約束

 

 

 

 

 

 風が冷たい。

 凍えそうだ。

 もうそろそろ今日も終わろうとしている、そんな時分に屋外にいるのだから当然か。

 

 グルグル巻いた青と緑が交じり合った鮮やかな色のマフラーに首を竦め、鼻の辺りまで埋めて、コナンはぶるぶると身体を震わせた。

 握ったドアノブが冷たい。今すぐ離したいが、静かに閉めなければ階下の人間に気付かれてしまう。

 氷のように冷え冷えとしたノブを右にひねったまま、慎重に扉を押す…完全に閉まったところでドアノブから手を離す。

 

「ああ、さみー……」

 

 思わず声がもれる。

 上着のポケットに突っ込んだ両手を握り締め、強張った肩を二度三度上下させる。

 

 これから彼女に電話するんだ――それだけで、随分心は弾んでくるが、十二月も終わりに近付いた夜中の空気には勝てそうもなかった。

 寒さで声が震える。

「ええい……」

 この電話で仕上げた。

 やっと終わる。

 この一週間、悩みの連続だった日々。

 それが、この電話で終わる。

 

 ポケットから取り出した携帯電話に目を落とし、コナンは大きく息を吐いた。

 もう一方のポケットには、変声機が入っている。

 後は電話をするだけ。

 何を、迷う事があるか。

 

 出来るなら、一週間前に戻りたい。

 それが無理なら、せめて三日、いや二日前でも構わない。

 

 柄にもなく自作のプレゼントを思い付いたのは、これはいい。本当は丸ごと記憶を消し去りたいが、彼女の喜ぶ顔が見たいと思ったのは嘘ではないし、我ながら良い思い付きだと、その時は感じたのだ。

 完成させるのに少々苦労した事も、彼女が笑ってくれるならと乗り越えられた。

 

 けれど…嗚呼

 

 やっぱり、渡すべきではなかった。

 今更後悔しても遅い。

 わかっている。

 もう既に、贈り物は彼女の手に渡ってしまったのだ。

 二つ折りのカードには、ただ一言『クリスマスおめでとう』と書いた。

 名前は書かなかったが、筆跡鑑定するまでもなく、彼女はわかるだろう。

 それが誰からの贈り物なのか。

 

 何で自分はこんなに悩んでいるんだ。

 さっきまで浮かれていたくせに。

 好きな女にプレゼントの一つや二つ贈ったって、何もおかしな事はないじゃないか。

 いつまでもぐずぐず言ってるんじゃない。

 

 町も人も建物も、その日の為のカラーに包まれ否応無しに盛り上がっていく賑やかな中、仲間に入れなくても大丈夫と、髪の長い女は楽しそうに音色に耳を傾けていた。

 その日を思って頬を染める親友に、励ましの言葉をかける。

 傍で聞いているのが辛い。

 それでも彼女は笑う。

 繋いだ手のぬくもりが痛い。

 響いてくる。

 聞こえない声を聞きながら、自分に何が出来るかと探し尽くした。

 

 一旦夜空を見上げ、コナンは再び携帯電話に目を落とした。左のポケットから変声機を取り出し、電話のボタンに指をかける。

 

 

 

 ガラス球の中で、音のない雪が舞う。

 机の上、小さな小さな限られた空間に広がる遠い異国の雪景色に、蘭は飽きもせず見入っていた。

 最後の雪のひとひらが、ふわり、ゆらりと舞い落ちる。

 嵐がやんだ。

 鮮やかな青い三角屋根に、のっぽの塔が一つ。建物の入口には小さな…大きなもみの木、傍には男の子が一人、もう一人、そして女の子が一人。

 思いを馳せる。

 広がる満天の星空、暖かい暖炉、集う人々、聖夜……

 自然と浮かぶ微笑みに頬を緩ませ、蘭は再び雪を降らせた。

 ガラス球に満たされた水の中、瞬くようにキラキラと光を反射しながら音もなく雪が舞う。

「スノーグローブ……すごく綺麗」

 半ば無意識に呟く。

「すごく綺麗だよ…新一」

 目の奥が熱くなった。

 

 こんな贈り物が届くなんて、夢にも思っていなかった。

 諦めとは違う、卑屈になっているわけでもない、今がただその時ではないからと皆と違う気持ちで過ごす特別な夜に、思いがけず届いたプレゼント。

 幾重にも敷かれたクッションの中には、名も知らぬ異国の景色があった。

 黒塗りの木の土台にガラスの球。中には雪景色の聖夜。

 真っ先に目を引いたのは、建物の入口に集う三人。

 男の子と女の子と……

 

 それからカードに気付いた。

 クリスマスツリーが描かれた二つ折りのカードには、ただ一言『クリスマスおめでとう』の文字。

 それだけで充分。

 名前なんかなくても、誰からの贈り物なのか分かった。

 名前を書かないところが、あの人らしい。

 そう…今は特に。

 それでも、精一杯の心を込めて贈り物をくれた。

 

 私からは、何もあげられないのに

 

 もう眠ってしまっただろう彼を、肩越しに小さく振り返る。

 

 明日、どんな顔で逢えば良いだろう。

 

 面と向かってありがとうはいえない。

 

 でも、どうにかして気持ちを伝えたい。

 

 少し切なくなった眼差しでスノーグローブを見つめ、蘭は再び手を伸ばした。

 その時。

 机の隅に置いた携帯電話から着信音が鳴り響いた。

 それまでの静寂に突然割り込んできた電子音に肩を弾ませ、蘭は無意識に時計に目をやった。

 もうすぐ今日が終わろうとしている。

 

 こんな時間に、誰?

 

 恋人と過ごし、浮かれた園子からの電話だろうと小さく笑いながら、蘭は手を伸ばした。

「はい、もしもし?」

 園子なら、少しからかってやろう……笑いを抑えながら電話に出る。

 

『よお、蘭。元気してっか?』

 

「!…」

 笑みはすぐに、驚愕に変わった。

 これ以上ないくらい瞳を見開き、左右を見回す。

 

 まさかそんな、まさか電話が来るなんて

 

 唇が震える。

 どうしよう。

 どうして?

 出来ないんじゃなかったの?

 大丈夫なの?

 ――なんて不意打ち。

 

 みるみる頬が熱くなる。

 

 そんな彼女を知ってか知らずか。

『クリスマスケーキ、食いすぎてねーか?』

 ははは、と軽快な笑い声が続く。

 

 変わらない声。

 何も変わらない。

 変わっていない。

 ……いつものように話す彼

 

「いーじゃない少しくらい。クリスマスなんだから」

 頭で思うよりすらすらと、言葉が口をついて出た。

 それが嬉しくて、つい頬が緩む。

「そっちこそ、こんな日にこんな遅くまで事件だなんて、御愁傷様!」

『相変わらず容赦ね―な……』

「あら、そう?」

『久しぶりに電話すりゃー……ったく、もうちょっと優しさってもんを持てよな』

「失礼ねー。私にだって優しさくらいあるわよ」

『へー。例えば?』

「誰かさんのの間抜けな声が聞けて嬉しいわー、って」

『……ニャロ』

「冗談よ、冗談」

 

 今度は蘭が軽快に笑う。

 

 なんのわだかまりもなく笑える自分が嬉しかった。

 彼の声が、空白を消し去ってくれた。たまらなく嬉しかった。

 こんなにも力をくれるのだと思うと、たまらなく嬉しかった。

 

『あのさ…蘭』

「なに?」

『その…また当分、連絡…できねーけど……』

「いいわよ、別に」

『……え』

「事件で忙しいんでしょ? わかってるわよ」

 

 本当はわかってないよ

 わかろうとしてるわけじゃないよ

 でもね……

 

『……悪いな』

 沈んだ声に、大げさな咳払いを一つ。

「悪いと思ってるなら、早く戻ってきなさいよね。大体、食事の途中で席を立つなんて、とんでもないマナー違反なんだから。しかもそのまま行っちゃうし。伝言役のコナン君、今にも泣きそうだったんだから。分かったら、早く戻ってきなさいよね」

「あんまり待たせすぎて、私がおばあさんになっちゃったらどうするの?」

「そうしたら新一、おじいちゃんよ」

 まあ大変!

 

 おどけた声で蘭は言った。

 

 心配させないように気遣っているのがよくわかる。

 少しでも長く話していたい、まだ切りたくない。

 そう言ってるようで、胸が痛んだ。

 けれど彼女は笑う。

 聞こえてくる信頼の証に、強く勇気付けられる。

 

『あ…と、いけない』

 何かを思い出した声に、もう終わりの時が来たのかとぎくりとする。

 良い意味で裏切られる。

 

『メリークリスマス…新一』

 少しはにかんだ、可愛らしい声に、頬が一気に熱くなる。

「……メリークリスマス」

 照れ臭かったが、どうにか返した。

 

『それから…プレゼント、ありがとう』

 心なしか、声が震えているようだった。

『これ、手作り……だよね』

 手に取って、まじまじと眺めながら言っているのだろう。光景が目に浮かぶ。

「……ああ」

 上出来だと、自信はあったが、あらためて言われるとまた恥ずかしくなってくる。

 

 どうせ、ガラでもない…そう言いたいんだろ。

 

『ありがとう……すごく、うれし……』

 不意に言葉が途切れた。

「え、おい……?」

 屋上だから、電波の入りは良い筈。

 間の抜けた勘違いに気付いたのは、消え入るような泣き声が聞こえてからだった。

『ちょっと待って……すぐに』

 すぐにとめるから

 続く彼女の言葉を、オロオロしながら耳にする。

 

 嗚呼、この間抜け

 

 額にげんこつをくれ、コナンは天を振り仰いだ。

 また、やってしまった。

 とんでもないへまをやらかしてしまったのだ。

 喜んでもらいたかったのに――この間抜け

 いっそ消えてしまいたい気分だ。

「蘭……ごめん」

 足元に目を落とす。

 

『なに……謝ってんのよ』

 囁くような声が、彼女の愛らしい微笑みを鮮明に思い出させる。強く胸に迫ってくる。

 

「いや…オレ……」

 気の利いた言葉の一つも出てこない。

 情けない……

 

『なになに? もしかして新一、困ってる?』

 まだ少し涙声で、なのにからかう口ぶりが、たまらなく愛しい。

 そして続く一言。

 

『もっと困りなさいよ。もっともっと困ればいいのよ。私の事思ってるって証拠、もっと見せてよ……』

 

 拗ねたような、甘える声…まいった。

「んだよ……欲張り!」

 思いがけず滲んだ目じりの涙を慌てて拭いながら、笑って言い返す。

 

 彼女のお陰で取り戻せた力が、みるみる全身に広がっていく。

 みっともなく萎れていた心が潤っていくのが、手に取るようにわかる。

 

『欲張りで悪かったわね!』

「お? 怒った怒った」

『なによ、もう!』

 小気味よいやり取りがなんともいえず心地好い。

 

『……ありがとう』

 そして不意打ち。

 

 ……嗚呼、この女は本当に

 

『ねえ、私……』

「どした?」

『新一に、何もあげられない……』

「なんだ。そんな事か」

『そんな事って――』

「オメーの声が聞けただけで……充分だからさ」

『うわ…キッザー!』

 間髪を入れずに返ってきた一言に、思わず顔がにやける。

 予想通りの言葉が気持ちいい。

 

「ホント言うとさ…一つ、あるんだ。欲しいものが」

『うん、何? 言って』

「ああ……あのさ」

 

 言葉を切ったきり、何も言ってこない新一に蘭は小首を傾げた。

「なによ。もったいぶらないで、早く言いなさいよ」

 嬉しい気持ちが滲み出して、自分でも恥ずかしくなるほど甘えた声になってしまう。らしくないと頬を押さえても、つい笑みが浮かんでくる。

 

 だって、やっぱり、新一と話すのは楽しい

 話せるのが嬉しい

 言いたい事はいっぱいあったけれど、今まで通り、いつものように話すのが一番楽しい。

 

『前言った事、取り消したいんだ』

「……え?」

 前に言った事、言葉自体すぐに浮かんできた。

 ――いつか必ず絶対に、死んでも戻ってくる……

 それを取り消す?

「新一……?」

『ああ……その……、何が何でも生きて、戻るから…もう少しだけ、待ってて欲しいんだ』

 途切れ途切れに告げられた言葉に、大きく目を見開く。

 それが――それが欲しいもの?

 

『必ず果たすから……』

 

『……わかった』

 小さく、強く、彼女は頷く。

 今まで何度も、言葉以外で交わしていたものを、はっきりした形で受け取る。

 枷だとか束縛ではなく、ただ約束という言葉で。

『しょうがないから、もう少しだけ待っててあげるわ』

 忘れずに一言憎まれ口を添える優しさが、今はとてもあたたかい。

「……ははは」

 

 静寂が、しばし続く。

 電話口から、風の音が微かに聞こえてきた。もっと話していたいけれど、これ以上冬の夜風にさらされるのは辛いだろう。

「……外は寒いから、早く戻ってきなさいよ」

「ううん、今のは独り言」

 すぐに打ち消し、カーテンの隙間から外をうかがう。

 ガラス越しに冷気が伝わってくる。けれど心はあたたかい。

 言葉ではっきり交わした約束が、心をあたたかくしてくれる。

 嬉しくて、嬉しすぎて、大声を出したくなるくらい。

 必死にこらえて、また今度と電話を切る。

 間際、忘れずに一言付け加えて。

 照れ臭くて上手く伝えなかったけれど、口に出来たので良しとする。

 

 携帯電話をしばし微笑みで見つめ、蘭はスノーグローブを振り返った。

 扉の向こうが気になったが、あえて知らん振りを決め込み、机の上の雪景色に視線を注ぐ。

 ほおずきのように真っ赤な顔で、蘭は異国の聖夜を優しく見つめていた。

 

 すっかり冷え切った身体をがたがたと震わせながら、コナンは一段一段静かに階段を下りた。

 油断すると、くしゃみが出そうだ。

 なのに心は火照っている。

 当然だ。

 最後の最後に、思いも寄らぬ贈り物を貰ったのだから。

 耳の奥で繰り返すたび、頬が燃えるように熱くなる。

 

『声が聞けて……嬉しかったよ、新一』

 

 照れ隠しにぶっきらぼうに伝ってくるところが、なんとも彼女らしい。

 ……オレ、今日眠れっかな

 額に手をあて、一人そっとにやける。

 

 彼女に負けず劣らず真っ赤な顔で、贈り物に感謝しながら

 

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