君といる時間

 

 

 

 

 

 段々と、耳に届く物音が鮮明になってきた。

 布団の中で仰向けになったまま、コナンはキッチンから聞こえてくる物音を聞いていた。

 スリッパがパタパタと軽快な音を立て、流しと食器棚を行き来する。先日買い換えた冷蔵庫を開けて…取り出したのは卵が一個、二個。既に火にかけてあるフライパンにコンコンと卵を落とす。

 壁を隔てて遠く聞こえてくる目玉焼きの音に、届かないはずのいい匂いがふと鼻腔をくすぐった。

 丸く広がった白身と、柔らかく盛り上がった黄身、立ち上る湯気…

 途端にきゅうっと胃が縮み上がる。

 寝ているだけでも腹は減るものなんだなと一人笑いながら、コナンは起き上がった。

 まだ起きる気配のない小五郎を邪魔しないよう、なるたけ静かに布団をたたみ押入れに上げる。

 習慣で、前夜の内に用意していた服に着替えながら、大きなあくびを一つ。同時に伸ばした両手を見てふと、相変わらず小さい事にぼんやりと心の中で悪態をつく。

 初めの頃は慣れずに滅入ったり驚いたりを繰り返したが、いつまでも引きずって思い悩む性分ではない…もちろん、推理の類は別だが…らしく、また楽天家の自覚もあって、今ではすっかり目に馴染んでいた。

 今日の天気を確かめるくらいに。

 いずれ時が来るのは分かっている。

 焦る必要はない。

 けれど、チャンスは絶対に逃しはしない。

 まだしょぼつく目をこすり決意も新たにしたその直後、腹の底に不快なおぞ気が走った。

 ずうんと身体が重くなる錯覚に見舞われる。

 瞬間的に過ぎったそれは、気のせいとも片付けられるほどささいなもの。

 思い過ごしだと、舌打ちと共に肩を上下させ、もやもやと纏わりつくえもいわれぬ不快感を追い払う。

 無意識に落ちた視線を引き上げ、コナンは部屋の扉を開けた。

 リビングは、キッチンから漂う朝食の匂いに包まれ、窓から差し込む朝日と相まって、沈みかけた気持ちを一気に明るくさせた。

「おはよう、コナン君」

 気付いた蘭が、キッチンから声をかけてくる。

 まぶしい朝日に良く似合うはつらつとした声に、コナンは背筋を伸ばした。

「おはよう蘭姉ちゃん」

 キッチンを覗くと、フライパン片手に蘭が、今正に目玉焼きを引っくり返すところだった。

 三人の内彼女だけ、両面を焼くのが好きだった。

 蘭はコナンに向き直ると、ちらりと目配せした後、少し強張った笑顔でひょいと一息に目玉焼きを引っくり返してみせた。

 時々失敗してしまう事もあるが、今日は見事に成功を収めた。

「やった!」

 宙を舞い、素早く回転して元のフライパンに綺麗に収まった目玉焼きに、コナンは賞賛の拍手を送った。

 それまでどこか不安げだった蘭は、惜しみない拍手にぱあっと顔をほころばせた。

「もう出来上がるからね」

 ちょっと照れたように笑いながら、蘭が言う。

「はぁい」

 返事と共にコナンは洗面所へ向かった。

 何気ない朝の風景に、思わず頬が緩む。

 そんな穏やかな幸せにふと、瞬きにも満たない刹那、またしても奇妙な不快が過ぎった。

 奥歯を噛み締める。

 すっかり目覚めて、気持ちは高揚しているのに、何故だか胸がざわざわと落ち着かない。

 あまり相手にしたくないと、コナンは冷たい水を勢いよく顔に浴びてリビングに戻り、ようやく起きてきた小五郎に二言三言声をかける蘭の姿に気持ちを切り替えようと努めた。

 いつもと変わらないやり取りを眺める内、説明のつかない不快感はいつの間にかすっかり消えていた。

「お待たせコナン君。ご飯にしましょ」

 まっすぐ向けられた蘭の瞳に、何を淀んでいたのだろうかと、清々した気分になる。

「うん!」

 殊更大きく頷き、コナンはテーブルについた。

 

 

 

「ごちそう様でした」

 食べ終わった時だけでなく、キッチンで洗い物をする蘭の元へ食器を運ぶ時も、コナンは感謝の意味をこめて一言添えるようにしていた。

「ありがとう、コナン君」

 それに蘭はにっこりと応え、両手を差し出した。

「あら……」

 蘭の表情がふと変わる。視線をたどると、右の袖口にたどり着いた。コナンは食器を持ったまま袖口を覗き込み、ようやく理由を知った。

 羽織った青いシャツの、袖口のボタンが取れかかっているのだ。残り二本になった糸で、辛うじて繋がってぶら下がっているのが見える。

「付けてあげようか。すぐだよ」

 受け取った食器をすすぎながら、蘭は言った。

「ううん、これくらいなら、帰ってきてから自分で付けられるから大丈夫だよ」

 コナンは応えながら、袖口の内側、結び目の玉を爪にはさみ引っ張って、急場しのぎに垂れ下がったボタンを締め付けた。こうしておけば、今日一日くらいはもつだろう。

「コナン君、器用だもんね」

 身の回りの事は一人で器用にこなしていた誰かに向けて、蘭がにっこりと微笑む。

「蘭姉ちゃんほどじゃないけどね」

「あら、今のちょっと嫌味混じってない?」

 洗い物を終え、冷蔵庫の横にかけたタオルで手を拭いながら、蘭は見上げる視線を横目で見やった。

「えー、そんな事ないよ」

 首を振りつつ、コナンは笑って後ろ向きに一歩ずつ逃げる。

「もう、コナン君!」

 逃げるという事は、肯定を表しているのも同じ。蘭は笑いながらコナンを追いかけた。

「わぁ、そんな事ないってば」

 追いかけ、逃げる勢いのまま二人は行ってきますと家を出た。

「こらぁ、もう!」

「ごめんなさぁい」

 賑やかに笑い声を響かせ、軽やかに階段を駆け下りる。

 

 

 

「あ、コナン君ボタン取れかかってるよ」

 給食の時間になり、いつものメンバーで席についてわいわいと食事の最中、コナンの向かいに座った歩美が気付き声を上げた。

「ああ、これな」

 牛乳の四角いパックに伸ばしかけた手をはっと引き寄せ、コナンは朝と同じように内側から糸を引っ張った。

「家に帰ったら付けるよ」

 言ってからしまったと、後に続く言葉を覚悟して口を引き結ぶ。けれど予想に反して、歩美はきらきらと目を輝かせ羨むように言った。

「すごーい、コナン君お裁縫出来るの?」

「あ、ああ……」

 年齢が違うとこうも反応が変わるものかと、少々面食らいながら頷く。何せ今まで、男子で裁縫が出来ると言って返ってくる言葉はほとんどが冷やかしだったから、彼女の素直な感想は中々新鮮だ。

「いいなあ。針は危ないからまだダメって、お母さんお裁縫箱触らせてくれないんだよ」

「器用なんですねえ、コナン君」

 続く光彦の言葉も、少々こそばゆいが悪くない。

「さすがオレの子分だな」

 得意げに胸を張る元太には、いつものごとく苦笑いだが。

「それ、思い切って取っといた方がいいわよ」

 すると隣に座った哀が、半分に割ったパンにジャムをつけながらそう言葉を挟んだ。

「いつの間にか取れてなくなってたら、困るでしょ」

「ああ、そうだな……」

 もっともだと軽く頷きながら、スプーンに伸ばしかけた右手を引き寄せようとした時、角トレイの縁に引っかかりボタンはあっけなく弾け飛んだ。

「あっ……」

「……ね」

 ポーンと弧を描いてコナンの足元に転がったボタンから顔へと目を上げ、哀はくすりと笑った。

 渋い顔で笑い、コナンは落ちたボタンを拾い上げた。

 

 

 

 事務所に帰り着いたコナンは、二階を素通りしてまっすぐ三階へと向かい、渡されている合鍵で玄関を開けた。

「ただいま」

 少々重い扉を引いて入り、靴を脱ぎながら習慣になっている一言を落とす。

 もちろん、誰も応える者はいない。

 家主は恐らく二階の事務所で昼寝中、蘭はそろそろ帰ってくる頃。

 コナンは背負っていた鞄をリビングの隅に置くと、まっすぐ、裁縫箱がしまってある大きな戸棚へと向かった。

「……あれ」

 下の引き戸の右側が定位置なのだが、今はぽっかり空間があるだけで裁縫箱は見当たらなかった。念の為左も探すが当然あるはずもなく、コナンは頭をかきながら引き戸を閉めた。

 しゃがんだまま戸棚を見上げる。上の棚は小五郎のスペースで、普段の言動からは想像もつかない書物…法律に関する分厚い本が何冊も並んでいた。

 しょうがない、蘭が帰ったら聞いてみるか

 ため息に肩を上下させ、鞄を手に部屋に入って着替える。

 胸ポケットにしまっておいたボタンを確認し、脱いだシャツを持ってコナンは二階の事務所へと下りた。来客がないか一旦扉の前で確認し、伸び上がってドアノブを掴む。

 静かな事務所内では案の定、窓際の席で小五郎が昼寝をしていた。

 どんなに蘭が掃除をしても、元通り物とゴミで埋め尽くせる小五郎のある種の才能に、乾いた笑いをもらす。

 電話の傍に置かれた灰皿は山のように吸い殻が積まれ、周りにも点々と灰が零れ落ちていた。その横には、さっさとゴミ箱に捨てればいいのに、一ひねりに握り潰された煙草の空き箱が二つ三つ転がっている。その間を縫うように置かれた赤や青の鉛筆が、一見無意味なようでどこか奥の深い芸術さながらに絶妙のバランスを取っていた。

 直前までチェックしていたのか、まるで何か塗装でも始めるかのごとくデスク一面に広げられた競馬新聞の上に突っ伏して、背中から当たる陽射しに包まれ気持ち良さそうに眠っている事務所の主に、コナンは呆れを通り越して感心の意味を含んだため息をついた。

 

 相変わらずだな……

 

 とはいえ、日本中に名を轟かせる名探偵になってからは、このだらしなくも優雅な時間は随分減ったが。

 しばし眺めた後、蘭が帰るまでの時間つぶしに雑誌でも読んでいようとソファに腰掛けた時、何気なく向けた視線の先、正面の戸棚に、探していた裁縫箱はあった。

 おっちゃんのシャツか何か、ボタン付けでもするのでここに持ってきて、そのままここに置いてしまったのだろう。

 ため息に笑みを混ぜてそう推測する。

 コナンはばさりとシャツをソファに放ると、椅子を取りに奥のキッチンへと向かった。

 戸棚と壁の間にしまってある折り畳みの椅子を一脚運び出し、戸棚の前で靴を脱いで乗り上げたところへ、蘭が帰ってきた。

「ただいまー……あ、コナン君ごめんね! この前お父さんのズボン直すのでここに持ってきて、そのままだったんだ」

 そう説明し、蘭は脱いだコートと鞄をソファに置くと足早にコナンの横に並んだ。

「ううん、大丈夫だよ」

 推測通りだった事に小さく笑い、椅子の上で裁縫箱に手を伸ばす。

「ああ、取ってあげる」

「いいよ、自分で取れるから」

 戸棚の上に置かれた裁縫箱に、背伸びしてようやく手が届く。

「だって、また椅子から落ちそうになったら危ないでしょ」

 見るからに危ういバランスに見かねた蘭は、過日の失敗を冷やかしつつ裁縫箱に手を伸ばした。

 視界の端を横切る手に、瞬間的な怒りが爆発する。

「……いいっつってんだろ!」

 もううんざりだと、口から飛び出した自分の怒声に、自分自身はっとなる。びくりと強張る蘭の手に口を噤むが、今更なかったことには出来ない。

「あ……」

 さっと血の気が引く。

 強張った瞳をぎこちなく揺らし、コナンは再び口を開きかけ、すぐに閉じた。

 自分でも、今の一言がうまく説明出来ない。

 うっかり新一に戻ってしまったからだろうか。

 彼女のいつもの、少し過ぎたおせっかいではないか。

 本当に腹を立てたわけではない。

 ただうっかり、新一に戻ってしまったとしか言いようがない。

 秘密を守ってくれる彼女の前で、当の自分が。

 理由は――

「なんだぁ……」

 コナンの怒鳴り声に、小五郎が目を覚ます。

 間延びした声に二人、同時に窓辺を見やる。

 何が起きたのか理解していない呑気なあくびを、凍り付いた眼差しで凝視する。

 そこへ、事務所の扉をノックする音が割り込んだ。

 またも同時に振り返る。

 やや置いて開かれた扉から姿を現した来客を、蘭はぎこちなく迎え入れた。

「あ……どうぞ」

 強張りが抜けない顔に笑みを浮かべ、応接ソファへと促す。見やった先に自分の持ち物とコナンのシャツがあるのに気付き慌てて取り去ると、蘭は小五郎へと目配せした。

 今目を覚ましたばかりだがどうやら頭の切り替えは出来たようで、小五郎は緩めていたネクタイを直しながらソファへと移動した。

「先ほどお電話いただいた、相楽さんですね」

「はい、失礼します」

 来客は二十代半ばの小柄な女性で、やや緊張気味に小五郎に軽く会釈した。

「コナン君、椅子は片付けておくから……」

 かたい笑みでシャツを渡す蘭にぎくしゃくと頷き、コナンは裁縫箱片手に椅子からおりた。どことなく手足が重たい。うまく動けない。

 いつもなら条件反射的に湧いてくるはずの好奇心が、今はこれっぽっちも感じられなかった。

 すぐに謝って言葉を繋げていればとっくに流せていたのに、完全にタイミングを逸してしまった事が、相当堪えていた。

 椅子を抱え、コーヒーの支度にキッチンへと向かう蘭の背中を強い顔で見送り、コナンは手にしたシャツをぎゅっと握りしめた。

 興奮材料となるはずの小五郎と依頼人の話し声が、今はまったく意味のない音の羅列にしか捉えられず、まるで頭に入ってこない。

 二人の脇をひっそりと、足音をひそめてコナンは立ち去った。

 立ち込める濃い霧のように、手や肩に不快感が纏わり付く。

 どこから来るものか、もう分かっていた。

 どうすべきかも。

 あえて無視する。

 背後で閉まる扉の音に眼を眇め、コナンは三階へ続く階段を上った。

 

 

 

 単純な作業は、日常の細々とした雑多な思考から解き放ってくれる時もあれば、抜け出せない堂々巡りに引きずり込まれる危うさも秘めていた。

 不慣れであれば、適度な緊張感がそれを緩和してくれただろうが、目を瞑って手探りでも作業出来るほど手慣れた今は、どうしても、繰り返し湧く嫌悪や不快感から離れる事は出来なかった。

 仕方なく黙々と作業を進める。

 昼間弾け飛んで足元に転がったボタンは、今元通り袖口に縫い付けられた。シャツの色に極力合わせたつもりだが、他のボタンより少し糸の青が目立って見えた。

 とりあえず良しとする。

 糸と針を戻し、裁縫箱をいつもの場所にしまうと、コナンはその場に座り込んだ。しばらく経って、思い出したように息を吐く。

 ぼんやりと見上げた天井の向こうに、彼女の驚いた瞳が浮かぶ。

 後悔と苦悩が渦巻いて、途方に暮れていた。

 違うだろう

 彼女に何か非はあったか?

 ありはしない。

 子供扱いでもない。

 こだわっている自分こそが、子供だった。

 バカだったのだ。

 情けない――

 己がどれほどのものかを、今更ながら思い知る。

 無駄にしている、不甲斐無さに、ため息がもれた。

 どこからか湧いてくる「怖い」と思う気持ちが、肩にじわじわと圧し掛かる。

 振り払う気力もないまま、コナンは浮かんでは消える光景をぼんやりと天井に見つめていた。

 

 彼女が戻って真っ先にすべきは、許しをこうこと。

 その一言を。

 

 しかし意識するほどに言葉は口から出にくいもので、夕食時も片付けの間も、あれほど心に決めた一言の勇気はついにしおれたままだった。

 ぎこちないのは蘭も同じだった。

 強引に笑顔を浮かべ強引に言葉を繰り出し、不自然な日常を作り上げていた。

 そうさせているのは他でもない自分なのだが、水の中でもがくよりひどい息苦しさに、コナンは唇を噛むのが精一杯だった。

 いつものようにテレビの前に陣取り、贔屓のアイドル歌手に愛を込めて張り叫ぶ小五郎の姿がなければ、二人の間の拉がれた空気はどこまでも重く淀んでいった事だろう。

 ひたすらやかましい声が、少しの救いになる。

 同時に、ごまかしにも。

 部屋中に反響する小五郎の声に紛れて、コナンは隠し持った一言をついに出さず、蘭が部屋に引っ込むのを見届けた。

 眩しい陽射しによく似た大好きな笑顔は、朝、見たきり。どうすれば取り戻せるだろう。

 目の前のテーブルにいくつも転がる潰れたビール缶にぼんやりと視線を注ぎ、コナンは小さく口を開いた。

 

 

 

 うまく眠りにつく事が出来ないまま、蘭は窓の外が段々と白んでいくのを見つめていた。

 さっきまで真っ暗だった部屋の中が、次第に見えるようになってくる。遠く、鳥の声が聞こえる。

 蘭はベッドから起き上がると、椅子の背にかけたカーディガンを肩に羽織り部屋を出た。

 休日の今日は、いつもより遅い朝食を迎える。まだ準備をするには早く、水を一杯飲んだらもう少し寝ようと、キッチンに向かった。

 眠れなくても、ベッドに横になっていよう。

 そして朝がきたら、真っ先に彼に謝ろう。

 本当は昨日の内に渡すつもりだった一言が、胸の辺りを重くさせた。

 と、キッチンへ行きかけた蘭の足が不意に止まった。

 昨日ちゃんと消したはずなのに、明かりがついているのだ。

 入口からおっかなびっくり顔を覗かせ、目にした光景に、蘭ははっと息を飲んだ。

 そこには、椅子に座り、テーブルに広げた本をぼんやりと見下ろしているコナンの姿があった。パジャマの上にフード付のコートを羽織っているが、背を丸め俯いた姿は見るからに寒そうだった。

「……どうしたの? コナン君」

 驚く蘭の声に、コナンは弾かれたように顔を上げた。

 しばし目が合う。

「あ……ちょっと眠れなくて」

 少し引き攣った笑みでコナンが言う。

「リビングだと明かりが入って邪魔だと思ったから……」

「もしかして……ずっと起きてたの?」

「え、と……」

 言いよどむ様子から、一晩中ここにいた事を悟り、蘭は口を噤んだ。

「……蘭姉ちゃんは?」

「うん……水を飲もうと思って」

 しかしそう言ったきり、蘭は動かなかった。動けなかった。思いがけず訪れた一言のタイミングに面食らって、動けずにいた。

 コナンもまた、同じだった。

 互いの視線が、時折相手をかすめてはまた逸らされる。すれ違い絡み合う遠慮がちな眼差しはやがて、少しずつ距離を縮めていく。

 蘭はぎこちなく歩き出すと、コナンの横を通り過ぎ流しの前で立ち止まった。新しいタイミングを探すように、コップに汲んだ水を一息に飲み干す。

 窓の外で、鳥の声が近く聞こえた。明けていく空を颯爽と横切る小さな姿をしばし追い、蘭は振り返った。

 振り向き様に一言を出そうと、少し勢い付いて向きを変えると同時に、コナンが思いつめた表情で振り向く。

 はたと重なった視線に、蘭は息を飲み込んだ。考える間が出来た事で、覚悟を決めたはずの一言はあっけなく引っ込んでしまった。そして考える間が出来ると、この一言は間違っているのではないかと、堂々巡りに落ちていく。

 懊悩を振り払い、蘭は目を上げ思い切って口を開いた。

「昨日はごめんなさい……余計な事――」

「そんな事ない」

 遮るコナンの声が、蘭の胸に強く迫る。

「あ……ありがとうって言えなくて、ごめんなさい……」

 しぼり出すようなコナンの声が、沈黙に包まれる。

 よどみなく回り始めた今日の中、二人だけが置き去りにされたように動きを止めていた。

 半ば強引に渡した一言に深く後悔しながら、コナンはじっと蘭の唇を見つめていた。笑みが浮かぶのではないかと、儚く願う。傍らには、相変わらず得体の知れない不快感が寄り添っていた。

 嗚呼、まただ。

 自分…『コナン』として接する空気に、何故か「恐れ」が混じる。

 どうして……

 長い沈黙を破って、蘭は口を開いた。

「ねえ……ちょっと屋上出てみない?」

「……え」

 渡された提案に目を瞬く。

「外の空気吸えば……また気持ちも変わってくるよ」

 無理に浮かべた笑みからさりげなく視線を逸らし、コナンは頷いた。

 

 

 

 蘭は部屋からコートとマフラーを持ち出すと、遠慮がちなコナンの首に強引にマフラーを巻き屋上へと連れ立った。

 小さな手を引き、屋上へ出る鉄の扉を開ける。たちまち頭上に広がる、朝へと切り替わる清々しい空。

 西へ追い立てられる褪せた紫と、東からの淡い光、そして、琥珀を思わせる雲の群れ。風はなく、空気も穏やかであたたかい。

 コナンは、無意識の内に強張っていた肩から力を抜いた。いつの間にか、身体中が縮こまっていた。朝の澄んだ空気を吸い込んでようやく、それに気付く。

 隣では、蘭が同じように今日の空気を胸いっぱいに感じていた。

 自然と緩んだ彼女の口元に、コナンはしばし見とれ、振り切るように目を落とした。

 

 足元をじっと見つめ、そして、どうしても消せない「恐れ」に思い切って触れる。

 怖いのは、最後の最後まで彼女の負担になる事しか出来ない不甲斐無い自分と、優しい君。

 つまらないこだわりで時間を無駄にしてしまう事、思うより弱い心。

 それから、明日――

 

 はるか上空を、自分たちにはわからない言葉でお喋りしながら、二羽の鳥が軽やかに飛び去っていく。

 何気なく見送っていると、不意に後ろから抱き上げられ、驚くと同時にあたたかいぬくもりに包まれコナンは軽い混乱に見舞われた。

「ら、蘭ね……」

 木箱に座る蘭の膝に抱かれ、コートにすっぽりとおさまった自分の姿に言葉を失う。

 一拍置いてはっと我に返り、コナンは恥ずかしさから身じろいだ。

 それを、蘭は後ろからぎゅっと抱きしめた。

 柔らかさと間近の息遣いに、動悸が一気に跳ね上がる。

 コナンは指一本動かせず、じっと包まっていた。

 次第に心が落ち着いていく。こんなに近付いた事に照れくささもあったが、目を合わせていても遠く感じていたさっきよりは、寒さも息苦しさもなかった。

 

 今を無駄にしてはいけない

 弱いからと逃げてはいけない

 

 不快感…不安や恐れが、どこから来るものなのか、どうすればいいのか、もう分かっている。

 強い眼差しで空を見据え、コナンは意を決して言った。

「……あのね、蘭姉ちゃん――ボクね、蘭姉ちゃんと…お別れする時、ちゃんとさよなら言えないかもしれないんだ」

「え……」

「物事って、待ってる時は中々うまくいかないのに、なんでもない時に急に来たりするから……」

「………」

「……でもそれは本当に一瞬で、次はないかもしれなくて……だから、だから――」

「……うん」

 心から振り絞るコナンの声に、蘭は小さく、強く頷いた。

「うん……分かってるよ、コナン君。大丈夫、時が来るのはちゃんと分かってるから」

 そう言ってぎゅっと抱きしめる。腕に収まるほど小さな身体に、どれほどの力が秘められているかをあらためて知り、蘭は眦にまるく涙を浮かべた。

「だからこうして、一緒にいるんじゃない……」

 優しく包み込む腕が、柔らかなぬくもりをコナンに伝える。

「一緒に色んなところへ行って、一緒に色んなものを聞いて……」

 蘭は口付けの代わりに頬を寄せ、すっと目を上げた。

 澄み切った空に真っ白な光を放って、朝日が昇り来るのが見える。遠くには、夜と背中あわせの琥珀に彩られた淡い雲の群れ。

「一緒に、綺麗な朝焼け……見てる」

 コナンに、そして自分に言い聞かせるように、蘭はそっと囁いた。

「……ああ」

 触れ合って混じるぬくもりに目を閉じ、新一は小さく、しっかりと頷いた。

 二人、そこから先は言葉に出来なかった。

 

 戻ってくるよね

 必ず帰るよ

 

 漠然とした不安が、じわじわと染み込んでくるようで、口を開けなかった。

 それでも離れまいと強く寄り添い、二人は同じ空を見上げていた。

 互いの体温に身を任せ、朝焼けに染まる淡い琥珀色の雲を見送る。

 

 心の片隅でずっと恐れていた。

 この平穏な日に、必ず別れの時は来る。

 それは今日か。それとも明日か。

 もしかしたら今すぐにも訪れるかもしれない。

 以前の自分であったなら、それは真実に近付き真実を取り戻す為だけのものであって、誰をも恐れ脅かすものではなかった。

 けれど今は。

 今は。

 心の奥に根を張った安穏を揺るがすきっかけにもなりうるものに変わっていた。

 安穏は彼女がくれたもの。

 安穏は、恐れを抱く始まりとなったもの。

 けれど、だからこそ、尽きない力に変わるのだと、自分は思う。

 どんなに些細なものでも無駄なものなんてないと、言葉で、言葉以外で、彼女が繰り返し教えてくれたから。

 だから、彼女は強いのだ。

 移り変わる風の一瞬さえも心に留め、恐れる事無く真っ向から、時の訪れに立ち向かう強さを持っているから。

 

 もう一度誓おう。

 心に刻み込もう。

 時の訪れを受け入れまっすぐ進む君の元へ、必ず戻ると。

 約束しよう。

 いつかきっと、胸を張って帰るよ。

 

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