メッセージ |
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夜に、白い鳥が飛ぶ。 蒼い月の光をその羽根に浴び、まっすぐに。 捕らえた獲物を懐に隠し、追うものたちをぐんぐん引き離して。 夜に、白い鳥が飛ぶ。 風に乗り風に導かれ、軽やかに逃げおおせる白い鳥を、青く輝く瞳が見送る…鋭く。 |
そびえるビルを眼下に、キッドは風に乗って飛び続けた。 器は七歳の子供だが、その内側にはとんでもない人物が隠れている。 噂、新聞記事、それらでしか触れた事のない、夜の自分にとってもっとも厄介な人種。 迷宮なしの名探偵、工藤新一。 もっとも、今はその名では呼べないが。 直接逢った事のない人間の過去を調べるのは、限界がある。 決して明るみにしてはならないと、本人が奔走しているのだから、尚更だ。 無関係の自分が得られた情報は、大きな危険の向こうにいる人物、という事くらい。 誰にも暴かれてはならない秘密を抱えているという点では、自分と彼は同じだ。 敵同士だというのに、そんな共通点があるなんて――奇妙な巡り合わせだ。 本当に奇妙な、運命というもの。 顔の輪郭、目鼻立ち、声。 造らなくてもわからない程に、彼と自分は似ている。 とはいえ、七歳の頃の自分は、彼ほど賢い顔立ちではなかったが。 びょうびょうと吹き付ける風の中、取り留めなくそんな事を考えていると、顔をなでる下からの赤い光に気が付いた。 全身に緊張が走る。 ハンググライダ―を操る手に意識を集中し、光のもとを探す。と、今さに通り過ぎるビルの屋上からそれが放たれているのだとわかる。 目を凝らす。 怪盗キッドが狙う『ビッグジュエル』を、ある目的で探し続ける謎の組織…彼奴らの追跡かと息を詰めるが、屋上に見つけたのは、髪の長い、一人の少女だけだった。 更に目を凝らし、別の意味で息を飲む。 過日の出来事――まるで夢のような…たった三人で空に取り残されたたくさんの命を地上に戻したあの日の記憶が、身震いとともに甦る。 何かのシグナルのように、赤い光を放ち遮り点滅を送り続ける少女の元へ、キッドはハンググライダ―を操った。 近付くにつれ、どこかほっとしたような、複雑な表情を浮かべる彼女の顔がはっきりと見てとれた。 翼をたたみ降り立つ時、彼女はあえて背中を向け、迎えた。 |
「……こんばんは、お嬢さん」 |
背中を向けたまま微動だにしない少女に向かって、キッドは軽やかに声をかけた。 高層ビルの屋上は風が強く、彼女の長い髪は揺れて乱され、不安定に踊っていた。 赤い光…呼んでいると、何故自分は思ったのだろう。 ここに降り立ち声をかけてから、キッドは自分自身に問いを投げかけた。 彼女からの返事は、まだない。 近付くべきか、言葉を続けるべきか。 束の間逡巡し、口を開く。 「……夜の、散歩ですか。ここから眺める夜景は、中々に美しいものですね」 風に遮られ声は届かないのか、背を向けて立つ少女は、背後の自分などまるで存在していないとでもいうかのように、まっすぐ前を見つめたまま、動くことをしない。 まっすぐに、ただ立っているだけだというのに、彼女のまとう雰囲気は動く事がためらわれるほど強い威圧感に満ちていた。 背中を向けていて良かったと、密かに思う。 もし目を合わせたならば、自分などひとたまりもないだろう。 |
「……こんばんは、怪盗キッドさん」 |
やがて唐突に耳に届いた声に、息をするのもためらわれるほどの緊張感を抱く。 「どうしても伝えておきたい事が…お願いしたい事があって…無理に呼び止めてしまって、すみません」 搾り出すような、震える声。 「いいえ、他ならぬあなたの為なら、これくらいは」 平静を装おうと自らを叱咤し、懸命になって言葉を続ける少女に、キッドも同様の身震いを味わう。 それを悟られぬよう声を作り、先を促す。 「それで、どのような事でしょう。私に出来る事ならなんなりと」 彼女の身体が、一瞬大きく震えた。 痛いほどの緊張感が、ひしひしと伝わってくる。 ここへ、たった独り、来たのだ。 きっと誰にも告げずに。 押し潰されそうな覚悟を抱いて。 きっとそれは その理由は 「……もう二度と、工藤新一の姿になるのは、やめてもらえますか」 低い、凛とした声が夜の風に乗って、耳に届く。 キッドはわずかに目を見開いた。 「……先日は、不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」 背を向けたままの相手に腰を折り、深く頭を下げる。 これは本心だ。 ずっと胸に引っかかっていた。 自分の仕事を滞りなく進める為に、彼女の想いを程度はどうあれ侮辱した。 しかし少女はその謝罪の言葉を、即座に否定した。 「そんなのは、いいんです。そんなんじゃありません……新一を守る為です」 続く彼女の言葉に、驚きを隠せない。 瞬きも忘れ、キッドは少女の背中をじっと見つめた。 「私のすぐ傍で、いつも私を守ってくれる、新一を守る為です」 強い眼差しを虚空に向け、少女はきっぱりと告げた。 気付いていないのだと思っていた。 気付いていない振りをしていたとは、思いもよらなかった。 だとしたら 「……あなたは、知っていたんですね。彼…江戸川コナンが工藤新一であると――」 |
「言ってる事が、よくわかりません」 |
遮るようにして、力強く、言葉を挟む。 彼女はすべてをわかっていて、道を選んだのだ。 彼の嘘偽りを包み込み、守る道を。 「あなたがどこまで工藤新一を調べたのか、私にはわかりません…そして、本当ならこんな事をお願い出来る相手ではない事も承知してます…でも……」 しばし、言葉が途切れる。 何をどう伝えるべきか迷う痛いほどの沈黙が、ややあって続いた彼女の澄んだ声によって打ち破られる。 |
「コナン君は、コナン君です」 |
束の間目を伏せ、目を上げて、彼女は言った。 いつも自分の傍で自分を見つめ、危険から守ってくれる小さなその人の視線と目を合わせるように、見上げてくるその眼差しから勇気を得るように、顔を伏せ、顔を上げ、わずかに微笑んで。 「彼は私を、命がけで守ってくれる。だから私も、命をかけるんです。命がけで、守ります。彼が抱える秘密を。私は、彼が告げない限り、一生、彼を新一と呼ぶ事はありません。彼はコナン君です。それ以外の誰でもありません。私を命がけで守ってくれる、彼はコナン君です……言いたい事は…これだけです」 一際強い風が二人の間を吹き抜け、長い髪を、白い翼を、試すように煽った。 身体ごと持っていかれそうな強い脅威にも、彼女はわずかも揺らぐ事無く立っていた。 長い長い静寂の後、キッドは口を開いた。 「……出来ない、と言ったら」 その一言に少女は、ゆっくりと振り返った。 「その時は、どんな事をしてでもそれを食い止めます」 強い決意を秘めた眼差しは、驚いた事に厳しさも鋭さもなくただ、澄んだ優しさに満ちていた。 「彼を守る為に…?」 「そうです」 迷いなく繰り出された言葉に、視線に、覚悟に、何も言えなくなる。 時に真実は残酷だ。 どんなに流されまいとしても、自分を見失いそうになってしまう。 そんな残酷な真実を知り、打ちのめされ、それでもしっかりと立っている彼らには、何者も敵うまい。 まっすぐに見つめる少女の前で、キッドはゆっくり跪き誓いの言葉を口にした。 「分かりました。あなたの想いに敬意を表し、私も、命がけで約束を守りましょう」 「ありがとう…ございます……」 心から安堵し浮かべた鮮やかな微笑に、息も忘れて見入る。 素性のわからぬ者にたった一人身を晒し、心から信じ、そして込み上げた微笑に、言葉など出ない。 たとえ真実に流され飲まれてしまったとしても、彼らは変わる事はないんだろう。 いつでも、自分の足でしっかり立っているのだから。 いつでも、周りには幸いが溢れているのだから。 |
信じる何かを、信じ続ける事が難しい今に。 三人で、立っているのだから。 |