穏やかな風吹く午後には

 

 

 

 

 

 書斎の窓を開ける。

 リビングのドアを開ける。

 寝室も、キッチンも、洗面所から何からとにかく窓と言う窓を開け放ち、風の通り道を作る。

 洗濯して交換した白いレースのカーテンが、時折入り込んでくる穏やかな午後の風に揺れて、ふわり、ゆらりと踊った。

 

 いっとき住人を失った広い屋敷は、月に一度ほどこうして手が加えられた。埃を追い出し空気のよどみを追い出し、新しい風が運び込まれる。

 お陰で、一目惚れした主人が海外からわざわざ取り寄せた家具や階段の手すり、婦人がどうしてもと購入したクローゼット、果ては門柱、庭の花壇に至るまで、以前とそっくり同じとまではいかないまでも見劣りしない綺麗さを保っていられた。

 それらの偉業を成し遂げた二人…蘭とコナンは、もう秋も近い涼やかな空気の中何度も拭った汗をお互い褒め称え、満足げな笑みを浮かべた。

 

 二人は手分けして掃除用具をしまいに一階を駆け回った。

 使った雑巾の類をまとめて洗濯機に放り込み一足先に書斎に戻った蘭は、あらためてぐるりと視線をめぐらせた。

 円形になった部屋、天井まで伸びた書架に、隙間なくぎっしり並ぶ本、本、本。

 入口の正面には質素だがどっしりとした雰囲気のデスクが置かれていた。

 蘭は何気なくデスクに歩み寄ると、椅子の傍に近付き、背後にそびえる書物の塔へと視線を向けた。

 その段もその段も、並んでいるのはすべて推理もの。

 一体何冊、何千冊、何万冊あるのだろう。

 取りとめもなく考えながらデスクの周りを一回りし、少し考えた後、ある場所でしゃがみ込む。

 すると丁度正面に『江戸川乱歩全集』がずらりと並び、続いて『コナン・ドイル傑作選』が収まる一角に突き当たる。

 蘭はふと口端を緩めた。

 ここで、大きな眼鏡の男の子に自己紹介を受けたのは、いつだったろう

 つい昨日の事のように、鮮やかに甦ってくる記憶を瞬きで迎えながら、蘭はゆっくり立ち上がった。

 少し考えた後

 椅子を引いて腰かける。

 びっくりするほど座り心地のいい椅子にゆったり身体を預け、蘭は軽く目を閉じた。

 深く息を吸い込む。

 窓から入り込んできたそよ風が、前髪を少し揺らした。

 しばしそのままで、やがて蘭はゆっくり目を開いた。

 

 細々とした掃除用具をようやく片付けて書斎に戻ったコナンは、入るなり目に飛び込んだ蘭の涙…頬に伝う透明な雫に、声も出せないほど驚いた。

「どっ……どうしたの?」

 喉でもつれてうまく言葉にならない。

「……っ!」

 コナンの声に、蘭はびっくりした顔で目を開き、恥ずかしそうに慌てて涙を拭った。

「何でもないの」

 心配そうに見上げる間近の真剣な眼差しに、照れ笑いで首を振る。

「……蘭姉ちゃん?」

 恐る恐る名前を呼ぶ少年に、ひらひらと手を振りながら「やだ、ホントに何でもないから」とごまかすが、不安そうな表情が申し訳なくて、一旦口を噤む。

 コナンも同じように口を噤んだ。

 笑顔が出るのだから、身体のどこかが痛むとか、そういった類の涙ではないようだ。

 とりあえず胸を撫で下ろす。がすぐに、身体ではなく心を痛めているが故の涙ではないかと思い当たり、小さく唇を噛む。

「そんな顔しないで。ね、ホントに大した事じゃないから」

 子供に相応しからぬ悲痛な表情に、蘭は言葉を重ねた。

 

「…でも……」

 それなら何故涙を?

 

「蘭姉ちゃん……」

 どこか痛むんでしょう?

 

 胸が潰れそうにひどい後悔の色に染まったコナンに、少し困った笑みを向け、蘭は目を伏せた。

 そして一気に視線を天井へ引き上げ、思い切って口を開く。

「あのね――」

 コナンはおずおずと顔を上げた。

「ここに座って、新一を見ていたの」

 わずかに残る涙で濡れた睫毛が、きらきらと目を奪った。

 次に耳に飛び込んだ言葉が、コナンの心をも奪う。

 

「こんなにも、好きだったんだねえ」

 

 眩いほど鮮やかな笑顔が、世界を一段、明るくさせた。

 馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、蘭を見つめる。

「なのにあいつは事件事件……もう」

 蘭は視線をしっかりコナンに戻すと、はにかんだように、ともすればいたずらっ子のようにくすくす笑いながら言葉を続けた。

「新一……早く帰ってこないと、私、顔忘れちゃうわよ」

「えっ…あ、それは……!」

「あら、どうしてコナン君が慌てるの?」

「いや、それは…あの……」

「変なコナン君ねえ」

 

 無邪気にふふと笑う蘭の声が、幾分熱くなった頬に優しく触れる。

 

 昨日はうまく伝えなかたけど…私ね、あの日楽屋で新一が……現れた時、どうやってごまかそうかすごく焦ったんだよ。コナン君、気付いてなかったでしょ。ふふ。

 え、え……じゃあ――

 何年新一を見てきたと思っているのよ。まったく、コナン君もまだまだねえ。

 ……蘭――

 しー。この先は三人だけの秘密。誰にも内緒ね。

 ………うん。

 あ、あのさ……、蘭姉ちゃん

 なあに

 し……新一兄ちゃん、言ってた。事件より、蘭姉ちゃんの方がずっと大事だって。比べものにならないくらい、大事だって。だから、もう二度と煩わされないように、徹底的に解決させたいんだ……て。

 そっか、新一……

 

「ホントにもう、どうしようもない大バカ推理之介なんだから!」

 言葉とは裏腹に晴れ晴れとした顔で、蘭はぱんと膝を叩いた。

「コナン君も!」

 言うが早いか、両手で頬をぎゅっとはさむ。

「いつまでもそんな顔してないの」

 ね!

 勢いにおっかなびっくり頷くコナンによしと重ね、蘭は立ち上がった。

 面食らった顔のコナンに笑いかけ踵を返すと、その勢いのまま窓辺に歩み寄る。

「いい風だよ、コナン君」

 大きく開け放った窓から入り込んでくる穏やかな風に髪をそよがせながら、蘭は振り返った。

 まっすぐ向けられた屈託のない笑顔に、鼓動が一瞬跳ね上がる。

 痛みを伴う胸の高鳴りは、昨日彼女と交わした約束と相まって、新一の心に鮮やかに迫った。

 

 傍に、いてね

 

 いかに重大であるか、今更ながら思い知る。

 約束する、約束する。

 約束する。

 絶対に。

 

 いつも、傍に。

 

 手招きする蘭に促され、コナンはためらいがちに一歩踏み出した。

 窓から入り込む穏やかな午後の風に乗って、ふわりと、優しい匂いが鼻腔をくすぐる。

 たった今神聖な誓いをしたばかりだというのに、場違いにも顔を赤くする自分に一人慌てふためく。

 気付く由もない蘭は、気持良さそうに目を細め、窓の向こうに広がる景色を楽しんでいた。

 少々の後ろめたさを心の中で謝りながら寄り添い、コナンはそっと笑みを浮かべた。

 

 彼女には、いつだって敵わない。

 

目次