見えないもの、見えるもの

 

 

 

 

 

 夏休みもそろそろ半ばに差し掛かる、ある快晴の朝。

 あの日…打ちひしがれ、全ての悲しみに泣き崩れた千恵の痛みに胸を貫かれた日から、うまく眠りにつく事が出来ずにいた蘭は、今日も、同じように重い頭と手足を動かしてベッドから起き上がり、朝食の支度をしにキッチンへと向かった。

 寝起きの頭がゆっくりと動き出す。

 そして始まる、いつもの堂々巡り。

 少しでもあいつに近付きたい、真実を解き明かしたい。

 そう思って、それだけを頼りに、前へと進んだ。

 戸惑いはあったが、それは、自分の組み立てた推理が間違っていないかどうかの迷いだけで、真実に触れる事には少しも恐れはなかった。

 謎をほどき疑惑を取り払い、真実を解き明かすのに、何を戸惑う事があるだろう。

 そう、思っていた。

 けれど自分が予想していたより遥かに、真実というものは背に重く圧し掛かる。

 関わる人たち全てに、大きく、小さく。

 軽んじていたつもりはこれっぽっちもなかった。

 けれど。

 たどり着いた洗面所で、蘭は小さく息を吐いた。

 ふと目を上げた先の鏡には、ひどく疲れ切った自分の顔。

 また息を吐く。

 そして細く新一の名を呼ぶ。

 

 いつも…こんな思いをしているんだ……

 

 それでも、真実を追い求め進み続けている

 しっかり立って、前を見据えて

 

 私は

 私は…?

 

 勢いよく水を流し、少し髪まで濡らし顔を洗うと、蘭は玄関から外に出た。

 今日も暑い。

 一晩閉め切っていた室内とはまた違う気だるい暑さが、新聞を取りに階段を降りる足を重たくさせた。

 カタン、カタン、カツン……

 足音がやけに頭に響く。

 いけない、良くない。

 そろそろ皆が起きる。

 早く気持ちを切り替えなくては。

 今日は園子と、コナン君も一緒に出かける日。

 いつまでも引きずっているものでは……

 郵便受けから新聞を取り出すと、蘭は思い切って空を見上げた。

 頭上に広がる空はやけに青く、少し目に染みた。

「……ごめんなさい」

 呟くと、涙がじわりと滲んだ。

 誰に向けたものか…蘭はしばし空を見渡し、それからゆっくり、階段をのぼっていった。

 

 

 

 休日の少し遅い朝食を済ませ後片付けを終えた蘭は、待ち合わせの時間までまだ少しある間を、自分の部屋で一人ぼんやりと過ごしていた。

 座った椅子の背を窓辺に寄せて、何を考えるでもなくただ天井を見上げる。

 そうしていてある時ふと、目の端に机の上の写真立てが映った。

 肩をぶつけるようにして並んだ、無邪気にはじける小憎らしい笑顔。

 

 私と……

 

 蘭は椅子ごと近付くと、写真立てを手に取った。

 いつか行った、トロピカルランドで撮った写真にまっすぐ向き合う。

 途端に溜め込んでいた想いがどっと溢れ、今にも眦から零れそうになる。

 唇を引き結んでこらえ、蘭は小さく、は、と息をついた。

「………」

 自分の右側に並ぶ人を指先で愛しげになぞり、呟く。

 

 真実って難しいね

 でも……

 

 同時に零れるため息。

 その直後、ノックの音が響いた。

 ドアノブの辺り、低い位置から聞こえる軽い音に「はい」と応え、蘭は写真を置き立ち上がった。

 近付くと同時に開かれた扉の向こうには、思ったとおりコナンが立っていた。手に持っているのは、ハガキだろうか。

「蘭姉ちゃんに郵便来てたよ、はい」

「あら、ありがとう」

 受け取り、差出人の名前を見た途端、蘭の表情が一変する。

 コナンは黙って見守っていた。

 ハガキを裏返し、そこに書かれた文字を読むにつれ、みるみる笑顔に変わっていく蘭。

「千恵さん……」

 やがてもれた呟き、安堵に満ちたため息に、コナンは柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

「それじゃお父さん、行ってくるね。遅くなるようなら連絡するから。あ、私がいないからって、あんまり飲み過ぎないようにね。それから冷蔵庫に……」

 玄関先で、あれもこれも細々と注意する蘭を半ば追い払うように手を振り、小五郎は渋々返事をした。ここしばらく張りを失っていた声が元に戻ったのは嬉しいが、戻った途端これでは身が持たない。しかも、日に日にあいついに似てくるし…冷蔵庫から取り出した缶ビールを前に、苦い笑いを一つ、零す。

 待ち合わせの時間にはまだ少し早かったが、何か買い物でもあるのだろうと、傍に立ったコナンは特に口を挟まず蘭について玄関を出た。

 階段を下りて左に折れ、待ち合わせ場所の駅へ向かうと思いきや、蘭は反対方向へと歩き出した。

「……え」

 先ほど予測した目的地が駅とは反対方向なのだろうが、つい、声が零れる。

 一拍遅れて、コナンは歩き出した。少し足を速めて蘭と並び、歩きながら、さり気なく顔を見上げる。

 ギラギラ照りつける強い陽射しの下、眩しそうに、そしてどこか楽しげに、蘭は晴れやかな表情で前を見据え歩いていた。

「今日も暑いね、コナン君」

「……うん」

「ちょっと、寄り道付き合ってね」

 それだけ言うと、蘭は小さな手をすくい繋いで堤無津川へ向かった。

 住宅街を通り抜け、川沿いの道にたどり着くまで、蘭はずっと口を噤んだままだった。

 ここしばらく続いていた、少し重苦しい沈黙とは違うもので、彼女に圧し掛かっていたものがあのハガキによって取り払われた事、元の笑顔を取り戻せた事は嬉しかったが、やはり無言は少々息苦しい。

 何か伝いたげなのに、我慢して抑えている…ように見える。

 背中を押したら、出てくるだろうか。

 コナンはちらりと、繋いだ互いの手を見やった。それから蘭に顔を上げ、また自分たちの手に目を戻し、しばし考え、口を開いた。

「やっぱり、新一はすごいね」

 それより一瞬早く、蘭がぽつりと呟く。

 突然の言葉に、コナンははっと目を上げた。

 たった今まで、陽射しに負けない明るい顔だったのに、目の前の表情はどこか思いつめた…いや、自分自身を振り返り真摯に見つめる厳しさに彩られていた。

 そこからまた、しばらく無言が続く。

 何を、どんな風に考えているのだろう。

 歩きながら、コナンはそっと様子を伺った。

 見上げる女の顔は、吹っ切れた思いと、新たに生まれた悩みに戸惑い、どう進むべきか考えあぐねているように見てとれた。

 と、蘭がぴたりと歩みを止めた。

 コナンも揃えて足を止める。

「なんか……」

 不意に蘭が口を開いた。

 コナンはすぐさま顔を向け、続く言葉をじっと待った。

 繋いだ手を握りなおし、蘭は途切れがちにぽつりぽつりと言葉を綴った。

「……こんなんじゃ私、どんどん新一に置いてかれちゃうね」

「え……」

 思いがけない一言にコナンは目を見開いた。

「新一は、自分の夢に向かってどんどん進んでいく……どんなに遠くても、まっすぐ前を向いて。でも私は……」

 それ以上は言葉を継げず、蘭は唇を噛みしめた。

 

 置いていく

 置いていかれる

 

 そんな風に考えていたとは、夢にも思っていなかった。これで探偵とは聞いて呆れる。

 この、間抜け

 いつの間にか開いた口を噤み、コナンは大きく息を吸った。

 彼女が何を考え、何を悩み、何に苦しんでいたか、ようやく全てを掴む。

 コナンは繋いだ手に力を込めると、まっすぐ蘭を見つめ言った。自分の中にある想いが残らず彼女に届くように、心を乗せて。

「……新一兄ちゃんがいたら、きっと…バカだな、って言うと思うよ」

「な…なんでよ!」

「だ、だって…前に新一兄ちゃん、言ってたもん。どこへ行くのも、蘭と一緒だって。蘭と一緒だから、どんな遠くへも行けるんだ……って」

 蘭の反応を注意深く伺い、今一度、少し抑えた声で「蘭と一緒に」と言葉を繋ぐ。

 その言葉は、蘭の心にゆっくりゆっくり、染み込んでいった。

 一緒に

 一緒だから

 蘭は二度三度瞬きを繰り返すと、どこか慌てた様子で右に左に視線を泳がせた。

 みるみる、頬が赤く染まる。

 それを見て、コナンも同じく顔を赤くした。

 まともに顔を見られず、上目遣いにちらちらと表情を伺っていると、ふと耳に呟きが届いた。

「……新一のバカ」

 突然の「バカ」呼ばわりに面食らって目を瞬く。

 蘭はそんなコナンにちらりと目配せすると、赤い顔のまま川に身体を向け、大きく息を吸い込んだ。

 そして間髪を入れず張り叫ぶ。

「新一のバカヤロー!」

 予想出来ない一言に、コナンはぽかんと口を開けた。

 突然上がった若い娘の「バカヤロー」に、道行く人がこぞって振り返る。

 けれど当の本人…蘭は、大声を出して気が済んだのか、間近の目、遠巻きの視線などまるで意に介さず、すっきりしたとばかりに笑顔で肩を上下させた。

 

 オレ…バカヤローかよ……

 

 少なからずショックを受ける。

 蘭にしてみればそれは、単なる照れ隠しなのだけれど。

「さ、行こっかコナン君」

 それを知る由もないコナンは、晴れやかな顔で手を差し出す蘭にびくびくと応え、おっかなびっくり、手を繋いだ。直前まで何度も、握っていいのだろうかと戸惑いながら

「美味しいケーキ、一杯食べようね」

 楽しげな蘭の声も、今一つ素直に受け取れない…コナンはひくひくと頬を引きつらせながらも、精一杯の笑顔で「うん」と応えた。

 

 彼女の悩みがほどけるのと入れ替わりに、彼の中に絡まった悩みは、それから一週間続いた――

 

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