君という幸せ

 

 

 

 

 

 最近、少し蘭の様子がおかしい。

 

 

 最近といってもここ二、三日の事で、おかしいといっても、大きく違和感を抱くほどのものじゃない。どちらかといえば取るに足らないもので、気のせいと片付けてしまえるささいなものなのだが。

 朝、いつものように一緒に家を出て学校へ向かう道すがら、しきりにこちらの様子をちらちら伺って、それについてどうかしたのかと問えば、明らかにごまかし笑いを浮かべてなんでもないと首を振る。

 気のせいと片付けてしまえるささいなものだが、どんなに小さくても謎は解明したがる性質の自分には、無視できるものではなかった。

 

 そっちがその気ならと、一つ残らず目を凝らす。

 

 朝の風景。食事時の会話に不自然なところはなかった。ただ、前夜睡眠が足りなかったのか、少し目が腫れていた。これについては問いただした。もちろん、ごくさりげなく、心配している風を装って。

 それに対して蘭は、試験が近いからと答えた。

 その通り受け取ってもおかしくはないが、疑惑は晴れない。

 

 夜、いつものように先に入浴を済ませ呼びにいった時も、違うといえば違った。

 ただこれは、考えれば考えるほどわからなくなってしまうのだが――。

 ノックの音に、幾分慌てた様子で彼女は応えたのだ。

 着替えの最中だったから、と思えば、なんて事はない。しかし、今まで一度もこういう事はなかった。いつの間にか決まった順番、どれくらいの時間がかかるか、日常に溶け込んでいる中でついうっかりとは考えにくい。だからといって、まったくないとも言い切れない。

 しかし……。

 

 疑えば疑うだけ、不審な点は増えていく。

 何かを隠しているのは間違いないのだ。

 もしそれが悩み事の類だとしたら、自分に手助けが出来るだろうか。

 そしてもしその悩み事が自分に関わるものだとしたら、何ひとつ出来るものはない。

 今は。

 しかし、暗く沈んだところはまるで見えない。どころかうきうきと、隠し切れない喜びを振りまいている。

 押し込めても溶け出してくる微笑みに頬を赤らめ、じっと見つめてくる。

 いたずらっ子のように可愛らしい眼差しが、しようもなくもどかしい。

 

 町はそろそろ訪れる冬にどこか忙しなく、日一日と深まる寒さに急きたてられている。

 そんな中彼女は、一人瑞々しく過ごしていた。

 

 ごまかされている。

 はぐらかされている。

 

 わかっていても、いきいきとはずむ声に笑顔に、溺れてしまう。

 どんなびっくりする出来事が待ち構えているのか――指をくわえて待っているしかない。

 そろそろ今日も終わりに差し掛かる。

 

 綺麗な夕焼けを予感させるあせた青空に見送られて家に戻れば、彼女は既に帰宅していた。

 休日の夕餉はいつもより遅い。

 後が楽になると、早めに下ごしらえを始める蘭に手伝いを申し出る。

 

「ありがとう。それじゃあねえ……」

 

 無駄な詮索はやめにします。放棄します。

 どんなに優れた探偵でも、女の謎には敵わない。

 しみじみと理解する。

 骨身にしみて分かったから、そろそろ答が欲しい。

 いつになったら、謎は解けるのだろうか。

 楽しさが詰まった背中を見やりふとため息をもらす。

 

 けれど、白旗を上げてしまったせいかささいな見落としがあったのに気付かなかった。

 

 昨日と今日の間に見た夢が、朝から彼女を苦しめていた事に。

 ただ記憶を追い、景色を追うだけのごくありふれた夢が、次第に大きくなって心に圧し掛かる。

 彼女らしい優しい思いつきに暗い影を落とし、疑問を投げかけ、行く手を阻む。

 瞬きほどに幾度も手を止め戸惑う姿に気付かないまま、時は過ぎた。

 

 夕食までの小一時間ほどは、それぞれ思い思い過ごす事になっている。

 

 静かになったリビングで、コナンは一人漫画雑誌を読みふけった。しばらくすると小五郎が事務所から戻り、それまでの静寂はどこへやら、テーブルにビール缶を山と積み必要以上に大きな音でテレビ観賞を始めた。

 騒々しい事この上ないが、いつもと変わらない、日常のひとコマ。

 

 程よく空腹を感じ始めた頃。

 

 不意に、何かを叩く鈍い音が耳に届いた。

 気のせいか、聞き間違いか、思い過ごしか。

 コナンは読んでいた漫画雑誌から顔を上げ、左右を見回した。

 リビングには、テレビの前に陣取って、毎週欠かさず見ているバラエティ番組に聞き苦しい声援を送る小五郎と、自分の二人だけ。

 蘭は夕食の支度を済ませると早々に部屋に引っ込み、明日の予習に励んでいる。

 音は、そんな彼女の部屋から聞こえてきた…気がした。

 コナンは膝の雑誌を脇に退けると、扉の向こうを伺いながら近付いていった。

 二度、三度ためらい、戸を叩く。

 が、いくら待っても返事はない。

 もう一度ノックしようかと手を上げかけて、しばし考え込み、思い切って扉を開く。

「蘭姉ちゃん?」

 椅子に座り、開け放った窓から空を眺めている蘭の背中に、コナンは声をかけた。

 彼女の向こうには、茜色に染まった空が鮮やかに広がっている。

 見とれるのも分かると胸中で頷いた直後、視界の端に捕らえたある物に、コナンは目を見開いた。

 乱暴に丸められた青い毛糸と、二本の編み棒が、無造作にゴミ箱に捨てられている。

「蘭姉ちゃん……これ」

 眉をひそめ、コナンは恐る恐る声をかけた。蘭は肩越しにちらとだけ見やり、また窓の外に視線を戻し言った。

 

「ああ、それ…うん、何でもないよ」

 事も無げに。

 

 声の調子は明るいが、心なしか涙に潤んでいた。

 コナンは捨てられた毛糸と蘭の背中を交互に見やり、しばし迷った後、毛糸を拾い上げた。細かいうねりの跡がついた毛糸は、途中まで何かを編んでいて、ほどいたせいだろう。

 コナンは毛糸を手に、一歩ずつためらいながら近付いていった。

 顔は見られたくないだろう彼女を気遣って、背中越しにそっと呼ぶ。

「蘭…姉ちゃん」

 微かに震える肩は、まだ涙が乾いていない証。

 何か伝いだけに唇を噛み締め、コナンは息を殺した。

「……もう、コナン君には敵わないな」

 新たに零れた涙を手のひらで押し留め、蘭は殊更に明るく言った。

「それね、コナン君にあげようと思って……マフラー」

 夕暮れ時の空を見上げたまま続ける。

「ほら、日曜日一緒にパン買いに行ったでしょ? あの時、首元が寒そうに見えたから、それでね」

 そうか。

 ここ数日の違和感はそれだったのか。

 コナンは手の中の毛糸に目を落とし、道々の景色をぽつりぽつりと思い浮かべた。

「それで……」

 不意に蘭は息を詰めた。

 少年ははっと目を上げた。

 強張った肩が、小刻みに震えている。

 

 言葉を口にのぼらせようとすると、まだ鎮まっていない気持ちが再び飛び出してしまいそうになる。

 

「…ああもう」

 拭っても溢れてくる涙に、蘭は焦れたように小さく呟いた。

 

 泣きたくなんかないのに、悔しい。

 

「言いたくないなら、無理に言わないで。でも、言った方が楽になるなら、聞くよ。ボクでよければ……」

 背中越しの声に、蘭はわずかに目を伏せた。

 そう言ってもらうのを、どこかで期待していた。そんな弱くてずるい自分に嫌気がさす。

「コナン君……ごめんね」

 ごめんね。

 幾度もためらい、肩を震わせながらやがて蘭は口を開いた。考えながら、少しずつ、気持ちを伝える。

「マフラー……編みながらね――新一の事思い出してたの」

「他愛ないお喋りした事とか、授業中居眠りしてた事とか、思い出してたらね……」

「あの時はああすればよかった、あの時はこう言えばよかったって、どんどん自分が嫌になって……」

「……うん」

 コナンは苦しそうに相槌を打った。

「そうしたら…なんだか段々……自分が何を考えているのかわからなくなっていって、うまく、言葉でいえない……」

「頭がおかしくなったんじゃないかって思えるほど…ドロドロしたものになっていくの……!」

 喉の奥で凝る恐ろしいものを吐き出し、しゃくり上げる。それが新たな涙を呼ぶきっかけとなり、しばし蘭は胸を押さえたまま声を殺して泣いた。やがて深い呼吸を繰り返す事で落ち着きを取り戻し、は、とため息の後、ぽつりと呟く。

「……違うのに」

「違うって、分かってはいるの」

 濡れた睫毛を指先で押さえ、静かに綴る。

 厳かに。

「コナン君に初めて逢った時、私…新一が大好きって言ったよね」

「う…うん」

 その言葉に、コナンは真っ赤になって俯いた。

「あの時みたいに、あんな風にただ好きって思うだけでいいって、分かっているのに……上手くできない時があるの」

 涙声で、それでも懸命に明るくあろうとする蘭に、こわごわ手を差し伸べる。

「今日はできなかったの……?」

 頷き、蘭は軽く首を振った。

「こんな気持ちで編んだら、なんだか怨念こもってそうで嫌じゃない」

 わざとおどけて言う。

「コナン君にあげるものなのに」

 コナンは再び青い毛糸に目を落とし言った。

「でも、ほどいたから、もう何もないよ」

 伝えたい事と言葉が上手くかみ合わない。もどかしさに唇を噛む。

 それならと床に座り込み、毛糸をほぐして端を探り出し手に巻き付け始めた。

 気配に、蘭はぎこちなく振り返った。

 床に座り込んで背を丸め、絡まった糸を丁寧にほぐしながら丸めていく少年の姿が、優しく胸に迫ってくる。

 言葉で伝えられないものを行動で示そうと、真剣そのものの横顔に目を奪われる。

 

 いつかの彼も、途方にくれて泣く自分を懸命になって慰めてくれた。

 意地悪でぶっきらぼうでいたずら好きの顔じゃなく、誰より頼れる人の横顔は、まるで別人のように大人びて見えた。

 あの時抱いたものは――

 

 苦しくて、心地好くて、息をするのも忘れてしまう。

 今この瞬間抱いているものを、無理に言葉にしたくない。しなくていい。

 強張っていた幼稚な想いが、ゆっくりとけていく。

 蘭は椅子から立ち上がると、コナンの横に腰を下ろした。

 視界の端を撫でる艶やかな黒髪に、コナンは一瞬ドキッとした。同時に、傍に来てくれた事が嬉しくて、ほっと頬を緩める。

 と、横から蘭の手が伸びて、申し訳なさそうに毛糸を撫で、ゆるゆるとほぐしていく。

 二人はしばし、無言で手を動かし続けた。

 開け放った窓からは、通りを行き交う車の音や家路を急ぐ人たちのざわめきが遠く聞こえてくる。

 ぼんやりと浮かぶ景色の中、二人は無心で毛糸を集めていた。

 ぽつりと、コナンが言う。

 

 昔から変わらねーな、オメーは

 

 夕暮れの空気にすぐに溶けてしまった幻のような呟きに、蘭は軽く目を瞬いた。まるで思い出の中から聞こえてきたのかと勘違いしてしまうほどささやかで、とてもあたたかい一言。

 自然に浮かぶ微笑みに頬を緩ませ、ちらりと少年を伺う。知らん振りを決め込む素っ気なさがかえって嬉しくて、心の中でそっと感謝する。

 幾度か戸惑い、やがておずおずと蘭は口を開いた。

「……ねえ」

 呼びかけに彼はすぐさま目を上げた。まだ少し、頬が赤い。

「マフラー編んだら、もらってくれる?」

「え…うん」

 嬉しいと、気持ちを込めてコナンは強く頷いた。

「この前はカッコつけて、思い出があれば良いなんて言ったけど……形に残るものも欲しかったから」

 コナンの手の中で段々と大きくなっていく青と緑の毛糸の玉をじっと見つめ、はにかみながら蘭は言った。

「コナン君は、ちゃんといたんだって……いわば証拠品ね」

 集め終えた毛糸の玉ごとコナンの手を両手で包み、小さく笑う。

 包み込むぬくもりと柔和な笑みに、少年はまたも頬を赤くした。

「蘭姉ちゃん…ボク、大切にするよ。蘭姉ちゃんが編んでくれたって思い出も一緒に、ずっと」

 その言葉に蘭は笑いながら涙ぐんだ。恥ずかしさに顔を伏せ、上目遣いにちらりとコナンを見やりふふと声を上げる。

 思わず見とれるほど幸せそうで、コナンもつられて笑った。

 

「ねえ、名前とイニシャルとどっちがいい?」

「え……ど、どっちもいいよ」

「そう? じゃあ、房の飾りいっぱい作るね」

「…うん」

「それでうんと長く作って、一緒に首に巻けるくらいうんと長くして……」

「そ…それもいいよ」

「あら、遠慮しなくていいからね」

「……うん」

「ねえ、ホントに名前もイニシャルもいらない?」

「……ら、蘭姉ちゃん編むの早いね」

「そうでしょ。目を瞑っても出来るわよ。ほら」

「うわあ、やっぱ蘭姉ちゃんはスゴイや」

「……なんかバカにしてない?」

「そ、そんな事ないよ!」

「ま、いいわ」

「………」

「ねえ、コナン君」

「なあに?」

「ねえ……コナン君」

「……うん」

「明日、また一緒にパン買いに行こう」

「うん」

「さあ、もう少しで出来るわ」

「……ありがとう、蘭姉ちゃん」

「どういたしまして」

 

 私は弱い。

 笑って立っていられる強さが欲しいと思うほど、弱い。

 思い出や孤独に振り回されて、時に逃げたくなる。

 一人じゃきっと立ってられないね。

 それでも傍にいてくれる。

 いつも。

 いつも。

 いつも傍にいてくれる君という幸せに、思い出を重ねていきたいと思う。

 

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