも溶けそうに緩んだ唇が、甘い笑みを浮かべている。それが、急に暖気に触れたせいでほんのり色付いた頬とあいまって、なんともいえぬ愛くるしい色気を立ちのぼらせていた。

 間抜けな顔で見とれてるんだろうな…頭の隅に冷静な第三者の視点を持ちながらも、コナンは目が離せずにいた。

 蘭も、その視線には気付いていた。

 穏やかに見守られる幸せをじっくりと噛みしめながら、午後への期待に胸を膨らませる。

 お腹が膨れたら、隣のお店でちょっとお土産を見て、それから……

 自分たち以外誰も知らない二人…三人だけの秘密が零れてしまわないよう気を付けながら、蘭は、ゆっくり視線を目の前の少年に移した。

 けれど照れくささにうまく目が合わせられない。

 するとまるで助け舟のように料理が運ばれてきて、自然な語らいの場を与えてくれた。

 白いクロスがかけられたテーブルはあっという間に色とりどりの皿で埋め尽くされ、何から食べようか迷う二人を徹底的に誘惑した。

「いただきまあす!」

 重なった声に笑いながら、二人はフォークを手に取った。

 どちらの顔にも、零れんばかりの花が咲いていた。

 

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