巡る葉の間に

 

 

 

 

 

 三日ほどしとしとと続いた雨が嘘のように、休日の今日は朝から眩しいほどの快晴だった。

 たまりにたまった洗濯物を一気に屋上へと運んだ蘭は、高く高く、思わず伸び上がりたくなるほど澄んだ青空を仰ぎ大きく息を吐いた。

 カゴ一杯の洗濯物を干し終えて三階に戻ると、丁度二人が起き出したところだった。

 片や、昨日の深酒がたたりひどい寝不足、片や徹夜でこれまたひどい寝不足と、普段は何だかんだとうまが合わないくせにこういう所はよく似ている。

「ほら、二人とも。さっさと顔洗ってしゃきっとしてくる!」

 はっぱをかけると、大きな声が頭に響いたのか、同じタイミングで顔をしかめたのにはちょっと笑ってしまう。

 のたのたと洗面所に向かう二人を見送り、蘭は朝食の支度に取り掛かった。

 オムレツに包むコンビーフの缶を開けながら、ふと緩む頬に一人肩を竦める。

 気持ちがそわそわして、どこか不安で、落ち着かない。

 

 園子はもっとドキドキしてるだろうな

 

 今日、会う約束をしている友人の事を思い浮かべながら、また零れそうになる笑みを慌てて飲み込む。

 と、背後から小さな足音がぺたぺたと近付いてきた。

「何か手伝う事ある?」

 続けて聞こえてきた声に軽く振り返り「大丈夫」と応える。

 さっきと打って変わってすっきりした顔のコナンに、蘭は言葉を続けた。

「それよりコナン君、私の留守中お父さんの事よろしくね。ちょっと…かなり大変だと思うけど」

 リビングに座り、寝ぼけ眼で新聞をめくる父親にちらりと目配せして苦笑を零す。

「うん、任せて」

 まあ…昨日の今日だからそんなに飲まねーとは思うけど……

 少々不安な部分は心の中に隠し、コナンは大きく頷いた。

「ありがとう。もう出来るからね」

「はぁい」

 返事を一つ、コナンはリビングに戻った。

 

 

 

「じゃあ、三時までには戻るから。遅くなるようなら電話するから、コナン君、よろしくね」

 靴を履きながら伝える蘭に「わかった」と頷く。

 と、蘭の声が一転して鋭いものに変わる。

「お父さん、今日はお酒控えめにね!」

「……わぁーってるよ」

 きつく見据えられ、渋々ながら小五郎は承知した。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 手を振り、蘭は静かに扉を閉めた。

 閉まったのを確認し、コナンは鍵をかけてリビングに戻った。

 怖い監視役が出かけたのにやれやれとばかりに肩を落とし、小五郎はいそいそとビデオ鑑賞の準備に取り掛かった。言われなくても、今日はビールのビの字も見たくない。夕方までは。

「さーあ、見るぞ! ヨーコちゃん!」

 テレビの真正面に座り、リモコン片手に高らかに声を張り上げる。

 その様子をやや離れた場所で眺めていたコナンは、すっかり馴染みとなった光景に微苦笑をもらした。

 端から見れば、自分の趣味も似たようなものだ…と納得出来るようになった最近では、彼の溢れんばかりの情熱、圧倒的なパワーは、中々馬鹿にしたものではないと思う。

 実際、小五郎の沖野ヨーコに関する知識の量、暗記力は侮りがたいものがある。時折不運が彼のファン活動を邪魔するが、それでもめげずに一途に思い続ける姿は、ある種の感動すら覚える。

 惜しむらくは、その情熱がもう少し本業に傾けば……

 

 まいいや。オレものんびりしよ

 

 頭を切り替えて、昨日読破したシリーズ物の推理小説をもう一度読み直そうと、寝室に取りにいく。

 小五郎の罵声、もとい応援の声がなんとも耳障りではあるが、蘭との約束を果たすべくコナンはリビングの隅で壁にもたれ、表紙を開いた。

 一度入り込んでしまえば、大抵の騒音は耳に入らない。

 また小五郎も、よほどでなければこちらを気にする事はない。

 少々うるさいのさえ我慢すれば、中々に快適な環境といえる。

 鬼の居ぬ間に、と言っては蹴りが飛んでくるかもしれないが、ひと時の至福にコナンは没頭した。

 

 

 

 玄関先で、かちゃんと控えめな音がした。

「ただいま」

 声と共に蘭が姿を現す。しかし返事はない。扉を片手にリビングを覗くと、気持ち良さそうに昼寝している二人の姿があった。一人はテーブルに身体を半分もぐりこませ大の字に、一人は壁にもたれ、揃ってくうくうと寝息を立てている。

 なんとも微笑ましい光景に頬を緩ませ、蘭は静かに靴を脱いで玄関に上がった。

 そろそろと洗面所に向かい、なるべく音を立てないよう手を洗ってリビングに戻る。

 二人とも、どちらが面倒を見たのかきちんと毛布をかけていた。キッチンを覗くと、一応昼食をとった跡があった。

 それじゃあ、起きるまで部屋で静かにしていようと思った矢先、コナンの脇に置かれた文庫本が目に入った。

 そこで閃き、蘭は肩にかけたバッグから葉書大の紙袋を取り出した。

 音がしないようそっと開き、中から一枚のしおりを取り出すと、しゃがみ込んで本に手を伸ばした。

 あまり頓着しないのか、途中のページにカバーを挟み込んでしおり代わりにしている。

 そこに、蘭は手にしたしおりを挿し込んだ。上端に結んだピンクのリボンがつんと覗くくらいに。

 そしてまた元の位置に戻す…と、気配を察したのか、コナンの目がふと開かれた。

「………」

 せっかく寝ていたところを――背中がひやっとする。

「あ……おかえり」

 夢現の笑みでコナンは言った。

「ごめんね、寝てたのに」

 手を合わせ、蘭は潜めた声で謝った。

「ううん、ちょっとうとうとしてただけだから」

 あくび交じりに応え、毛布の片付けに取り掛かる。

「おじさん、今日はビール飲まなかったよ。あと、電話も特にかかってこなかった」

「ありがとう――」

 ちらりと本を見やる。しおりの事を今言おうか迷ったが、後でも構わないと蘭は頭を切り替えた。

「じゃあ、夕飯までもう少し寝てたら。すごく眠そうな顔してるよ」

 くすくすと笑ってからかう。

 自覚があるのか、コナンはばつが悪そうに苦笑した。

「じゃあ、私部屋にいるから、ちゃんと布団敷いて寝てね」

 小五郎を起こさぬようひそひそと伝え、蘭は立ち上がった。

「あ…ねえ蘭姉ちゃん」

 行きかけた蘭を、コナンの声が引き止める。

 振り返ると、本の上部から飛び出したピンクのリボンを指差しながらコナンが訊ねた。

「これ、蘭姉ちゃん?」

 思いがけないタイミングに、また背中がひやりとする。

「うん、そう」

 説明しようとした時、小五郎が何事かうめいて寝返りを打った。

 しまったと二人して見合わせ、どちらから誘うでもなく蘭の部屋に引っ込む。

 後から入ってきた蘭を見上げ、コナンは再度問い掛けた。

「これ、しおり?」

「うん、そう…気に入るかな」

 何気なくページを開き、しおりを目にした途端コナンは小さく口を開けた。

 それは、和紙を押し花で彩ったしおりだった。

「これ…蘭姉ちゃんが?」

「うん、私の手作り」

 こんなに美しいしおりを、こんな物騒な本に使っているのが申し訳なくなり、コナンは慌てて手に取った。

 窓からの光を吸い込み、更に色鮮やかに目に映る。

 少し黄味がかった和紙に、向かい合う紅と緑のカエデの葉。

「紅いのは、この前の旅行で見つけたもので、緑のは、夏の頃に取っておいたものなの」

 しおりを作るに至った経緯を、蘭は簡単に説明した。

 事の始まりは園子…携帯電話のメールだけでは味気ないから、たまには京極さんに手紙を送りたいという園子の一言が始まりだった。そしてただ手紙を送るのではつまらないから、海外で生活している彼に何か日本的なものを贈ろうという事になり、それなら、この前集めた紅葉で押し花を作ったらいいのではないかという蘭の提案に、園子は一も二もなく賛成し、早速作業に取り掛かり、今日、完成したという次第だった。

「園子ったらもう張り切っちゃって、押し花のホームページとか見て額入りのものに挑戦してね。結構すごいのが出来上がったんだよ」

 ホラ

 携帯電話のカメラで写した画像を見せながら、蘭はクスクスと笑みを零した。

 覗き込んだコナンも、思わず笑みを浮かべた。

 確かに大作であった。初めてにしては上々の出来ではないだろうか。真ん中に大きく陣取るコスモスの花びらで作ったハートマークがいささか派手ではあるが、これはこれで、彼女の性格を表す重要なパーツになっていた。あの武骨なサムライにアピールするには、これくらいでちょうど良いのだろう。

「ね、園子らしいでしょう」

 笑顔のままコナンは頷いた。

「それで、せっかくだから私も作ろうと思って、で、コナン君にプレゼントするならしおりしかないかなーって…初めてだからあまり綺麗じゃないけど、でもそこそこでしょ」

 はにかみながらのやけっぱちな自画自賛に、コナンはすぐさま首を振った。

「そんな事ないよ。すごく…嬉しい!」

 思いがけない贈り物に、喉が詰まる。

「こんなに綺麗なの、ホントに貰っていいの?」

 お世辞などではなく、心からの素直な気持ちをコナンは口にした。

 その言葉に蘭はぱっと顔を輝かせた。

「もちろんよ! そんなに喜んでもらえて、私も嬉しい。もしこれが新一だったら、まず押し花の歴史をたっぷり一時間は話すでしょ、それから今度はしおりの歴史をたっぷり一時間…情緒もへったくれもないんだから。その点、コナン君は素直に喜んでくれるから、私も作った甲斐があるわ。良かった!」

 喜ばれ、けなされ、喜ばれ…なんともいえぬ複雑な心境に、コナンは懸命に愛想笑いを浮かべた。

 またも訪れた思いがけない贈り物。

 時々こうして彼女の口から零れる些細な仕返しは、ちくちくと肌やおでこに突き刺さるのに、ちっとも心を痛ませない。

 どころか、愛しささえ抱かせる。

 朗らかな笑みと軽やかな口調がきっとそうさせるのだろう。

 二人…三人だけの秘密。

 だから自分も安心して、心の中でこっそり言い返す事が出来る。

 

 …オレだったらそれにさらにカエデともみじの違いから話してるだろうよ

 

「……大切にするよ」

 悟られないよう笑顔で言って、コナンはしおりに目を落とした。

 穏やかな色合いの和紙にしっとりと溶け込んだ緑と赤の対比、絶妙な空間をはさんで段違いに向かい合う二枚のカエデが、鮮やかながらも柔らかく目を和ます。

「ずっと、大切にするよ」

 小さな紙片に映り込んだ葉の間に見える、巡る季節。

 変わりゆく色と変わらないものを選んだ蘭の心をしっかり目にとめ、コナンはもう一度「ありがとう」と伝った。

 

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