チョコレートキッズ

 

 

 

 

 

 トイレに近いテーブルにいた人間数人が、入口から遠巻きに中を覗き込んでいる。その後ろに次々と、人の輪は出来上がっていった。

 コナンは彼らをかき分けてトイレに踏み込むと、二つあるトイレの奥側、扉の前にうずくまって震えている女性の傍にまず駆け寄った。

 その女性は、先ほど子供たちに風船を配っていたあの店員だった。

「どうしたの!」

 呼びかけるが、パニックに陥っているのか声は届かない。

「お姉さん、しっかりして!」

 肩を掴んで宥め、訊ねる。

 その、思いがけず力強い手に店員はびくっと肩を跳ねさせ、すぐさまコナンにすがり付いて泣き出した。

「え、絵美が……!」

 震える声を絞り出し、店員はやっとの思いで個室を指差した。

 意外にもしっかり抱きついて離れない彼女に四苦八苦しながら振り返ったコナンは、目にするやはっと息を飲んだ。

 短い黒髪の若い女性が一人、尋常ならざる表情で、洋式の便器にもたれるようにして床に座り込んでいる。

「ごめんね、お姉さん!」

 恐怖のあまり強張った腕をどうにか振りほどいて、個室に駆け込む。

「………」

 口元に手を当て、脈を調べるが、女性は既に絶命していた。

「ねえ…え、絵美は……?」

 打ち消してほしいと悲しい響きを含んだ問いかけに、コナンは俯いたまま首を振った。

「そんな……」

 しゃくり上げる彼女の声が、胸に突き刺さる。

 奥歯を噛み締め、コナンは遺体に向き直った。

 五官を駆使し、死亡原因を突き止める。

 鼻腔をかすめる独特の匂い、遺体に残る特徴、感触…青酸カリ。

 コナンは眼を眇めた。

「……他殺か? 名探偵」

 傍らに跪き尋ねてくるキッドに、声もなくああと応える。

「恐らくな……」

 遺体の首元に残る、かきむしったような爪の跡を凝視しながら、コナンは付け加えた。

 先程とは打って変わった、瞳に宿る青く鋭い光に、キッドは目を細めた。

 訳もなく、胸が高鳴る。

 

 

 

 程なくして、警察関係者が現場に到着した。

 その中に、コナンもよく知る顔が二人、三人。現場の指揮者である目暮警部には「また君か」と驚かれ、高木刑事には「よく会うね」と苦笑いをされる。

 彼らは現場に着くやそれぞれの持ち場に散開に、手際よく作業を始めた。

 第一発見者は林田祥子―はやしださちこ―

 被害者は川野絵美―かわのえみ―

 被害者と一緒にいたのが、長谷陽子―ながたにようこ―、水川清美―みずかわきよみ―、八谷亜紀子―はちやあきこ―。

 彼女たち五人は、大学で知り合い今に至る。

 第一発見者である林田と五人で、今日は映画に行く約束をしていた。林田のアルバイトが三時で終わるので、その時間に合わせてこの店を訪れ、終わるのを待つついでに食事をしていたという。

 死因は、青酸カリによる窒息死。

 被害者がどのようにして毒を口にしたかは、まだ明らかになっていない。

 鑑識は、トイレの中と彼女らが食事をしていた場所の二手に分かれた。

「サチ、大丈夫……?」

 変わり果てた友人の姿を目撃し、ショックのあまり泣き止まない祥子を、陽子らが代わる代わる慰める。

 滅多に遭遇する事のない状況に、同じ時間店内にいた客達はやや興奮気味に言葉を交わしながら、遠巻きにトイレを覗き込んでいた。

「もう一度確認よろしいですか、林田さん……」

 聞き込みを続ける彼らの話に耳をそばだてながら、キッドは辺りを見回した。一緒にトイレの外に追いやられたはずの、あの小さな名探偵が見当たらない。

 まあ恐らくは、鑑識の目を盗んで遺体の傍を、あるいはその近辺をうろちょろしている事だろう。

 他殺ならばあるはずの、犯人を見極める為の決定的な証拠を探して。

 案の定、個室の影にちらちらと小さな人影が見える。

 指紋や、犯人に繋がる遺留品をくまなく探す鑑識に混じって、塵一つ見逃さぬ鋭い眼差しで辺りに目を配っている。

 周りの人間は気付いているが、「現場を荒らさんでくれよ…」そうやんわりと注意するだけで、「はーい、気を付けます」とごまかし笑いをする小さな探偵を、誰一人追い出す事はしない。

 半分黙殺ではあるが、それでも彼を認めている事には、違いなかった。

 もっとも、追い出されようとげんこつをくらおうと、彼はめげずに現場に戻るだろうが。

「……はい、その後に絵美がトイレに……」

 そして、探す一方で一言一句もらさずに言葉を追い、頭の中で彼らの行動を組み立てる。

 キッドはさりげなくトイレに入り込むと、忙しなく動き回る刑事達に紛れて、コナンの傍に歩み寄った。

「何か、あったか?」

「ああ、いや……」

 しゃがみ込み、小声で訊ねるキッドに、コナンは強い顔で応えた。顎に指をかけ、わずかに俯く。

 そして、今求める証拠以外目に入らぬといった様子でトイレを後にすると、四人が座っていたカウンターテーブルへと向かった。

 ……まったく、探偵ってやつは

 事件となると、これだ

 過日の飛行機での出来事を思い出し、不謹慎ながら笑いそうになる。

 咳払いを一つついて、キッドは後に続いた。

 それより少し前に四人と刑事は同じ場所に移動して、席順、やり取り等を細かく説明していた。

 コナンは椅子に乗り上げると、彼女たちが座っていた場所に残る品を一つひとつ目で追った。

 四人分の飲み物のカップ、ハンバーガーの包み紙、ポテトの入れ物、ソースの容器、敷き紙、ストロー、ガムシロップ、ミルク、トレイ…いや……

「……私は、店内を回って子供たちに風船を配っていました……」

 傍では、第一発見者の祥子が事件までの行動を話していた。

 ……そうだ。その直前に、殺意を感じた……

 思い出してもぞっとする負の思念に、コナンは自然と顔を強張らせた。

 その時ふと、引き寄せられるように祥子の手元に目がいった。

 半透明の手袋、長い爪、絆創膏……

 ほんの些細な事だが、さっき見た時と違う部分を発見し、眼を眇める。

「妙だな…あの絆創膏……」

 声に、キッドもさりげなく手元を見やる。

 独り言のように、あるいは同意を求めるように、わずかに俯き感じた矛盾点をぽつりと呟くその姿に、心が強く引き付けられた。

 事情を知らない大人達の前では決して子供の仮面を崩さず、しかしその影で着々と推理を進め、謎めいた糸を鮮やかに解きほぐしていく小さな探偵。

 たまらない。背筋がぞくぞくする。

 なんて、強い光に満ちた瞳だろう。

 キッドは息を飲んだ。

 場違いにもワクワクしている自分が、どうにもおかしい。

 瞬きも忘れ、真実を手繰り寄せる事に専念する小さな探偵に、キッドは小さくふうと息をつくと、隣の席に腰掛けて顔を寄せた。

「難航しているようだな、名探偵」

 よほど深く没頭していたのか、キッドの声にさえコナンは真剣な眼差しで低く応えた。

「そういう時は――」

 言葉と同時にコナンの目の前で指を弾くと、面食らって目を瞬かせる隙を突いて彼の手を掴み、その上に二つ三つ、銀紙にくるまったチョコを落とし乗せた。

「チョコが一番だぜ」

「……またチョコかよ」

 手のひらに乗せられたチョコを、やや呆れ気味に見やる。

 ……何種類チョコ持ってんだ、こいつ

「お前なあ、チョコをバカにすんなよ。雪山に遭難して一週間、生死を分けるのは、一枚の板チョコなんだからな。それに、探偵君のように人一倍頭を使う人間に甘い物は、結構重要なんだぜ」

「へいへい……」

 渋々受け取り、一つ口にしかけて、コナンははたと動きを止めた。

 銀紙をむきかけて動きを止めたコナンに気付き、キッドはおやと顔を覗き込んだ。

「どした……?」

「……そうか、そういうことか」

 見やる横顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

 コナンの視線を辿っても、手のひらと、そこに乗った食べる寸前のチョコしか見当たらない。

 しかし自分には考えの及ばないところで、途切れた謎の糸が繋がったのだと、キッドは確信した。

「キッド、お前つけ爪持ってるよな」

 それまで手を見つめていた視線が唐突に自分に向けられ、キッドは思わず身を引いた。

「……はぁ? オレが?」

 頬杖をついてわざとらしくとぼけるキッドを鼻で笑い、コナンはもう一度繰り返した。

「持ってるよな」

 テーブルに乗せられたキッドの手、爪をとんとんと軽く小突き、口端を持ち上げる。

 江戸川文代の扮装の時と、今と、明らかに爪の色が違う。

 つけ爪をしていたのだろう――?

 無言でそう指摘され、キッドはにっと歯を見せた。

「…ったく。オレがつけ爪なんて――」

「あ、おい……」

 そして、コナンの手に乗っている、食べかけのチョコを取り上げて口に放り込むと、残った銀紙をやや大げさに手の中に押し込んだ。

「持ってるわけが――」

 その手をコナンの前に差し出すと、もう片方の手で一、二、とカウントを始めた。

「――あるんだな、これが」

 三つ目のカウントと同時にぱっと手を開き、銀紙の代わりに小さなプラスチックのケースを差し出す。

「……普通に出せよ」

 ちょっとしたマジックを披露し得意げに歯を見せるキッドと対照的に、コナンはやや呆れ顔でケースを受け取った。気を取り直して肩越しにちらりと背後をうかがい、彼らに気付かれぬようケースを開く。

「……まさか探偵君、女装のケがおありとか?」

「バーロ…下らねー事言ってっと、今すぐ警察に突き出すぞ」

 ひそひそと話し掛けるキッドに、顔も上げずぶっきらぼうに返す。

「はい、気を付けます……」

 …推理中に冗談は禁物ってわけね

 神妙な顔で応え、ケースの中を探す探偵に視線を注ぐ。

 つけ爪が事件に関係しているのはわかったが、それがどのような使われ方をしているのか、どんな意味を持つのかまでは、わかりかねた。

 確かに自分も、夜の間は塵一つ見逃さぬ目を持っていると自信を持って言えるが、彼とは、物の見方が違うのだ。

 

 探偵の瞳

 真実を見出し、強い力で引き上げる探求者の瞳

 

 知らず内に惹きつけられ、気付けばいつも姿を追ってしまっている。

 いつから、意識するようになったのか

 この、ただならぬ小学生を

 誰に引けを取らぬ名探偵を

「これ…かな」

 ケースの中にようやく目当てのものを見つけ出し、コナンは強い笑みを浮かべた。

「彼女、どっか行くみたいだぞ」

「なに…」

 キッドの声に振り向くと、友人の一人に付き添われ、一階へと降りていく彼女の姿が目に入った。

「具合悪いから、下の休憩室で休ませてほしいって、言ってたな。で、その付き添いに彼女が申し出て…」

 連れ立つ二人に、コナンの中で確信が強まる。

 あとはこれで……

 手にしたものを強く握りしめ、椅子から飛び降りる。

「あ……」

 薄情にも声一つかけず走り去る小さな探偵に、やれやれと肩を落とす。

 ……まったく、探偵ってやつは

 半ば呆れ顔でテーブルに寄りかかり、心の中で呟く。

 ……そんなんだから、彼女に大バカ推理之介とか言われるんだぜ

 好んで見る者のない痛みを、痛みと知って飛び込み、たった一つの真実に傷付いても何ともないって顔をして、ぎりぎりで立っている。

 どんなに傷付いても、彼の瞳は光を失う事はない。

 それ故人を惹きつけ、愛して止まない存在になる…

「探偵って、怖いねぇ……」

 笑いながら零し、ゆっくりと席を立つ。

 

 

 

 壁に沿って並べたロッカーの向こうに何組か椅子とテーブルを置いた休憩室に、二人の女性の姿があった。

 双方、向かい合って座り無言で、じっとテーブルを見つめていた。

 二階では今も、刑事たちが証拠を探し歩き回っている。天井から響くわずかな物音に、二人は冷たい汗を流した。

 出来るだけ音を立てぬようドアノブを回し、休憩室に足を踏み入れたコナンは、近付く足音に気付いて振り返った二人を、まっすぐに見つめた。

 左手に、キッドから借りたつけ爪をそれこそ跡がつくほど強く握りしめ、テーブルの傍まで歩み寄る。

 警察の目をごまかし、あるはずの証拠を見えなくした犯人に揺さぶりをかける為に使ったつけ爪は、立派に役目を果たした。

 どんなに些細だろうと一度亀裂が入ってしまえば、後は容易に崩す事が出来た。

 コナンは、自らが組み立てた事件の一部始終を淀みなく説明し、返事を待った。

 直前まで、様々な言葉が飛び交い感情がもつれ合い、薄ら寒い地下へと向かうばかりだったその場の空気が、一転して静寂に包まれた。

 部屋の中が一段、暗くなったような錯覚に陥る。

 それでもどこかで、たった一筋でも構わない光を求めて、三人は立ち尽くしていた。

 やがて。

「……そうよ」

 長い長い、息も詰まるような沈黙の後、彼女はかすれる声で自らの犯行を認めた。

「陽子……」

 心配そうに見つめる友人――祥子にちらと視線を送り、陽子はゆっくり口を開いた。

 事のすべてを話す間中、陽子はしきりに自分の手を見つめた。

 いつしか生まれた殺意、膨らんでいくばかりの狂気が、今となってはたまらなく恐ろしい。

 人を巻き込んでしまった事、人を殺してしまった事への慙愧の念が、言葉以上に瞳から溢れ、とめどなく流れ落ちる。

 途切れぬ涙の合間に、彼女はどこかほっとしたような穏やかな表情を見せた。

 二人は連れ立って部屋を出て行った。

 間際、ごめんなさいと一言を残して。

 扉の向こうに消えた二人をしばし見送り、コナンは

ゆっくりと向きを変えた。

 いつの間に忍び込んだのか、ロッカーと壁の間に隠れるようにして、キッドがしゃがみ込んでいた。彼女に貰った風船を手に、膝に頬杖をついて、ぼんやりと天井を眺めている。

「やるねえ、名探偵」

 手放しの賞賛とは程遠く、かといってからかっているのとも違う声音。

 コナンはズボンのポケットに両手を突っ込むと、やや顎を引いて強く見やった。

 視線が合わぬまま、二人の間にしばし無音が漂う。

 遠くから、物事が滞りなく、慌しく進むざわめきが聞こえてくる。

 キッドはふうと息をつくと、おもむろに口を開いた。

 

「骨の髄まで染まった極悪人なら、それ相応の徹底した罰を下す為に。そうでないなら、一刻も早くもとの日常に連れ戻す為に――お前には、そういう役目もあるんだな」

 

「……お前は、どっちだよ」

 コナンは低く問い掛け、あえて感情を消した眼差しを向けた。

「オレは間違いなく、前者だろーなぁ」

 嘯き、キッドはゆっくりと視線を動かした。

 そこでようやく、二人の目が合った。

「探偵って、怖いねぇ……」

 特にお前は

 にやりと笑うキッドに、コナンは殊更に目付きを悪くして睨んだ。発言のすべてが、どれも本心からずれたものなのよく分かっているはずなのに、充分承知の上で聞いているはずなのに、時折ちらちらと紛れ込む不可解な言動が、どうしてか心に引っかかる。

「さあて、そろそろ帰れっかな?」

 探るように見据えるコナンの視線からさりげなく目を逸らし、キッドはよっこらせと立ち上がった。

「おっかない人たちは、あらかた帰ったみたいだな。行こうぜ」

 扉の隙間から店内の様子を伺い、手招きする。

「あ……ああ」

 戸惑いながら、コナンはついていった。

 

 

 

 直接事務所の前で降りるのは何かと面倒があるだろうからと、その手前の角、交差点から横道に入ったところで、キッドは車を止めた。

「ほんじゃーまー、探偵君。また今度」

 ご機嫌でひらひら手を振るキッドに、コナンはむすっとした顔で言った。

「……おい」

「ん?」

「何か、忘れてやいねーか?」

 顎を引き、上目遣いに見やるコナンに、キッドは腕組みして唸り、突然、そうだとばかりに大げさに手を叩いた。

「あぁ! はいはい」

 いそいそと、後部座席から風船を引っ張り寄せてコナンに手渡す。

「はい、風船!」

「………」

 寒々しいコナンの視線が、キッドの満面の笑みを凍り付かせる。

「あら……風船はお気に召しませんか? では……」

 めげずに言って、キッドは風船の口の部分を持つと、もう一方の手で軽く風船を撫でた。

 胡散臭そうに見つめるコナンの目の前で、ポンという軽い音と共に風船は消え失せ、寸前まで風船のあった場所からは、色とりどりの紙ふぶきがひらひらと舞い落ちた。

 そして、消えた風船の代わりにキッドの手には、金紙にくるまれた平たい一口チョコが乗っていた。

「チョコレートはいかが?」

 一点の曇りのない晴れ晴れとした笑顔に、コナンは頭を抱えた。

「オメーなぁ……」

 半ば予測はしていたが、まさかその通りにやってくれるとは。

「なんだよその顔は、貴重な栄養源だぞ。もうちょっと、ありがたそうな顔しろよな」

 こんな感じに

 見本だとわざとらしい笑顔を作るキッドを、コナンは真っ向から見据えた。

 心底馬鹿にした、冷ややかな眼差しで。

 咳払いを一つ。

「……それはおまけ。本物は……ここ」

 冷汗を我慢して笑顔で、コナンの胸元を指差す。

「……は?」

 柔らかいデニム地のジャケット、ボタンのしまった胸ポケットとキッドの指とを交互に見やり、コナンは半信半疑でポケットを探った。

 中には、一枚の切抜きが収まっていた。

「いつの間に……!」

 さすがに驚き、コナンは顔を上げた。取り出した切抜きと、得意満面のキッドを交互に見やる。

「世界最大のピンクダイヤ、その名もローズ・キッス」

 怪盗キッドが次に狙うビッグジュエル

「……なるほど」

 コナンの顔に、鮮やかに笑みが広がる。

 難攻不落の砦にしまい込まれたお宝を前にした、負けん気の強い冒険家が見せるそれとよく似た表情に、まるで子供のように胸が高鳴る。

「学校寄る前に予告状出したから、近い内お前の元にも情報が行くだろうよ。もちろん、探偵君が三度の飯より大好きな、暗号って形でな」

「それが、お詫びのしるし、ってわけか」

「そういうこと!」

 どこか楽しげなキッドに、軽く肩を竦める。

「まったく、おかしなヤローだぜ」

 切抜きの端を指で弾き、コナンは元のように胸ポケットにしまった。

 そのまま車を降りると思いきや、真っ向から見つめられ、キッドは思わず息を詰めた。

「わざわざ変装までして、俺のところにきた本当の理由はなんだ?」

「疑り深いなあ、ったく。さっきも言っただろ」

 奥に隠された真実を引き上げようと、きつく見据える青い瞳に困惑しながらも、キッドは説明を続けた。

「結果はどうあれ、彼女らに任せて途中退場した、お詫びのつもりだって」

 コナンはあえて口を挟まず、黙って終いまで聞いていた。そして、言葉が終わると同時に鼻でせせら笑った。毛頭信じる気はない、と言う代わりに。

「見かけからして嘘っぱちなのに、言う事は信じろってか? 笑わせるな。大体、もうとっくにオメーの素顔は知れているのに、何で今更変装なんかする必要があるんだよ」

 最後は忌々しげに、それでもどうにか感情を抑えて、コナンは低く問いただした。

「え…?」

 首を傾げる。

「……とぼけんじゃねーよ」

 工藤新一に、限りなく似ているのだろう

 コナンの声に含まれた怒気に、キッドは深く息を吸い込んだ。ここで相手に飲まれ、迂闊にも崩すわけにはいかない。

 とはいえ、これ以上怒りを募らせるのは、いくらなんでも気が引ける。

 うまく宥めつつ、逸らさなければ。

「えー…ある人と約束をしまして……」

 小さく両手を上げて降伏を表し、ぎこちなさを作りつつ答える。

「約束……? 誰とだよ」

 答えようによってはただでは置かないと、コナンはきつく睨み付けた。

「それは……」

 おもむろに口を開き、一拍遅れてキッドは言った。

「それは秘密です……A secret makes a women women……」

 わざとたどたどしく綴り、ちらりと反応をうかがう。

「おまっ……なんでお前がそれ知ってるんだよ! つーかお前、男じゃねえか!」

 馬鹿も休み休み言えと、コナンは複雑な顔で叫んだ。

 うまく気が削がれた事に、内心ほっとする。一旦取り戻せば、後はこちらのテンポで話を進められる自信はある。キッドは上げていた手を大きく振り下ろすと、言い返した。

「何言ってんだよ。キッドは変装の達人だぞ。だったら、女だって可能性もないとは言えないだろ」

「あのなぁ……」

 案の定、先刻までの怒りはどこへやら、呆れたため息を一つついて、コナンは肩を落とした。

「じゃあ言うけどな、女じゃなかったら、あそこまで完璧に『毛利蘭』に変装するのは、不可能だろ?」

「あ……」

 言われて、コナンは言葉に詰まった。

 確かに一理ある……

「じゃお前……ホントに女…なのか……?」

 すっかり話題がすりかわっている事も忘れて、コナンは恐る恐る顔を覗き込んだ。

 知る者のごく少ない一言も、本来の自分に似ている素顔の事も、きれいに頭から消え去っていた。

 もう一押しとばかりに、キッドは顔を背け、俯いた。

 さも、重大な秘密を抱えていると言わんばかりに、いっそ哀れを誘う雰囲気を纏って。

「あ、あのよ……」

 疑う事から始める探偵としては致命的だが、今のコナンには、手加減なしに蹴ってしまったという自分の過ちが頭の中でぐるぐると渦巻いていて、他の事がうまく組み立てられない状態にあった。

 女性だからと犯罪者を特別視する事はしないが、それはあくまで態度だけ。過ちを知らせるために大声の一つも上げる事はあっても、直接身体に危害を加える事はしてはならないと常日頃思っていただけに、自分の取った軽率な行動にショックを受ける。

「……残念」

 いい頃合とばかりに、キッドは呟いた。

「え……?」

 聞き返すコナンに、ぱっと表情を変え告げる。

「ハズレ!」

「!…」

 一瞬遅れて騙された事に気付き、コナンはぽかんと口を開けた。言葉が出てこない。

「謎解きは得意だろ、名探偵」

 ウインクを寄越すキッドに、複雑な顔で口を閉じる。

「さあさ、小学生は帰る時間だよ。続きは彼女の腕の中でどうぞ」

 揶揄の声にコナンは強い視線を向けたが、すぐに返して車を降りた。

 最後まで狂わされっぱなしの苛立ちを、閉めるドアに思い切りぶつける。

 気にも留めず、キッドは車中からひらひらと手を振った。やや置いてアクセルを踏む。

 独特のエンジン音を響かせて、真っ赤な外車は走り去っていった。

 とんでもなく不機嫌な顔の、小さな探偵を残して。

「……ったく」

 ため息に混ぜて、コナンは吐き出した。

 と、ポケットに突っ込んだ手に、キッドが寄越したチョコが触れる。思い直して一つ取り出し、銀紙にくるまった一口チョコを視線の端で見下ろす。

「………」

 ため息を一つ、銀紙をむく。そこに過ぎったふとした違和感に、あらためて目を向ける。

 銀紙からのぞく、細長い紙。本来なら商品名がプリントされているのだが、今手にあるそれには別の文字がプリントされているようだった。

 取り出した紙をかさかさと広げ、上から順に文字を追う。

「次回の……!」

 ―次回の怪盗キッドの活躍をお楽しみに!―

 ポップな字体でそう書かれているのを読み取り、途端にコナンはがっくりと肩を落とした。

「はは……」

 乾いた笑いをもらす。もう笑うしかない。

 がすぐに、はたとある事に気付く。

 こんな細工がしてあるということは、一旦包みをあけたという事に他ならない。口に放り込む寸前でそれに気付き、コナンはまじまじとチョコを見つめた。

 

 変なもん、入ってねーだろーなあ……

 

 それからたっぷり五分、コナンは悩み続けた。

 

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