明日の桜を

 

 

 

 

 

 少し急な階段を、一段一段ゆっくり上る。

 二人分の足音に時々、こもった咳が絡むたび、後ろについた少年が「大丈夫?」と声をかけた。

「うん」

 背中越しの心配げな声にマスクの下で小さく頷き、ふうと息をつく。昨日より、今朝起きた時より、身体が熱っぽく感じられる。今しがた病院で診察を受け、点滴まで受けたのに、帰りに、無理を言って公園に寄ったのがまずかった…失敗だった。

 だから、気付かれないようにしないと。彼は勘が鋭い。些細な仕草や声の調子で、すぐに嘘を見破ってしまう。

 そうしたら、きっと、目を吊り上げて怒るに違いない。そして、自分を責めるだろう。そんな性格の人だから。

 わがままを言った自分が悪いのに、余計な心配はさせたくない。

「ごめんね」

 振り向き様にこりと笑えば、複雑な顔で見上げるコナンと目が合った。

 三階の扉の前で立ち止まってポケットから鍵を取り出し、カチャリとひねる。鍵をしまい、ノブに手をかける。いつもなら感じない扉の重さに足を踏ん張り、コナンを先に入れると、扉の開閉だけで少し息が詰まっている自分にマスクの下で小さく口を尖らす。

「ただいま」

 いつの時も忘れない短い言葉をもごもごと呟き、靴を脱いで上がる。

「お帰り。手を洗って、うがいしたら、パジャマに着替えてね。その間に、薬の用意しとくから」

 半歩離れた位置でコナンは応え、薬局でもらった薬の袋を片手に洗面所へと促した。

「はあい」

 素直に頷き、着ていたコートやマフラーを順番に脱いでハンガーにかけ、言われた通りに洗面所へと向かう。

 

 

 

 パジャマに着替えキッチンに入ると、テーブルの前に立って薬を確かめているコナンが目に入った。

 テーブルには、几帳面に揃えられた一回分の薬と、コップ一杯の水が添えられていた。

 適当なところはとことん適当なのに、こういう所はきちんと細かい。

 少しおかしい…嬉しくなる

「お薬ありがとう、コナン君」

「上に何か着なきゃダメだよ、蘭姉ちゃん」

「……はあい」

 すぐにベッドに入るからとパジャマだけで来たのを厳しく咎められ、小さく肩を竦める。

「薬飲んだら、ちゃんと横になるんだよ」

 心配そうに見上げる視線にこくりと頷き、薬を嚥下する。

「飲んだ? じゃあ、部屋に戻って」

 まるで追い立てるようなコナンに、自分はそんなに信用ないのかと渋い顔になる。

 …確かにその通りだけど

「大丈夫? ふらふらしない?」

「もう、そんなに心配しなくても大丈夫よ」

 今にも倒れそうな重病人に付き添うがごとく、傍ではらはらしながら見守るコナンに小さく吹き出す。

 季節の変わり目に少し風邪を引いただけ。薬も飲んだし、あとは寝ていれば自然に治る。

「そんな咳して大丈夫なんて言っても、説得力ないよ」

 枕元に立ち、少し怒った顔付きの少年に苦笑いで顔をしかめ、横になる。

「これは…ちょっとむせただけよ」

 適当に言い繕っても、彼はすぐに見破ってしまう。

 困ったようなため息が一つ、聞こえた。

「……ちゃんと寝てね。リビングにいるから、何かあったらすぐに呼んで」

「うん、ありがと」

 戸口で振り返り、念を押すコナンに小さく手を振る。

 音もなく、扉は閉まった。

 一拍置いて、大きく息を吐き出す。

 余計な心配はかけまいと抑えていた痛みが、重くなった手足に更に圧し掛かる。

 ベッドに身体が沈んでいくような不快な錯覚を振り払うように、目を瞑った。

 すぐに良くなるから、そんなに心配そうな顔しないで

 部屋を出る間際に見た不安げな顔にそう呟き、小さくため息をつく。

 疲れた身体は、すぐに眠りへと落ちていった。

 次第に白く包まれていく目の奥の視界を、ぼんやりと見送る。

 

 

 

 はっと目を覚ました時、一瞬、自分がどこにいるのか、何故寝ているのか掴みきれず戸惑う。

 時計を確かめてようやく理解し、起きかけた身体から力を抜く。

 横向きのまましばらく、時計の秒針の音をぼんやりと追う。それからゆっくり、仰向けになる。

 部屋の中は、とても静かだ。

 扉の向こうに耳を澄ませても、物音一つしない。

 

 ……寝ちゃったかな

 

 天井を見上げたまま、一つ二つ、瞬きを繰り返す。

 薬を飲んだからといって劇的に回復するわけもなく、身体は相変わらず重かったが、頭の奥に住み着いていたズキズキするような痛みはすっかり薄れていた。

 良かった

 額に手をやり、次いで喉をさする。

 再び横向きになると、その拍子に腹がぐうと音を立てた。

「あ……」

 誰もいなくて良かったと一人赤面する。

 

 ……もうお昼過ぎてるんだものね

 

 もうすぐ一時になる時計を見やり、起きようか迷う。

 何かあったら呼んでと彼は言っていたが、今の調子なら少しくらいキッチンに立っても大丈夫そうに思えた。

 

 ……冷蔵庫、何があったかな

 

 思い出しながら起き上がり、また怒られないで済むようカーデガンを羽織る。

 立つと少し頭がふらついたが、何も食べていないせいもあるからと一人納得しドアノブに手をかける。

 そこでふと足元に目がいった。裸足はきっと、怒るだろう、靴下もはいておくべきと、チェストに手を延ばす。

 寝乱れた髪を梳きながら、眠っているかもしれない彼を起こさないよう、そっと扉を押す。

 様子を伺うより早く、コタツを挟んで扉の正面に座っていたコナンが声を上げた。

「どうしたの? どこか具合悪い?」

 心配のあまり険しい顔付きになるコナンに一瞬驚き、笑って首を振る。

「…お腹空いちゃったから、何か作ろうかと思って」

 今にも鳴りそうなお腹を押さえぼそりと呟けば、コナンはすぐさま立ち上がり電話機の前に吊るしたメニューの束を指差した。

「ダメだよ、具合悪いのに。下のポアロで何か頼もう」

 言うが早いかテーブルにメニューを置き、その前に座るよう促す。

「ああ、うん。そうね」

 手を引かれるままコタツに入り、メニューを覗き込む。

「消化のいいものにしなね」

「はあい、分かりました」

 釘を刺すコナンに、ふと笑う。

「じゃあねえ……」

 

 

 

 食べたいものが決まると、また半強制的にベッドに押し込まれた。

 起きているとそれだけで体力を消耗するから、少しの間も横になっているように。

 少し厳しくも感じるコナンの気遣いに素直に感謝し、ベッドの中で届くのを待つ。

 やがて聞こえたチャイムの音に、出て行こうとするより早くコナンが戸口から顔を覗かせ制した。

 

 ……もう、ホントに心配性なんだから

 

 笑いながら肩を竦める。

 少ししてまた扉が開き、コナンが入ってきた。

 まず持ってきたのは、タオルだった。

「上、ちゃんと着てるね」

 確かめる声に頷き、カーデガンの肩の辺りを押さえる。

 持って来たタオルはどうするのかと見守っていると、広げて手渡しながらコナンは言った。

「零してもいいように、これ、膝にかけて」

 その為のものかと、細かな気遣いに目を瞬く。

「ありがとう、コナン君」

「寒くない?」

「うん、平気よ」

 心配そうに覗き込む視線に笑みを返す。こんな時に、頼れる人なんだとあらためて思う。でも、そんなに気を使われると、どこまでも甘えてしまいたくなる。

 準備を整えると、コナンは一旦扉の向こうに消え、すぐに、昼食を乗せたトレイを運んできた。

「ベッドの上でいい?」

「うん、お願い」

「蘭姉ちゃんが風邪引いているって言ったら、ポアロのマスターがね、色々おまけしてくれたんだ」

「え、そうなの? なんだか悪いな」

「うん、いつもお世話になってるからそのお礼にって。お大事にって言ってたよ」

「そう、じゃあ、治ったらお礼に行かなくちゃね」

「だね。食欲はあるの?」

「うん、見たらもう、すごいお腹すいてきちゃった」

「良かった。食べればすぐに良くなるよ」

「そうよ。いただきまぁす」

 

 

 

「ごちそう様でした」

 ちょうど良い味付けに感謝して残さず平らげ、小鉢とレンゲをトレイに戻す。

「全部食べちゃったね」

 少し驚いた口ぶりのコナンに得意げに笑いかけ、大きく頷いてみせる。

「良かった。じゃあ、薬飲んだらまた少し眠るといいよ」

「ええ、うん……」

 歯切れ悪く応える。含む何かを感じ取ったのか、コナンは振り向きぴしゃりと言った。

「起きて本なんか読んでたら、ダメだからね」

「……はぁい」

 やっぱり、お見通しだ。渋々応える。

「今薬持ってくるから」

「あ……コナン君」

 出て行こうとするのを呼び止めるが、戸口で立ち止まり振り返る顔を見てしまうと、喉まで出かかった言葉はあっけなく引っ込んでしまった。

「……片付け、ごめんね」

 仕方なく、別の言葉を繋げる。

「そんなの、気にしないで」

 笑う彼に、曖昧に頷いて返す。

 静かに、扉が閉まった。

 途端にシンとなる部屋が、ため息を誘う。

 今までお喋りして賑やかだった分、余計静かに感じる。

 

 ……気が弱ってるのかな

 

 傍にいて欲しいと思う自分に苦笑い。でも、涙が滲む。なんでもない事がやけにこたえる。

 弱気になる自分はいやなのに、引きずられてしまう。

(早く元気になろう)

 そうすればいつもみたいに笑える。

 もう一度ため息をつくと同時に、扉が開いた。

 反射的に顔を上げる。

 薬と水を持ってきてくれたんだよね。でも、それを飲んだらまた一人で静かに寝てなくちゃいけない……

 

 部屋に一人で

 

 憂鬱になりかけた時、近付いてくるコナンの小脇に分厚い本が挟まっているのが目にとまった。

 ……本?

「はい、蘭姉ちゃん。錠剤が二つにカプセルが一つ」

 そう言って差し出す手から薬とコップを受け取る間も、小脇に抱えた本から目が離せない。

 気もそぞろに薬を飲み干し、コップを返す。

「食欲もあるし、薬も飲んだから、もう大丈夫だよ」

「うん……ねえコナン君、その…本は?」

 おっかなびっくり小脇の本を指すと、さも当然とばかりに彼は言った。

「ここで読もうと思って」

 答えに目を見開く。

「何かあった時に呼びに出るの、大変でしょ、それに、目を離したら蘭姉ちゃん、ちゃんと寝ないかもしれないし。静かに本読んでるから、蘭姉ちゃんは寝てていいよ」

 全てお見通しだった事に、言葉を失う。なんだか悔しいけど、それ以上にすごく嬉しい。言わずに避けてくれる気使いや、選んだ言葉に、感謝の気持ちが溢れてくる。

「うん……」

 さっきとは違う涙が、少し滲んだ。やり場に困って何度も瞬きをする。

「コナン君、優しいね。それって……コナン君だから? それとも……」

 新一なの?

 言ってから、しまったと口を噤む。

 ……やっぱり、気持ちが弱くなってるみたい。

 どうしても聞きたいと思ったけれど、本当は、ずっと前からわかっていたもの。

 しばし続く沈黙に、視線が落ちていく。端に映る彼は、どんな顔をしているだろう。

 目を合わせるのが怖い。

 やがてぽつりと、呟きが届いた。

「……両方だよ」

 優しく差し伸べられた一言が、身体の奥深くに染み込んでいく。

 みるみる胸が熱くなり、自然と笑みが浮かんだ。

「ありがと……」

 目を閉じて、しっかりと飲み込む。

 いつも一番近くにいる人がくれる、変わらない優しさを。

 

「さあ、横になって」

「……うん」

「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん。明日には元気になってるから」

「そうだね」

「そしたら、また明日一緒に桜見に行けるよ」

「え…うん……!」

「じゃあね、おやすみ」

「ありがと…コナン……君」

 

 励ましの代わりに握りしめる小さな手を、強く返す。

 こんなにも心強いなら、きっと一生離さない。

 どんな遠くへも、きっとたどりつけるだろう。

 明日の桜には、何が見えるのかな

 

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