夜明け前

 

 

 

 

 

 見上げる空一面を覆う薄墨色が、東から昇る柔らかい黄金色にみるみる溶けていく。

 それにつれて、はるか向こうまで続く寒々しい色した海原も鮮やかに輝きだし、踊るような波音と潮風が、岩場に並んで座る二人をゆったりと包み込む。

 一人は、髪の長い少女。淡い水色のワンピースから伸びる手足はしなやかで美しく、しかし左膝に巻いた包帯が少し痛々しい。けれどそんな事まるで気にせず、艶やかな黒髪を潮風になびかせ、はるか水平線を眺めている。

 一人は、眼鏡をかけた幼い少年。右頬の大きなガーゼと左腕の包帯が小さな身体に痛ましい傷を負った事を表しているが、些細な事とばかりに、隣の少女と同じ方向をしっかと見つめている。

 二人の手は、かたく繋がれていた。

 姉弟とは違う、まるで恋人同士だといわんばかりの雰囲気を纏って。

 

 もうすぐ、夜が明ける。

 

 

 

 

 

 夏休みを利用して、小五郎、蘭、コナンの三人は、海沿いに栄える町に一泊二日の小旅行にやってきた。

 毎年大勢の見物客で賑わうという花火大会を見るのが、今回の旅行の目的だ。

 宿に着くなり浴衣に着替え、窓辺に陣取って花火大会の会場をはるか遠くに眺める蘭に、コナンは少々の苦笑いをもらすも、きらきらと目を輝かせる横顔を見るのも悪くはないと、一人こっそりとにやついていた。

 二人が夜を心待ちにしているように、最後の一人も、別の意味で夜になるのを待っていた。

 こちらは美味い地ビールが目的のようで、昼間観光名所を巡る間も、その事ばかりを思い浮かべていた。

 宿に着くなり、早速部屋に備え付けの冷蔵庫から地元でしか味わえない特産のビールを取り出し、娘がたしなめるのも聞かずに「美味い美味い!」と絶賛しつつあっという間に二本を空にした。

 つい先日、医者から「なるべくお酒は控えるように」と注意されたばかりだというのに、すっかり忘れた様子で三本目に手を伸ばす父親に、いい加減堪忍袋の緒が切れたのか蘭は半眼になると、静かに口を開いた。

「……お父さん、それ以上飲むなら、お母さんに報告するからね」

「な…なんでそこで英理の名前が出てくんだよ」

「あら。たまにはお母さんの声が聞きたいんじゃないかと思って」

 百本ほどの棘を含んだ冷ややかな蘭の口調に、さしもの小五郎もひくひくと口を引きつらせ、ぶつくさと文句を零しながらも大人しく従った。

 渋々三本目を冷蔵庫に戻す小五郎と、それを厳しく見届ける蘭を交互に見ながら、コナンは心の中でやれやれと肩を竦めた。

 どこ行ってもこの光景は変わらねーな……

 声に出さず、乾いた笑いを漏らす。

「…ったく。これでいいんだろ」

 ぴったり背後で行動を監視する蘭におっかなびっくり確認を取り、小五郎は煙草を一本取り出した。

 口にくわえる寸前、蘭は素早く取り上げきっぱりと言った。

「煙草もダメです」

「ええ? おいおい、勘弁してくれよ……」

「あ…うわあ、もう人が集まりだしてる」

 情けない声を出す小五郎を無視して、蘭は窓からの光景にはしゃいだ声を上げた。

 宿の前の通りは花火会場への通り道になっており、開始までまだ時間があるというのに、ぽつりぽつりと向かう人の群れが現れ始めていた。

「ホントだ」

 コナンが相槌を打つ。

 そこへ、夕食時を告げる若い女性の声がふすま越しに聞こえてきた。

 窓辺に並んで立つ二人は、背後の不機嫌そうな大人など知らないとばかりに顔を見合わせてにっこり微笑むと、迎えに出た。

 

 

 

「ほらお父さん、いつまでも拗ねてないで、花火大会行こうよ」

 すっかり出かける準備の整った蘭が、戸口から、ふてくされた様子で寝転がる父親を急かす。

「……二人で行ってくりゃいいだろ」

 顔も上げずに、小五郎はぼそぼそと言い放った。

 小五郎のふてくされている原因は、夕食時も酒の量を制限されたからだ。

 三度の飯よりビール、美女と並んでビール、何はなくともビールと、無類のビール好きを誇るだけあって、それを禁じられた怒りと悲しみは相当なものだった。

「この部屋からも見えんのに、わざわざ人込みの中に行く事ねえだろ。こっから見りゃいいじゃねーか」

「それはそうだけど、近くで見た方がより感動できるじゃない」

「とにかく、俺は行かねえよ」

「しょうがないなぁ……」

 呆れた様子で、蘭が腰に手をあてる。

 その傍らで、どちらの言い分にも頷けるコナンが複雑な顔で小五郎を見ていた。

「お父さんてば!」

 焦れて呼びかける蘭の袖をついと引っ張り、コナンは言った。

「帰ってくる頃には、きっとおじさんの機嫌も直っているだろうから、二人で行こうよ」

 決して下心があるわけじゃないと、心の中で何度も……浴衣姿の蘭を見上げる顔が、ほんのり赤いのがそれを台無しにしてしまっているが……言い訳しながら提案を口にする。

 

 こういう時は、少し時間を置くのが最善だ

 

「そうね」

 意図を違わず理解したかどうか、蘭は一拍置いてぱっと顔をほころばせ頷いた。

「じゃあお父さん、行ってきます」

 部屋を出るなり軽やかな足取りで進む蘭にこけつまろびつ、コナンはついていった。

 

 

 

 日も沈み空はすっかり濃い藤色に覆われ、昼間の暑さも大分和らいで、時折吹く風は涼しく心地好い。

 先刻より道行く人も随分増えていた。二人ははぐれないようにしっかりと手を繋ぎ、会場へと向かった。

「潮風が気持ち良いね」

 そう言って見下ろす蘭に、コナンは大きく頷いた。

 その時目にした、浴衣に合わせて綺麗に結い上げた黒髪の、すっきりとしたうなじに思わずどきりとする。

 肩を並べていた時とは違う視線からの眺めに、以前は気付かなかった仕草の一つひとつに、胸の動悸が激しくなる。

 繋いだ手から伝わってしまいはしないかと、コナンは真っ赤な顔で半ば無意識に互いの手をじっと見つめた。

 人の数が増えるにつれて、まっすぐ歩くのが困難になってくる。普段でも、背の低さに難儀していたのをすっかり忘れて……繋いだ手に見とれていたせいで忘れていたコナンは、自分から避けなければぶつかる確率が高いのを、蹴られてよろけた瞬間にようやく思い出した。

「うわっ……」

 しまったと思うと同時に、身体がふわりと宙に浮いた。

「……え」

 それまで、人の足しか見えていなかった視界が、急に高い場所から見下ろすものに変わる。

 蘭の顔が、すぐ横にあった。

 数秒経ってようやく、抱き上げられたのだと気付く。

「……い、いいよ、蘭姉ちゃん」

 途端に、コナンは腕の中で身じろいだ。いったい何が起こったのかと、軽いパニックに見舞われる。これは…これは。

「転んだら危ないから」

 じっとしてて

 にっこり微笑む蘭に、困惑顔で口を開き、噤む。

 

 嬉しさ半分……複雑だ。

 

「……重いでしょ」

「空手で鍛えてるもの。これくらい、平気よ」

 明るく返し、蘭はふふと笑った。

 間近の柔らかな眼差しに、慌てて目を逸らす。

 こんなに傍で彼女を見るのは、恐らく初めてだ。

 嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやら……コナンは身体を強張らせ、大人しく腕に収まっていた。

「これならはぐれる心配もないしね」

 コナンの葛藤を知ってか知らずか、蘭は嬉しそうに頬を緩めた。

 小憎らしいほど無邪気な笑顔に、照れ隠しからか、コナンはぶすっとした表情で唇を尖らせた。

 耳まで真っ赤に染めて。

 端から見れば、二人は歳の離れた姉弟だろう。

 何も不自然なところはない。

 

 けれど――嗚呼

 

 鼻腔をかすめる甘い髪の匂いに、コナンは軽い目眩を覚えた。

 困るといけないからと親切な手を差し伸べてくれたというのに、一体自分は何を考えているのだろう……

 

 けれど――

 

 なんでもない顔をして蘭と同じ方向を見ながら、さりげなくちらちらと横顔を盗み見る。ふっくらと瑞々しい唇、ほんのりと色付いた頬。わずかな街灯のあかりに照らし出される、蘭の、匂い立つような肌。触ってみたい、触ってみたい、触りたい……

 

 ――嗚呼

 

 場違いな自分を頭の片隅に残しながら、膨れ上がっていくばかりの欲求に息苦しさを覚える。止める手立てもない。

 どきどきと、ひどい熱病に浮かされたように激しさを増す鼓動を耳の奥で聞きながら、そろり、そろりと手を伸ばす。その時。

「コナン君、熱あるの?」

 心配そうな蘭の声と、背中に押し当てられた手のひらに、コナンははっと我にかえった。

「え……ううん、別に」

 焦りを無理やり飲み込んで、出来るだけ平静を装い首を振る。

「そう?」

 確かめる額の手に、ようやく、自分は今子供の身体なのだと思い知る。

 そう、子供の身体は大人より、幾分平熱が高い。

「何ともないよ」

 不純にまみれた胸中を見抜かれたのかと肝を冷やしたが、そうではないと気付きコナンはほっと胸を撫で下ろした。

「あ…そっか。ごめんね……」

 蘭は慌てて謝った。自分の思い過ごしであると同時に、コナンに嫌な自覚を強いてしまった事に、今更ながら気付いたのだ。

「蘭姉ちゃんが謝る事じゃないよ」

 小さく俯く蘭に、コナンは明るい顔で首を振った。

 彼女が謝る事ではない。

 気にする事などない。

 

 何より、いつだって蘭は、迷う事無く自分…新一を見てくれているじゃないか

 

 大丈夫だからと続ける少年に、蘭はおずおずと笑みを浮かべた。

 ややあって互いの目が合う。

 鼻先が触れるほどの距離で。

 途端に、双方、示し合わせたようにぱっと頬が赤くなる。

「あ……それにしてもすごい人だね」

「そ、そうねえ」

 慌ててそっぽを見やり、二人はしどろもどろに言葉を交わした。

 さっきとは違った意味で高鳴る胸をどう落ち着かせればいいんだと、コナンは意味もなく四方を見渡した。

 どこかに、答えが落ちているかもしれないからと。

 すると、先程までは気付かなかった道の端々に立つ制服警官の姿に目がいった。

 交通整理やアクシデントに備えて、という事なのだろう。

 見渡せばあちこちに立っている彼らに、段々と気持が平静に戻っていく。

 その時ふと、群衆の中に小さな違和感が過ぎるのを目の端が捕らえた。

 コナンは途端に表情を引き締め、鋭く見やった。

 人ごみの中を、ワイシャツにネクタイ姿の男が一人、周囲に異常なほど気を配りながら歩いている。

 花火の見物客にしては、少々場違いに思えた。

 細い銀縁の眼鏡越しに覗く眼差しは険しく、ある種独特の雰囲気を漂わせていた。

 人の波に見え隠れしながら、そう遠くない距離にいるその人物をじっと観察している内に、コナンはある事に気付いた。

 どこかで、見た覚えがあるのだ。

 ――どこだったか。

 思い出そうと集中すると同時に、耳の奥に鮮やかにある人物の声が甦ってきた。

 深みのある低音、感情豊かに喋るこの声は。

「……横溝警部!」

 完全に甦った記憶に、コナンは思わず声を上げた。

 記憶の糸が、完全に手の中に収まる。

 以前、有名子役の母親を探しに熱海くんだりまで出かけた際遭遇した殺人事件で、横溝警部と一緒にやってきた、若手刑事だ。

「ええ?」

 突然の声に、蘭が驚いて振り返る。

「あ、あのね――」

 説明しようとコナンが口を開きかけたその直後、背後から、今まさに思い出した声が現実となって呼びかけてきた。

「ああ、やっぱりコナン君だ」

 はっと顔を上げると、一度見たら忘れられない特徴のある顔に嬉しそうな笑みを浮かべ、横溝が立っていた。

 思わず、ぽかんと口を開ける。

「それに蘭さんも」

「……横溝警部!」

 たった今コナンが口にしたのと同じ響きで、蘭は目を見開いた。

「いやあ、こんな所でお逢いするなんて、奇遇ですなあ」

 いかつい顔に満面の笑みを浮かべ、偶然の出会いに心から感激の声を上げる横溝に、二人もついつられて笑顔になる。

「花火見物にいらしたんですか?」

「ええ。実は父も誘ったんですけど、二人で行ってこいって…」

「ああ、そうなんですか」

 大きく頷き、横溝は続けた。

 実は今日は非番だったが、警備の手伝いに借り出されたのだと、苦笑いを交えて説明する。

「大変ですね……」

「いやあ、これも仕事ですからね」

 そこで少し表情を引き締め、横溝は言った。

「こういう時は、スリや置き引きが発生しやすいですからね。蘭さんも、充分注意してくださいよ。コナン君、しっかり蘭さんを守ってくれよ」

 横溝の言葉に、コナンは元気よく頷いた。

 彼の言動は、子供だからと軽んじたりせず、きちんと責任感を抱かせてくれるものばかりで、その点では大いに好感が持てた。

「横溝警部も、気を付けてね」

 今夜は何も起こらなければいいと、心の中で密かにエールを送る。

「ありがとう、コナン君」

 それじゃあ毛利さんによろしくと片手を上げ人込みに去っていく横溝に、二人は揃って手を振った。

 それからしばらく歩いて、いよいよ人の数も増した大通りの真ん中辺りで蘭は足を止めた。

 もう少し進むと橋にさしかかり、川と海が合流する場所で花火は打ち上げられる。

「すごい人だね」

 辺りを見回し、呆れたようにコナンは言った。

「ホントね」

 蘭はちらりと時計に目をやった。そろそろ開始の時間だ。

 夜空に色とりどりの花が咲くのを今か今かと待ち侘びて輝く蘭の横顔を、コナンは瞬きも忘れて見入っていた。

 今このひと時を一生目に焼き付けておく為に。

 やがて、最初の花火が打ち上げられる。けれどコナンの目は、蘭の顔から離れる事はなかった。

 

 

 

 半分は間近で楽しみ、もう半分は宿に戻って楽しもうと、敷物も持たずに来たのだが、すっかり花火に心を奪われていたせいで忘れてしまっていた。

 最中、数えるほどしか呼吸していなかったのではと思えるほど興奮した蘭は、空に静けさが戻った後もキラキラと目を輝かせ、隣を歩くコナンに何度も「凄かったね」「綺麗だったね」と繰り返した。

 同じ事ばかり言ってくる蘭には正直うんざりしてしまう…が、見上げた先にある小憎らしいほどに愛らしい笑顔に、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまう。

 

 こういうのも、悪くない

 

 そして柄にもなく、こんな事を思うのだ。

 時折吹き付ける潮風は心地好いものなのに、首筋が何故だかひどく汗ばんでいる。

 息苦しくて落ち着かず、なのに安心出来る不思議なひと時。

 繋いだ手に思わず涙が出そうで、何がどうなって泣きたくなるのか自分でも分からずに、コナンは、相変わらずの蘭の問いかけに応えながらしきりに辺りを見回していた。

 

 十回に九回は蘭の顔を最初に見た後で。

 

 と、何気なく後方に視線をやった時、そこに、不審な動きをする若い男がいるのに気付いた。

 蘭から少し離れた場所に、四、五人の若い女性たちが賑やかにお喋りしながら歩いている。そのすぐ後ろにぴったりとくっついている男がそうだ。

 目深に被った青い野球帽で顔を隠した、見るからに怪しいその男は、絶えず辺りに気を配りながら、若い女性の肩にあるバッグにぎらついた目を向けていた。

 低い視線だからこそ気付いた尋常ならざる気配に、首筋がすっと冷える。

 それまで感じていた蒸し暑さはたちまち消え去り、吹き付ける潮風もぴたりと止む。

 

 あの男……!

 

 良からぬ企みを隠しているのに気付き、コナンは鋭く視線を注いだ。

 繋いだ手をそっとほどく。

「コナン君?」

 どうしたのかと蘭が下を向くと同時に、男の手がバッグに伸びて財布を抜き取った。

 だが、お喋りに夢中で当の本人はまったく気付く事はなかった。

「スリだ!」

 コナンは大声を張り上げた。同時に駆け出し、犯人の特徴を挙げ連ねる。

「スリだ! 黒いジーンズに青い野球帽の男!」

 コナンの声に、周りにいた人間が波紋状にざわめき出す。そして皆一斉に自分の持ち物の確認を始めた。

「アタシの財布がない!」

「え、マジで?」

 ようやく気付いた事に頭の片隅で安堵し、コナンは走った。

 道路端で警備に当たっていた制服警官も声に気付き、すぐさま人垣を割って犯人に接近していった。

「…くそっ!」

 逆上した男は、自分に向かって走ってくるコナンに、隠し持っていた小型の折りたたみナイフを振りかざした。

 鋭い悲鳴があちこちで起こる。

「コナン君!」

 逃げ惑う人の群れをかき分けようやくコナンに追いついた蘭が、男の手にある凶器に切迫した声を上げた。

 間近に聞こえた蘭の声に、コナンは頭の芯がかっと熱くなるのを感じた。

 

 ――どうする!

 

 思考が凄まじい勢いで回転する。

「このくそガキ!」

 男が汚い叫びを放つ。

 大きく弧を描いて迫ってくる凶器から蘭を守るべく、コナンは踵を返すや地を蹴り思い切り手を伸ばした。

「蘭!」

 指先が触れる寸前、焼け付くような鋭い衝撃が左腕に走った。切られたのは分かったが、不思議と痛みはない。

 その後は、頭で思うより先に身体が動いた。

 蘭を危機から遠ざける勢いを利用して後方に足を蹴り上げ、男の手にある凶器を蹴り飛ばす。

「!…」

 直後、蘭もろとも地面に倒れ伏す。

「あっ……!」

 蘭の口から、小さなうめきがもれた。

 浴衣の裾に気を取られたせいで受身を取るのが一瞬遅れてしまったのだ。膝をしたたかに打つ。それでもどうにか、頭をかばう事は出来た。咄嗟に抱きしめたコナンも、無事のようだ。

「大丈夫、蘭姉ちゃん!」

 コナンはすぐさま起き上がり、顔を覗き込んだ。

「私は平気よ」

 じんじんと痛み出した左膝に気付かれぬよう、蘭は笑顔を浮かべた。

 少し強張った笑みは、コナンの背後に迫った黒い影に一瞬にして消え去った。

 今まさに、男が拳を振り下ろそうとしているのだ。

「……危ない!」

 コナンを抱いて駆け出そうと足を踏ん張るが、浴衣の裾を踏んでしまい一歩も動けない。

 間近の鈍い音と共に、コナンの小さな身体が地面に転がる。

「コナン君……!」

 うずくまった背中に、蘭はきっと目を上げた。

 人前だというのも忘れて裾を端折り立ち上がると、尚もコナンに襲い掛かろうとする男の胴に鋭い蹴りを放つ。

「うぐっ……!」

 容赦のない一撃に、男はこもったうめきをもらし身体を折り曲げた。

 すかさず二撃目を繰り出そうと身構えたところで、駆けつけた制服警官によって男は取り押さえられた。

「コナン君!」

 蘭は足を下ろすと、なりふり構わずコナンに駆け寄り、抱き起こした。

「!…」

 苦笑いする少年の、少し悔しそうな眼差しと、殴られて切れた唇に、蘭は言葉を失った。

「だいじょうぶ……?」

 かすれた声でおずおずと尋ねる。

「ボクは全然平気だよ。蘭姉ちゃんこそ――!」

 なんでもない事を証明しようとコナンは両手を上げた。そこで初めて、自分の左手が血塗れになっているのに気付く。

「っ……!」

 二人は同時に絶句した。

 こんなに出血していたのかと、コナンはゆっくり左手を上げた。

 まったく痛みはないというのに。

「……ひどい怪我じゃない!」

 ようやく我に返った蘭が、震えた声を上げた。

「ああ、うん……でも、全然――」

「どうして早く言わないの!」

 気が動転しているせいで大声になる蘭に身を縮ませ、コナンは小さく「ごめんなさい」と謝った。

「でも、全然痛くない……!」

 蘭の目に光る涙に、コナンははっと息を飲んだ。

「私のせいで……ごめんね」

 しぼり出すような蘭の声に、胸がずきりと痛んだ。

 そんな事はないと言いたいのに、喉が引き攣れて言葉が出ない。

 ぽろぽろと零れる涙も拭おうとせず、蘭は取り出したハンカチを帯状にすると、うろ覚えの応急処置を始めた。

「……痛くない?」

 訊ねる蘭に、頷くしか出来ない自分が無性に腹立たしかった。

「平気……」

 ようやく出た一言も素っ気なく、本当はもっと安心させる事を言いたいのにと、コナンは苛々を募らせた。

 強張った表情は、蘭に誤った印象を抱かせた。

「………」

 二人して唇を噛む。

「蘭さん、コナン君!」

 気付いて駆けつけた横溝に、揃って顔を上げる。

「大丈夫かい、コナン君。すぐに救急車が来るから、もう少しの辛抱だよ」

 励ます横溝にコナンは大丈夫だからと首を振り、自分よりも蘭を見てほしいと言葉を重ねた。

「蘭姉ちゃん、転んで膝を怪我したんだ」

 横溝に説明するコナンに、蘭は目を見開いた。無意識に膝を押さえる。いつ、気が付いたのだろう。

「痛みますか、蘭さん」

「いいえ、私のはほんのかすり傷ですから……」

 横溝に笑顔で答え、蘭は首を振った。

 心配そうなコナンの眼差しに、おずおずと笑みを向け俯く。

 

 

 

 程なくして到着した救急車によって、二人は指定の救急病院に運ばれた。

 治療を受けている最中、横溝から連絡を受けた小五郎が血相を変えて駆け込んできた。

 二人の悲惨な格好を見て赤くなったり青くなったりする小五郎に、蘭とコナンと横溝の三人は、なだめつつ事の顛末を代わる代わる説明した。

「毛利さん、落ち着いて」

「これが落ち着いていられるか!」

「私の怪我は大した事ないから」

「本当に大丈夫なのか?」

「ごめんなさい、おじさん」

「何でお前はいつもそうなんだ!」

 やかましい事この上ない四人の声が長い事飛び交った末、ようやく事情を飲み込んだ小五郎は、頬にガーゼ、左腕には包帯を巻いた痛々しい姿でベッドに腰かけているコナンの前に仁王立ちになると、ほんの少し手加減したげんこつをくれ声を張り上げた。

「バカヤロウ! あれほど無茶すんなと、いつも口をすっぱくして言ってるだろ!」

「も、毛利さん」

「お父さん!」

 慌てて蘭と横溝が二人の間に割って入る。

「ごめんなさい……蘭姉ちゃんに怪我させて……」

「んな事言ってんじゃねえ! ちったぁ自分の心配をしろってんだ!」

 小五郎の言葉に、コナンは俯いていた顔を上げた。

「ったく、ガキの癖に無理しやがって。危ねぇと思ったら逃げりゃいいんだよ」

 照れ隠しからか、小五郎は吐き捨てるように言った。

「……オメーにもしもの事があったら、蘭が悲しむだろうがよ」

 そして、ふんと鼻を鳴らし喫煙コーナーに去って行った。

「……おじさん」

 コナンの口から呟きがもれる。

 蘭は父親の後ろ姿をしばし見送ると、コナンに目を戻した。

 二人が目を見合わせたのはほんの一瞬だけで、すぐに逸らされ、重苦しい沈黙だけが残った。

 

 検査の結果頭部に異常はなく、入院は必要ないだろうと診断が下され、三人が宿に戻ったのは、随分夜も更けた頃だった。

 

 三人は言葉少なに着替えると、早々に床についた。

 そろそろ日付も変わる頃。

 小五郎のいびきが聞こえる中、二人はそれぞれに眠れぬ夜を過ごした。

 

 

 

 明け方、ほんの少し窓の外が明るく感じ始めた頃、コナンはうとうととまどろみに誘われた。

 しかしそれもすぐに、聞こえたか聞こえないかのささいな物音によって遮られた。

 はっと目を開ける。

 殴られた頬を庇って左向きなった身体を仰向けに横たえ、しばしぼんやりと天井を見上げた後、思い出したように右側の布団に目をやった。

 そこにまだ寝ているはずの蘭の姿が、ない。

 空の布団に、コナンはがばりと起き上がった。

 途端に襲う鈍痛に奥歯を噛み締め、部屋を見回す。

 出来るだけ冷静に。

 蘭が寝ていた布団の枕元には、着替えが置いてあった。確か、白い…淡い水色のワンピースだった。それが今は、きちんとたたまれたパジャマに変わっている。

 スリッパの数も一つ足りない。

 という事は、着替えて部屋を出て行ったという事だ。

 コナンは自分の着替えに手を伸ばした。少し動かすたび痛む腕に四苦八苦して着替えると、一旦小五郎を振り返り、そろりと部屋を出た。

 どの部屋もまだ寝静まり、しんとした廊下を駆けて玄関にたどり着くと、蘭の靴を探す。

 案の定、そこに蘭の靴は見当たらなかった。

 当てもないまま、コナンは玄関を飛び出した。

 まだ薄暗い世界は素っ気なく、道路の向こうに広がる海からの波音も、随分遠くに聞こえた。

 コナンは道路端に足を止めると、蘭の姿を探して左右を見渡した。

 遠くで、信号がちかちかと点滅を繰り返している。

 と、右手前方、海岸に続く石段を降りていく人影が視界の端をかすめた。

 淡色のワンピース、長い黒髪。

 まっすぐで艶やかな黒髪が、薄暗い中で美しく輝く。

 蘭だ。

 その途端、得体の知れない不安が胸を過ぎった。

 慌てて頭から追い払い、コナンは後を追った。

 石段の上にたち声をかけようとして、どうしてかためらわれ、一定の距離を開けて蘭の後に続く。

 砂浜におりて海に近付くと、波の音はまるで自分を取り囲んでいるかのように響き、不思議と落ち着く波音に、見えない不安が少し和らいだように感じられた。

 蘭は、まっすぐに波打ち際へと向かっていった。

 爪先に波が触れるか触れないかの距離まで進むと、おもむろにはいていたサンダルを脱ぎ捨て、尚も波に向かって歩いた。

「……蘭姉ちゃん!」

 思わずコナンは叫んだ。

 驚きに目を見張り、蘭が振り返る。

「コナン……君」

 蘭は囁くように言った。

「どう…したの?」

 喉元でひどくもつれる言葉をしぼり出し、コナンは一歩ずつ蘭に近付いていった。

「ああ、うん。波が気持良さそうだなって思って。コナン君こそ、どうしたの? まだ早いよ」

「蘭姉ちゃん…こそ……、こんなに早く……足、まだ痛むでしょ……?」

 恐々と聞いてくるコナンに、蘭は困ったような笑みを浮かべた。

「こんなの、コナン君に比べたらかすり傷だよ」

 包帯なんて大げさなんだから

 軽く肩を竦めて首振る蘭に、コナンは強い顔付きで俯いた。

「…新一兄ちゃんだったら、蘭姉ちゃんに怪我なんてさせないのに……ごめんね」

「コナン……君」

 そこから長い沈黙が広がる。やがて蘭は、答えのありかを求めて砂浜を歩き出した。

 振り返り待つ彼女の後を、コナンがついていく。

 二人はゆっくりゆっくり辿りながら、波打ち際を歩いた。

 

「……私は」

 

「私は、新一がいなくて良かったって思ってる」

 

「だって、コナン君にこんな怪我させたって新一に知られたら、きっと『オメー、得意の空手はどうしたんだよー』って、バカにされてたかもしれないもの」

「し…新一兄ちゃんはそんな事、言わないよ」

「言うよ。コナン君、あいつの事よく知らないからそんな事言えるんだよ。新一ってね、意地悪でキザでカッコつけで……」


「……辛い時とかどんなに隠してもすぐに見抜いて…さりげなく気を使ってくれて……」

 

「いつもいつも……、何かあるとすぐに飛んできてくれるの……困った時は必ずね」

 

「……それでいっつも、すごく悔しい思いさせられるんだもの。ホント…敵わないんだ……新一には」

「蘭…姉ちゃん」

「だけど、いつも新一に頼りっぱなしじゃ癪だから、あいつのいない今の内に、私……私ね、自分でも出来る事を増やしたいの」

「………」

「今のままじゃ、新一が帰ってきた時にきつい一発お見舞い出来ないじゃない。それどころか、笑われちゃう…そんなの嫌だもの」

 

「心配させたり、気を使わせたりしなくて済むように、強くなりたいって思うの」

 

「そうすれば……例えば昨日みたいな事があったとしても…余計な怪我しないで済むでしょ」

 

「コナン君……傷は平気?」

「…うん。平気だよ」

「ごめんね。今度は油断しないから。コナン……君に、こんな怪我させたりしないから……許してね」

「だ、大丈夫だよ」

 

「で、でもさ蘭姉ちゃん。今よりもっと強くなったら、新一兄ちゃんいなくても…大丈夫なんじゃない?」

「そ、それは……それとこれとは違う…もの」

 

 ほんのりと頬を赤く染め、照れ隠しにそっぽを向く女の横顔は、何よりきれいだった。

 命に代えて守らねばと思う。

 微笑みが絶えないように

 いつも傍に在るように

 胸の内で強く誓う。

 

 二人は、岩場にたどり着いた。

 並んで腰を下ろし、遠い水平線を眺める。

 段々と眩しさを増す水平線の縁から、輝く太陽が姿を現す。空に柔らかな黄金色が広がり、二人はただただ言葉を失って見上げていた。

 いつの間にか、しっかりと手を繋いでいた。

 溢れんばかりのエネルギーをめらめらと滾らせながら、空に日が昇る。

 新しい一日。

 始まり。

 

 やがて二人はどちらからともなく立ち上がり、片方の手を引き、歩き出す

 連れていく。

 いつか取り戻す、真実のその先へ。

 時が来て、あなたがいて良かったと思えるように一歩ずつ踏みしめながら

 

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