同じ高さで

 

 

 

 

 

 気付いたのは、夕飯の支度をしている時。

 二つ三つ、喉にこもった苦しそうな咳が耳に届く。

「大丈夫、蘭姉ちゃん。風邪?」

「ああ、うん…ちょっとね」

 見上げる先で蘭は何でもないと肩を竦めるが、目じりや頬にはっきりと症状は表れていた。

 何よりもその咳が、心配を誘う。

「大丈夫よ。さあ、もうすぐ出来るから待ってて」

 気を遣わせないよう明るく振る舞う様にとりあえず口を噤み、リビングに向かう。

 

 こういう時に限って、おっちゃんいねーんだよな……

 

 テレビの前に陣取り、ビール缶片手に騒ぐ大人の姿を思い浮かべ、やれやれと肩を落とす。

 

 まあ…いない方が蘭も、余計な心配しないで済むから良しとするか

 

 麻雀仲間に誘われ、小旅行に出かけていった小五郎にほんの少し感謝する。

 

 

 

 夕食の支度を手伝いテーブルに箸や小皿を並べていると、また蘭の咳が聞こえてきた。

 季節の変わり目は、何かと変調を来たし易い。

 日ごとに変わる寒暖の差に、体調を崩したのだろうか。

「蘭姉ちゃん、具合悪いなら、病院行った方がいいよ。明日土曜日だけど、新出先生のトコならやってるし」

 リビングの戸口に立ってそう声をかける。

「平気平気。これくらい、一晩寝れば治るから」

 蘭は振り返らずに、明るく言った。

 半ば予想通りの答えに、大きくため息をつく。

「無理しちゃ駄目だよ、蘭姉ちゃん。明日も具合悪かったら、ちゃんとお医者さん行きなよ」

「大丈夫だって」

 

 どうしてこの女は、こうも頑固なんだか……

 

 呆れても、彼女の抱える欠けた物を思うと、どうにもやるせない気分になる。

 何かにつけ無理をしてでも歩き続ける彼女の出発点には、父と母の間にある細い糸を繋ぎ合わせたいという願いがある。

 今は空回りでも、いつか再び繋がる日の為に、彼女はどんなに細かな事でも拾い上げ歩き続ける。

 それが時に、傍目には意固地に映る。

 分かってるから、余計心配に思う。

 肩を竦め、リビングに戻る。

 

 しょうがない。明日は、無理にでも医者に連れて行くか

 

「お待たせ。さあ、ご飯にしましょ」

 強張った顔で笑う蘭に、苦労しそうだと苦笑いを一つ。

 

 

 

 迎えた翌朝、布団の中で喝を入れる。

 作戦は十分に練った。

 幾度となくシュミレーションを繰り返し、どんな展開にも応えられるよう完璧に組み立てた。

 朝ご飯を食べさせたらとにかくまず着替えさせ、防寒対策は充分に、必要ならば手袋帽子も追加して、最後にマスクを……

 そこまでしても、彼女を医者に連れて行くのは相当苦労がいった。

 四苦八苦の末新出医院にたどり着いた時には、自分もついでに診てもらおうかと冗談交じりに思ったほど。

 しばらく経ち、呼ばれて診察室に向かう蘭の背中にようやくほっと息をつく。

 後は薬を処方してもらって、薬局寄って……

 静かな待合室で、持て余す時間の中ぼんやりと考える。

 後ろの長椅子では、順番待ちをする親子の抑えた声…絵本を読み聞かせる静かな声音が、心地好い眠りを招き寄せる。

 うとうとしながら蘭の戻りを待つが、十五分が三十分になっても、まだ彼女は診察室から出てこない。

 けれど診察患者は滞りなく呼ばれ、診察室に入っては戻ってくる。

 何か、特別な処置でも受けているのだろうか。

 後ろで絵本の読み聞かせをしていた親子が、会計を済ませ帰っていく。

 しばし見送り、募る心配と不安に受付へと行きかけた時、別の扉から蘭が姿を現した。

「ありがとうございました」

 軽く頭を下げて戻ってきた蘭は、ここに着いた時に比べると幾分顔に赤味が戻って見えた。

「ごめんねコナン君、心配したでしょ」

「ううん、点滴受けてたんだね」

 左腕を庇う仕草から悟りそう口にすると、蘭は少し驚き、さすがとばかりに微笑んだ。

「うん、お陰で大分楽になったよ」

「良かった。先生には何て言われたの?」

「うん、あー…静かにして寝てれば治るって」

「それだけ?」

 一瞬口ごもったのを見逃さず追及するが、彼女は笑ってはぐらかすばかり。

 

 ……ったく、しょーがねーな。ま、あとで薬を見てみるか

 

 余程特殊でなければ、処方された薬からある程度病状は判別できる。

 蓄えた知識はこういう時にも役立つものかと、小さくため息をつく。

 

 

 

 帰り道、行きと同じくなるたけ車の通りが少ない裏通りを選んで家路につく。

 薬局に寄った後、細い路地を抜け、米花公園の脇を通って帰宅――のはずが、思わぬ展開に遭遇する。

「…ねえ、少しだけ寄っていい?」

 少し強めの風に流され、通りの真ん中にまでたどり着いた桜の花びらに誘われたのか、蘭はそう言って米花公園を指差した。

 風邪を引いて熱が出て、診てもらった先の病院で点滴まで受けた帰りにそんな事を言い出す彼女に、思わず目を見開く。

「五分だけ、一回りするだけでいいから、ね」

 有無を言わさぬ蘭の強引さに、仕方なくついていく。

「寒くない、蘭姉ちゃん」

「うん、大丈夫」

「じゃあ…歩き回ると疲れるから、あそこのベンチに座って」

 繋いだ手の熱さにハラハラしながら、銅像の脇にあるベンチの一つを指差す。

 言う事を聞かなければ無理にでもと手を握りしめるが、意外にも素直に、蘭はベンチに腰かけた。

 

 ったく、人の気も知らないで……

 

 ニコニコと、嬉しそうに桜を見上げる蘭に恨みがましい視線の一つも向ける。

 何も今無理をして見る必要もないだろうに。

 ベンチの傍に立って、五分をカウントする。

 

 どうせ、五分で気が済むわけないよな……

 

 彼女の性質はよく知っている。

 知り尽くしている。

 無駄と思いつつも、五分経過を知らせてみる。

「うん……」

 案の定、未練がましい声が蘭の口からもれた。

 ここで負けてはいけない。

「もう行くよ……蘭姉ちゃん!」

 言う事を聞かない蘭に焦れて、少し語気を荒げる。

「お願い、もう少しだけ…ダメ?」

 すると蘭は両手を合わせ、覗き込むように小首を傾げた。

「そ……」

 そんな顔しても駄目

 喉元まででかかった言葉は、続く蘭の一言であっさり崩れ去ってしまう。

「お願い……コナン君」

 熱で潤んだ弱々しい瞳が、期待に煌めきまっすぐ向かってくる…そんな顔でそんな声で、お願いしてくるなんて――反則だ。

「じゃあ…あと少しだけ」

 どこまでも謙虚に、けれど有無を言わさぬ強さでお願いされては、聞くより他に道はない。

「ありがとう、コナン君」

 全身で喜びを表現する彼女は、何より綺麗だ。

 そんな彼女に逢いたくて、折れるのはいつだって自分の方。

 嗚呼、未来が見える

 先の事は分からない、けれどこれだけははっきり見える。

 尻に敷かれる事はなくとも、真の主導権はいつだって彼女が握っているだろう未来が。

 なんとも複雑な気持ちを抱えたそのすぐ後に、視界の端を長い黒髪がさらりと撫でた。

 驚いて見やる隣には、しゃがみ込んだ蘭の姿。

「……え」

 突然の事に、思わず一歩身体が退く。

 蘭は嬉しそうに目じりを下げ、ふふと微笑を零した。

「コナン君と同じ高さで見たかったから」

 ベンチからおりて、隣に寄り添う蘭の理由に一瞬呆気に取られる。

 分かる

 分からない

 そんな些細な事で。

 なのにどうして顔がにやけてくるんだ。

 どうして、取るに足らないきっかけがこんなに嬉しく思えるんだ。

 ただ並んで、同じ高さで、桜の花を見てるだけ。

 少し風が強い。

 そして冷たい。

 でも君は、吹かれる髪も気にせずじっとただじっと、舞い散る桜を見上げている。

 ただ並んで、同じ高さで。

 息を吸うタイミングも瞬きの回数も違うのに、同じ桜を見ている。

 何かが突き抜けて空高く上っていくのをぼんやりと感じていると、指先にあたたかいものが触れてきた。

 やけに柔らかいそれにひどく驚くと同時に理解し、遠慮がちに触れてくる手をぎこちなく握り返す。

 初めて彼女の体温を知ったような、新鮮な衝撃。

 また、顔が緩んでくる。

 こんな些細なものでいいんだと伝えてくる手のひらが、何よりも愛しい。

 込み上げてくる幸せに少しの気恥ずかしさを混ぜて強く握りしめる。

 

「そろそろ帰ろうか」

「うん……わがまま聞いてくれてありがとね、コナン君」

 満面の笑みが眩しい…照れ臭くて、思わず下を向く。

「か…帰ったら、ちゃんと大人しく寝るんだよ」

「はい、わかってます」

 反省しているようでどこかいたずらっ子のように笑う声が小憎らしくて、呆れながら見上げればそこには――百年かかっても勝てない無敵の微笑み。

 もう、笑うしかない。

 

 明日には治っているように、心を込めて尽くすよ。

 元気になった明日また、同じ高さで未来を見よう。

 

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