キス・オレンジ・キス

 

 

 

 

 

 朝、カーテンの隙間から差し込む陽射しの眩しさに起こされるほど快晴だったのに、帰る頃いきなりこんな大雨になるなんて…

 突如振り出した大粒の雨を避けて、たまたま駆け込んだ先のデパートの正面玄関から空を見上げ、蘭は小さく肩を竦めた。

 周りには同じように、雨宿りの人影がちらほらと伺えた。

「まいっちゃったね、コナン君」

 蘭は、空から視線を落とすと、傍に寄り添う少年に少し困った笑みを見せた。

「うん…でも、多分通り雨だと思うよ。ほら、向こうの方はあんなに明るいし」

 彼が指差す空に目を向け、蘭はなるほどと頷いた。

 自分たちの頭上はまるで夜かと思うほど真っ暗だが、確かに彼方の空は白く輝いている。

 それなら、今、バケツを引っくり返したようにひどいこの雨も、もう三十分もすれば上がるに違いない。

 良かった。せっかくの買い物も、雨に濡れずに済む。

「じゃあさ、それまでどこかお店で休んでいようよ。私に付き合って一杯歩き回ったから、疲れたでしょ」

「え、ううん、大丈夫だよ」

「遠慮しないでよ。私も喉カラカラだし」

 蘭は左手に下げた紙袋を持ち直すと、すいと右手を差し出した。

「さ、行こ」

「…うん」

 どこか喉に詰まったような声で頷き、コナンは目の前の手を軽く握りしめた。

 

 

 

 四階に上がったところにある、小洒落たケーキショップ二人は落ち着いた。

 案内された窓際の席から外を眺め、蘭が長いため息を吐く。

「すごい降ってるね、コナン君」

 強い風と相まって窓を打つ雨は、何本もの細かな滝となってガラスを伝い流れていく。

 音こそ聞こえないものの、その激しさには圧倒される。

「コナン君は何にする? 私はねえ……そうだなあ……」

 テーブルに置かれたメニューのポップをじっとにらみ、蘭はあれにしようかこれにしようか、うんうんとうなった。

 そんな彼女の様子をちらりと見やり、コナンは密かに苦笑した。

 甘い物が大好きな、彼女。

 ちょっとやそっと食べたくらいでは響かないのに、すぐ食べ過ぎたと大げさに肩を落として、何かと忙しない。

 そんな事ない、大丈夫だよ、うっかり声をかけようものなら、小一時間は延々と説かれる事になる。

 だから、下手な事は口にしないことに決めた。

 それに、自分から見れば些細な事でこうして真剣に悩んでいる顔を見るのも、悪くない。

 傾けた水のグラスで笑みを隠し、コナンは窓の外に目をやった。

 さっきまで頭上にあった黒雲は大分流されて、雨足も少し弱まったようだ。

 けれどまだ、外は暗い。

 窓のガラスは相変わらず、雨水のすだれで覆われている。

 するすると流れ伝い、分かれてはまた交わる細い雨の滝を、コナンはぼんやりと眺めた。

 目の端には、しかめ面と微笑が入り混じった複雑な顔をした蘭。

 些細な事で笑い、怒り、泣き、そして笑う愛しい人。

 

 三人でいるから笑っていられる――

 

 そう告げた彼女。

 何より支えになるだろう、けれど、彼女に背負わせてしまったものは変わらない。

 いつまで、という先が分からない毎日。

 繰り返し迎える今日を嘘で始め嘘で終える。

 たくさんの人…クラスメイト、親友、父母を欺く道を彼女が選んだのは、他ならぬ自分のせい。

 浅薄で未熟なくせに、何でも出来ると思い上がっていた自分のせいで彼女の心と身体を危険に晒してしまった。

 それでも彼女は、屈託なく笑い、怒り、泣き、そしてまた笑う。

 三人でいるから、と。

 

 溌剌と過ごす彼女を見るたび、心が淀んでいく。

 

 信じられるものを、自分は、信じているだろうか。

 

 時に喧嘩し、時に笑い合い、共に涙した事もある蘭と園子。

 友達で、兄弟のようでもあり、他人なのにとても近い存在。

 隠し事の一つや二つはあるが、嘘は、お互いの間に一個もない。

 口に出して誓い合ったわけではないそれを、蘭は心中密かに誇りに思っていた。

 園子も、同じだろう。

 隠し事はあっても嘘はない、だから二人の絆は深い。

 そんな蘭に、嘘をつかせている。

 毎日。

 

「よし、決めた!」

 光の瞬きのように鮮やかな蘭の声が、思考の堂々巡りに囚われていたコナンをぱっと引き戻した。

 いつの間にか沈んでいた視線をはたと上げ、コナンは目を向けた。

「私、ケーキセットで」

 蘭は手にしたポップをよく見えるよう掲げると、右端にあるケーキセットを「これ!」と指差した。

 やっぱりそれを選んだかと、コナンはふと笑みを零した。

「何で笑うの、もう」

 いくらか予想はついていたのか、蘭は恥ずかしそうに笑いながら唇を尖らせた。

「いや、蘭姉ちゃんらしいなって」

「もう、好きなんだからいいでしょ。コナン君は?」

「ボク、オレンジジュース」

「だぁめ、オレンジジュース以外で」

「え……」

 思いも寄らぬ言葉にかすれた声をもらし、コナンはぱちぱちと目を瞬いた。

 そんなコナンに構わず、蘭はメニューを向けたまま上から覗き込み「コーラもだめ、ジンジャーエールもだめ」と、ソフトドリンクの類を次々禁止していった。

 すると残るはコーヒーか紅茶のみ。

 どちらかしか選べないのであれば、迷わずコーヒーになるが…

 意図は分かるが、困惑気味に、コナンは「じゃあ、コーヒー…」と告げた。

「決まりね。すみませーん……」

 コナンが答えるや否や、蘭はさっと手を上げた。

 何故だろうという思い、申し訳なさ、それらが入り混じりコナンは何も言えずに口を噤んだ。

「買い物に付き合ってもらったお礼よ」

 なんでもない風に蘭がさらりと伝う。

「ありがと……」

 それに対して、強張った声を出すのが精一杯だった。

 優しくほころぶ顔をまともに見る事が出来ず、コナンは出来るだけさり気なさを装って窓の外を向こうとした。

 しかし、明るい店内と、まだ暗い外との差が窓ガラスを一時的に鏡に変えてしまったせいで、外の風景に逃げる事すらも出来なくなってしまった。

 今は、今だけは、自分の姿を見たくない。

 分かっているのにこれ以上思い知らされたくない。

 引きつる頬を水のグラスで隠し、コナンは密かに息を吐いた。

 見た目だけでなく気持ちまでちっぽけだなんて。

 自分はこんなものだっただろうか。

「なんだか元気ないね、コナン君」

 一番隠しておきたいものをいともたやすく見透かされ、背中に冷たいものが伝う。

「歩きすぎて疲れちゃったでしょ」

「ううん、ぜーんぜん」

唇が震えそうになるのを辛うじて押し殺し、コナンはあどけない子供の貌で首を振った。

「ホントにぃ?」

 蘭はにっこりと口端を持ち上げると、頬杖をつき、斜めから顔を覗き込んだ。

「疲れた時は甘い物が一番よ」

 無邪気に覗き込んでくる視線をどうかわそうかと戸惑っていると、それより先に蘭の目が上へと逸れた。

「お待たせしました」

 お待ちかねのケーキセット、オレンジムースと紅茶を運んできた店員に軽く頭を下げ、蘭はテーブルに置かれた鮮やかな橙に目をキラキラと輝かせた。

「一口あげるね」

 そう言って蘭はフォークを向けた。

「え、いいよ、ボク……」

 無理やり頬を持ち上げた笑顔でコナンは首を振り、コーヒーのカップに手を伸ばした。

 どうしてこんなに、彼女の笑顔が辛く感じるのだろう。

 痛みが走るのだろう。

「あら、遠慮しなくていいのよ」

 蘭は一口分フォークで切り落とすと、ムースの上に乗っていた飾りのオレンジスライスを一つ乗せ、コナンに差し出した。

 目の前に近付いたオレンジの清々しい香りが、胸を苦しくさせる。

「どうぞ召し上がれ」

 面食らう眼差しにいたずらっ子の顔で笑い、もう少し、フォークを近付ける。

 有無を言わさぬ、ように。

「………」

 戸惑いながらぎくしゃくと口を開き、コナンはフォークをくわえた。

 するりと手を引き、蘭は言った。

「どう、おいしい?」

泣きそうな情けない顔で笑い、コナンはぎこちなく頷いた。

「よかった!」

 ただ無邪気な笑顔が胸にするりと沁み込む。

 それだけて自然と笑みが浮かんでくる。

 ようやくの事力の抜けた笑みが、戻ってきた。

 それに伴い、何に脅かされていたのか、分かったような気がした。

 信じられるものを、どうして、疑ったりしたのだろう。

 コナンは窓の外へ目を移した。

 雨雲はとうに去り、雲の切れ間から青空が覗いている。

 あんなに暗かったのが嘘のようだ。

 西に向かう穏やかな陽射しが、雨上がりの町と人に降り注いでいるのを見て、コナンはにこりと口端を持ち上げた。

「晴れたよ、蘭姉ちゃん」

「あ、ホントだ!」

 蘭は顔を上げ、少し眩しそうに目を細め笑った。

「雨上がりの空って、綺麗だね」

 訪れた小さな感動に素直に喜ぶ蘭の横顔を、コナンはそっと横目で伺い頷いた。

「そうだね」

 答えると、まだ残っていたオレンジがふと鼻腔をくすぐった。

 

 口の中一杯に広がる瑞々しい香りは、彼女がくれたもの。

 

 淀んでいた心が、清々しい空気で満たされていく。

 

 戸惑う日もある、立ち止まる日もある。

 

 今消えたものが、またいつか訪れるかもしれない。

 

 そんな時、この瑞々しさが、強さをくれるはず。

 

 信じられるものを、信じられるように。

 

 自分たちの絆は、そういうものであるはず。

 

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