星空の下で

 

 

 

 

 

 真夜中の町は、しんと静まり返って人影も見当たらず、まるで別の世界を歩いているような錯覚に見舞われる。

 昼間はひっきりなしに車の通る道も今はひっそりと横たわり、街灯のおぼろげなあかりと自動販売機の眩しい光だけが行く先を照らし出しているそんな中を、蘭とコナンの二人は手を繋ぎ歩いていた。

 繋いだ手その反対側に、今しがた買ったばかりの缶ジュースを握り、薄ぼんやりと伸びる道を進む。

 真夜中の散歩。

 言い出したのは、蘭の方だった。

 

 

 

 

 

 夕食を終え、それぞれに風呂も済ませ、後は寝るだけとなったくつろいだ時間。

 家主である毛利小五郎は、九時から始まったドラマに釘付け、テーブルに用意した缶ビールを次々空けながら、主演のアイドルの見せ場に欠かさずエールを送っている。そんな後ろ姿を時折、膝に乗せた雑誌から目を上げて呆れ気味に見やり、また雑誌に目を戻し楽しんでいると、いつの間にか横に座った蘭が、小五郎に聞こえぬよう声をひそめて、耳元に囁いた。

「ねえ、後で散歩に行かない?」

「え……?」

 思わず時計を探す。

 いつもは少し厳しいくらい夜更かしを咎めるのにと内心首をひねりながら、真横の顔を見つめる。

 不思議な表情を浮かべていた。

 こっそり冒険に出ようとしている子供のような顔。

 どこか思いつめた眼差し。

 心を決めかねて、少し揺れている瞳。

「……散歩?」

 聞き返すと、蘭はこくりと頷いた。

「お父さんが寝た後で」

 是非を委ねているようで、その実否定を許さぬ強い声音。

「う、ん……」

 首を縦に振るしかなく、胸のどこかで妙な不安…期待が緩くざわめくのを、不思議な気持ちで味わう。

「十二時になったら、出発よ」

 寝ないでね

 念を押して、蘭は自分の部屋に戻っていった。

 後ろ姿を見送り振り返ったままの姿勢で、長い事考え込む。

 必要以上に大きなテレビの音声も、小五郎の声も、何も聞こえなくなるくらい、没頭する。

 一体、何の為に真夜中に散歩するのだろう。

 何をする為に。

 

 

 

 ドラマを見終わると、小五郎はテーブルの上の片付けもそこそこにさっさと寝室に入り、横になると同時に高いびきを上げ始めた。

 間際、早く寝ろよと一応は声をかけて。

 悩みも何も見当たらないその姿に呆れた視線を送り、リビングを振り返る。

 中途半端に握り潰され、倒れた、缶ビールの空き缶がいくつもテーブルに転がっている。

 しようがないと頭をかき、ゴミ袋を手に片付けに取り掛かる。

 時間になるのを待ってただじっとしていると、答えの出ないものに支配されてしまいそうになるそれが嫌で、渋々始めた片付けに集中する。

 閉じた扉の向こうからバイクのエンジンをふかしているようないびきが聞こえてくる。もう一つの扉…蘭の部屋からは、何の物音もしない。

 無意識に耳を澄ませてしまった自分を恥ながら、テーブルを拭く。

 そうやって追い払いながらも、気が付けば片側の扉に視線が行ってしまう。

 あの人は、今何を思っているのだろう。

 小さな顔に少々不似合いの大きな眼鏡越しに、じっと扉の向こうを見つめる。

 じわりとにじんだ苦い感情に、表情が知らず内に強張る。

 こんな時、より強く無力な自分を思い知る。

 すぐ傍にいるのに、何も出来ない小さな自分を。

 嘘ばかり重ね、何一つ真実を伝えられず、危うい安全の中で偽りを貫き哀しませる事しか出来ない自分を。

 強く思い知るのだ。

 本当はこれ以上、一粒だって彼女の悲しい涙を見たくないのに。

 どうしたら、それが出来るだろう――

 

 

 

 耳が痛くなるほど静かに時は過ぎて、約束の十二時が訪れる。

 音もなく扉が開き、いつもと変わらぬ朗らかな顔で蘭は姿を現した。

 真っ暗な部屋に一人、心もとない表情で立ち尽くす少年にくすりと笑いかけ、手を差し伸べる。

「行こう」

 目の前に出されたきれいな手を、恐る恐る握る。

 日常となってしまったそれに、今は何故か胸が高鳴った。

「真夜中にこっそり抜け出すのって、結構ドキドキするね」

 先に階段を下りながら、蘭はひそひそとはしゃいだ声を上げた。

「そうだね……」

 表からの頼りない明かりの中で見る彼女の顔は、とても幻想的で、まるで夢を見ているような錯覚に陥る。

 頭で思うより弱い身体は、とっくに眠気に包まれていて、そのせいもあってふわふわとした夢見心地に見舞われる。

 だからこんなに、綺麗に見えるのだろう。

 繊細で、高貴な人のように。

 こんな一場面を目にするたび、自分は場違いにも見とれてしまう。

 誰よりも大事なひと

 守りたい――命に代えても

 

 

 

 事務所を出てすぐの自動販売機で蘭は缶ジュースを二本買い求めると一本を彼に、一本を自分で持ち、手を繋いで歩き出す。

 真夜中の町は、しんと静まり返って人影も見当たらず、まるで別の世界を歩いているような錯覚に見舞われる。

 昼間はひっきりなしに車の通る道も今はひっそりと横たわり、街灯のおぼろげなあかりと自動販売機の眩しい光だけが行く先を照らし出しているそんな中を、二人は手を繋ぎ歩き続けた。

 繋いだ手、その反対側には、冷えた缶ジュース。

 無言のまま、薄ぼんやりと伸びる道を進む。

 真夜中の散歩。

 心地好い眠気に身を委ねて、ふわふわと先を目指す。

 人も車も、誰も見ていないのに規則正しく繰り返される信号の移り変わりを不思議に思いながら歩道を渡り、いくつか越えて、二人はやがて小さな児童公園にたどり着いた。

 細かな玉砂利を静かに踏みしめて、ブランコの前にある木のベンチへと向かう。

 腰かける蘭に少しためらいながら、隣に座る。

 何も喋らない事に戸惑い、こっそり見上げる。

 壊せない静寂に不安を感じながら、じっと時が訪れるのを待つ。

「綺麗な星空だね」

 長い長い沈黙をついに破って、蘭は口を開いた。

 半ば眠っているような浮遊感の中で聞くその声は、まるで夢を見ているように、鮮やかに耳に響いた。

 蘭の視線を追って見上げた夜空には、都会の真ん中とは思えないほど星が瞬いていた。

「ホント…だね」

 もう、すぐ来る。

 重く圧し掛かる覚悟に、百の言葉を探す。

 彼女を真実から遠ざけ、欺き、危なげな安全に追いやる為の言葉を。

 どんなに苦しくても、そうしなければいけないのだ。

 彼女を守る為には。

 知られてはいけないのだ。

 真実は。

 それでも――

「ねえコナン君…そのままで聞いてくれる?」

 星空を見上げたまま、蘭は続けた。

 声に、一瞬目を向けそうになるが、言われた通り星空を見上げたまま耳を澄ます。

「……新一、今頃何してるかな」

 発せられた言葉に、小さく息を飲む。

 遠くにいる人に想いを馳せるその横顔を、そっと盗み見る。

「ちゃんとご飯食べてるかな。夜は、ちゃんと寝てるかな」

 遠く…限りなく近いのにとても遠くにいる人の顔を星空に重ね、蘭は続けた。

 ほんのりと浮かべる笑顔に似合う穏やかな声で。

「今…こうして、同じ空見てるかな」

 胸が、苦しくなる。

 人の為に泣き、自分の事のように思い悩む優しい人を、こんなに哀しませている。

 何度も、何度も。

 打ちのめされて俯きかけたその時、蘭は密やかに言った。

「今度は、新一と三人で来たいね」

 約束を破って、思わず隣の少女に目を向ける。

「いつか三人で、こうやって星を見られたらいいね」

 すると蘭も目を見合わせ、にっこりと笑った。

 叶う日は永遠に来ないと知っていても、笑った。

 その笑顔だけで、もう言葉も説明も必要なかった。

 いつから、なんて、些細なことだ。

 

 そんな素振りは全く見せなかったのに。

 彼女は知った。

 何か伝う言葉を含んだ眼差しや、不自然な沈黙、いつもと違う反応なんて、全くなかったのに。

 気付いた。

 あの日からも――まるで夢のような…たった三人で、空に取り残されたたくさんの命を地上に戻したあの日からも、それまでと同じ日常を繰り返してきたのに。

 そして受け入れた。

 

 いつからなんて、些細なこと。

 彼女は知り、気付き、受け入れた。

 それだけのことだ。

 震えが、止まらない。

「あ、あのさ……蘭――姉ちゃん……」

 ごまかせ、ごまかせ……

 いつものように嘘を吐けばいい。

 少しでも真実から遠ざけなければ。

 もしも……

 もしも失う事になってしまったら、どうするんだ。

 

 わからない振りをしろ――もうたくさんだ

 

「なあに?」

 微笑んで覗き込む彼女のまっすぐな瞳は、自分…を見ていた。

 喉でつかえる言葉をしぼり出し、しかし何も伝える言葉などないと悟って、口を噤む。

「………」

 子供らしからぬ表情で首を振る少年に思いつめた笑みを向け、蘭は再び夜空を見上げた。

「早く、事件解決するといいな」

 声とは裏腹に、力なく俯く。

「そうしたら……戻ってくるよね、新一」

 強い眼差しでつまさきを見つめ、隣の少年に、自分に言い聞かせるように呟く。

「でも私…コナン君とお別れするのは……辛いな」

 潤んだ声に、はっと横を向く。

「勝手な事…言ってるって…わかってるけど……」

 女の目から、はらはらと静かに涙が零れた。

 声を殺して泣き続ける彼女がとても胸に迫って、苦しくなる。

 ポケットから取り出したハンカチを、さりげなく渡す。それくらいしか出来ない。

「ありがとう……」

 ハンカチを受け取ると、蘭は少年に向かって右手を差し出した。

「コナン君……今だけでいいから…ぎゅって握っていてくれる……?」

 そう言われ、一度は伸ばしかけた自分の手が、彼女に触れるには余りにも小さくて、どうしても触れる事が出来ない。

 すると彼女は、そんな事気にせず手を重ね、しっかりと握りしめた。

「ごめんね……」

 泣いてしまう自分を、蘭は小さく謝った。

「蘭……」

 夜の空気に溶けてしまいそうなほど密やかに、名を呼ぶ。

「私の知らないところで頑張っている新一の方が、ずっと辛いのに…ごめんね」

 弱々しく震える少女の手を、強く握りなおす。

 一番大事なひと。

 真実を知り、真実を受け入れ、守る為に心を決めた強いひと。

 こんな道もあったのだと、教えてくれた。

「ありがとう」

 小さな手から伝わる精一杯の思いやりに、蘭はそっと微笑んだ。

「いつも…守ってくれて…ありがとう――コナン君」

 ゆっくりと向けられる眼差しを、静かに待つ。

 まだ涙に濡れていたけれど、行く先を見つけて安心しきったその顔はとても晴れ晴れとしていた。

 本当にその道でいいのかと、聞きたい気持ちも残っている。

 間違ってはいないかと、今よりも危険が多いのではないかと、不安に思う。

 けれど、嗚呼、自分も同じ道を行こう。

 自分にはこのひとがいる。

 このひとは自分が守る。

 どんな道でも二人…三人で進めば、きっとたどり着けるはず――

 

「乾杯しよっか、コナン君」

「え……」

 涙を拭うと、蘭は片手の缶ジュースを膝に乗せにっこり満面の笑みを浮かべた。

「あけてくれる?」

 手は繋いだままでいようね

「……う、ん」

 少し戸惑いながら頷き、自分の缶を傍らに置いて手を伸ばす。

 人の持った缶を少し苦労してあけ、恐る恐る顔を見上げる。

「コナン君の、あけてあげる」

 蘭は自分の缶を傍らに置くと、手を伸ばした。

「しっかり持っててね」

 少し不安定な膝の上で、蘭が缶の蓋をあける。

「さ、乾杯しよ」

 真夜中、二人の周りだけほんのりと明るくなる。

「な……何に乾杯するの?」

 晴れやかな顔で缶を掲げた蘭に、おっかなびっくり訊ねる。

「生きてることに」

 私と新一とコナン君

 たったそれだけの一言に、胸いっぱいに感情が込み上げた。

 自然と顔に笑みが広がる。

 

 何もかもが手探りで、不安だらけなのに、手を繋いでいるだけでこんなにも安心出来る。

 

 二口、三口と、互いに無言のまま缶を傾ける。

 そうしてある時、蘭が口を開いた。

「新一が……」

 自分だけの秘め事にして、こっそり残すメッセージのように缶で口元を隠し、先を続ける。

「新一が無事に、帰ってきたら、全部……話してもらうから、それまでは……」

 戻ってくるまでは

「誰にも内緒……三人だけの秘密ね」

 内緒よ

 缶を持つ手の人差し指を立て、口元にあてる。

 翳りも迷いもなく、どうしてそんなに穏やかな顔が出来るのだろう。

「いいの……? それで」

 聞くのが怖くて怖くてたまらない。

 かすれた声で訊ねる少年に、蘭はにっこりと口端を持ち上げた。

「もちろん、アイツが戻ってきたら、きつーい一発をお見舞いしてやるんだから」

 軋む音が聞こえそうなほど、繋いだ手をきつーく握りしめられる。

「!…」

 上げそうになった声を慌てて飲み込み、笑みを浮かべる蘭に弱々しく笑い返す。

「だから、いいの」

 頷きながら、蘭は言った。

 この道を進もう

 三人で――

 

 空には星が瞬いていた。
 キラキラと頼りなくそれでもはっきりと、三人を見下ろしていた。

 

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