指きり |
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運転席には、高木刑事が乗っていた。 後部座席には、助手席の後ろにコナン、運転席の後ろに蘭がそれぞれ座り、景色を見るでもなくただじっと正面を見据えていた。 外は既に暗く、通りに面して連なる商店街の賑やかなあかりが車内を照らすが、並ぶ二人の表情は硬く、ただ眩しそうに目を細めているだけだった。 後部座席の二人が強張った顔付きなのは、乗っているのがパトカーだから、というのもあったが、真の理由は他にあった。 渋滞もなく順調に車は走り、やがて交差点を右に折れ、片側二車線のバス通りに入った。 「もうすぐ、着きますから」 バックミラー越しにちらりと後方を見やり、高木は言った。 重苦しく沈んでいた車内の空気が、高木の人懐こそうな声で幾分軽くなる。 「ありがとうございます」 少し硬い声で蘭は応え、隣に座るコナンをちらりと見やった。 何か言いたげに開いた唇は、気付いたコナンが顔を向けると同時に閉じられ、ついに言葉が出る事はなかった。 コナンはぎゅっと唇を結び俯いた。 顔を上げた途端さっと目を逸らされ拒まれては、何も言えなかった。 しかしそれもこれも…互いの間にあるぎくしゃくとした空気すべて、自分が招いた結果なのだ。 彼女が怒るのも無理はない。 今更取り返しはつかないが、昼間の浅はかな自分が悔やまれてならない。 せめてもう少し慎重であったならば 彼女にこんな顔させずに済んだだろう。 すべては今更だ。 険しい顔付きで足元を睨む。 不意に、肩に受けたナイフの熱さが甦り、脳天をずきりと直撃した。 コナンは眼を眇めた。 もしかしたら、今頃は…… 最悪の結果を想像し、きつく奥歯を噛み締める。 ただ運が良かった。 もちろん、生きて帰りたい欲望はあった。しかしあの瞬間はひたすら無我夢中で、今も目を閉じれば、暗闇の中はっきりと、自分に向かって飛んでくるナイフの鋭い切っ先が見えた。 その先は、選択だ。 片方は確実な死、もう一方も、紙一重で死が待っている無謀な選択。 何故自分はここまでするのだろう。 ふと目に入った手のひらを、コナンはじっと見つめた。 順序立てて考えれば、自分がなりたいものにはいつだって危険がつきまとう。 それでも真実を求めずにはいられなくて、気付けば走り出している。 その度に彼女を傷付け、余計な心配を負わせてしまう。 それでも自分は―― 「……大丈夫? コナン君。傷が傷むの?」 隣からの遠慮がちな声に、はっと目を瞬く。いつの間にか握りしめていた両手を開き、コナンはゆっくりと見やった。 「ううん、平気だよ」 努めて明るく答え、直後はっと息を飲む。 暗い車内で顔がはっきり見えないせいか、蘭の顔は疲れきって、ひどく怯えているようにも受け取れた。 そんな蘭の表情に、胸がずきりと痛んだ。 嗚呼、なんて愚かなんだろう ただ一言の謝罪では埋められない傷の深さに、唇が震える。 注がれる眼差しを受け止めていられず、コナンはぎこちなく目を逸らした。 「大した事ないから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」 喉でつかえる言葉を辛うじて吐き出し、無理やり、子供の顔で笑う。 顔も見ずに繰り出された言葉に、蘭は小さく「そう」と呟いた。 程なくして車は停車し、見慣れた事務所の窓に二人はゆっくりと顔を上げた。 「今、ドア開けますね」 まわり込んで後部座席のドアを開ける高木に頭を下げ、蘭は車を降りた。 「本当にありがとうございました」 別れ際はせめて明るく送りたいと、大きく息を吸い込む。 「いいえ、これくらい。いつも毛利さんにはお世話になってますし。それじゃあコナン君、お大事に。今日はありがとう、助かったよ」 車中から手を振る高木に応え、コナンは左手を上げた。 走り去る車をしばし見送っていると、背後で蘭の動く気配がした。 空気の流れに振り返ると同時に抱き上げられ、急な視線の移動に一瞬面食らう。 「だ……」 大丈夫だと言おうとしたが、そのせいで更に傷付けてしまうのを恐れ、コナンは唇を引き結んだ。 心なしか、蘭の手が震えているように感じられた。 |
――蘭 |
心の中でひっそりと名を呼ぶ。 蘭はしばらくの間、コナンを抱き上げたまま立ち尽くしていた。 行き交う車のライトが何度も目をさす。時折脇を通り過ぎる通行人が、どこか不思議そうな顔で見やるのも構わず、蘭はじっと身を竦めていた。三人、四人…どれくらいか経ってようやく、事務所の階段に向かって歩き出す。 何を伝っていたのか、コナンに知る術はない。 「今日はね……」 蘭は一段一段気を付けて階段を上りながら、努めていつもの調子でコナンに言った。 「お父さん、お友達と飲みに行っちゃっていないから、夕飯簡単なものにしちゃったけど……食べられる?」 「……うん、お腹ぺこぺこだよ」 コナンもまた、いつもと同じ明るさでおどけてみせた。 「良かった」 軽く笑って、蘭は三階の鍵を開けた。 玄関先でコナンをおろし、キッチンへ向かう。 「今日はビーフシチューなの。レトルトで悪いけど……」 「ううん」 振り返って肩を竦める蘭に、コナンは笑顔で首を振った。ほんの少し動かしただけだが、背中全体にピリピリとした痺れが走った。痛みが顔に上る前に踵を返し、居間に引っ込む。 テレビは見る気にならなかったが、静かなよりは少しでも音があった方が気持ちも明るくなるだろうと、リモコンに手を伸ばす。また、見る元気があるというアピールになれば、とも考えていた。 適当に合わせたチャンネルから、どっと笑い声が起こる。少々うるさいくらいだが、変えるのも億劫でそのままにする。 画面の中で忙しなく交わされるお喋りのほとんどは、耳に入ってこなかった。ただぼんやりと見つめながら、頭の片隅で、ごまかしているような後ろめたい気分を味わう。 けれど、ならどうすればいいのか思い付かない。 自分に出来る事は何もないように思えるのだ。 ぎくしゃくと、絡まってしまったお互いの空気をほぐす方法が。 何ひとつ |
「お待たせ」 蘭の声と共に、忘れかけていた空腹を思い出させる美味そうなシチューの匂いが鼻先をくすぐった。 少しうとうとと眠りかけていた意識がぱっと舞い戻る。コナンは目を上げると、そろそろと蘭の顔へ視線を向けた。 「残してもあれだから、全部盛りきっちゃった。食べられるだけでいいからね」 運んだ皿をそれぞれの前に置きながら、蘭はにっこりと笑みを浮かべた。 「うん」 顔に浮かぶ強張った笑みを見た途端さっと目を逸らし、それには触れず、コナンは頷いた。 「いただきます」 「どうぞ」 始まった夕餉は、今にも崩れそうな危うい不自然さに沈んでいた。 いつも以上に、口数が多い蘭。 応えるコナンも、言葉が途切れるのを避けるように一言でも二言でもいいから繋げ、互いに目を逸らし、ゆっくりと噛み殺す。 並んでお喋りしていると言うのに、食事が終わるまで、二人の目が合う事はついになかった。 居心地の悪さに気付いていても、触れるのは怖くて、結局うやむやなまま今日が過ぎようとしていた。
何を言いたいのか分からない。 けれどお互い、胸の内に言葉は膨れ上がっていた。 |
「じゃあ、電気消すね」 戸口に立って囁く蘭に、コナンは布団の中でそっと頷いた。 「……お休みコナン君」 「お休みなさい……」 彼女の声、自分の声、そして暗闇。 耳の奥でこだまする抑えた声音が、疲れて眠ろうとする身体をまだと引き止める。 見えない天井を睨み付け、コナンは静かに瞬きを繰り返した。 まだ、だ。 まだ彼女に言ってない。 眉根を寄せ、コナンは起き上がった。疲弊しきった身体は重く、足元も少しふらついたが、言わないまま今日を終わらせてたまるかと踏みとどまる。 一歩一歩確かめるように踏みしめ、隣の部屋へ。 そっと様子を伺いながら蘭の部屋の前で立ち止まり、控えめにノックする。 「……蘭姉ちゃん」 返事はない。 もう一度ノック。 「蘭――姉ちゃん……」 やはり返事はない。 もう一度と手を上げかけて、コナンは思いとどまった。自分が言いたいばかりで、彼女の気持ちを考えていなかった事に気付き、忌々しげに唇を噛む。浅慮な自分に嫌気が差す。 諦めて戻りかけた時、背後でかすかに扉の開く音がした。 振り向くと、少しだけ開いた扉。 蘭の姿はない。 しばし戸口を見つめた後、コナンは戸惑いながら部屋の中へ足を踏み入れた。 真上からの白光に一瞬眩む目を凝らし、膝を抱えてベッドに寄りかかる蘭の姿をとらえる。 「………」 呼びかけようとするより先に、蘭が口を開いた。 「ごめんね……」 「っ……!」 「ごめんね……コナン君」 「ど、どうして蘭姉ちゃんが謝るの?」 慌てて蘭の元へ駆け寄る。 答えず、蘭はおずおずと目を上げた。 遠慮がちな互いの視線が、ここにきてようやく絡まる。 「でも私……コナン君と約束していないんだもの」 「え……」 「新一とは…約束したけど、コナン君とは約束してないから……」 「今日みたいな事があると……どうしていいかわからないくらい不安になるの……」 眉根を寄せた険しい顔で、蘭は俯いた。 心なしか、眦に涙が光って見えた。 ややあって、ぽつりぽつり、蘭は言った。 |
探偵に危険は付き物、謎を前にすれば、真実を追い求めて脇目も振らず突き進む。 どんなに自分の身が危うくなろうとも、真実を手にする為なら厭わない。 わかってる。 よくわかってる。 だから、約束でいいの。 |
「前に、新一……何が何でも生きて戻るって、言った……だからもう少しだけ待っててくれ…て」 ふと笑みを零し、蘭は続けた。 「アイツの約束なんて、結構いい加減なものだけど……でもね」 胸に手を当て、信じられるよと大切に囁く。 蘭の綴る言葉の一つひとつをしっかり胸に刻みながら、コナンはじっと立ち尽くしていた。 彼女の寄せる信頼がどれほど厚くどれほど貴いものであるか、今更ながら思い知る。 自分に何が出来るだろう。 どれほどのものだろう。 言葉なんかじゃ、もう追いつかない。 考えに考え、コナンはじっと手を見つめた。
こんな頼りない手で、何が出来るもんか
強い顔で恐る恐る、彼女に小指を差し出す。 「ボクも……約束――するよ」 けれど蘭は動かない。 「どんな事があっても、絶対蘭姉ちゃんのとこへ戻るって、約束する」 彼女を安心させられる約束は別のものかもしれないと不安を抱きながら、言葉を続ける。 今伝えられる、精一杯の気持ちを込めて。 「心配かけて……ごめんなさい」 静かに零れ落ちた一言に、蘭は目を上げた。 「もう、いいよ」 優しく囁き、コナンの小指に自分の小指を組んだ。 「私も……」 応える彼女の声が、コナンの胸をどきりと震わす。 何を言われるのかと、何を言われても仕方ないと、追い詰められた覚悟に息も出来ない。 「信じて待ってるから……約束ね」 囁くような声で蘭は言った。 しばし目を見合わせ、二人、同じタイミングで頷く。 「約束よ……」 蘭はもう一方の手で互いの手を包み込んだ。 コナンも、同じように手を添えた。 「……約束する」 密かに空気を震わせて囁き、厳かに目を閉じる。 通い合うぬくもりが、蘭の頬に微笑となって浮んだ。 この先も、きっとまた同じ事が起こるのだろう。 真実を求め傷付く彼、信じる気持ちが揺らいでしまう自分―― そんな時、繋いだこのぬくもりが自分たちの心を支えてくれればいいと、蘭は密かに祈り目を閉じた。 今日の終わりに淡く咲いた微笑みが、夜の静寂にゆっくり溶けていく。 二人の胸に刺さった怯えや恐れを、優しく癒しながら |