お前なんか嫌いだ-映画バージョン-

 

 

 

 

 

 春を飛び越して、もう夏が訪れたような、少し汗ばむあたたかい一日だった。

 朝、出掛けに羽織った長袖のパーカーは、放課後子供たちに誘われ公園でサッカーを始めるとすぐに無用になり、帰り道のお荷物となった。

「じゃーな、コナン!」

「それじゃあまた明日」

「じゃあね、コナン君」

「おう、気を付けて帰れよ」

 公園から散り散りに家路に着く子供たちに手を上げて、コナンは歩き出した。数歩進んでふと、今さっき自分が口にした言葉に心の中で小さく吹き出す。

 傍目には皆同じ子供なのに、一人保護者気分の自分は、果たして周りにどう映るだろうか。

 照れ隠しに頭をかく。

 大通りに出て、事務所への帰り道、すれ違う大人達を何気なく見送りながらコナンは、小さく肩を竦めた。

 ほんの数ヶ月前は、見下ろす側だった。

 ほんの数ヶ月で、気付けば見上げる視線に慣れていた。

 子供の貌もすっかり板についたし、子供らといるのも、さして苦ではなくなっていた。どころか今日のように、サッカー…ボール遊びと変わりないが、時間も忘れて熱中するほどだ。

 江戸川コナンとの奇妙な同居を、そう悪いものでもないと思っている自分は、つくづく楽天家だと思い知る。呆れながら、感謝する。

 感謝の気持ちは、彼女へ。

 一人じゃとても乗り越えられない非現実的な現実に、いとも容易く橋をかけてくれた人。

 彼女の笑顔に、何度救われた事だろう。

 いつか、近い将来、翳りのない青空で心からの笑顔が見られるといい

 その青空を贈るのが他でもない自分であるよう、心に刻み込む。

 毎日が誓いの連続。

 ドアノブを掴むのも一苦労だから、よけいに……

 階段をのぼり、二階の事務所にたどり着いたコナンは、扉を前に背伸びする自分に小さく苦笑いを浮かべた。

 と、更に目線を上げたところで、滅多に見ない『本日休業』の札に気付き、コナンは瞬きを繰り返した。

 一旦後じさってじっくり確認する。

 この札が出ているという事は、主であるあの名探偵は不在ということになる。

 となると、事務所の鍵は閉まっている――念の為ドアノブをひねると、扉はすんなり開いた。

 いくらなんでも無用心すぎやしないかと内心腹を立てながら、コナンは事務所に足を踏み入れた。

 小五郎の定位置である窓際のデスクへと視線を向ける寸前、正面のソファの背に、淡いピンクのコートが無造作にかけられているのが目に入った。

 蘭のコートだ。

 誘われて一緒に買いに行ったのだから間違いない。それに、今朝、それを着て学校へ出かけたのも確認している。

 ということは……

 とりあえず小五郎の不在を確認した後、コナンはソファを回り込んだ。

 予測したとおりの姿でソファに横たわる蘭の寝顔に、ふと笑みをもらす。

 少し窮屈そうに横向きに身体を丸め、微かな寝息を立てている。

 コナンは再び小五郎のデスクを見やると、扉を振り返り、蘭のコートを見て最後に、テーブルの上に残された二組のコーヒーカップ…片付けやすいように一まとめに重ねられている…へと視線を向けた。

 このコートの置き方と、行き先を告げる小五郎の書き置きがない事から推測するに、依頼人は蘭と入れ違いに出て行ったのだろう。

 小五郎は、いつもの場所かもしくは依頼人と一緒に出かけたか。後で起きたら聞く事にしよう。

 そして蘭は、小五郎の指示通り『本日休業』の札をかけた後、片付けに取り掛かろうとして、ほんの少しならとうたた寝を始めた……

 そんなところだろうか。

 コナンは、ソファの背にかけられたコートを手に取ると、静かに広げ彼女の肩にかけてやった。

 昼間は確かにあたたかかったが、大分日も沈んだ今は少し肌寒くなってきた。いくらなんでもこのままでは、風邪を引いてしまう。

 窓から差し込む眩しい茜色の西日に、コナンは目を細めた。

 起こして自分の部屋にとも思ったが、見るからに気持ち良さそうに眠っているのを起こすのは気が引けた。

 今日はもう、どうせ依頼人は来ないのだから、起きるまで寝かせていてやろう。

 さて、自分はどうしたものかとコナンは立ち尽くした。

 しばし悩み、ソファの端に遠慮がちに腰かける。テーブルの上のコーーカップが気になったが、物音で起こしてしまってはかわいそうだ。もっともらしい言い訳をこじつけ、片付けを後回しにする。

 本当は、彼女の寝顔が見たいから……

 ちらりと横目で覗き込む。

 しかしここからでは彼女の前髪が邪魔で、よく顔が見えない。

 もう少し、傍に近付いても良いよな

 誰にともなく言い訳して、ほんの少し横にずれる。

 もうちょっと、もうちょっとだけ。

 そろりそろりと近付き、ついに隣に並ぶ。

 コナンはゆっくりと目を落とした。

 うっすらと開いた唇、微かな寝息。

 しっとりと、瑞々しく濡れた唇が、目を釘付けにする。その直後、何事か呟いて蘭がわずかに身じろいだ。

 慌てて正面に顔を戻す。

 焦る必要ないのに……

 付き纏う後ろめたさをうやむやにして、もう一度顔を覗き込む。

 と、蘭の目がぱちりと開いた。

 瞬間、ぎくりと胸が高鳴る。

 身動きが取れない。

 寝起きだというのに蘭は妙にはっきりと目を見開くと、じっと顔を見つめてきた。

 ただ寝顔を見つめていただけ、

 何も悪い事などしていないが、咎められるのではないかとどぎまぎしながら彼女の反応を待つ。

 すると彼女は、楽しげにクスクスと笑いながら「……新一のバーカ」と囁いた。

 い、いきなりなんでバカ?

 しかも新一?

 面食らい、コナンは何度も目を瞬いた。

 続く言葉はないのかと、じっと様子を見守る。

 しかし、それきりまた目を閉じてしまった蘭に、寝ぼけていただけと理解する。

 ……あんだよ、ったく。にしてもいきなりバカはねえだろ

 心の中で零しながら、少しふてくされた眼差しで蘭を見やる。くさくさした気分は、彼女の無防備な寝顔一つで簡単に吹き飛んだ。

 それどころか、どんな楽しい夢を見ているのか柔らかく緩んだ優しい唇の形に、胸の奥までじんわりと幸せが広がっていくのが手に取るように分かった。

 彼女の寝顔一つでこんなにも簡単に幸せを感じてしまう自分がどうにも照れくさくて、ごまかすように熱くなった頬や耳をこすりながらコナンはぎこちなく笑みを浮かべた。

 直後、少し寝ぼけてとろんとした蘭の声が割り込んだ。

「……どしたの、新一。顔赤いよ……」

「え、あ…ゆ、夕日のせいだろ……」

 てっきり寝ていたものと思っていたコナンは、突然の声に慌てふためき、半ば反射的にしどろもどろで答える。

 混乱のあまり、今、自分がちゃんとコナンで答えられたかどうか考える余裕すらない。見上げてくる眠たそうな目に、引きつった笑みを向けるのが精一杯だ。

「……そっかぁ…」

 すると蘭は、答えに納得したのか、笑って軽く頷きながらコナンに腕を伸ばした。

「!…」

 抱き付かれ、コナンの混乱はますます深まる。

 起きているのか寝ぼけているのか、それともからかわれているのか。

「………」

 蘭

 再び寝息を立て始めた蘭に口端を緩めると、コナンは、起こしてしまわないようそっと肩までコートを引き上げてやった。

 

「オレはちゃんとお前の事見てるのに、オメーは変なとこばっか見やがって……」

 

 つい口から零れた悪態は、本人も焦るほど甘い響きを含んでいた。

 寒気が走る自分の言葉に、口をへの字に曲げる。

 それが少しおかしくて、思わず笑みを零す。

 ふと正面を見ると、資料の類を収めた背の低い書架のガラス戸に、自分の顔がおぼろげに映っているのが目に入った。

 少々大きな眼鏡をかけた、小学生。

 小さな身体、小さな手。

 昔の…今の自分。

 ため息の間だけ唇をへの字に歪ませ、向かい合う自分に悪態をつく。

 お前なんか嫌いだ

 けど――まあまあ。

 そう悪いものでもない。

 今一度蘭を見つめ、束の間笑みを零す。

 いい夢見ろよ

 わざと投げやりに呟く自分に笑い、向かい合う自分に笑う。

 笑えるのはいつだって、彼女のお陰だ。

 自分と同じように、そして違う方法で見守っていてくれる彼女がいるからこそ、いつだって笑っていられる。

 いつか三人で、心から笑える日が来るといい。

 

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