キラキラふりそそぐ緑の陽射しを浴びて走っていく

 

 

 

 

 

 新幹線を降りて、バスに乗る時から雲行きが怪しかった。

 案の定、山道を半分登ったところで窓に雨粒がくっつきだし、宿泊予定の旅館に着いた時には、まるでバケツを何杯も引っくり返したような土砂降りとなった。

 念の為用意していた傘もあまり役に立たないほど雨足は強く、バス停からすぐの旅館に飛び込むようにして、小五郎、蘭、コナンの三人は大慌てで駆け込んだ。

 あらかじめ到着時間は知らせてあったので、玄関に入るやタオルを携えた数人の従業員が出迎えてくれた。

 ひとしきり雨を拭い、言葉を交わした後、三人は二階の客室へと案内された。

 晴れていれば、客室の扉を開けた途端、静かな水面の湖畔を一望できるはずだったのだが…雨の向こうに霞む青い景色に、蘭は少し残念そうな笑みを浮かべた。

 その日は、宿から一歩も出ぬまま夜を迎えた。

 

 

 

 二日目の朝――

 雨の名残の空気が、頬や首筋や鼻先から染み込んでくる。しっとりと包み込む心地好さを胸いっぱい吸い込めば、青くむせる草木の瑞々しい息づかいが身体中で感じられた。

 目の前に広がる湖は、時折吹き抜ける風に細かく波立ち、昨日の雨天と交代した真っ白な太陽の光を波の数だけ反射させ、眩くきらめいていた。

 空と湖だけでなく、木立の枝葉や道端の花びらにも太陽は輝き、雨上がりの朝をより一層爽やかにさせた。

 

「気持ち良い朝だね、コナン君」

 旅館の玄関から少し歩いたところで立ち止まり、蘭は大きく伸びをしながら傍らに立つ少年にそう声をかけた。

「うん!」

 元気よく応え、コナンはふと笑みを零した。

 早朝、誰よりも早く目を覚まし、布団から出るや天気を確かめ、晴れていると分かった途端ひとつ手を叩いて喜んだ後ろ姿を思い出したからだ。

 そして、朝食の間もそわそわと落ち着かず、早く外に出たいと身体中で訴えていた隣の彼女…今にも湖に飛び込んでしまいそうにはしゃいでいる。

 やれやれと密かにため息をつきながらも、本当は、愛しさで胸が一杯だった。

「こんなに気持ち良いんだから、お父さんもくればいいのにね」

 蘭は振り返ると、自分たちが泊まっている部屋を仰ぎ見た。

「うん……」

 コナンも同様に、半分ほど開いている窓を見上げそっと苦笑を浮かべた。

 小五郎は今、部屋で引っくり返っている。

 昨日の深酒がたたり、今朝は起きるのがやっと、朝食が用意された部屋にたどり着くのも精一杯といった様子で、湖畔の散策はおろか部屋から出るのさえ難しいだろう。

 もっとも、自業自得…この地方特有の辛口の地酒に目を輝かせ、娘の制止も聞かずぐいぐいと煽ったのだから仕方あるまい。

「……大変だね、蘭姉ちゃんも」

 腰に手を当て、呆れた風に息つく蘭の背中へ、コナンは一声かけた。

「え、うん……でも、前みたいに嫌なお酒の飲み方じゃなくなったからそんなに大変でもないよ」

 言葉どおりの表情で蘭は軽く首を振った。

 父親と自分たちとが抱える問題は依然として目の前に横たわっているが、決して乗り越えられないものではないから、いつからか変わり始めている事を知ったから、楽な気持ちで口に出来る。

 そう、言葉以外で表し、蘭はふふと小さく笑った。

「さて、せっかくのいいお天気、どうしようか……」

 どうしようかと問いかけながら、心はもう決まっているのをコナンは知っていた。

 旅館の周りの簡単な地図が記されたしおりが、背負ったリュックのポケットからちらりと覗いている。

 恐らくは、湖を一周するプランを思い浮かべている事だろう。さり気なく後押しすれば、きっと彼女は目を輝かせて乗ってくるに違いない。

「蘭ね……」

「あ、見てコナン君!」

 それではと口を開きかけたコナンより一歩早く、蘭が声を上げた。

 コナンの後方を見据え、まっすぐに指を伸ばす。

「え……」

 見上げ、指の先を追って振り返ると、旅館の玄関から少し離れた場所にある小さな建物が目に入った。入口のガラス戸は開いており、中にはずらりと自転車が並んでいた。

 入口の脇には、貸し自転車の看板。

 昨日の雨で気付かなかったが、どうやら旅館で貸し出しているもののようだ。

「ねえ、どうせなら自転車で一周しない?」

 それほど大きくはない湖の周りをぐるりと指でなぞり、蘭は言った。

「う、うん…いいね」

 異存はないが、彼女の勢いにコナンはおっかなびっくり頷いた。

「じゃあ私、旅館の人に言って借りてくるから、ちょっと待ってて」

 言いながら蘭は玄関に駆け込んでいった。

 昨日、雨に閉じ込められていた分を発散するようなはしゃぎぶりに、小さく肩を竦める。

 嗚呼、これだから……

 よく通る溌剌とした蘭の声を聞きながら、コナンは穏やかな笑みを顔にのぼらせた。

 

「ゆっくり走って、大体一時間くらいで一周できますよ」

 若い男性従業員が、自転車のブレーキの具合を確かめながらそう説明する。

「そうですか」

 蘭は頷いて自転車を受け取ると、後ろにコナンを乗せハンドルを握った。

「湖をはさんでこの旅館のちょうど向こうに、湧き水で出来た小さな池があるんです。茂みに隠れて見つけにくいんですけど、飲むと女の人は今よりもっと綺麗になるって言われてます。是非見つけて、飲んでみてください」

 従業員の言葉に、蘭は少しはにかんだ表情でコナンを振り返った。

「……だって」

「絶対見つけようね」

「うん。ちゃんと掴まっててね、コナン君」

 蘭は確かめると、ペダルに足を乗せた。

「それじゃあ気を付けて、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 手を上げ、蘭は颯爽と自転車を走らせた。

 湖を右手に、そよぐ風を横切って進む。

 陽射しは強いが、身体に受ける風はひんやりと心地好い。

 誘われて、蘭はぐんぐんとスピードを上げた。

 青い空と太陽、右手には湖、左手には、あと少しで届きそうに枝を伸ばす木立が連なり、天然のアーチを作り出していた。

 枝葉の間から零れる光が細かく影と折り重なり、進む道を照らしている。

「綺麗な湖だね、コナン君」

 緩やかな下り坂を走りながら、蘭が声を上げた。

「ホントだね」

 まるで底まで見えそうに澄んだ水色に、コナンは素直に返した。

「自転車が、一番いいんだって」

「……え?」

 そのまましばし眺めていると、それまでとは少し違う響きを含んだ蘭の声が耳に届いた。

 唐突な一言に少々面食らい、顔を上げる。

 蘭は小さく笑うと、どこか懐かしむような声で続けた。

「前にね、新一が言ってたの。周りの景色を楽しむのに、歩きだと遅くて、車だと速すぎるから、自転車が一番だって」

「………」

 すぐ傍にいて、一番遠い自分に話し掛けるその声は、胸の奥まで熱くさせるほど甘い響きを含んでいた。

 うなじの辺りが、むず痒くなる…コナンは大きく息を吸いながら口をへの字に曲げた。

 いつ言ったものか、どんな時に口にしたものか…顧みる自分の言葉は少し色あせてはいたが、ちゃんとここに残っている。

 

 仕入れた知識をひけらかしたい?

 誰かと共有したい?

 

 あの頃は、言葉の持つ意味なんてさして考えず蓄え、ただ紡ぎ出していた。

 それが今になって、再び目の前に現れた事、彼女の口から綴られた事で、ようやく手の中の重みとなる。

 なんて――

 コナンは頭上を振り仰いだ。

 折り重なる濃い淡い緑の葉を透かして、キラキラとふりそそぐ柔らかな陽射し。

 正面に目を戻せば、頬をくすぐって踊る彼女の長い黒髪。木漏れ日を浴びて、虹色に輝いている。

「涼しくて気持ち良いね、コナン君」

 肩越しに振り返り、蘭は嬉しそうに言った。

「うん。ねえ――蘭姉ちゃん」

「なあに?」

「ちょっと止めて」

「え、うん」

 頷き、すぐブレーキをかける。

「どうかした?」

「……うん」

 コナンは曖昧に応えると、荷台に立ち上がり蘭の肩に掴まった。

「立って乗るの?」

 案の定、少し心配そうな視線が注がれる。

「うん……」

 照れくさくてまともに受け止められず、またも曖昧に頷く。

 同じ景色が見たい、から、なんて口が裂けても言えない。

 こうして荷台に立って、彼女の肩に掴まるのだって、一大決心なのだから。

「……しっかり掴まっててね」

 どう受け止めたのか、蘭は頬に微笑みをのぼらせ正面を向いた。

「……うん!」

 そしてコナンの返事と共に再び自転車を走らせる。

「湧き水、見つけられるかな」

 どこか楽しげな声で蘭が言う。

「見つかるよ、絶対」

「頼りにしてるからね、コナン君」

「え…うん、任せて。湧き水飲んでさ、新一兄ちゃんびっくりさせてやろうよ」

「ええ、あいつ気付くかなあ」

「だ、大丈夫だよ、新一兄ちゃんなら」

「あら、コナン君随分あいつの肩持つのね」

「……え、と」

「まあ、そうね。どうせならうんとびっくりさせてやるんだから。コナン君、協力してね」

「……うん」

「嫌なら別に無理しなくていいのよ」

「そ、そんなことないよ!」

「じゃあお願いね、コナン君」

「……うん!」

 少々やけ気味に、コナンは声を上げた。

 そのすぐ後、二人分の楽しげな笑い声が横切る風に乗って空高く上っていった。

 

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