今日のこの日に

 

 

 

 

 

 冬の日暮れは早い。

 そして夜が始まる。

 今日のこの日、特別な夜が――

 

 

 

 連なる街路樹にきらめく青いイルミネーション、そぞろ歩く恋人たちの間を縫いひたすら走り抜ける子供が一人。その表情はひどく場違いなほど追い詰められており、彼ら彼女らが感じない冬の寒さをたった一人、纏っていた。

 もし彼が青年であったなら、恋人を待たせている待ち合わせの場所へ急いで駆けつける…自然な光景に見えただろう。

 けれど、クリスマスイブに浮かれる町の空気に、ひたすら駆ける子供はやはりそぐわない。

 二重に巻いた鮮やかな青と緑混じるマフラーの両端が、動きに合わせ背中ではたはたと忙しなく揺れる。

 

 彼が目指すは、駅前の十字路、一階の吹き抜け。

 

 見上げても見上げてもまだてっぺんに届かないほど大きいクリスマスツリーの前。

 背中で忙しなく揺れるリュックを脇に抱え、場違いな子供…コナンはひたすら走り続けた。

 冷たい空気に喉は凍え、うまく息が吸えない。走り通しで、足も膝もろくに力が入らない。

 それでも前へと進む。

 一秒でも早く、安心させてやりたい。

 一時間近くも遅れて言う口もないが、それでもコナンはひた走りに走った。

 

 例えば渋滞など無く、順調に進んでいれば、とっくに約束の場所についているはずだった。

 

 のろのろ走る車の中、コナンは険しい眼差しで道の先を見据えていた。

 後部座席では、昨日の興奮冷め遣らぬ子供たちが、少々調子外れに楽しげに、クリスマスソングを歌っている。

 

 昨日光彦の別荘に招かれ、少し早めのクリスマスパーティを開いた。

 メンバーはいつもの面々。

 元太、光彦、歩美、哀、そして、送り迎えを快く引き受けてくれた博士の六人。

 とっておきのご馳走、プレゼント交換、宴は大いに盛り上がり、皆が眠りについたのは夜も遅くなってからだった。

 渋々メンバーに加わり、始めは一歩引いていたコナンも、屈託のない子供たちの笑顔に自然と引き込まれ、時間の経つのも忘れて楽しんだ。

 

 そして今日は、昼まで別荘の周りを散策したりゲームをしたりとのんびり過ごし、午後、別荘を出発した。

 皆が家に着く時間、そして自分の待ち合わせの時間には、充分間に合うはずだった。

 

 今日の約束…今日は、小五郎が出かけるという事で、蘭と二人、外で食事の約束をしていた。

 小五郎の不在は、蘭の画策によるものだった。 

当人にはギリギリまで知らせず、間際になって、何時にどこそこへ行けと、半ば脅すように告げた。

 過去幾度となく繰り返されてきた蘭の企みにすぐさま気付いた小五郎は、途端に不機嫌な顔で「行かない」を連発した。誰が、どこで待っているかなんて、聞かなくてもわかる。どうせあの女だ。誰が行くものか…が、脅し、宥めすかし、しまいには泣きまねまで始めた蘭にとうとう折れ、途端に顔を輝かせた娘に渋面を見せながらもどこか浮かれた様子で了承した。

 少し離れて泊まり用の荷物を用意していたコナンは、あらためて彼女の恐ろしさに触れ内心兢々とするが、蘭はまるで気にすることなく今日の約束を切り出してきた。

 今度はコナンが、小五郎とはまた違った少々複雑な浮かれ気分を味わう番だった。

 時間と場所をしっかり頭に刻み込み、コナンは頷いた。

 途端にドキドキと、うるさいほどに胸が高鳴った。

 

 二人…三人で過ごす特別な夜を――

 

 渋滞など無く、順調に進んでいれば、とっくに約束の場所についているはずなのに。

 

 もれそうになる苛立ちのため息を飲み込み、コナンは時計にちらと目をやった。

 さっき通り過ぎた案内板とこの車の流れでは、もう遅刻は免れない。

 つい睨んでしまう目付きを慌てて正し、コナンはきつく瞼を閉じた。

 

 待たせてしまう申し訳なさに胸が苦しくなる。

 どんな顔をして、待っているだろう。

 

 思い浮かぶのは、今日の約束を交わした時に見せた、少しはにかんだような笑顔。

 瞳は瑞々しく輝き、抑え切れない喜びに彩られた形良い唇が、甘く優しい笑みを零す。

 瞬きも忘れてしまう、ほころんだ顔。

 何故か、悲しい顔は浮かんでこなかった。

 それが余計辛かった。

 密かにため息を零し、コナンは目を開けた。

 

 緩やかなカーブの先にようやく、首都高速の出口が見えてきた。

 

 

 

 青、黄色、赤、真っ白…街路樹に、店先に、交差点に、色とりどりのイルミネーションがきらめく。

 地上が明るいせいで少し遠いが、冬の澄んだ空気の中見上げる夜空には、確かに星が瞬いていた。

 冷気に一瞬で散る白い花を咲かせながらほうとため息をつき、蘭は地上に目を戻した。

 二重に巻いた白いマフラーに口を埋め、ぶるりと一つ身震いする。

 夕暮れが迫るよりも早くイルミネーションのきらめきを纏った町は、日が沈み暗くなるに従い鮮やかさを増し、今日のこの日の為に取っておいた最高の盛り上がりを道行く人々に惜しみなくふるまった。

 普段ならば辛いだけの冷たい風も、通りを行き交う恋人たちには演出の一つ。

 ある者は肩を寄せ合い、ある者は手を繋いで、特別な夜の真っ最中を恋人と共に楽しむ。

 そんな光景を、一人立ち尽くして見送る。

 待ち合わせの時間から三十分過ぎた頃。

 場所は、竹島屋デパートの正面入口横。

 

 もう少し、かかるかな

 

 ちらりと時計を見やり、蘭は目の前を流れる車の波に目を凝らした。

 探す黄色いビートルは、まだ見つからない。

 

 ついさっきメールが来たばかりだから、まだもう少しかかるよね

 

 ポケットに手をしまい、手袋越しに指先で携帯電話を弄る。

 雪もちらつきそうな冷気がしんしんと身体を凍えさせるが、間もなく姿を見せるコナンを思うと心はあたたかくなっていく。

 目の前の通りを行き過ぎる人たち、建物の中へ入る人たち、建物の中から出て行く人たち…無意識に、恋人たちばかりに目がいってしまうのは――

 軽く目を瞑り、蘭は寒さに強張った口元をふと緩めた。

 そのまま笑ってしまいそうになり、慌てて正す。

 どんな時も約束を守り傍にいてくれる人の事を思うと、どうしても笑みが込み上げてきてしまう。

 聞こえてくる賑やかなクリスマスソングに乗せられて、気分がウキウキしているせいもある……今日のこの日は、特別。

 

 ……新一

 

 胸の中でそっと呟き、目を開ける。

 中々進まない車の列に少し焦れながら、蘭は道の先に目を凝らし黄色いビートルの到着を待ち続けた。

 少しかじかむ足先を踏みしめてやり過ごしながら、十分、十五分、二十分……まっすぐだった針が重なり、離れて、次の時刻へと近付いていくのを時々確認しながら、蘭はじっと待った。

 駅前からまっすぐ伸びる車道のはるか向こう、黄色いビートル。

 しかし彼は意外なところから現れた。

 車にばかり気を取られていたせいか、人の波を縫って駆けてくるそれがコナンだと、すぐには気付けなかった。

 何気なく目に留め、一旦目を逸らし、そこでようやくコナンだと気付く。

 よろよろと駆け寄るコナンに、少しびっくりした顔で蘭はしゃがみ込みどうしたのと声をかけた。

「あの…道が……混んでて……」

 喘ぎ喘ぎ、コナンは答えた。

「それで走ってきたの? そう、ああ…とにかくここじゃ寒いから、中に入ろう」

 ぜいぜいと苦しげなコナンの背中をさすってやりながら、蘭は建物の中へと誘った。

 行き交う人の邪魔にならぬよう入口から少し奥まった所でまたしゃがみ込み、彼の息が整うのを待つ。

「お、遅れてごめんね、蘭姉ちゃん……」

 まだ荒い息で告げるコナンに軽く笑って首を振り、携帯電話の入ったポケットを示しながら言う。

「大丈夫よ。ちゃんと連絡もらってたし、時間だってまだ早いよ。そんなに走ってこなくてもよかったのに。コナン君こそ大丈夫?」

 肩で大きく息をしながら、コナンは何度か頷き聞き返した。

「ど…どうして、外で待ってたの?」

 本当ならツリーの前で待ち合わせのはずだったのに。

「うん、たまたま外に出たら、ちょうどコナン君が来たのよ」

 蘭はさらりと答えた。

 赤らんだ頬や鼻先を見て、それは嘘だと、コナンはすぐに見抜いた。

 けれど、彼女なりの優しい嘘に感謝して口をつぐむ。

「それより、どこから走ってきたの? コナン君、ほっぺたも鼻も赤くなってる」

 よほど走ったのね

 蘭は手袋ごと、コナンの頬を押し包んだ。

 一瞬、胸がどきりと高鳴る。

 毛糸の柔らかな感触が、彼女の体温を穏やかに伝えてくる。

 ようやく鎮まったというのに、また息が上がりそうだ。

「寒かったでしょう」

 少し心配そうに微笑んで覗き込む瞳に、コナンは小さく首を振った。

「ね、クリスマスパーティはどうだった? 楽しんできた?」

 頬を包み込んだまま、蘭は訪ねた。

「うん、すごく楽しかったよ」

「そう、よかった!」

 そこでコナンは、彼女のしている手袋が自分の贈ったものだと気付いた。途端に、寒さとは別の意味で頬が上気する。

「あったかいでしょう、これ、新一がくれたものなのよ。まあまあのセンスよね」

 コナンの視線に気付いたのか、どこかいたずらっ子の目で蘭は笑いかけた。

「……うん」

 苦し紛れの嘘も含んだプレゼントを、優しい笑みに変える彼女の心に胸中でそっと詫びる。

 直後。

 思いも寄らぬ蘭の行動に慌てて身を引くが、それより早くほっぺたをくっつけられ、コナンは軽い混乱に見舞われた。

「ちょ……蘭ね……」

「うわ、冷たい!」

 耳元の驚く声が、混乱をますます深める。

「バ、バーロ…離せ……」

 オメーの方が冷たいじゃねーか……

 自分の頬で確かめる蘭に、うっかり新一に戻ってもがく。

 端から見れば仲の良い姉弟が睦まじくじゃれあっているのだろうが、当人にしてみればたまったものではない。

 彼女ほどではないが、今日のこの日、それなりに特別の意味でもって過ごしている。

 

 そんな最中に、人目もはばからずこんな事を……

 

 しかし蘭は気にせずに、反対側の頬にもぴったりとすり寄り、まるで自分の体温であたためるようにして抱きしめてくる。

「も、もう大丈夫だよ…あの、ありがとう……それに、蘭姉ちゃんのくれたマフラーすごくあったかいし……」

 抵抗しても無駄と悟ったコナンは、されるがままに落ち着き、恐る恐る言った。

 しかし素直に述べた感想があだになる。

「ホント? 気に入ってくれて嬉しいな!」

 蘭ははしゃいだ声を上げると、喜びをぶつけるように更にぎゅうっと抱きしめた。

「!…」

 艶やかな黒髪がさらりと揺れて、鼻先をくすぐった。

 髪の先まで冷たいと思ったのも束の間、普段は意識しない彼女の匂いに包まれ、一瞬目の前が白く眩む。

 寒さで縮こまっていた血管が、暖かい室内で緩んだ直後のこの出来事に、頭から湯気が出そうなほどのぼせる。

 

 ああ……

 

 ひっそりと最期を予感したと同時に、唐突に腕がほどかれた。

 すっくと立ち上がる彼女に合わせコナンは半ば無意識に目を上げた。

「さあ、じゃあ、美味しいもの食べにいこう」

 はつらつとした声と共に手が差し伸べられる。

 辛うじて免れた事に感謝しながら、コナンは手を握り返した。

 

 この女には絶対に敵わない……

 

「走ってきてお腹空いたでしょう」

「ううん。蘭姉ちゃんこそ……」

「うん、コナン君が待たせるからもーお腹ぺこぺこ!」

 大げさな動作で蘭はおどけてみせた。

 今日のこの日、せっかく二人…三人でいるのに、暗い空気はお断りと目が告げている。

 

 …蘭……

 

 百万回謝っても足りない言葉の代わりに、彼女に合わせ調子付いて返す。

「やっぱり? さっきから蘭姉ちゃんのお腹ぐうぐう鳴ってたもんね」

「あら。失礼ねコナン君。そういう時は聞かない振りをするのがマナーよ、なのにそんな…まるで新一みたい。あーあ、コナン君も新一みたいになっちゃうのかな……」

「あ、あ…ごめんなさあい」

 しょんぼりと肩を落とす蘭に慌てて謝り、コナンは、片目で笑っている彼女にしてやられたと唇を尖らす。

 そうやってお互いの間にある不安をゆっくり噛み殺し、大丈夫と言い聞かせながら道を進む。

 ツリーの前で、二人は自然に足を止めた。

 

「……大丈夫だよ」

 ツリーの周りに集まり重なる恋人たちを気にするコナンの視線を、蘭はその言葉で引き戻した。

 そして、視界の端の少し苦しそうな眼差しを横目で受け止め、にっこり笑う。

「来年は、コナン君と新一と、三人で来るから」

 だから今は。

 

 大丈夫。

 大丈夫だから。

 ねえ新一。

 駄目な時は怒ればいいし、悲しい時は泣き喚くのもいいじゃない。

 その時はちゃんと言うから、ちゃんと聞いてね。

 でもそうじゃない時はこうして、三人で笑っていようよ。

 今日のこの日、たくさん笑おう。

 

「………」

 何かを伝いかけ、飲み込んで、コナンはふと口端を緩めた。

「大きいツリーだね、コナン君」

 目の前に迫った眩いツリーを見上げ、蘭が優しく唇を上げる。

 屈託のない笑顔。

 何度でも、見飽きる事のない表情が新鮮な気持ちをともなって胸に鮮やかに迫ってくる。

 いつの時も自分は、この笑顔に救われる。

 時に励まされ、時に慰められる。

 こんなにも力をくれる彼女に、自分は何が出来るだろう。

 

 自分は……

 

 コナンは背負いなおしたリュックの中身にちらりと意識を向けると、ためらいがちに口を開いた。

「あのね、蘭姉ちゃん……」

「なあに?」

 しかしいざ彼女の目を見て伝えようとすると途端に恥ずかしくなり、言葉が継げなくなる。

「えっと……プ、プレゼント用意してあるんだ。気に入ってもらえるか分からないけど……」

 出だしも終わりも蚊の鳴くような声でコナンは言った。

 それを聞き、蘭の顔がみるみるほころんだ。

「うわあ、嬉しい! ありがとうコナン君。なんだろう、楽しみだな」

 繋いだ手を大きく振り、蘭はキラキラと目を輝かせた。

 おおよそ予想した通りの反応、コナンは、この先が肝心なんだとつばを飲み込み、再び口を開いた。

 それより早く、蘭が言う。

「私もコナン君に。後でプレゼント交換しようね」

 肩に下げた小ぶりの黒いバッグを軽く持ち上げて、はしゃいだ声でふふと笑う。

「あ……ありがとう」

 ずれたタイミングに少しつかえながら答え、コナンはぎくしゃくと唇の端を持ち上げた。

 注がれる眼差しには、子供に対する慈愛と、もう一種類の愛情が溶け合っていた。

 そんな目をされては、ああ、何も言えなくなる。

 けれど今を逃しては、ますます言葉は引っ込んでしまうだろう。

 コナンは思い切って言葉を紡いだ。

「で、でもね、蘭姉ちゃん……」

 伝うべきなかみはもう整っているのだ。後は『コナン』に乗せて言うだけ。

 そうだ。

「あの……蘭姉ちゃんの笑ってる顔が、ボクにとって一番…その…一番のプレゼントだよ」

「!…」

 受け取った瞬間、蘭の瞳が一際鮮やかに輝いた。

「……それなら私は、コナン君が元気でいる事が一番のプレゼントね。ついでだから言うけど、新一もまあそれなりに元気でいてくれればいいかな」

 それなりにね

 言って、蘭がくすくすと笑う。

 一瞬むすっと唇を尖らせたコナンだが、楽しそうに笑う彼女には降参とばかりに口端を持ち上げた。

 蘭はひとしきり笑うと、手を繋いだままコナンに向き合った。

「メリークリスマス、コナン君!」

「メリークリスマス、蘭…姉ちゃん」

 眩いツリーの前でおめでとうをかわし、もう一度二人して声を上げて笑う。

 

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