この手の中に |
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険しい顔で詰め寄る高木を避けて日下は一歩退いた。 「ま、待ってくださいよ。ヤだなあ、ボクにはまだ…こういう……切り札が残ってるんだぜ!」 そして言い終わると同時に、ポケットから素早く何かを取り出し高く掲げる。 目にするや、人々はさっと青ざめた。 テレビドラマや映画の中で、嫌というほど目にしている。わざわざ『爆弾のリモコンだ』などと声高に言わなくても、今時子供だって知っている代物。 途端に、ホールにひしめく六百人の隅々にまで、恐怖と混乱が伝播する。 人々は一歩でも脅威から遠ざかろうと、周りに目もくれず互いに肩をぶつけ合い、逃げ場を求めてうろつきまわった。 怒声と悲鳴があちこちから上がる。 思惑通りの状況に日下は悪意に満ちた笑いを一つ吐き出すと、一番近い出口目指して脱兎のごとく駆け出した。 「!…」 冷静さを失い、てんでに動き回る大人達の合間に、逃げていく日下の姿が見え隠れする。低い身長ゆえの自由を逆手にコナンは、わずかな隙間を縫って駆け出した。 「コナン君……!」 直後、右肩に蘭の叫びがぶつかる。 行きかけた足に力を込めて踏み止まり、肩越しに振り返る。怯えと怒りがないまぜになったような眼差しが、真っ向から己をとらえた。 引き返して手を伸ばせば、すぐに届く距離。 コナンは迷わず駆け寄り、蘭の手を握りしめた。 だが、何かを伝っている時間はない。 繋いだ手の力強さと視線で言葉を預ける。
果たして無事に伝わったかどうか――
握り返す蘭のぬくもりを心苦しく思いながらも、コナンは半ば無理やりに手をほどくと、再び日下を追って駆け出した。 「コナン君……」 あっという間に人の波に飲まれ見えなくなった少年の背中へ、蘭は祈るような呟きをもらした。 まだぬくもりの残る手を、ゆっくりと握りしめる。 約束が果たされますよう、願いを込めて。 |
次第に目が暗闇に慣れてくる。 おぼろげに残る記憶と、現在目にする光景とを照らし合わせながら、蘭は、昼間の自分の動きを追って歩き回った。 確か、梯子を降りた正面に大きな箱が二つあって、その右の方へ…… 探し求めるそれは、すぐに目に飛び込んだ。 水玉模様の小さな袋、赤いリボン。 ぼんやりと届く月明かりにくっきりと照らし出されたそれへと手を伸ばし、蘭は込み上げる歓喜に満面の笑みを浮かべた。 中には確かに、子供たちが作った貝のメダルがおさめられていた。 「ありがとう……」 彼らの心に触れ、じわりと涙が滲む。 そこで蘭ははっと目を瞬いた。 ぐずぐずしている暇はない。 危機を脱してから、ゆっくりと、感動を味わえばいい。 今は一刻も早く戻らねば―― 眦を決して梯子に手をかけた途端、一際大きな衝撃が船を襲った。 |
爆発の衝撃によってゆがみが生じたのか、少々重くともすんなり開けられたはずの扉が、今はどんなに力を込めてもびくともしない。 「誰かいませんか!」 蘭は、声を限りに叫び扉に拳を打ちつけた。 何度も、何度も、何度も。 近くに、声を聞き付けてやってくる誰もいないのは分かっていた。恐らく、船中捜しても誰一人残ってはいないだろう。 それでも蘭は呼びかけるのをやめなかった。 やめられなかった。 たとえ自分の声でも、最後でも、途切れた後の静寂に飲み込まれるのを恐れたからだ。 何も聞こえなくなってしまったら、きっと、身体を動かす力さえなくなってしまいそうに思えた。もしそうなったら…今にも心を蝕む恐怖を必死で振り払い、蘭は繰り返し叫び続けた。 しかし、そんな彼女を嘲笑うかのように、船は水平を見失い、その大きな身体を傾かせた。 軋みと揺れがまたも襲い掛かる。 蘭はまた、壁に叩き付けられた。 先ほどの衝撃が抜け切っていない身体に、容赦なく襲う激痛。 諦めまいと足掻く心とは裏腹に、蘭の身体は壁に沿ってずるずると床に崩れた。 「新一……」 霞み狭まっていく意識の中、遠く浮かぶ新一へと手を伸ばす。 新一―― ……コナン君 駆け出す間際、引き返して手を握ってくれた。 どんな事があっても、絶対に戻ってくる―――― いつか約束した言葉を預けて。 なのに、自分が…… 「ごめんね……新一……ごめん…ごめんね」 冷え切った虚ろな空気を掴むばかりの手を握りしめ、蘭は何度も何度も呟いた。 四方から、ぎしぎしと船の軋む音が襲ってくる。 今にも砕け、暗い海の底へと引きずり込まれてしまう恐怖が吐き気となって胸を圧す。 少しでも気を抜けばすぐに飲み込まれてしまいそうなそれに必死で抵抗し、蘭は暗闇に目を凝らした。 極限まで疲れ切った身体、心が、十年の時を飛び越えて一つの記憶にたどり着く。 どんなに力を込めても開かなかった扉、重たく圧し掛かってくる暗闇が、新一の手によっていとも簡単に振り払われたあの瞬間。 どんなに嬉しかっただろう 自分の事をいつも、いつも…いつも見守っていてくれた新一。 「コナン君……」 しぼり出すように呟く。 動かない身体が恨めしい。 もう、どうすればいいか分からない。 分からない。 どうすれば……
何が何でも、生きて戻るから。 新一の約束。
どんな事があっても、絶対戻るから。 コナン君の約束。
私は――信じて待ってるから…約束した。 だから……? |
だから、諦めている場合ではない。 「蘭、大丈夫か!」 声を張り上げる小五郎に背中を押されるようにして、渾身の力を振り絞り、梯子を一段一段のぼる。 あと少し…あと少し…… 自らに言い聞かせ、蘭は懸命に手を伸ばした。 小五郎はしっかりと掴むと、身体を支え引き上げた。 淀んだ空気の立ち込める船倉から、少し強い潮風の吹きつける場所へ。 蘭は大きく息を吸い込んだ。 「大丈夫、蘭姉ちゃん!」 直後、間近でコナンの声がした。 「!…」 聞きたかった声が、耳を打つ。 震える蘭の唇が新一の名を呼びかけて途切れ、別の言葉へと繋がる。 自分で決めた境界に辛うじて踏み止まったそれ。 「しん……ぱ…い…かけて…ごめんね……」 しっかりと握りしめる小さな手を弱々しく握り返し、蘭は途切れ途切れに言葉を紡いだ。 「大丈夫。もう少しだから頑張って」 励まし、コナンは手を握り直した。力強く頷く。彼女が本当に口にしたかった言葉、本当の名前は、ちゃんと心に届いてる。 命がけで守ってくれる、彼女の想いは。 「見ろ……! 救助のヘリだ!」 小五郎の言葉に、コナンははっと空を仰ぎ見た。 耳をつんざく轟音と眩い白光。更に目を凝らせば、最後の頼みの綱であるオレンジの制服が夜闇にもくっきりと見てとれた。 大丈夫、もう少しだ 船の傾きが更に増す。 「!…」 残り時間はあとわずか。 「おじさん、船首へ行こう!」 コナンは叫び、先に立って走り出そうとした。しかしそれを遮るように、蘭が手を伸ばす。 さっきほどかれた手、もう二度と離したくないと、小五郎に抱えられふらつきながらも蘭はきつく手を握りしめた。 満足に喋れず目線だけで語りかけてくる彼女の思いを違わず聞き取ったコナンは、何か伝う代わりにしっかと握り返した。 蘭の口元に、微かな笑みが浮かぶ。 「急げ!」 「うん!」 三人ひとかたまりになって、船内を駆け抜け船首へ向かう。 |
隊員はまず、蘭の身体に救助用のロープを取り付けた。次に、彼女を支える形で小五郎に。そして自らにロープを回し、間にコナンを抱き込んで金具を固定した。 この状態で手を繋いだままでは、互いの身体に無理がかかる。 仕方なくもコナンは、手をほどこうと蘭の手に合図を送った。 しかしまだ意識が朦朧としているのか、状況が理解出来ないと、蘭はコナンだけを見つめ怯えたように目を潤ませた。 「大丈夫、蘭姉ちゃん」 今にも叫び出しそうな蘭をまっすぐ見つめ、縋り付く彼女の手ごと上を指す。 「上を見て。助かるんだ」 蘭はおどおどと目を上げた。眩い光が、自分たちに降り注いでいる。 あれは、あれは……! ようやく飲み込めたのか、小さく頷き手を離す。 「では、いきます!」 声と共に隊員は上空のヘリに合図を送った。 ゆっくりと、牽引が始まる。 四人の身体は宙へと釣り上げられた。 |
コナンの短い叫びが、ふわふわと漂っていた蘭の意識をこちらへと呼び戻した。 はっと目を見開き、眼下を見やる。 救いを求めまっすぐに伸ばされたコナンの手が、目に飛び込んだ。 蘭は咄嗟に手を伸ばした。 掴まなくては 戻らなくては 彼と一緒に戻らなくては ぶつけた頭が痛む 視界がぐらぐらする でもそれがなに 一緒に戻るのだから 言う事を聞かない身体を叱咤し、蘭は奥歯を噛み締めた。 精一杯、手を伸ばす。
コナン君…コナン君――新一!
呼べない名前と共に伸ばされた手が、しっかりと、コナンの手を掴む
途端に肩に走る衝撃。 ……掴んだ! 蘭は更に力一杯握りしめた。 離すものか 絶対に離すもんか 「しっかり掴まってて…コナン……君」
「……うん」 安堵と感謝を込めて、コナンは頷いた。
しかし安心したのも束の間…互いの手は脆くもほどけてしまった。 それを繋ぎとめてくれたのは、子供たちの心だった。 ただ純粋に相手を思いやり、喜んでもらいたい一心で作られた貝殻のメダルが、二人の命をしっかりと繋ぎとめた。 瞬く星と、月明かりに照らし出される金色の貝が、二人の間できらりと光を放つ。 コナンも蘭も、ただひたすらに感謝の眼差しで貝の一つひとつを見つめていた。
どちらかが弱り崩れれば、もう片方が手を差し出す。 どちらかが無理をするのではなく、お互いに今を支えあうもの。 お互いの命を守る為に それでも無理な時もある。 そんな時は、きっとこうして、誰かの心に助けられるのだろう。 今助けられた分を、いつか誰かに返せたらいい。 この手の中にある、思いやりを。 |
「私がかけてあげる!」 「うん」 歩美の申し出に、蘭は心底嬉しそうに頷いた。 子供たち、親友、父、そしてコナンが見守る中、蘭の首にお祝いの金メダルがかけられた。 「中々似合うじゃねーか」 小五郎の穏やかな声に、蘭は誇らしげに笑みを零した。 「ありがとう、大切にするね」 興奮気味に頬を染める子供たちにそう言って、蘭は両手に貝のメダルをそっと乗せた。 昇りくる朝日を浴び、金のメダルが一際輝く。 蘭が熱心に見つめるのと同じように、新一もまた、感謝の気持ちを込めて貝のメダルを見つめていた。
この手の中にあるものを、わたしは、わたしたちは、一生忘れないだろう。
二人は心にしっかりと刻み込んだ。 |