陽だまりの中で

 

 

 

 

 

 大きなあくびを一つついて、コナンは布団から起き上がった。

 今日の天気を確かめようと何気なくベッドの向こうに目をやった時、部屋の主である小五郎も丁度目を覚ました。むっくりと起き上がった影とカーテン越しの眩い陽射しが、まだ少し寝ぼけた眼に映る。

「……晴れ」

 しょぼしょぼする瞼をこすりながら呟き、隣の人物と揃って伸びをした。

 

 

 

 まだぼやけている頭に、昨日の出来事が緩慢に浮かび広がっていく。

 まったくもって意味の分からなかった、向こう様が言うところの「お詫びのしるし」に振り回され、どうにもむしゃくしゃした気持ちが収まらなかったコナンは、どうせ眠れないなら苛々したまま過ごすより好きな推理小説でも読んだ方がよっぽどましと、遅くまで本を読みふけった。

 お陰で苛々はすぐに消え、充実した時間を過ごす事が出来たが、迎えた休日の朝は二度寝したいほどひどい寝不足で始める事となった。

 休日も平日も関係なく、染み付いた習慣…いつもの起床時間に目を覚ます自分の身体を恨めしく思いながら、夜の内用意しておいた服に着替える。

 顔を洗いに行く途中すれ違った蘭が、いつもと変わらぬ清々しい笑顔で声をかけてきた。

「おはようコナン君。もうすぐ朝食出来るわよ」

 途端に、身体の隅々までが目覚めていく。

「おはよう、蘭姉ちゃん。今行くよ」

 自分がいかに幸せの場所にいるか、しみじみと感じる瞬間だ。

 無意識に頬を緩ませ、洗面所へと急ぐ。

 

 

 

 朝食の後、『調査』と称してふらりと出かけていく父親に、蘭は心の中でやれやれと肩を竦めた。

 行き先は大体わかっている。

 パチンコか、競馬場か――どちらにしろ、夕方まで帰ってこないだろう。いつもの事だと大きなため息に混ぜてはき出し、後片付けに取り掛かる。

 今日は特に出かける予定もない。天気も良いし、徹底的に家の中を掃除してしまおう。

 よしとばかりに大きく頷き、蘭は蛇口を思い切りひねった。

 一方コナンは、手伝いを済ませて早々に部屋にひっこむと、昨日遅くまで読みふけった小説をもう一度、初めから読み直していた。

 物心つく前から自分の周りにあったお陰で、身体の芯まで染み込んでいると言っても過言ではない推理物の小説に触れている時間は、他のなにものとも比べる事の出来ない、ある意味特殊な幸福感をもたらしてくれる。

 うつ伏せに寝転がって、時折呼吸さえ忘れてしまうほどにのめり込んでいると、突然部屋の扉が開いた。

 驚いて振り返ると、掃除機片手に蘭がきつい形相で立っているのが目に入った。

「こんなに天気が良いのに、もぐらみたいに部屋にこもって本ばっかり読んでると、新一みたいな推理オタクになっちゃうわよ!」

「え……うわ!」

 お尻をひっぱたいてでも追い出しかねない蘭の勢いに、コナンは慌てて部屋を飛び出した。遠回しにけなされ、文句の一つも言いたいところだが、とてもそんな雰囲気じゃない。

 小五郎に向ける分…とんだとばっちりに、コナンは咄嗟に持って来た本を片手に取りあえず屋上に避難した。

「ったく…蘭の奴」

 ぶつぶつと零しながら、隅にあった空の木箱を適当な日陰に置いて腰かけ、読書の続きに取り掛かる。

 少々座りごこちが悪いが、再び世界に引き込まれると、些細な事はすべて頭から消え去った。

 初夏の陽射しは高くなるにつれじりじりと強まっていったが、日陰は比較的涼しく、時折吹き付ける風もあいまって、中々快適に過ごせた。

 物語はいよいよ佳境に差し掛かる。

 ページを繰る手ももどかしく、コナンは先を急いだ。

 謎解きに専念した一度目とはまた違った楽しみのある、二度目のクライマックスに向けて、気分は最高に盛り上がっていく。

 と、そこへ突然、何者かが妨害工作を仕掛けてきた。

 本と自分の間をするすると通り過ぎて行く虹色のシャボン玉に、コナンは目を丸くした。遊離していた意識が一瞬にして引き戻される。

 瞬きを繰り返しながら振り返ると、すぐそばで、小さな容器片手に蘭がしゃがんでいるのが目に入った。

「蘭…姉ちゃん」

 面食らった様子のコナンに、蘭はいたずらっ子の顔で笑いかけると、食器用の洗剤で作った即席のシャボン玉をぷうっと吹き出した。

 風に乗って、無数のシャボン玉がすすすと空に登っていく。

 コナンと一緒にしばし見送った後、蘭は口を開いた。

「びっくりした?」

 声に、コナンははっと正面に顔を戻した。笑っているような、怒っているような複雑な表情の蘭に、戸惑いがちにうんと頷く。

「もう、せっかくいいお天気なのに、本ばっかり読んで」

 しょうがないなあ

 そう言う代わりに、蘭は大きなシャボン玉を一つ飛ばした。

「あ…今日はどこも行く予定ないから……」

 さりげなく本を後ろに隠して、コナンはしどろもどろに答えた。

「そっか、私と一緒だね」

 そう返して、唐突に会話が途切れた。

 むず痒いような、どうにも落ち着かない沈黙に気持ちが焦りだす。かといって何か伝う言葉があるわけでもなく、二人は互いに相手の様子をちらちらと伺っては言葉を探した。

 やがて、蘭が口を開いた。

「あの時は、……ありが、とう」

 途切れがちに告げられた突然の感謝に、コナンは目を瞬かせた。

 あの時…あの時とは、いつの事だろう

 昨日、一昨日と遡りながら、蘭の言う「あの時」に頭をひねる。

「あのね……――」

 必死に思考を手繰り寄せるコナンに、蘭はぽつりと言った。

「思い出すと、今でもちょっと怖くて……ずっと言えなかったけど……ホントはちゃんとわかって言った事だから……」

 珍しく言葉を濁す蘭に、コナンは首をひねりながら「なにを?」と聞き返した。まいった。まだたどり着けない。

「だから…あの時言った事よ」

 少しもどかしそうに、蘭は上目遣いにちらちらと見やった。

「あの時?」

 嗚呼、一体「あの時」とはいつの事を指しているのだろう。

「だから……!」

 何で察してくれないのかと、蘭は焦れたように一旦言葉を切る。

「あの時はごまかしたけど、ホントは……」

 

 あなたからかかってきた電話

 いつもとかわらないやりとり

 恥ずかしくて咄嗟にごまかした気持ち

 

 口ごもる自分を心の中で叱咤し、蘭は思い切って言葉を繰り出した。

「ホントは……、新一だってわかって言った…もの、だから……」

「……へ?」

 それ以上何も言わず、みるみる顔を真っ赤にして俯いた蘭の様子と、言葉の流れから、ようやく答えを手に入れる。

 

 怒りをぶつけて、弱音を吐いて、そして――

 ――好きだよ

 告げられた一つの言葉が、耳の奥に鮮やかに甦る。

 

「っ……!」

 途端に熱くなる頬に、止める術もなくコナンは息を詰めた。

「……好きだよ」

「!…」

 ややあって耳に届いた蘭のぶっきらぼうな呟き、一言に、はっと目を見開く。

 言葉に出来ない感情の奔流が目の奥を熱くさせた。今にも叫びたい、走り出したい衝動をかろうじて飲み込み、コナンはごくりと喉を鳴らした。

 照れ隠しにそっぽを向いた顔は、どこか怒っているようにも見てとれた。けれどそんな表情もたまらなく愛しくて、なのに何も言えない自分がどうしようもなく不甲斐無くて、ぐるぐると空回りするばかりの情けない思考に、頭の中が真っ白になる。

 口を開いても、名前すら出てこない。

 ぽかんと口を開いたままのコナンを見ずに、蘭は顔を伏せたまま言葉を続けた。

「今は声が聞けなくても、傍にいてくれるだけで……それだけで……、いい…から。だから、もし今度何かあった時も、傍に……いてね。コナン……君」

 自分の爪先をじっと見つめ、途切れ途切れに告げる蘭に、コナンは頷いた。

「約束するよ……。蘭…姉ちゃん」

 その言葉に、蘭は一瞬だけコナンをかすめ見た。

 真っ赤な顔ではにかむ蘭の表情が、胸に鮮やかに迫ってくる。

 急に早まった鼓動を耳の奥で聞きながら、コナンは思い切って一歩踏み出した。

 何でもいいから、とにかく触れたい。

 込み上げる衝動に目を眩ませながら手を伸ばす。まるで重たい水に阻まれているような、ひどい抵抗感。

 思うように動かない手に、焦りばかりが募っていく。

 と、向かい合った蘭の手がそれを救ってくれた。

 目の前で、彼女のきれいな手に包み込まれる自分の手が、どうにも信じられない。

 一瞬気が遠くなって、思わず笑いそうになる。

 実際には、苦虫を噛み潰したような強い顔で、コナンは自分よりやや高い位置にある蘭の顔をじっと見つめていた。

 言葉もなくただじっと、熱心に見つめてくる蘭の顔を見上げ、少しずつ、距離を縮めていく。

 唇に触れたいと、互いに思いながらどちらも、相手に拒まれたらどうしようかと注意深く様子をうかがっていた。

 怖いような、嬉しいような複雑な感情に、蘭は息苦しさを覚えた。

 触れてしまえば、きっと消えるはず……

 鼻先が触れるほど間近に迫った少年に、ゆっくり目を閉じる。

 唇に、吐息がかかる。

 えもいわれぬ昂揚感に、身体中の力が抜けそうになる。

 二人の唇が触れる――寸前。

 階下から、洗濯機の終了を告げる電子音がピーピーと聞こえてきた。

「!…」

 二人は同時にはっと目を見開き、慌てて身体を離した。

 気まずさがかえっておかしくて、蘭はくすくすと声を上げて笑った。

 そんな蘭を複雑な表情で見上げ、コナンもつられて小さく笑った。

「洗濯物干したら、一緒に買い物行こうか。そうだ、またあのパン屋さんに行かない?」

「……うん! あそこのパン、すごく美味しかったね」

「ね! あ……でも、亀さんのパンはちょっと食べるのかわいそうだったな」

「えー、そう言うわりに蘭姉ちゃん、ぱくぱく食べてたじゃない」

「あー、そんな事言うと、今日はコーヒーおごってあげないから」
「あ、あ、ごめんなさあい!」

 わざとむくれてみせる蘭に、コナンは慌てて言葉を足した。

 陽だまりの中に、二人の笑う声が零れ落ちる。

 

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